Delight Slight Solty KISS 6


 突然いぶかしげな声を上げた松井警視につられてジョーが振り返れば垣根のはるか向こう、岬の下に広がる砂浜を散策しているフランソワーズとシャルルの姿が見えた。とはいえこの裏庭からではまるで豆粒、陽の光にきらめく金髪でかろうじてフランソワーズとわかる程度だったが。
「…おい、ありゃもしかしてお前の愛しい愛しい金髪の嬢ちゃんじゃないのかよ。しかも一緒にいるのは男…みてぇだが…」
 たちまち口をへの字に曲げた松井警視に、ジョーが苦笑する。
「ああ、あれはシャルル…ノアイユさんですよ。H署の方たちからお聞きになっていませんか? シャルルさんはフランソワーズの幼なじみで―あとこれは内緒の話、彼女の『初恋の人』兼『生まれて初めて振られた相手』でもあるんです。…で、昨日は怪我もしていらしたことですし、僕たちと一緒の方がいいんじゃないかと思ってこの家に…」
 だが何故か松井警視はいっそう不機嫌そうな表情になって。
「オイ…! それじゃいっそうヤバいじゃねぇかよ! 二人っきりで散歩に出したりなんかして、万が一焼け棒っ杭に火がついたらどーすんだお前!」
「いや、いくら何でもそれは多分ないだろうと…。シャルルさんはもうとっくに結婚してますし、実は…」
 ジョーがざっとシャルルの抱えている事情を話すと、今にも食いつかんばかりだった警視庁管理官の表情もようやく和んだ。
「ふぅん…カミさんの病気治療のために日本へねぇ…。そこへもってきて強盗にまで出くわしちまうたぁ、まさに踏んだり蹴ったりだな」
「はい…特に奥さんの件ではかなりまいっているみたいで…きっとそれだけ、奥さんへの愛情が深いんでしょうね。この世で一番大切な人だからこそ、心配で心配でいたたまれなくて、ついには神経まですり減らしかけている…その苦悩は昨日初めて会ったばかりの僕にも痛いほどよくわかりました。ましてシャルルさんだけでなく、奥さんとも大の仲良しだったというフランソワーズは一体どんな思いでいたことか。それでなくても久しぶりに会った幼なじみ同士、話したいことはまだまだたくさんあったに違いありません。だったらせめて、今日一日くらいはできるだけ二人きりで水入らずの時間を過ごしてほしい…そうすればフランソワーズの気分も少しは晴れるでしょうし、何よりシャルルさんの疲れ果てた心身にとって一番の薬になると思うんです」
「そりゃま確かにそうかもしれんが…でもよ、お前さんの方はどうなんでぇ。こうして一人ぽつんとお留守番でもいいのかい?」
「懐かしい子供の頃の思い出話には、僕の入り込む余地なんかありませんよ。…だから、ここで待っています。二人の心がいくらかでも安らいで、また元気に戻ってきてくれるまで」
 降り注ぐ陽射しに目を細め、穏やかな微笑を浮かべて浜辺を見つめるジョーの言葉に、松井警視が小さく肩をすくめ、傍らに立つ少年の栗色の髪をくしゃくしゃくしゃ…っとかき回した。
「成程ねェ…。俺ゃ、ちょっくらお前さんのことを見くびってたみてぇだな。いつまでたっても優柔不断の根性なしかと思ってたら、意外と腹が据わってるじゃねぇか。それに、お前さんが優しいのは別に女に限ったこっちゃねぇようだし…どうやら『女に弱い』ってなぁお父っつぁん連中の取り越し苦労ってヤツか…」
「は? お父っつぁん連中…?」
「あ、いやそりゃちょいとこっちの話。何でもねぇよ」
 あの夜、ジョーへの「お説教」を頼んできた気のいい中国人とイギリス人コンビを思い出した拍子についつい口を滑らせてしまった松井警視、ちょっと慌ててその場をごまかしたかと思うと。
「んじゃ俺ゃ、こんで失礼するわ。今後の捜査状況は高橋や今野の方から報告させっから」
「そんな、松井さん! せめてお茶くらい…フランソワーズやギルモア博士だって、松井さんが黙って帰っちゃったらがっかりしますよ!」
「うんにゃ、俺もまだこれから寄るところがあるんだよ。…言っとくが、どこ行くんだなんて野暮なこたぁ聞くんじゃねぇぞ」
