Delight Slight Solty KISS 4


 十字路を曲がった途端、マンションのエントランスが視界に飛び込んできた。ジョーの足が瞬時にブレーキを踏み、同時に軽いカウンターをかます。耳をつんざくタイヤの軋みと共に見事その手前すれすれで急停車した車の中、すでに彼らの目は建物脇の植え込みの陰で揉み合うシャルルと数名の男たちの姿を捉えていた。
「おいお前ら! 何をやってる!」
「シャルル兄さん!」
 突然猛スピードで突っ込んできた車から飛び出してきた人影にさすがの曲者どもも一瞬驚いたようだったが、それがまだ若い―というより幼い少年少女だと見て取るや、大した相手でもないと判断したらしい。
「!」
 いきなり顔面に繰り出されてきた拳を咄嗟に避けたジョーの鳩尾を、今度は曲者の膝蹴りが直撃する。しかしこの程度の衝撃などジョーには痛くも痒くもない。次の瞬間ごくごく「ヌルイ」横殴りの一撃を頬にお返しするやいなや、相手は声もなく崩れ落ちてのたうち回る。一方、シャルルに駆け寄ったフランソワーズは手にしたショルダーバッグを振り回しての応戦だ。
(フランソワーズ、君は手を出すな! シャルルさんがいる!)
(わかったわ!)
 すかさずそちらに割り込んで、暴漢どもの攻撃を一手に引き受けつつ脳波通信を飛ばせば間髪いれずにきっぱりとした返事が跳ね返り、フランソワーズが抱きつくようにしてシャルルとその荷物―セカンドバッグと例の封筒―を全身で庇う。乱闘から抜け出した奴が一人、こちらに背を向けた彼女を力ずくで標的から引き剥がそうとするのが目の端にちらりと映り、一転身を翻したジョーが後ろからそいつの襟首を引っつかんで振り向きざまに放り投げる。…と、大の男の体が軽々と宙を舞い、狙い過たず残りの連中を直撃した。
「ヤ…ヤバイ、逃げろっ!」
 これにはさすがの強盗どもも度肝を抜かれたか、一斉に脱兎のごとく逃げ去った。後に残されたのはジョーとフランソワーズと…そして、シャルル!
「シャルルさん! 大丈夫ですか!?」
 駆け寄ったときにはすでにフランソワーズが、ぐったりとしたシャルルを抱き起こしているところだった。
「あ…あ…フランソワーズ…島村さん…。僕の…封筒…書類…は…っ」
 どうやら意識はしっかりしているようだったが、奴らに随分と殴られたのだろう。その頬にはくっきりとした青痣が浮き、額と唇の端が切れて血がにじんでいた。
「封筒とバッグは無事よ、シャルル兄さん! それよりこの怪我…ジョー!」
 件の封筒をシャルルに渡しながら振り向いた水色の瞳に、ジョーの鋭い声が飛ぶ。
「ここからだったら石原医院が近い! フランソワーズ、シャルルさんを早く車へ!」
 そして二人は、震える指で懸命に封筒の中身を確認しているシャルルを抱きかかえるようにして車に乗せ、大急ぎで石原医院へと向かったのだった。

「大丈夫だよ。島村クンもフランソワーズさんも、どうか安心して」
 シャルルを伴って診察室から出てきた石原医師の言葉に、ジョーとフランソワーズの強張った表情がようやく和んだ。そんな二人に笑顔で軽くうなづいてみせた石原医師が、今度は患者の方に向き直る。
「とんだご災難でしたが、骨折その他の深刻なお怪我は一切ありません。ただ、ちょっと打撲のひどいところはありますね。特にお顔…残念ながらしばらく痣が残ってしまうと思います。しかし腫れさえ引けばきれいに治りますからご心配は要りませんよ」
 その丁寧な説明にじっと耳を傾けるシャルルの顔は絆創膏やら湿布薬でかなり賑やかなことになっていたが、大分血色もよくなってきてとりあえずはこれで一安心と思われた。
「本当にどうもありがとうございました、先生。…ですがあの、私だけじゃなくてそこの彼…島村さんも例の奴らに…」
