Delight Slight Solty KISS 7
次の朝、すっかり体調もよくなったらしいシャルルは皆に何度も礼を述べ、神奈川の研究施設へと出勤して行った。それを車で送って行ったジョーもまた、無事勤務先へ到着したシャルルがたまたま通りかかった同僚らしい数人の男女に大歓迎されつつ門の中へと入って行く姿を見届け、大いに安心してギルモア邸に帰ってきたのだが…。
「ただいま、フランソワーズ! シャルルさん、無事仕事に戻ったよ!」
「あ…ジョー、お帰りなさい! 今すぐ下りて行くわ!」
玄関に入ると同時に弾んだ声を上げれば、フランソワーズの返事が珍しく―キッチンでもリビングでもない―皆の自室が並ぶ二階から響いてきた。しかしもう朝食の後片づけもとっくに終わっている時刻、彼女が自分の部屋で一休みしていたとて何の不思議もない。だからジョーは特に不審に思うでもなく、今度は階段の下から声を張り上げる。
「会社の人たちもそりゃぁ大喜びでさ、しまいには帰ろうとしてた僕にまで全員で頭を下げてくれたんだよ! …ちょっと照れ臭かったけど、何だかすごくほっとした。あんな人たちなら、この先万が一何かあってもきっとシャルルさんの力になってくれるに違いないもの」
そこまで話したときになってようやく二階から降りてきたフランソワーズ。…その顔を目にした途端、ジョーは軽く眉をひそめた。いつもどおりの穏やかな微笑の中、水色の瞳だけがどこか―暗い。
「…? どうしたの? 浮かない顔だね。もしかして、シャルルさんがいなくなっちゃったのが淋しいのかい?」
「ううん、そんなことはないのよ、ジョー。兄さんが元気でお仕事に戻れたんなら私だって安心だもの。ただ、ね…」
微笑が消え、ふっくらとしたばら色の唇から小さなため息が漏れた。
「シャルル兄さんの話を聞いているうちに、私…奥様―ジャンヌ姉さんの病気のことがどうしても気になって、石原先生に質問のメールを出したの。実は、そのお返事がさっき届いて…」
「何? もしかして…僕たちが考えていたよりもずっと深刻な病気だったとか?」
こちらもあらためて不安げな顔になってしまったジョーに小さくうなづいたフランソワーズ。そこで今度は二人して二階の彼女の部屋へと上がり、机の上にいまだ開きっ放しだったノートパソコンを覗き込んでみたのだが。
(親愛なるフランソワーズ。ご質問の「ウェブスター・アサダ症候群」というのはおよそ十年ほど前、アメリカの某病理学研究所所長だったウェブスター教授とその日本人助手、麻田准教授によって発見された分類不能型心筋症の一種です…)
メールを読み始めるやいなや、ジョーの頬がわずかにこわばった。シャルルから「比較的新しい心臓疾患」とは聞いていたが、まさかそれが心筋症―下手をすると即刻命にも関わる病気―だったなんて…! 茶色の瞳が、より詳しい情報を求めて食い入るようにディスプレイの文字を追う。
発見者の二人はすぐさまその原因及び治療法の究明にも取りかかったが、当時すでにかなりの高齢だったウェブスター教授が間もなく他界、続いて麻田准教授も家庭の事情で日本に帰国せざるを得なくなった。しかし帰国後も母校K大医学部の教授としてアメリカその他各国の医学者たちと連携しつつ研究を続け、「K大の麻田教授」といえば今もなおこの病の世界的権威、第一人者と目し評されているという。ただ…。
(元々「原因不明の心筋疾患」と定義される心筋症ですが、この病ではさらに厄介なことに他の心筋症に見られる心筋の肥大・変性・壊死・繊維化等の症状すら一切認められません。つまりそれまで何の異常もなかった心臓が突如筋力を失い、機能不全に陥ってしまうのです。よって事前の予測・予防はまず不可能、加えて発症例がかなり少ないということもあり、麻田教授を始めとする人々の懸命な努力にもかかわらず、残念ながらその根本的治療法もまた、いまだに確立されておりません。比較的軽症であれば投薬によって病気の進行を抑え、社会復帰することも可能ですが、万が一重症であった場合には心臓移植以外に回復の手立てはないというのが現状です)
