Delight Slight Solty KISS 9


 男の声は、車の中でさえもはっきりと聞こえた。刹那、それまで虚脱状態だったシャルルが弾かれたように身を起こし、窓の外を一目見るなりそのとび色の瞳を大きく見張って。
「木村…サブリーダー…」
 唸りとも呻きともつかぬつぶやきをもらしたかと思うや、あろうことかいきなり車の外に飛び出したのである。
「シャルルさんっ!」
「兄さん!」
 予想だにしなかった行動に完全に虚を突かれ、慌ててその後を追ったジョーとフランソワーズ。しかし…。
「だめだ、来るな!」
 激しい一喝と大きく広げられた両手に有無を言わさず行く手を遮られ、ともにたたらを踏んでその場に立ち止まる。そんな二人を庇うように手を広げて仁王立ちになったシャルルが、今度は件の男に向かってあらんかぎりの声を張り上げた。
「貴方もやめて下さい、木村さん! 例のあの情報は…間違いだったんだ! ギルモア博士の人工心臓はまだ実用化なんてされていない! それに…」
 ぐっと言葉に詰まったその顔が悲痛に歪む。荒く乱れた呼吸に、肩が大きく上下する。けれどそれもつかの間、一際大きく息を吸い込んで無理矢理平静を取り戻したシャルルの口から再び血を吐く絶叫が迸った。
「たった今…妻―ジャンヌも神に召されました。もう、貴方が我々のためにこんなことをする必要はなくなったんです! だからどうか…どうか、これ以上は…」
 嗚咽交じりの声がまたしても途切れ、仁王立ちになっていた膝が力なく地面に落ちる。さらには精一杯広げていた手をも地につき、辛うじて体を支え…ついに堪えきれなくなった慟哭がそののどを突き破らんばかりに溢れ出し、肩を、背中を、そして全身を震わせる。しかし相手は、鋭く不気味な目で無感動にその姿を見下ろしているばかり。
 それまで黙っていたジョーが、静かにシャルルの肩に手を伸ばした。
「無駄ですよ、シャルルさん。おそらくこいつらはそんなことなどとっくに承知の上だ。…というより、わざとニセ情報を教えて貴方を騙した―そうだな!」
 茶色の瞳が火を噴くような激しさで木村と呼ばれた男を睨みつける。しかし木村は意に介した様子もない。
「ああ、そのとおりだよ。たかが人工心臓の一つや二つ、今更誰が欲しがるものか。全ては貴様ら―裏切者、00ナンバーサイボーグどもをおびき出し、抹殺するための策略さ!」
「え…?」
 途端、怪訝な表情を浮かべたシャルル。だがそのときにはもう、木村に続いて飛び出してきた黒ずくめの男たちが銃を構え、三人に向かって照準を合わせていた。ジョーとフランソワーズが咄嗟にシャルルの両脇からその腕を抱え、一気に跳躍する。一瞬遅れて蜂の巣になる車、しかしそれを挟んだ反対側に展開していたのはほんの数人。空中で加速装置を噛み、上着の裏からスーパーガンを取り出したジョーが目にも留まらぬ速さでそいつらを撃ち倒し、そのまま敵方の車一台の陰に着地したわずかな隙に加速を解いて。
「フランソワーズ、君はここで! シャルルさんを頼む!」
 言い捨てたその体が再びかき消すように見えなくなった…と気づくよりも早く、木村の目前で金属らしきものがぶつかる甲高い音が響き、暗赤色の火花が散った。
「フ…ン。さすが009、一か八か、まずは司令塔たる私を狙ったか。だがここにいるのは全て貴様と同等の加速装置を持つサイボーグ軍団だ! 一対三〇、孤立無援でどこまでやれるかせいぜい頑張ってみるがいい!」
 見れば、いつの間にか木村以外の男たちも全員姿を消していた。残ったのは痛いほどの沈黙。ただ時折、かすかな風の唸りとあの甲高い金属音、そして暗く赤い火花が光るだけ。
