Delight Slight Solty KISS 5


 小さな咳払いと共に、シャルルが椅子に座り直した。
「僕が勤めている会社では、来るべき高齢化社会に向けた介護用ロボット開発に全社を挙げて取り組んでいます。もっとも、最初から人間と同レベルの介護なんて到底無理ですから、まずは患者の移動補助から始めようと―寝たきりのお年寄りやご病人を起き上がらせたり、別の場所に連れて行ったりするのは介護者にとって一番の重労働ですからね」
「そうじゃのう。特に介護者自身も高齢の、いわゆる『老老介護』の場合、下手をするととんでもない事故につながる可能性もある」
「いや博士、年齢は関係ないアルよ。まだ若い、しかもプロのヘルパーはんの中にかて、仕事で足腰傷めて泣く泣く転職せなあかん人が仰山いてはるそうや。患者はんの移動だけでもロボットがやってくれるちゅうことになったら、みんながどれだけ助かるかわからへん。立派な仕事をしてはるんやナァ、シャルルはん」
 張々湖にしみじみと言われて、シャルルの頬がほんの少し、赤くなる。
「いえ、別に僕はそれほど大したことは…何しろつい半年ちょっと前に中途採用された新入りなので、担当しているのはもっぱら後方支援の基礎研究―具体的に言えば、ロボットのアーム表面に最適な素材探しなんです」
「アーム表面の…素材?」
「ええ。アームといえばすなわち腕、早い話が直接患者さんに触れる部分ですから、できる限り肌触りのいい柔かさを備えていることは最低条件ですよね。かといって人間一人を毎日何回も支えたり抱き上げたりするにはある程度の強度も必要ですし、その上患者さんによってはアレルギーやら皮膚疾患やらの問題を抱えているケースもありますし―そんな条件全てをクリアできる素材を探すのは結構大変なんですよ。理想的な素材を自社で開発できれば一番いいのですが、元々が精密機械専門メーカーなのでそっち方面の技術は今一つ弱い。となればやはり既製品の中から選ぶしかなく、各種繊維や天然・合成皮革、ビニールその他の化学製品など手に入る限りの素材を集め、その特性を徹底的に検証した、これはそのデータリストなんです。各製造元の公式情報だけでなく、僕たちスタッフ独自の実験や検査結果なども克明に記録してありますし、対象となる品目が品目だけに他の医療用器具はもちろんのこと、建築物の内装やインテリア、あるいはファッション関係などにも広く応用が利くはずですから、そりゃぁ他社にとっても全くの無価値とは言いません。ただ、取り上げている素材自体はどれもこれもありふれたものばかり、その気になればどんな企業だってこれくらいのデータは揃えられるはずです。…となると、犯罪というリスクと引き換えにしてまで欲しがるほどの物ともまた、考えられなくて…」
「成程のう…。ではシャルルさんは、書類よりもあくまで金目当ての強盗じゃと?」
「はい。それが一番自然な考え方ではないでしょうか」
「しかしまだ、金以外の動機が完全に消えたとは言えませんぞ、シャルルさん。あー…そう、例えば貴方ご自身に対する個人的な恨みとか、トラブルとか」
 途端、弾かれたように声の主―グレートを見つめたシャルル。そんなフランス青年に、英国紳士は丁寧に一礼して。
「お気を悪くされたら申し訳ありません。ですが貴方に落ち度がなくても、相手が勝手に恨むということもあるでしょう。所謂『逆恨み』というやつですな。今も貴方は『自分はつい半年前に中途採用されたばかりの新入り』とおっしゃった。もしもそのとき応募して不採用になった人間がいたとしたら、見事採用された貴方に対してそういう邪な感情を抱かないとも限らない」
「だけどグレート、そういう事情ならシャルルさんよりもむしろ、自分を不採用にした会社を恨むんじゃないかなぁ」
「まぁそれは人それぞれ、会社を恨む者もおれば採用されたシャルルさんを妬む者もおるじゃろうて。しかし会社相手ならともかく、ごく普通の一個人にしか過ぎんシャルルさんの住所を調べて待伏せするなど、そう簡単にはできんのではないかな」
