Delight Slight Solty KISS 8


(…ねぇジョー、シャルル兄さん、やっぱり何か心配事でもあるんじゃないかしら。どうも様子が変よ)
(うん…。だけど本人が言いたがらないのを無理矢理聞き出すのも悪いよ。もうしばらく、このままそっとしておいてあげよう)
 車がそろそろ高速へ乗ろうかという頃、フランソワーズから送られてきたひそやかな脳波通信。とりあえず無難に答えたジョーも、ちらりとルームミラーに気遣わしげな視線を走らせる。
 確かに、ギルモア邸を出てからのシャルルはどこかおかしかった。「長野に着くまでゆっくり休め」というグレートの提案を聞いたときにはいかにもほっとしたような顔をしていたくせに、いざ出発してみればうたた寝をする気配などこれっぽっちもなく、上着の胸ポケットから取り出した携帯電話をしきりと気にしている。しかもディスプレイをひたと見つめるその瞳にはどこか焦りの色が仄見え、時に紛れもない恐怖の影すらよぎる気がするのは果たして錯覚だろうか。少なくとも、それがあと数時間で最愛の妻に会えるのを楽しみにしている夫の表情だとは到底思えないことだけは間違いなかった。とはいえ当の本人が何も言わないのではこちらとしてもどうしようもなく…。
 高速道路は空いていた。快適極まりない走りで刻一刻と目的地へと近づいていく車。しかしその中には、いつしか重苦しい沈黙がどんよりとわだかまっていったのだった。

 それが破られたのは、車が長野に入って五分ほど過ぎたあたりだった。
「…あれ? もうS沢出口? 早いなぁ」
 「S沢出口一八km」と書かれた案内板が矢のように車の上方を通り過ぎていったかと思うや、突然背後から聞こえた明るい声にぎくりと身を縮めたジョーとフランソワーズ。だが、ここであまりおかしなそぶりを見せてもいけないような気がする。
「そうなのよ。今日は道が空いてて助かったわ。…でも兄さん、もう少し休んでいたらいかが? まだあと十五分くらいはかかると思うし…」
 務めて何でもないふうにフランソワーズが振り向けば、すでにシャルルはいつもどおりの笑顔を取り戻していて。
「いや、もう大丈夫。おかげですっかり元気になったよ」
 そのくせ肝心の顔色の方ははちっともよくなっていない。やはりほとんど眠ってなどいなかったのだろうに、何故―そんな嘘をつく?
 ほんの一瞬、水色と茶色の視線が途方にくれたように絡み合った。しかしその疑問を脳波通信で確かめ合うよりもわずかに早く。
「あ、そうだ島村さん。すみませんが高速、S沢じゃなくてもう一つ先のNヶ原で下りていただけませんか」
「え…? だってS医科大病院へはS沢で下りるのが一番近いんでしょう? 僕も一応前もって調べてきましたし、カーナビにも…」
 運転中とて前方を見つめたままながらもジョーが指し示したカーナビ画面には、なるほど確かに「S沢出口で高速を下りて下さい」という文字が表示されている。それを見たシャルルが苦笑して肩をすくめた。
「うーん、確かにそうなんですけど、S沢で下りるとその後の一般道路がものすごく混むんですよ。僕も初めて車で来たときえらい目に遭っちゃって…だったらいっそNヶ原で下りた方が少々後戻りにはなっても時間的にははるかに早いって、病院の看護師さんに教えてもらったんです」
「そうだったんですか。それじゃ…」
 言われて軽くうなづき、カーナビの電源を切ったジョーがぐっとアクセルを踏み込む。程なく「Nヶ原出口二四km」と書かれた案内板がまたしても車の上を行き過ぎていった。