「さて、それじゃこっちも始めましょうか、お嬢さん。実は、貴女には残りの連中をおびき出すための『エサ』になっていただきたいんですよ。だからここで命まで取る気はないが、手加減するつもりも毛頭ない。たとい手足がもげようがその綺麗な顔が焼け爛れようが、生きていてくれさえすれば立派な『エサ』として使えますからね」
 懐から小型拳銃を取り出した木村が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。しかしすでにフランソワーズとて、これだけはとぬかりなくバッグに忍ばせてきたスーパーガンを構え、シャルルを庇いながらも油断なく相手の胸に狙いを定めていた。それに木村が生身であることは、何よりも先に彼女自身の「目」が確かめている。
「まぁ…随分と物騒なことをおっしゃるのね。だけどそんな拳銃で一体何ができると言うの? いくら生身に近い私だって、たかが小型拳銃の弾丸程度じゃびくともしないのよ!」
 強気に言い返し、引鉄にかかった右手の指にぐっと力を入れたフランソワーズ。しかし木村は口元を歪めるような笑みを浮かべただけで。
「小型拳銃…? はは、確かに見てくれだけはね。しかし、だからと言ってこいつの威力を見くびってもらっちゃ困る」
 言いつつ傍らの地面に向かって無造作に引鉄を引けば、轟音と共に直径四、五〇cmはあろうかという大穴が開いた。
(―対サイボーグ用特殊拳銃!)
 フランソワーズの背筋に冷たいものが走る。こんな物で撃たれたりしたら自分など―いや、そればかりかジョーでさえ全くの無傷というわけにはいくまい。
 真珠の歯がばら色の唇をぐっとかみしめたとき、突如空中からいくつかの黒い物体が現れ、鈍い音とともに地面に転がった。先程ジョーの後を追って姿を消した木村の部下たちだ。
「009め、やはり一筋縄ではいかんようだな。しかし倒したのはまだ三人…先程の分を含めても五、六人か。果たしてどこまで頑張れるやら」
 斃れた部下の数を無感動に数えていた木村の銃が再び火を噴き、フランソワーズとシャルルが盾にしていた車を側面から見事にぶち抜いた。紙一重でそれをよけたフランソワーズもスーパーガンで応戦する。射撃の腕は彼女の方が上手に見えたが、如何せんシャルルを庇いながらでは今一つ思い切った攻撃ができない。その間にも黒い塊―木村の部下たちが何もない空間から現れ出ては周囲に転がる。が―。
 一体そいつは何人目だったのか、これまで同様虚無から湧き出たかのような黒い影が多少よろめいたものの倒れもせず、木村に走り寄ってその耳に何事かを囁いた。おそらくは、ジョーにやられてこれ以上加速を続けられなくなったのだろうが…。報告を受けた木村の口元に、またあの歪んだ微笑が浮かぶ。
「どうやら009もかなり疲れてきたようだな。これまでのような一撃必殺はもう無理か…ふふふ…」
 その言葉が終わるよりも早くさらに三人の男が姿を現し、木村の周囲を固める。
「よし、ではお前たちは先に003を捕獲しろ! 女とはいえ00ナンバー、油断するな!」
 木村の指示と同時に四方に散った男たちが、銃を構えたままフランソワーズとシャルルが隠れている車めがけて突進してきた。とはいえ敵も手負いの身、たちまち二人がスーパーガンの餌食となる。だがそのときには残り二人がもはや数メートルの至近距離まで迫ってきていた。間一髪でさらにもう一人を倒し、最後の一人に照準を合わせようと向き直ったフランソワーズだったが―。
(間に合わない!)