 そのまま、引きとめようとしたジョーの手をさらりとかわしたついでに鼻の先をちょん、とつまんでいったところなど、やはりこの刑事も只者ではない。
 …が、何を思ったかその足が不意に止まって。
「…あ、そーいやさっき話したノアイユ氏の上司―黒田本部長な、ここん家のギルモア先生のこと知ってたぜ」
「え…?」
「もっとも黒田氏本人に面識があるわけじゃねぇんだが、同じチームの木村ってサブリーダーからちらりと名前を聞いたことがあるんだと。何でも昔、先生の講演を聴きに行ったとか何とか…その木村氏てぇのは役員兼任の黒田氏に代わって実質的にチームを仕切ってる人物らしいんだけどよ、元はやっぱ中途採用組で、以前はどっかの医療機器メーカーで人工心臓の開発やってたつーから、そっち方面の話だったんじゃねぇか?」
「そう…ですか。だけど、シャルルさんはそんなこと全然…」
「かもな。その話が出たのはノアイユ氏の入社前だったそうだし、『そんなご縁があったんなら彼にも話しておけばよかった』って言ってたみてぇだから、多分ノアイユ氏には伝わってなかったんだろう」
 そして松井警視は再び垣根をひょいと飛び越え、ギルモア邸を去って行ったのだが―。
(ふぅん…ギルモア博士の講演ねぇ…。それも、人工心臓の開発関係者が興味を持つような内容と…いうと…?)
 洗濯籠を抱えて自分も家に入ろうとしたジョーはふとそんなことを考えて、ついつい小首をかしげてしまったのだった。

 一方、フランソワーズとシャルルはといえば、自分たちの留守にそんな一幕があったことなどまるで知る由もなく―。
「ああ…やっぱり海はいいなぁ。…こんなにのんびり、ゆっくりできたのはもう何年ぶり―いや、何十年ぶりのような気がするよ」
「そう…よかったわね、兄さん…」
 目の前に広がる大海原に向かって大きく深呼吸したシャルルがうっとりと目を閉じる。しかしその後ろにたたずむ金髪の少女はというと、笑顔こそ浮かべているもののどことなく辛そうで、切なそうで。
「…? どうしたんだい、フランソワーズ。元気がないな」
 きょとんとして振り向いたとび色の瞳の青年の、屈託のない笑顔。しかし少女の青い目は何故か伏せられ、そのまま深くうつむいてしまう。
「だって私…昨日まで何も知らなくて…兄さんや姉さんがあんな大変な思いをしていたなんて夢にも思わなくて…同じ日本にいたっていうのに何の役にも立てなかった…。恩知らずで頼りない、最低の『妹』よね。…ごめんなさい…本当に」
「何を言うんだ、フランソワーズ! 今僕がここでこうしていられるのはみんな、君や島村さんたちのおかげじゃないか! もう、どれだけ感謝したって足りないくらいだよ。だからそんなふうに謝ったりしないでくれないか。…お願いだ」
「兄さん…」
 そこでようやく、心からの笑顔になったフランソワーズにシャルルもまた安心したようにうなづきかけたのだが、次の瞬間ふとその表情が真面目になって。
「あの…ところでさ…。えーと…その…。ねぇ、君とその…島村さん…とは一体どういう関係なんだい?」
「え…? やだ兄さん、いきなり…っ」
 思いがけない質問に、そのまま絶句してしまったフランソワーズ。けれど同時にその頬がぱっと鮮やかな朱に染まったのを見て、シャルルは全てを察したらしい。
「やっぱりそうか…。彼はいい青年だし、僕としては何の文句もないけれど、さすがにジャンの奴はそうもいかないだろうなぁ…。ねぇフランソワーズ、彼をジャンに紹介するときには絶対僕にも声をかけてくれよ。そしたら必ず君たちに付き添って、もしもあいつが彼をぶん殴ろうとしたら全力で止めてあげるから」
「だからシャルル兄さんっ! ジョーと私は決してそんな関係じゃないのっ。だってまだ…私の完全な片思いなんだもの…」