「その気になればいくらでも手はありまさぁね。会社帰りのシャルルさんを尾行するとか、もっともらしい偽電話でうまい具合に住所を聞き出すとか。ま、さすがに探偵を雇って調べさせるなんてことまではやらんだろうが…ああそうだ、シャルルさん貴方、採用選考中に他の応募者と仲良くなって住所やメールアドレスを教えたとかいうことはありませんでしたか?」
「え…いや、そんなことは一度も…」
 喧々囂々たる推理合戦が繰り広げられる中、いつしかぐつぐつと煮詰まり始めてきた鍋。それに気づいた張々湖がぱんぱん、と大きく手を打ち鳴らす。
「ほれほれみんな、そろそろ食事に戻るあるヨロシ。探偵ごっこもええが、あんまし夢中になりすぎてメシの味もようわからんようになっちまったら、折角鍋になってくれたフグや野菜に申し訳が立たへんで。…食いモンは何でも美味しく、ありがたくいただく。それが食う者の礼儀、食われる命への何よりの供養ちゅうモンや」
 穏やかに、しかしびしりとたしなめられて即刻箸を取り直す一同。となればこれまでの推理合戦もどこへやら、今度はたちまちフグちりに夢中になった人々の舌鼓だけが食卓に響き、程なくして鍋の中は汁だけを残してすっかり空っぽになってしまった。そしてその汁を使った雑炊さえも、一粒残さず皆の胃袋に収まってしまったその後で。
「今夜はデザートも和風にしてみたアル。…シャルルはん、これナァ、温ったまってよう眠れますよって、きっと傷の痛みもあんじょうよくなるのコトネ」
 などと言いつつ張々湖が台所から運んできたのは甘酒。いかに日本料理ファンとはいえさすがにこの飲み物は初めてと見えて、目の前の湯飲みの中、ふんわり湯気を立てている白い液体を不思議そうに見つめるシャルルに、フランソワーズがそっと言葉を添える。
「あのね兄さん、これ『甘酒』っていって、とっても甘くて美味しいのよ。ただすごく熱いから気をつけてね」
 そう言われて湯飲みを取り上げたものの、まだどことなく不安げに周囲を見回すシャルル。…と、その視線に気づいたジョーが。
「ほらこうやって…ふうふう息をかけて冷ましながら少しずつ飲めば大丈夫ですよ」
 その笑顔にようやく決心がついたのか、見よう見まねで息を吹きかけた湯飲みの中身をほんの少し口に含んだ途端。
「うわ…美味しい! すごく美味しいよ、これ!」
 たちまち満面の笑みを浮かべたシャルルに、周囲からも歓声が上がる。
「だけどただ甘いだけじゃないなぁ、この味…もしかしてgingembre―ショウガが入ってますか? それから塩も」
 どうやらすっかり甘酒が気に入ったらしいシャルル、二口目をゆっくり味わった後でそんな質問を投げかける。
「ホゥ…! よう気づきはったあるネェ。ショウガには体を温める作用があるよって、欧米でもハーブティーなんぞにするそうやが、この日本やワテの国、中国では漢方薬―れっきとした薬として扱われてますねんで。それに塩も、ごく少量ならかえって甘さを引き立てるええ隠し味になるし…あァ、そう言えばシャルルはんやフランソワーズのお国にもそんな菓子がありましたナ」
「ああ…! もしかしてクイニー・アマンや塩キャラメルのこと? さすが大人、詳しいわね♪」
「そりゃもう、ワテは食いモンや料理の知識にかけては誰にも負けへんよってに」
 言うが早いかその丸い体を思い切りのけぞらせ、「大威張りのポーズ」を決めた張々湖に、再び笑いの渦が巻き起こった。しかしそんな中、シャルルだけが再び黙り込んでしまったことに気づいたフランソワーズがふと眉をひそめる。
「どうしたの、シャルル兄さん! また怪我が傷むの?」
「…違う…違うんだよ、フランソワーズ。ただ…こんなふうに心の底からくつろげたのは…本当に…久しぶりだったから…」
 その口元からもれた、糸のように細いため息。