 息を呑んだときには車を飛び越えてきた敵に右手首をがっちりとつかまれ、そのまま一気にひねり上げられていた。スーパーガンが地面に落ちる。それまで茫然自失状態だったシャルルが我に返って男に飛びかかろうとする、その動きが妙にゆっくり―まるでスローモーションのように見えた。
(やめて兄さん! 生身の人間が敵う相手じゃないわ!)
 フランソワーズの全身が恐怖に凍りついた、その瞬間。
 どこからともなく糸よりも細い一条の熱線が迸り、正確に男の背中から胸を貫き通した。
(!)
 フランソワーズとシャルル、そして木村さえもがはっとして振り返れば、麓から猛スピードで駆け上がってきた一台のワゴンがタイヤをきしませながら急停車するところだった。
「大丈夫か、マドモアゼル!」
「ホホ〜イ! わての熱線、見事命中のコト!」
 飛び出してきたのは防護服に身を固めた張々湖とグレート。
「くそ! 新手か!」
 咄嗟に木村の銃が火を噴いたが、二人ともまがりなりにもサイボーグ006と007、巧みに銃弾を避けつつまっしぐらにフランソワーズとシャルルのもとへ駆けつけ、頼もしい防壁となって二人の前に立ちふさがる。
(遅くなって悪かったな、003。ヘタに気づかれてもまずいし、遠く離れてついてくるしかなかったんだ)
(009は加速して戦ってるアルか? …ちゅうコトは、敵さんもこの男一人じゃないんやな)
(他の連中は全員加速装置つきのサイボーグよ! 残りあと…十五、六人はいるわ!)
(よし、009! もう無理はするな! 加速装置さえ破壊してくれたらあとは俺たちが片づける!)
(わ…かっ…た! あ…りが…とう!)
 グレートの強烈な脳波通信に、ジョーからのかすかな答えが返ってきた。加速している相手に対し、通常の音声はまるっきり役に立たないが、脳波通信ならばかろうじて―お互い、感度はかなり悪くなるが―意思の疎通も可能なのである。
 途端、立て続けに五、六人の黒い男が姿を現した。となれば今度はこちらも三人がかりで迎え撃つ。
「あ…あ…フランソワーズ…君は? それに島村さんや張大人…グレートさん…まで…」
「話はあとでゆっくりちゅうことにしまひょ、シャルルはん。今はナ、ちょいと取り込み中よってに」
「そうそう、それより掃除が先、先!」
 言い合っている間にも、男たちの数はどんどん増えていく。そしてついにほぼ全員が加速を解いたと思われた瞬間。
 ズザザザザザァ…ッ! という派手な擦過音を響かせ、最後に空中から倒れこんできた黒…いや、緋色の塊。
「ジョー!」
「大丈夫だ…も…う…加速してる…奴はいない…」
 喘ぎながらそれだけつぶやき、両手を地について懸命に立ち上がろうとするジョーは、致命傷こそ負っていないものの満身創痍の状態だった。一対三〇では相当の苦戦を強いられたのであろう。
「よっしゃ了解! あとは俺たちに任せろ! ―張大人!」
「はいな!」
 頼もしい言葉と共にスーパーガンを乱射しながら黒い男たちの只中へ躍り込んだグレートと張々湖。こうなってはもう敵には為す術もなかろう。誰も彼も、これまでのジョーとの闘いでどこかしらに傷を負っているはずなのだから。ようやく―ほんの少しだけ―緊張を解いたフランソワーズがジョーを助け起こそうとその傍らに膝をついたとき、頭の中に密やかな脳波通信が響いてきた。
(…ごめんね、フランソワーズ。君だけに、何も言わずに黙ってて…。だけどさっきも言ったとおり、僕もその…確信が持てなかったから…)
(いいのよ、ジョー。それより貴方…ううん、グレートも張大人も…戦闘中だっていうのに、通常会話ではずっと名前で呼び合ってくれてるのね。シャルル兄さんと私のために…ありがとう…)