 一人納得して先走るシャルルを悲鳴にも似た絶叫でさえぎったフランソワーズ。だがその声はだんだんと小さくなり、最後の一言に至っては波の音に紛れて今にも消え入らんばかりになってしまった。途端、シャルルの目がまん丸に見開かれる。
「えっ? もしかして君たち、お互いまだ何の告白もしてないの? う〜ん、日本人の男性には恥ずかしがり屋が多いっていうのは本当なんだねぇ。だけどフランソワーズ、君はれっきとしたフランス人で、しかもわずか六歳で僕に告白してくれた勇気ある女の子じゃないか。恋を成就させるためには、ときとして女性の方からリードすることも必要だって事実をまさか知らないわけじゃないだろう? さっきも言ったとおり、彼は本当にいい青年だし、女性から見ても魅力的だと思うよ。いつまでもぐずぐずしてたら、誰かに彼を取られてしまうかもしれないぞ」
 おそらくそれは、心底からフランソワーズを思っての助言だったに違いない。しかしシャルルが懸命になればなるほど、当のフランソワーズはますます真っ赤になってうつむくばかり。そしてようやく口を開いたかと思えばその声は先程同様、「蚊の鳴くような」というよりもなお、小さくて。
「ええ…それは私もよくわかっているんだけど、彼…ジョーの前だとどうしても恥ずかしくて…普通に仲良く話す分には全然問題ないのに、そういう話題になると何も言えなくなっちゃうのよ。それに彼はとっても優しいから、もしも私の気持ちを知ったら、仮に自分自身は何とも思っていなくても、それどころか他に好きな人がいたとしても、きっと私とつき合ってくれると思うの。私を傷つけないために、自分の本心は二の次にして、無理矢理…抑え込んで。だけどそんなの嫌だわ。私のためにジョーの心を犠牲にするなんて絶対に嫌。それくらいならどんなに辛くても悲しくても、彼自身が本当に好きな人と一緒にいるのを見ている方がずっといい! とはいえそれも結局はただの『逃げ』…いつまでもぐずぐずしている自分への言い訳なのかもしれないけど…」
 そこで言葉を切ったのは、シャルルにこれ以上要らぬ心配をかけたくなかったからだ。だがその反面全てを話してしまいたい気持ちもあったのか、ついつい余計な一言が口をついてしまって。
「…グレートや張大人、それにギルモア博士にさえ、しょっちゅう今の兄さんと同じことを言われるわ。『アイツはとにかく女に弱いんだから、早く何とかしないと誰かに取られてしまうぞ』って」
「え…何? 島村さんってそんなプレイボーイなのかい? てっきり好青年だとばかり思ってたのに」
 途端、いかにも不愉快そうに眉根を寄せたシャルル。その険しい表情に慌てたフランソワーズがすぐさま言い添える。
「ちっ…違うの、シャルル兄さん! ジョーが優しいのは決して女の子だけにじゃないわ。男の人にもお年寄りにも子供にも…ううん、犬や猫、虫や草花にだって彼は優しいのよ! そして私は…そんなジョーが好きなの。困っている誰かを見ると放っとけなくて、何とか助けてあげたいって…自分のことなんか全然お構いなしに必死になってしまう人だから好きになったのに、こんなふうにいつまでもぐずぐずめそめそ悩んでいたりするから…っ」
 必死になってジョーを弁護しているうちに、フランソワーズの水色の瞳にはみるみる涙があふれてきた。シャルルが小さく、肩をすくめる。
「やれやれ、一体何てこった…。おお、さてもさてもいかなる魔法、いかなる呪いが我が勇敢な恋のアマゾォヌをかくも恥じらい深く臆病な手弱女と為したらん! 満天の星を宿せしかの碧き宝玉すら今はただ、涙の波に洗われて淋しく濡れ輝くばかりとは、何といみじき変わり様ぞ! …だけどそれはある意味正解だ。どうやら君もようやく『本物の恋』を見つけたようだね、フランソワーズ」
 さながらグレートのごとき芝居がかった身振り手振りで大袈裟に天を仰いだかと思えば一転破顔一笑したものだから、これにはさすがのフランソワーズもいまだ潤んだその水色の瞳をきょとんと大きく見開くしかない。
「本物の…恋…?」
 幾分とまどったように訊き返されて、今度こそシャルルは屈託なく笑い転げた。