 シャルルの言ったNヶ原出口は、何だか随分と山の中だった。料金所を後にしたが最後、住宅や店舗その他の施設などは一軒も見当たらず、茂った木々に挟まれた道路だけが延々と続く。しかしその分、道はがら空きだし信号もほとんどないし、なるほどこれならS沢へ戻るのもあっと言う間であろうと思われた。
「あそこに見える小さな山を上れば、頂上から一気にS沢市内に抜けられるんです。すみませんが島村さん、この次の交差点を右折して、山に上る脇道に入って下さい」
 運転席のジョーに指示を出すシャルルの手はいまだ携帯電話を離してはいない。あの脳波通信以後もずっとそれを気にしていたらしいフランソワーズがとうとう我慢しきれなくなったのか、思い切ったように口を開いた。
「ねぇ兄さん、さっきから随分と携帯を気にしているようだけど…もしかして、ジャンヌ姉さんから連絡でも入る予定になってるの?」
 その口調はもちろん他愛のない質問そのもの、にもかかわらずシャルルは一瞬びくりと動きを止め―次の瞬間、照れたように頭をかく。
「あ…いや、そうじゃなくて…会社の方。そりゃぁ、今日一日くらい僕がいなくったって大丈夫に決まってるけどさ、それでももし万が一何かトラブルが起こってこいつが鳴ったらと思うと、何となく落ち着かなくて…」
「やだ兄さん、こんなところまで来てまだ会社の心配!? …もう、せっかくジャンヌ姉さんのお見舞いに行くんですもの、せめてその間くらいお仕事のことは忘れたらいかが?」
「はいっ! すみません…。あーあ、何だか今日は君に叱られてばっかりだなぁ」
 結局最後はまたしてもフランソワーズにやり込められたのを気の毒に思ったのか、そこでジョーがシャルルの弁護に出た。
「あはは…フランソワーズは本当にシャルルさんとジャンヌさんのことを心配しているんだねぇ。だけど少しくらいなら許してあげなよ。この間も話しただろう? シャルルさんの会社の同僚はみんないい人たちばかりだって。だからこそ、シャルルさんも気になって仕方ないのさ、きっと。…あ、そうだ。会社の同僚と言えば、何方かうちのギルモア博士をご存知の方がいらっしゃるみたいですね。一度、博士の講演を聴きにいらしたとか」
 思い出したようにつけ加えた何でもない一言に、シャルルの体が再びびくりと震えた。
「え…? あ…そうなんですか? いや…僕はそんな話は全然…」
「ええ、何でもその話題が出たのはシャルルさんが入社される前だそうですから…。だけど一体、何についての講演だったのかなぁ。人工骨か人工関節か…少なくとも『人工心臓』についての話ってことはまずないはずだけど」
 ハンドルを切りながら、独り言のようにジョーは話し続ける。シャルルの顔色がさらにほんの少し―蒼くなった。
「え…っ! ですが島村さん、確かギルモア博士は生体工学の権威だと…だったら人工骨や人工関節同様、人工心臓についてのご研究もなさっているのでは…」
「んー…そりゃぁ、理論だけでしたらね…」
 歯切れの悪い返事の後に浮かんだのは、困ったような笑み。
「骨や関節の役割というのは比較的単純です。人間の体を支え、屈伸あるいは回転する部位の動きを円滑に運ぶことができればとりあえずの役目は果たせる。だからこそ、万が一の場合には人工物と丸ごと交換することも可能ですし、その後の調整・点検などもまず必要ありません。ですが心臓の働きはそれよりはるかに複雑な上に生命活動にも直結していますから、全摘出して人工物に交換するだけでもかなりの危険が伴いますよ。それに、たとい無事手術が成功したとしても…」