「ジャンヌが病気になって以来、僕には心の休まる暇なんて一瞬もなかった…。もしも彼女が治らなかったら、万が一のことがあったら…そんな不吉な想像ばかりが次から次へと頭に浮かんで…毎日毎日、気が狂いそうなほど苦しかった! おまけに今日はあんな事件まで…。正直、今だって僕はジャンヌのことが心配でたまらないし、さっき強盗に襲われた瞬間の恐ろしさを思い出すと体中が冷たくなって、がたがた震えだしてしまいそうだ。だけど、そんな不安や恐怖に押し潰されそうなこのときだからこそ、いっそう君の…そして皆さんの親切が嬉しくて…ありがたくて…」
 しばたいたとび色の瞳が、ほんの少し赤くなっていた。
「まるでさっきの張さん―いや、大人の話そのものだよね。…人は誰でも甘い幸福ばかりを追い求める。塩辛い不幸なんかほんのちょっぴり舐めることすら御免だとそっぽを向く。…だけどやっぱり、塩辛い味を知らない者には本物の甘い味だってわからないんだよ。不安や恐怖、悲しみや苦しみといった塩辛さが耐え難ければ耐え難いほど、そばにいてくれる誰か、その嘘偽りない優しさや温かさが深くゆかしい本当の幸福の甘さとなって、ひりつく心、そして体を癒してくれるんだ…。そう…さっきの甘酒の…よう…に…」
 そこで言葉は途切れ、いつしか両手で顔を覆ったシャルルはただ無言のまま肩を震わせているばかり。その姿を目にしてはさすがのフランソワーズにも何も言うことができず―それはもちろん、他の人々も同様だった。
 けれど、しばしの沈黙の後。
「…大丈夫や。大丈夫あるヨ、シャルルはん。奥さん―ジャンヌはんはきっとまた元気にならはる。あんたはんの怪我かてそや。今はさぞ痛うて辛いやろケド、いつか必ず治るに違いないのコト。体の傷も、心の傷もナ…。そしたら今度はジャンヌはんも一緒に遊びに来るヨロシ。そンときはワテがまた、美味いモンたんと作ってご馳走するアルから楽しみにしててナ」
 しみじみと、しかしきっぱりと言い切った張々湖の手が静かにシャルルの震える肩に置かれ、小さな子供を慰めるようにそっと、優しく撫で始める。シャルルの顔が再び上がり、涙に濡れた目が張々湖を見つめ、やがて他の人々全員をもゆっくりと見回す。
「…Merci…Merci beaucoup…。ありがとうございます、皆さん…」
 消え入るような声でやっとそれだけ言ったシャルルが、深々とその頭を下げた。

 そしてシャルルは予定どおり翌日もギルモア邸に留まり、傷ついた心身をゆっくりと休めることになったのだが。
「あれ…? フランソワーズ、洗濯終わったの? だったら後は僕が干しとくからさ、ちょっとシャルルさんを散歩にでも連れて行ってあげなよ。いくら怪我をしているからって、家にこもりっきりじゃかえって気が滅入っちゃうんじゃないかな」
 午前の仕事も一段落つく頃、最後の締めくくりとばかりに大きな洗濯籠を抱えて庭へ出ようとしていたところをジョーに呼び止められ、フランソワーズはふと足を止めた。
「え…? だってジョー、今日は結構洗濯物が多かったから干すのも大変よ。お散歩なら貴方が誘ってあげたらいかが?」
「うん…でもさ、いくら仲良くなったとはいえ、僕たちとシャルルさんとは昨日初めて会ったばかりだし…やっぱり君と一緒の方が、余計な気を遣わせずに済むと思うんだよね」
 一度は遠慮したものの、言われてみれば確かにそのとおりだと考え直したのか、素直に洗濯籠をジョーに渡した金色の頭がぺこりと下がる。
「…ありがとう、ジョー。それじゃお言葉に甘えて…いいかしら。シャルル兄さんも海が大好きだから、きっと喜んでくれるわ!」
 その姿が家の中に消えたのと入れ違いに庭に出たジョーは、早速洗濯籠の中へと手を伸ばす。そして程なく、垣根の外に現れたフランソワーズとシャルルが微笑みと軽い会釈を残して浜辺へと向かうのを同じく笑顔で見送ってからはひたすら洗濯物と格闘していたのだが。
「よ、島村のボーヤ。この前はいろいろイジメちまって悪かったな。…それに昨日は何やら大変な目に遭っちまったそうじゃねぇか。大丈夫か?」
 突然声をかけられてはっと顔を上げれば、つい今しがたフランソワーズたちが通り過ぎたその場所に立っていたのは何と―松井警視!