「心臓…移植…」
その言葉を目にした刹那、ジョーの心に何かが引っかかった。だがそれを確かめるよりも早く、フランソワーズの悲痛な叫びが耳を打つ。
「そう…なのよ…! 私…全然知らなかった…! シャルル兄さんから『難しい病気』だとは聞かされていたけれど、まさかこれほどとは…思いもしなかった! ジャンヌ姉さんもシャルル兄さんもどんなに辛いことか。なのに…なのに兄さんったら、そんなこと全然…言わないで…っ」
「フランソワーズ、落ち着いて! …大丈夫だよ。このメールにだって『症状が軽いうちなら社会復帰も可能』って書いてあるじゃないか。…大丈夫だよ。ジャンヌさんはきっと助かる。そのためにシャルルさんと二人、日本にまでやってきたんだから! 何てったって日本には麻田教授がいるんだし、それに…ほら、これ」
フランソワーズの震える肩をしっかりと抱きしめたジョーが指差したのは、メールの最後の部分だった。
(なお、いかに症例が少ないとはいえ麻田教授を頼って全世界から訪れる患者全てをK大で治療するのはかなり難しくなってきているため、現在では長野のS医科大付属病院でも比較的軽症の患者を受け入れています。こちらは以前からK大医学部とは協力関係にあり、麻田教授の門下生も多数在籍していますので、軽症者なら充分対応できるのでしょう。よってもしそのジャンヌ・ノアイユさんの入院先がS医科大だとすれば、回復の可能性も大いに見込めるかもしれません)
「今度シャルルさんから連絡があったらそれとなくジャンヌさんの入院先を訊いてみよう。大丈夫…きっとS医科大付属病院だよ。大丈夫…大丈夫、だから…」
「ジョー…」
しっかりと自分の肩を抱きしめたまま、呪文のように「大丈夫」とつぶやき続けるジョーを見つめる水色の瞳には、まだかすかな不安の影が残っていた。そんなことを訊いて、もしシャルルの答えがK大病院だったりしたら、それこそ全ての希望が完全に打ち砕かれてしまうではないか。けれど多分、同じ不安に苛まれているのはジョーも同じ…それだけは、痛いほどわかったから。
「そうね、きっと…ジャンヌ姉さんが入院しているのはS医科大病院よね。そうよ…そうに決まってるわ」
「ああ、絶対に…だ!」
見合わせた笑みはお互いほんの少しだけぎこちなかったけれど、それでもとにかくジョーとフランソワーズは今の自分たちにできること―ジャンヌの回復を信じ、シャルルの復帰を素直に喜ぶことに決めたのである。
ただ。
(そういえば確か昨日、松井さんもちらりと人工心臓の話をしていたっけ。よりにもよって二日も続けてこんな言葉を耳にするなんて…。単なる偶然だとは…思うけれど…)
それだけが、その後も長くジョーの心に引っかかっていたのだった。
それから十日ほどたったある日、嬉しい知らせが突然訪れた。神奈川でのカンヅメを終えたシャルルから電話が入り、是非もう一度そちらにお礼に伺いたい、そしてできればその後一緒に妻ジャンヌを見舞ってやってくれないかと言ってきたのである。
(この前の話をしたらものすごく喜んで、是非君と島村さんに会いたいって聞かないんだ。ただ病院がちょっと遠くて…)
そこでいかにも申し訳なさそうに口ごもってしまったシャルル。しかしそれを聞いた瞬間、応対していたフランソワーズの顔がぱっと輝いた。
「え? 病院が遠いって、もしかして長野のS医科大付属病院!?」
(あ…ああ、そうだけど…。どうして? どうして君がジャンヌの病院を知ってるんだい?)