 そう言って心配そうに自分を見たとび色の瞳にぎくりと身をすくめたジョー。そういえば確か自分も膝蹴りを一発喰らっていたっけ…。しかし正直なところ、今の今までそんなことはきれいさっぱり忘れていたのである。
「あ、いえその、僕の方は…」
「何だよ島村クン! 君もやられてたんならどうして早く言わないの! さ、こっちおいでっ!」
 ついついうろたえて何やら言いかけたジョーをびしりと遮り、その手をつかんでぐいぐいと診察室に引っ張り込んだ石原医師が、ドアを閉めると同時に軽いウインクを送ってきた。
「ふふ…どうやらまずいところを目撃されちゃったみたいだね。だけど彼には僕が後で適当に説明しておいてあげるから心配しないで。それともやっぱ、一応診察しとく?」
「あっ、いえそんな、とんでもない!」
 たちまちぶんぶんと首を振りつつ後じさりしたジョーに小さく笑ったその顔が、ふと真面目になった。
「ただこれは明らかな強盗未遂及び傷害事件だから、警察に通報しないわけには行かないだろうな。シャルル…ノアイユさんには承諾を取ったけど、君たちの方は…平気かい?」
「はい、構いません。石原先生」
 カルテでシャルルのフルネームを確認しつつ尋ねてきた石原医師に、ジョーはきっぱりとうなづいた。サイボーグである自分たちがあまり人目につくような真似をするのはご法度だが、だからといってれっきとした犯罪行為を見逃すわけにはいかない。
「ありがとう。それじゃあ警察には僕から通報するよ。それならこの地域の所轄であるH署に知らせても不自然じゃないし、何と言ってもあそこは署員全員松っちゃんの友達も同然だから、いろいろ融通も利くだろうしね。君とフランソワーズさんは、ノアイユさんの怪我に驚いて医者に連れて行くことしか思いつかなかったって証言すればいい。そしたら、後の対応は全部僕がやるから」
 さすが、00ナンバーサイボーグの事情を全てわきまえているだけあって石原医師の気配りは行き届いている。その気遣いに感謝しつつ早速H署に電話を入れてみれば、すぐさま二人の刑事が駆けつけてきてくれた。しかも揃って松井警視とたいそう親しいばかりか、病気や怪我の折には家族ぐるみで石原医院に世話になっているというのがありがたい。おかげで事情聴取の際にもジョーやフランソワーズが余計なことまで根掘り葉掘り尋ねられることは一切なく、三人の話を聞き終えた刑事たちは「ではこれから即刻捜査を開始します」との頼もしい言葉を残し、再びH署へと戻って行った。
 そして、全てが終わった後。
「皆さん、今日は本当にどうもありがとうございました。フランソワーズや島村さんばかりかDr.石原にまですっかりお世話をかけてしまって…。後ほどあらためてお礼に参ります。…ありがとう」
「ちょ、ちょっと待ってちょうだい、シャルル兄さん!」
 皆に深々と一礼して立ち上がったシャルルに、フランソワーズが血相を変えて叫んだ。
「まさか兄さん、このままあのマンションへ一人で帰るつもりなの? もしかしたらまたあの犯人たちが戻ってくるかもしれないのよ!」
「えぇ? それはちょっと心配しすぎじゃないかな、フランソワーズ。さっきの刑事さんたちだって『すぐに捜査を始める』って言ってくれたんだし、奴らだって僕らが警察に通報するのを予測できないほどバカじゃないだろうし…その日のうちにまたのこのこ現場に戻ってきたりなんかするわけないよ」
「ですが油断はできませんよ、シャルルさん。かえってその隙を突いて思いもかけないところで襲ってくる可能性だってある」
 難しい顔つきで言葉を添えたジョーに、金髪―というよりかなり茶に近い色の頭を抱え込んだシャルルが唸る。
「うう…。だけどそれじゃ一体どうしろって言うんだい? どこかのホテルか旅館にでも泊まれって?」