「松井さん! 連絡もなしにお見えになるなんて珍しいですね! それにどうしてこんな、庭の方から…?」
 思いがけない来客にすっかり丸くなったジョーの目の前、松井警視は自分の腰の高さくらいはあろうかという垣根を苦もなくひょい、と飛び越えて。
「いや、昨日ヒデやH署の連中から連絡があってな、たまたま今日は非番だったんでちょっくら見舞いにでもと思ってよ。したらインターフォン鳴らしても誰も出ねぇんでこっちに回ってきた」
「あ…すみません。今日は生憎博士が朝から研究室にこもっちゃって…イワンは夜の時間だし、フランソワーズもちょうど今、外出してしまったものですから」
「うんにゃ、そんなの別にいいってことよ。それよりお前、お留守の彼女のかわりに洗濯物干したぁ感心だな…って、こりゃまたかなりの量じゃねぇか。おし、ンじゃ俺がちょっくら手伝ってやらぁ」
 言うが早いか洗濯籠に手を伸ばした松井警視の手際はさすがに見事なもので、見る見るうちに洗濯物が片づいていく。そしていつしかその残りもあとほんの少しになりかけた頃。
「ところで例の強盗の件でよ、今日早速高橋と今野―ほれ、昨夜ヒデんトコにすっ飛んでった二人組だ―が朝イチでガイシャ…ノアイユ氏の勤務先に聞き込みに行ったてぇんだが、残念ながらコレといった収穫はなかったらしいわ」
 最後の大物、ベッドシーツを二人がかりで物干し竿の上に広げながら、松井警視がさりげなく切り出した。途端、ジョーの顔にもさっと緊張の色が走る。
「何でも応対してくれたノアイユ氏の上司―所属チームリーダー兼開発本部長の黒田っておっさんが開口一番、『仕事絡みのトラブルなぞ絶対に考えられない』って断言したそうでさ。ノアイユ氏の評判は社内でも上々だし、チームの同僚とも和気藹々で仕事の方も絶好調…なんて胸張ってたとよ。もっとも当のチームリーダー様ご本人の証言じゃ、かなり眉にツバついてる可能性も否定できねぇし、他部門の連中にもしっかり裏ァ取ったっつーんだが、訊けども訊けども返ってくるのは全て黒田氏と似たり寄ったりの証言ばかり…ときちゃぁ、さすがの刑事(デカ)といえどもこれ以上疑うわけにゃいかねぇやな」
「う〜ん…確かにそれじゃぁどうしようもありませんね…。ですがあの、シャルルさんは昨日、会社の研究開発に関わる重要書類を持っていたんです。それに…」
 そして昨夜の推理大会で挙がった疑問を逐一説明するジョー。しかし松井警視は無言のまま小さく肩をすくめて。
「…その書類の件なら、奴らも気になってたらしくて相当しつこく確認したそうなんだけどな…残念ながらこっちも黒田本部長以下話を聞いた連中全員、昨夜のノアイユ氏と全く同じ意見だったとよ」
「無価値ではないが、犯罪を犯してまで手に入れる値打も、また…ですか」
「ああ。それから採用時のトラブルなんぞも一切ないそうだ。どうやらあの会社、最初から素材研究のための人材が欲しかったらしい。…で、大学時代素材工学もちょいとかじったことのあるノアイユ氏が最適だってんで採用されたわけだが、他の応募者も皆かなり優秀だったと見えて、こんなご時世だってぇのに一人残らずちゃんと別の就職先を見つけてやがる。ちなみに待遇や労働条件はどいつもこいつもノアイユ氏とほぼ同じだそうだから…その件で彼を恨むようなヤツがいるたぁこれまた考えにくいな。あとは個人的な交友関係やら近所づき合い―今高橋と今野が洗ってる最中だが―もしそっち方面でも何も出なかったとしたら、やっぱ金目当ての犯行で決まりだろうってのがH署の連中の見解だと」
「そう…ですか」
 正直、それでもなお何かが心に引っかかる。しかし、捜査のプロたるH署の刑事たちや松井警視にまでそう言われてしまっては、これ以上反論するわけにもいかない。もはやすっかり空になった籠を片づけつつ、ジョーがひっそりとため息をついたとき。
「…ん? 何だありゃ」
 ふと垣根の外に目をやった松井警視が、これまた不思議そうに片眉を寄せた。



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