 ジョーが言葉を切った瞬間、今度は木製の案内板が窓の外を通り過ぎていく。
「へぇ…ここ、展望台もあるんだ。頂上には第一展望台、七合目には第二展望台か…って、すみません、シャルルさん。今の続きですが―人工心臓の不具合というのはどんなに些細であろうとたちまち患者の命に関わりかねませんから、おそらく手術後はかなり頻繁な保守管理が必要になるでしょう。けれど所詮は機械相手のこと、いかに手を尽くそうとその故障や誤作動を完全に防ぐなど至難の技です。ましてその先何年か何十年か、患者の人生が終わる最後の日までだなんてほとんど不可能と言っていい。…となると、現時点での人工心臓開発はあくまで患者自身の心臓を温存し、その働きを助ける『補助型』を主流にせざるを得ず…事実、今日本で認可されているものはほぼ全てこのタイプです。…もっとも、これがただ心臓と同じ働きをする機械を作ればいいという話であればギルモア博士はとっくに完成させているんですけどね。でもそれだって、定期的なメンテナンスが全く必要ないわけではありません。というのも、血液には異物に接触すると凝固して血栓を作ってしまう厄介な性質があって、それが人工心臓の故障原因の一つにもなっているんです。この問題を解決することはさすがの博士にもできませんでした。血液全てを、異物に触れても血栓を作らないよう調整された人工血液に取り替えない限り…ね。でもそうなると、今度は他の内臓にどんな悪影響を及ぼすかわからないから、そっちの方にも何らかの人工的処置が必要になる。つまり博士の人工心臓を実用化するには体内の全内臓、全血液を丸ごと人工物、あるいは半人工物と交換しなければならないんです。だけどそんなの、あまりにも非現実的すぎる。だから博士はその理論をどこにも発表してはいませんし、まして大勢の聴衆の前での講演なんて、今まで一度もやったことがないんです!」
「な…ん…だって…? そ…そんなばかなァァァァァッ!!」
 ジョーが話し終えるやいなや、悲痛な絶叫とともにシャルルの体が硬直した。極限まで見開かれたとび色の瞳の下、蒼白となった頬がただひくひくと痙攣しているばかり。しかしそれもほんの数秒、いや数十秒の間のことで―。
「…だ…だったら戻れッ! 今すぐ…今すぐ東京に戻ってくれ!! 頼むから…手遅れにならないうちに、僕をジャンヌのところへ連れて行ってくれぇぇぇッ!!」
 何と、再び血を吐く叫びを上げたシャルルがいきなりリアシートから身を乗り出してジョーの腕をわしづかみにしたではないか。
「う…わっ!」
 さすがのジョーも一瞬ハンドルを取られかけたものの、幸いすぐ目の前に先程の案内板にあった第二展望台の入口が見えた。しかも季節外れのこととて人影はまるでなし、半ば横滑り状態で飛び込んだ車が激しい土煙とともに急停車する。
「は…ぁ…。よかった…」
 そのままハンドルの上に突っ伏して安堵の息をついたジョー。と、その肩にすがりつくようにして同じく小さな吐息をもらしたフランソワーズがふと頭を上げて、おずおずと背後のシャルルを振り返った。
「に…兄さん、『東京に戻れ』なんて…一体どういうこと? ジャンヌ姉さんが入院しているのは、今私たちが向かっているS医科大病院…なんでしょう…?」
 しかしシャルルはただ狂ったように頭を振り、なおも声を張り上げて―。
「違うッ! 違うんだ! ジャンヌが入院しているのは…本当は…」
 そして、わななく唇が次の言葉を吐き出そうとした、まさにその瞬間。