「あはは…。君にはまだちょっと難しすぎたかな? だけどねぇ、君みたいに真面目で純真な女の子は言うに及ばず、どんな手練手管に長けた『恋愛の達人』といえども、本気で好きになった相手に自分の気持ちを伝えようとしたらやっぱりそんなふうにいろいろ考えて、結局は何も言えずにぐずぐず思い悩んだりするものなんだよ。逆に言えば、『好き! 好き! 好き!』って当の相手や身近な人たちみんなに誰彼構わず宣伝できるような恋なんて、突き詰めて言えばただの憧れ、子供の独占欲に過ぎないってこと。…そう、昔僕のお嫁さんになるって言ってた君のようにね」
「あ…やだ兄さん…。あのことはもう忘れてちょうだい」
「はは…ごめんごめん。だけど僕が何を言いたいのかはわかってくれるだろう? 君が島村さんに何も言えないっていうのは、彼への想いがそれだけ深くて真剣な証拠だよ。まして自分が無理矢理彼につき合ってもらうよりも、彼自身が本当に好きな相手と一緒になってほしいだなんて、ただの憧れや独占欲を抱いているだけでは決して言えない言葉だ。これは僕の推測だけど、多分今の君は彼が誰か困っている女性のために必死になって全然自分を顧みてくれなかったとしても、ひっそり黙って彼を見守っているんじゃないのかな。自分の嫉妬や淋しさよりも、彼が彼らしくいられることの方を尊重して。…それこそが本物の恋―いや、愛情だ。昔、僕のことを追いかけ回してばかりいた子供の頃の君とはえらい違いだよ…って、また蒸し返してしまったね。申し訳ない」
 しかしフランソワーズの口からはもう、抗議の声は聞こえてこなかった。
「確かに…そうね。あのときの私ときたらいつも兄さんのそばにいなくちゃ安心できなくて、兄さんが他の誰かと仲良くするとすぐにへそを曲げて―ジャン兄さんたち、男の子の遊び仲間にまでやきもちを焼いていたっていうのにね」
「だけど今は、仮に島村さんがそばにいなくても、いい子でその帰りを待っていることができるだろう?」
「ええ…だけどやっぱり、時々は淋しくて切ない気持ちになっちゃうけれど」
「そりゃぁ、彼が好きなんだから当然だよ。たといどんなに仲が良くても、そんな気持ちにならないような相手との間には恋愛なんか存在しないさ」
 そこでまたひとしきり、大きな笑い声を上げていたシャルルが。
「ただ、どんなに真剣で深い『本物の』恋でも、いつまでもだんまりを決め込んでいたのでは何も進展しない。それだけはどうか…忘れないでいてほしいな」
 か細い肩に両手を置いて、それこそいとけない幼子相手のようにゆっくりしみじみと諭せば、フランソワーズもまたしっかり、こっくりとうなづく。
「そうね…そうよね、兄さん。ありがとう。私これから、少しでも自分の気持ちをジョーに伝えられるよう、努力してみるわ。ただ…はっきり言葉にできるかどうかは今でもわからないけれど」
「ああ、是非そうしておくれ、フランソワーズ。せっかくの恋がつぼみもつけずに終わってしまって、ただ君の心に苦くて辛い傷を残すだけ…なんてのは僕だって御免蒙りたいからね。…それにさ。もし君が今、勇気のありったけをふりしぼって島村さんに告白したとしても、彼は別に何を犠牲にすることも、無理をすることもないと思うんだけどなぁ…」
「え…? 兄さん、どうしてそんなことがわかるの!?」
 途端、またしても真っ赤に頬を染めたフランソワーズへの返事は小さなウインク。
「そんなの一目瞭然だよ。だって昨日からこっち、彼の君に対する態度ときたらさ、大学で初めてジャンヌに会って、ただの友達から恋人になるにはどうすればいいんだろうって毎日毎日夜も眠れぬくらいに悩んでた、あの頃の僕とそっくりそのまま同じなんだもの!」
 そして晴れ晴れとしたシャルルの笑い声が、浜辺に三度大きく響き渡ったのであった。



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