 半分悲鳴のようなその声を聞きながら、ジョーとフランソワーズが顔を見合わせ、かすかにうなづき合った。
「ねぇ兄さん、もしよかったら今夜は私たちの家に泊まらない? あんなことがあった直後だもの、一人でいるより誰かと一緒にいた方が絶対安全よ」
「そんな…! いくら何でもそこまで君たちに迷惑をかけるわけには…っ」
「いえ、僕たちなら全然構いませんよ。それにシャルルさん、明日から神奈川にご出張だっておっしゃってましたよね。だったら、僕たちの家の方が近いかもしれませんし」
「でも…」
「ノアイユさん、部外者が口を出すべきではないのかもしれませんが、僕もその方が安心だと思いますよ。せっかく二人がこう言ってくれてるんですから、今夜一晩だけでもその好意に甘えられてはいかがですか?」
「Dr.…」
 最後の最後、石原医師にまでこう言われてはさすがのシャルルも反論できなくなったらしい。しばし絶句していたその顔が、やがて決心したようにきっぱりと上がった。
「…すみません。それじゃお言葉に甘えて…お世話になります」

 とはいえ着の身着のままではシャルルもさぞ不便だろうし、やはり一度はあのマンションに戻らないわけにはいかなかった。そしてその支度が整うまでの間、ジョーとフランソワーズもギルモア邸に連絡を入れ、事の顛末を報告していたのだが。
「あら? 兄さん、どうしたの?」
 やがてとりあえずの荷物をまとめて自室から出てきたシャルル、その浮かない顔にちょうどこちらも携帯での通話を終えたばかりのフランソワーズが軽く眉をひそめた。
「あ…うん…実は今、念のため上司にも報告の電話を入れたんだ。そしたら黒田本部長―って、僕の直属の上司がさ、『そんな大変なことがあったんなら明日は休め、出社は明後日からでいい』って…」
「まぁ、だったら何よりじゃない! 優しい部長さんでよかったわね、シャルル兄さん」
 途端、いかにも嬉しげな笑顔になったフランソワーズ。しかしシャルルの方はいっそう困惑したような表情を浮かべて。
「でもそれじゃ、二日間も君たちの家に世話になることになっちまう。今夜一晩だけだって申し訳ないのに、明日もなんて図々しすぎるよ」
「もう…! そんな水臭いことを言うのはやめてちょうだい! シャルル兄さんなら、ジョーだって私だって、それに他の『家族』だってみんな大歓迎なんだから!」
 言うなりその白い指がシャルルの手をがっちりと押さえ込み、有無を言わせず玄関へと引っ張っていく。どうやらかつての「白馬の騎士」も、今やこの愛らしい姫君にすっかり主導権を奪い取られてしまったらしい。その微笑ましくも身につまされる様子をこれまた黙って見つめているしかなかったジョーは、あらためてこのフランス青年に深く同情すると同時に、何とも言えぬ共感と親近感を覚えていたのだった。

 そんなこんなで、ギルモア邸に帰りついたのはすでに午後九時を回った時刻になってしまったのだが。
「おお、お帰り。何だか今日はとんでもない目に遭ってしまったようじゃのう」
 玄関を開けた途端、ギルモア博士やグレート、そして張々湖が転がるようにして走り出てきた。
「貴方がシャルル・ノアイユ氏ですか。いや、まこととんだ災難に遭ってしまわれましたなぁ。しかしフランソワーズの幼なじみならば我々にとっても家族も同然、どうぞご遠慮なく、ごゆるりとおくつろぎあれ」
「あ…ありがとうございます。…というより本当に申し訳ありません。フランソワーズと島村さんをあんな事件に巻き込んでしまった上、図々しくもお家にまで…」
 皆の温かい歓迎を受けつつも、幾分緊張気味に頭を下げたシャルル。と、そこへ張々湖がさらに言葉を続けて。