 …その後の戦況は、案の定嘘のようにあっけなかった。最後にたった一人残った木村が悪鬼の形相で00ナンバーたち、そしてシャルルを睨みつける。
「貴様ら…こちらの計画に気づいていたのか!? ノアイユ! 貴様がしゃべったのか!」
 憤怒と憎悪が滴るような怒声に、シャルルが激しく首を振った。
「違う! 僕は…木村さん、ずっと貴方を信じてた! だから…今回の罪も最後は全部…僕が…被るつもり…で…」
「…シャルルさんは必死だったんだよ。ジャンヌさんとフランソワーズへの想いの間で板ばさみになりながら、死に物狂いで僕たちを騙し続けていた…」
 フランソワーズに支えられ、ようやく立ち上がったジョーがゆっくりと一歩、木村の方へと歩を進める。
「僕が疑問を持ったのはお前―シャルルさんの上司、木村サブリーダーがギルモア博士の人工臓器に関する講演を聴いたと知ったときだった。元人工心臓の開発技術者という触れ込みなら、興味を持つのはやはり自分の専門分野のはず…。しかし博士が開発した人工心臓は一般の医療や科学技術で実用化するにはあまりに高度すぎる。だから博士は人工骨や人工関節についてならともかく、人工心臓に関する講演は一度も行っていないんだ!」
「そ…うか…。ならば話の出所は黒田か…。業務に関係ない雑談なぞ三歩歩けば忘れるただの仕事バカだと思って口を滑らせた私が愚かだったというわけだな」
「木村さん! あんた、黒田本部長のことをそんなふうに…?」
 今にも泣きそうになったシャルルの問いかけへの返事は、あの歪んだような笑み。
「ああそうさ! あの会社の連中ときたら、どいつもこいつも人を疑うことなどこれっぽっちも知らない甘ちゃんの技術バカばかりだ! 中でも一番の大バカは貴様だよ、ノアイユ。こんな機械人形どもへの情にほだされて大の男がさっきから泣いたり喚いたり、全く…見苦しいことこの上ない!!」
「機…械…人形…?」
 その言葉を耳にした瞬間、シャルルの表情が変わった。さっき東京へ戻るようジョーに迫った必死のそれよりもなお凄まじくも狂おしい修羅の形相と化したとび色の瞳の青年が、さしものサイボーグたちをも振り切って木村に突進する。
「き…む…らァァァァァァッ! お前よくもフランソワーズを…島村さんを…張大人を、グレートさんを…機械…人形…などと…ッ!」
 その剣幕にたじろいだか、すかさず銃を構え直した木村。だが、そのときにはすでに―。
「シャルルさん! やめろッ!」
 言うが早いか変身スイッチを押したグレートの体が一気に伸びて、大蛇のようにシャルルに巻きついた。そこに一瞬遅れてめり込んだ弾丸、だがそれもすぐに地面に落ちる。
「…はン。いくら対サイボーグ用とはいえ、細胞全てを超強力ゴムに変化させた我輩には拳銃の弾丸など通じんぞ!」
 再び―今度は絡め取ったシャルルごと―瞬く間に元の位置に戻ったグレートがにやりと笑う。そしてシャルルの肩をがっちりとつかみ、そのとび色の瞳を己が青灰色の目で真っ直ぐに見据えて。
「あんな奴の戯言など気にするな、シャルルさん! たといいかなる名前で呼ばれようとも、我々という存在の本質そのものには何の変わりもない!」
「…くっ!」
 もはやこれまでと見たのか脱兎のごとく自分たちの黒塗りの車の陰に走りこんだ木村、それを追って飛び出しかけた張々湖とグレート、そしてジョー。
 しかしそこへ響いたフランソワーズの絶叫。
「みんな、追わないで! あの車には自爆装置が仕掛けられているわ!」
「!」

 咄嗟に全員が地面に伏せた、その瞬間。

 黒塗りの車全てが同時に大爆発を起こし―そのあとにはもう、何も残ってはいなかった。



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