S医科大の名前を出した途端、何故だかひどく狼狽したような声が返ってきた。しかし今のフランソワーズはそれに気づくどころではない。
「ああ、やっぱりそうだったのね! よかった…! よかったわ…! って、ジャンヌ姉さんがまだ入院中だっていうのにごめんなさい兄さん、実は…」
ついつい歓声を上げてしまった口元を押さえつつ慌てて事情を説明すれば、電話の向こうのシャルルもようやく納得したとみえて。
(そうか…Dr.石原に…。心配ばかりかけて本当に済まなかったね。だけど安心して。こうなったら僕も正直に話すけど、来日してしばらくの間、ジャンヌはやっぱりK大病院にいたんだよ。ちょうど軽症と重症の境目みたいな状態だったとかで、麻田教授も難しい顔をしていた。だけど幸い薬が効いて、重症になるぎりぎり一歩手前で病気の進行が止まって…S医科大病院に転院したってわけ。病院が遠くなってしまったって、麻田教授や他の先生方は本当に申し訳なさそうだったけど、僕たちだって病院の方の事情は薄々察してたし、文句なんて言えるわけないよ。むしろ本当によかった、助かったって感謝してるくらいさ。だけどやっぱり君たちには…迷惑かな?)
「そんなことない! ジャンヌ姉さんに会えるんなら私、どこにだって行くわ! ジョーだってきっと、喜んで一緒に行ってくれるはずよ!」
(ありがとう。だったら―勝手を言って悪いけど―少しでも早い方がいいな。できれば三日後の日曜日あたり…島村さんたちにも都合を聞いておいてくれるかい?)
「ええ…ええ兄さん、もちろんですとも! もしダメだったらまたこちらから連絡するわ。でも多分大丈夫よ。…ええ、私も楽しみにしてる!」
そんな言葉を最後に電話を切った瞬間、フランソワーズは危うくその場にへたへたと座り込んでしまいそうになった。ジャンヌの入院先がS医科大だと耳にした瞬間、それまで張り詰めきっていた心の糸がぷつりと切れたのである。だがそこでうっすら涙ぐんだりしてしまったのもつかの間、すぐさま元気よく立ち上がったかと思うや、喜び一杯の声を張り上げたのだった。
「ジョー! ジョー! 今、シャルル兄さんから電話があったの! ジャンヌ姉さんの入院先、やっぱりS医科大だったのよ!」
その話を聞いたジョーが、これまた飛び上がらんばかりに喜んだのは言うまでもない。もちろん、あれから例のメールを見せられて心配していたグレートや張々湖、そしてギルモア博士も同様である。三日後の日曜日という申し入れにも異議を唱える者など誰一人なく、皆はそれから指折り数えてシャルルの再訪を心待ちにしていたのであった。
いよいよ当の日曜日、約束の九時半きっかりにインターフォンが鳴った。
「シャルル兄さん!」
「フランソワーズ! ああ、皆さんも…! この間は本当に、いろいろどうもありがとうございました。あの、これ…ささやかですがほんのお礼の印に」
「おお、おお…これはかえってとんだお気遣いをさせてしもうたのう。しかしまぁ、早う上がってゆっくりくつろがれるといい」
玄関先で丁寧に頭を下げて土産の包みを差し出したシャルルを、ギルモア博士以下全員が満面の笑みを浮かべて家の中へと招き入れる。しかしそんな中、フランソワーズだけがその瞳をすい、と細めて―。
「ねぇ兄さん…ちょっと…顔色が悪いみたいよ? どうしたの? …もしかして、どこか具合でも悪いの?」
「え? そんなことないよ。もしかしたらこの間の青アザがまだ少し残ってるせいじゃないのかな」
一瞬ぎくりと動きを止めたものの、すぐさま何でもないふうに言い返すシャルル。しかし、そんなことで引き下がるフランソワーズではない。
「嘘! あのときの傷はもう―そりゃぁ確かに少し痕は残っているけれど―ほとんどわからなくなっているじゃない。なのにどうしてそんなに頬が蒼いの? その、目の下の真っ黒な隈はなぁに!?」