「さぁさ、挨拶なんぞは後でゆっくりするヨロシ。それよりみんな、さぞかし寒かったアルやろ。はよ部屋に入ってあったまるのコト。晩メシの支度もちゃんとできとるよってナ」
 途端、急に自分たちの空腹を思い出した三人。考えてみれば、今日は昼から何も食べていないのだ。となれば何をおいてもまずは腹ごしらえ…とダイニングへ直行すれば、果たして美味そうなちり鍋がほかほかと湯気を立てていた。
「今日は市場の特売日でナ、ええフグが安う手に入ったよってフグちりにしてみたんヨ。ケド、シャルルはんにはフランス料理の方がよかったやろか」
 自信と不安がない交ぜになったような張々湖の言葉に、シャルルが大きく首を横に振る。
「とんでもない! 僕はフランスにいた頃から日本料理のファンで、鍋物も大好きなんです。だけどこんな豪華なフグ鍋なんて初めてだ…最高のご馳走ですよ!」
 そう言われてたちまち張々湖も満面の笑みを浮かべ、早速遅めの晩餐を囲んだ一同。しかし…。
「…痛ッ!」
 取り皿を手に笑顔で鍋へと箸を伸ばした途端、シャルルの顔が苦痛に歪む。フランソワーズがはっとしてその手を押し止めた。
「ごめんなさい、シャルル兄さん…うっかりしてたわ。確かさっき兄さんは右肩にも怪我を…。ね、お皿、いいかしら? 兄さんの分は私が取ってあげる」
「あ…ああ、悪いけど頼むよ、フランソワーズ」
 そのまま素直に取り皿を差し出し、空いた左手で辛そうに肩を押さえるシャルルに、他の者たちも一様に心配げな視線を向ける。
「大丈夫ですかの、シャルルさん。…それにしても全くとんでもないことをする奴らじゃ。許せんわい」
「ま、今はご時世がご時世やし、仕事を失くして金に困った誰かが切羽詰ってやらかしたのかもしれへんが…いくら貧乏したかて人間にはやっていいことと悪いことちゅうもんがあるのコトヨ!」
「だけど、あながち金目当てとばかりも言い切れないよ。シャルルさんは今日、会社の研究に関する重要書類を持っていたんだ。もしかしたらそれを狙った犯行かもしれない」
「だとしたらますます許せんな。暮らしに困ってやむなく他人の金を狙ったというのならまだ同情の余地があるが、他所の会社の重要機密ほしさに見ず知らずの人間を襲撃するなど、言語道断もいいとこだ!」
 たちまち巻き起こる義憤の渦、囲んでいる鍋よりももっと熱くなった人々が口々に言い立てる中、当のシャルルだけが何故か無言のままじっと考え込んでいる。
「…? どうしたの、シャルル兄さん。もしかして、怪我の痛みがそんなにひどいの?」
 先程受け取った取り皿を慎重に手渡しながら、不安げに尋ねるフランソワーズ。しかしシャルルは静かに首を横に振って。
「いや、別にそんなことはないんだ。…フランソワーズ、そして皆さん。ご心配をおかけして本当に申し訳ありません。ただ―さっき警察の方にもお話したんですけどね―少なくともこの書類目当てという線だけは、僕にはどうしても考えられないんですよ」
「え? だってあの時、貴方ご自身が重要書類だとおっしゃったんじゃありませんか! だからこそ、寄り道せずに真っ直ぐ帰りたいとも…。それなのに、一体どういうことです? シャルルさん」
 被害者本人の意外な見解についつい大声を上げてしまったジョー。石原医院での事情聴取は各自別々に行われたため、こんな話は全くの初耳だったのである。見ればフランソワーズも怪訝そうに首を傾げていて―それに気づいたシャルルが慌てて言葉を継いだ。
「あ…いや、すみません、島村さん。えと…確かにこれは会社―特に僕が所属している開発チームにとっては大変重要な研究データです。ただ、他所の会社にとってどれだけの価値があるかというと、ちょっと…。あの、つまりですね…」



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