 ―電話が鳴った。

 途端、弾かれたようにシャルルが飛び退った。狭い車の中、その体が大きな音を立ててドアにぶつかり、携帯電話がリアシートの床に落ちる。甲高い電子音が鳴り続ける。けれどシャルルはそれを拾い上げようとはしない。とび色の瞳に今や紛れもない恐怖を浮かべ、ついさっきまであれほど気にしていた小さな機械から何とか逃れようと、見苦しいほどに虚しく…あがく。
 とうとう、見かねたジョーが手を伸ばし、携帯を拾って通話スイッチを押した。そして開口一番、待たせてしまったことを相手に詫びて今シャルルが電話に出られないからとその用件を尋ねたのは、こういう場合ごく当然の何でもない会話―だったはず、なのに…。

 突然の、息を呑む音。数瞬の沈黙。しかしやがて、しぼり出すような声で二言三言何ごとかをつぶやいて通話を終え、再びフランソワーズに、そしてシャルルに視線を戻したその表情は放心状態以外の何物でもなく…。
「シャルル…さん…」
 先程と同じ、まるで別人のごときかすれ声が。
「今の電話…K大医学部の麻田教授…から…でした。つい今しがた…ジャンヌさんが…」

「…ジャンヌさんが、亡くなら…れた…そうです…」

 この無情な事実を告げた刹那、シャルルの顔からは一切の生気も表情も消え、そして車内からは一切の音が…消えた。



「い…やぁぁぁぁぁぁッ!!」
 沈黙を引き裂いたのはフランソワーズの悲痛な絶叫だった。金髪の少女が助手席から乗り出した身をよじり、伸ばした指の先に触れたシャルルのひざを渾身の力で揺さぶる。
「どうして…どうしてそんな、縁起でもない電話が入るの!? どうして…麻田教授からなの!? ジャンヌ姉さんが入院しているのはS医科大付属病院じゃなかったの!? 兄さん…! ねぇ兄さん、答えてよ!!」
 しかしシャルルはもう全身を支える力すら失ってしまったのか、揺さぶられるたびにずるずるとシートに崩れ落ちていくだけ。…そう、まるで糸の切れた操り人形のように。
「フランソワーズ、やめろ!」
 一方こちらはようやく放心状態から醒めたらしいジョーが、半狂乱の少女を強引に押し止めた。しかし彼女は聞く耳を持たない。
「嫌よ、放してジョー! だって…どうして姉さんが…たった今まで、もうすぐ会えるって…楽しみに…してたの…に…ッ」
「いいから落ち着け、フランソワーズっ!」
 それは戦闘中でさえほとんど聞いたことのない激しい一喝。さしものフランソワーズもびくりと身を震わせ、一瞬おとなしくなった。が…。
「君が動転してしまうのももっともだ。だけどその前に周囲の景色をよく見てくれないか。特に頂上の第一展望台だ。ここからなら直線距離で一kmもない。君の目なら充分、『視える』はずだよ…」
 このあまりに突拍子もない依頼にフランソワーズは再び何かを言い返そうとした。けれどジョーの厳しく真剣な視線がそれを許さない。そこで多少「しぶしぶ」といった体ではあったが、言われたとおり指し示された方向に目を凝らしたところ。
「…! ジョー! 何、あれは…。どうして…どうしてあんなところにっ!?」
 水色の瞳が、これまでとは全く違う驚愕に限界まで見開かれ、そのまま凍りついた。
「やっぱり…ね…。正直僕も半信半疑だったんだけど…」
 沈痛な面持ちで瞑目したジョーが、次の瞬間口調を強め、きっぱりと言い放つ。
「だけど君の『目』が見つけたのなら間違いない。詳しい経緯がどうであれ、この一連の事件の裏で糸を引いているのはあそこにいる奴らだ!」
 答えは、すぐには返ってこなかった。だが…。
「そ…う…だったの…。確かに…ありえないことではないわね。…わかったわ」
 やがて全てを悟ったらしい少女のつぶやきがひっそりと低く響いたそのとき。
 頂上方面から不意に現れた黒塗りの大型乗用車七、八台が猛スピードで第二展望台に突っ込んできたかと思うや、ジョーたちの車を取り囲むように停止した。次いでうち一台からゆっくりと降りてきた男が一人。ごく普通のセーターとズボン、それにダウンジャケットという服装は一見ただの観光客としか思えないが、目つきは異様に鋭く、言いようのない不気味な光を宿している。
 その目でじろりとこちらをねめつけた男が、蔑みと嘲りもあらわに吐き捨てた。
「…ふん。もしやと思って携帯を傍受していれば案の定この有様だ。ノアイユ君…いくら奥さんが亡くなったからといって、急に寝返るような真似をされてはたいそう困るんだけどねぇ…」



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