間髪いれずにそう問い返されてはさすがのシャルルもお手上げらしい。(…やれやれ、彼女にかかるといつもこうだ。貴方も覚悟しておいた方がいいですよ)と、傍らのジョーにそっと耳打ちした後、小さく肩をすくめて。
「わかったよ、白状するよ…。実はこの前話した介護用ロボットなんだけど、いよいよ試作品制作に取りかかることになってさ、おかげで今うちのチームはてんてこ舞いのフル稼働、今日も全員揃って休日出勤してるんだ。もちろん、僕が抜けることはみんな快く許してくれたんだけど…それでも、できることならあまり迷惑はかけたくないじゃないか。だから、ね…」
話しているうちにだんだん小さく縮こまり、皆―というか、フランソワーズただ一人―をどこかおどおどと上目遣いに見つめるシャルル。
「少しでも今日の穴を埋めておこうって、今週一杯ちょっと頑張り過ぎちゃって…昨日家に帰ったのも午前四時近く…」
「何ですってぇぇぇぇぇっ!!」
途端、フランソワーズの金切り声が他の全員の鼓膜をつん裂いた。
「兄さん! それ、『昨日』じゃなくて完全に『今日』の明け方じゃないの!! そりゃぁ、他の人に迷惑をかけたくないって気持ちもわかるけど…そんな無理してもし倒れたりしたら、ジャンヌ姉さんがどれほど心配すると思ってるのよっ!」
「ま、まぁまぁフランソワーズ、気持ちはわかるがもそっと…もそっと穏やかにな。シャルルさんとて、決して好き好んで無理をしたわけではないんじゃからの」
「そやそや。フランソワーズがシャルルはんを気遣うのと同じように、シャルルはんかて会社のみんなのことが気になって仕方なかっただけヨ。ささ、早よリビング行って、美味しいお茶飲んで落ち着くあるヨロシ」
ギルモア博士と張々湖、二人がかりでなだめられてもなおいまだ憤懣やるかたないといったふうのフランソワーズ。とはいえそれも元はと言えばシャルルの身を案じたが故のことだし、やがてリビングに腰を落ち着け、グレートが細心の注意を払って淹れた取って置きの紅茶と張々湖がこれまた腕によりをかけたフルーツケーキ、さらにはシャルルの「お持たせ」のクッキーなどを口にしているうち、徐々にご機嫌を直してくれたようである。かくてそれからしばらくの間、ギルモア邸の人々はシャルルを交えて和やかな歓談を楽しんだわけだが、今日はこの後にも大事な予定を控えていることとて、それも小一時間ほどでお開きとなり―。
「それでは皆さん、しばらくの間フランソワーズと島村さんを拝借致します。遅くとも夕方には必ずお帰ししますので」
「いやいや、積もる話もおありじゃろうし、気にせんでゆっくりしてきて下され。ただ、ご病人をあまり疲れさせてはいかんぞ、二人とも」
「はい博士。ちゃんと気をつけますわ」
「だけど車まで出してもらってすみません、島村さん。…結局、またお世話をかけてしまった」
「いえ、車なら僕たちも何かと楽ですから。よかったら、帰りはシャルルさんもお家までお送りしますよ」
「おいジョー、帰りの心配もいいがその前にシャルルさんの寝不足を少しでも解消してあげたらどうだ? 長野までといったらここからでも優に一時間半はかかる。その間ゆっくり休めばまだ若いシャルルさんのことだ、充分回復すると思うぞ」
「おおグレート、そりゃ名案ネ! ほなシャルルはんはリアシート、フランソワーズは助手席に乗るあるヨロシ。二人ともいい子でおとなしゅうしてナ、絶対にシャルルはんの休息を邪魔したらあかんで!」
などなど、最後まで名残尽きぬ風情の「居残り組」に、あれやこれやのアドバイスだの厳重注意(?)だのを散々受けた挙句、ようやくジョーとフランソワーズ、そしてシャルルはジャンヌの入院先、長野のS医科大付属病院目指して出発できたのだった。
しかし―。