第五章 ジェロニモ
廊下を歩いていたら、ジョーの部屋のドアが開けっ放しなのに気づいた。ジェロニモは大きな身体をほんの少し屈めて、部屋の中に声をかける。
「ジョー。開けたままだと冷える。風邪をひく」
机の上のパソコンに向かっていたジョーが、驚いた表情で振り返った。
「あれ? きちんと閉めたと思ってたのに…ありがとう、ジェロニモ」
「いや…勉強中、邪魔してすまない」
「勉強、ってわけでもないんだけど…でも、やっぱり調べ物…かな」
曖昧なジョーの言葉に、ジェロニモの目がかすかに細くなる。
「あのさ、ジェロニモ。あるとき、全然知らない言葉とか、すっかり忘れていた言葉とかが急に頭の中に浮かんで離れなくなったことってある?」
いきなり言い出すにはなかなかユニーク…というよりわけのわからない質問だ。しかしジェロニモは至極大真面目にちょっとの間考え込み、やがて重々しい声で告げた。
「俺にはない。だが、人の心は不思議なもの。そういうことがあっても、おかしくはない」
それがジョーの望んだ答えかどうかはわからないが、目の前の少年はほんの少し、安心した表情になった。
「わかった。引き止めてごめんね。今から…書斎?」
「ああ。今日は俺、一番」
「異常なしだといいね」
その言葉に軽くうなづきかけて再び歩き出し、階段を降りかけたとき。
滝の音が聞こえた…気がした。
立ち止まって、二、三度首を振る。こんな場所で、こんな音が聞こえるはずもない。
(人の心は不思議なもの。そういうことがあっても、おかしくはない)
たった今、ジョーに言ってやったばかりの自分の言葉がよみがえる。
ジェロニモは一人うなづき、再び足を進めた。
「ジェロニモ・Jrさんですね」
部屋に入り、待っていた女医の顔を見た途端、さっきの滝の音が再び耳の底に響いた。
「初めまして。藤蔭です。石原先生から貴方方のお話はよく…」
人の心を落ち着かせるような、藤蔭医師の声。だが、耳の中の滝の音はどんどん大きくなって、その言葉さえかき消していく。
(ばかな…)
ついに音は轟音となり、耳だけではなく身体全体を震わせ始めた。まさか…と思いながら、ふと後ろを振り返る。瞬間、ジェロニモは息を呑んだ。
どこまでも切り立った断崖絶壁の遥か上方から、ごうごうたる轟きとともになだれ落ちてくる水の柱。滝つぼに落ちる清冽な水のしぶきが全身を濡らす。…どこかで、見たことがある風景。アメリカ…いや、日本でだ。
(那智の―大滝…!)
幻覚だと思った。振り向けば、そこには藤蔭医師がいるはず。そうだ、俺は今、ギルモア博士の書斎にいるのだ。
振り向けば、何もかもが元のまま。そう思って滝に背を向けたジェロニモの目の前から―藤蔭医師の姿は、消えていた。
かわりに、立ちふさがる水の壁。気がつけば右も、左も…周囲をすっかりなだれ落ちる水に取り囲まれてしまったことに気づき、ジェロニモは呆然とした。
(ここは…滝の中か?)
いつしか水音は音を超えた凄まじい波動となって全身に襲いかかってくる。ジェロニモは本能的に身体を丸め、防御の姿勢をとってその衝撃に耐えた。と―
(よくぞ来られた。褐色の賢者よ)
決して大きくはないくせに、この暴虐な音の嵐を越えて、はっきりと耳に届いた声。はっとして顔を上げると、ついさっきまで藤蔭医師が立っていた、まさにその位置に。
忽然と現れていた、一人の女。
白い着物と緋色の袴の上になにやらふんわりとした薄物を重ね、つややかな黒髪を後ろで束ねたその姿は―
「巫女…日本の、シャーマンか…?」
仄かな白い光に包まれたその目鼻立ちははっきりとはわからない。ただ、黒曜石にも似た切れ長の大きな瞳の異様な輝きだけが真正面からジェロニモを射抜いていた。
(巫女…シャーマン…呼び名など、どうでもよいこと。吾と汝(いまし)がこうして出逢うた、大事はそれのみぞ)
「何故…だ」
呻くように、ジェロニモは言う。出逢ったのが大事だというなら、何故出逢ったのか。いや、それ以前に何故、この女は自分を「賢者」と呼ぶのか。
(吾等二人が出逢うたのは、神がそう望まれた故のこと。汝を「賢者」と申すは、汝が神の姿を見、神の声を聞き得る者故のこと)
神。その言葉を聞いた瞬間、ジェロニモの巨体がかすかに震えた。疑念と困惑。そして嫌悪。…神の存在を否定するつもりはないが、自らそう名乗るものを素直に信じることなど、もう二度と…できないと思う。かつて、自分を―自分たちを「神」だと信じ込まされたミュートス・サイボーグたちの悲しい末路がつけた心の傷は、まだ癒えていない。
「神…それはどこにいるのだ。お前は、俺にその姿が見えるという。その声が聞こえるという。だが俺は…お前の言う『神』がどこにいるのかがわからん」
ジェロニモにとっては切り裂かれた心から流れ出る血にも等しいその言葉に、女はあざけるような笑みを返しただけだった。
(さては、愚かなる問いをするものかな。神は吾等がすぐ傍らにいますもの。例えを挙ぐればそれ、そこな水の中には沫那藝神、沫那美神を初めとする水の神々が、山に目を向ければ大山津見神、野椎神を御親となせし山の神々、吹く風には志那都比古神、それにそよぐ木々には久久能智神のおわします。見上ぐれば天をしろしめす天照大神、夜を治め給う月読命…)
「待て。それでは…それではまるで」
ジェロニモは、頭を抱えた。この女の言う「神」が、そのようなものであるのなら。
「まるで、精霊ではないか。お前たちの『神』とは、精霊のことなのか…?」
(そのような名で呼んだところで、わが神々はお怒りにはなられますまいよ)
女が、かすかに笑った。
(汝は、神の声を聞こうとて、この秋津島大和の国中をさ迷うていたではないか。なれどついに神の声を聞くことかなわず、空しく己が棲家に戻り、打ちしおれていたのであろう? そこで神々が、汝をここに呼んだのよ。大己貴命、家都御子大神、御子速玉大神を始めとする数多の神々の鎮まりますこの熊野那智大社においてもとりわけ古き飛滝権現、そのものの内にな。神々が吾を通して、その御言葉を汝に伝うるに、これほどふさわしい場所は他にあるまい)
「何だと…?」
それきり絶句してしまったジェロニモだったが、女の言うことは全て正しい。…ジェロニモは今、すっかり自信を失っていた。
精霊の声を、まるで感じ取れなくなってしまった自分に。
ブラックゴーストとの戦いが一段落ついて祖国アメリカに戻ったものの、ジェロニモの求める故郷はもう、どこにもなかった。かつて鳥が鳴き、獣が遊んでいた山や森は開発という美名の下に破壊しつくされ、代わりに立ち並ぶのは味気ないビルの群れのみ。金属とガラスとコンクリートだけの街では息が詰まる。…まるで、自分自身の身体の中に呑み込まれてしまったようで。
結局、どの都市にもどの街にも居つくことができず、当てもなくさまよい続けた末にたどり着いた、小さな村。アリゾナはコロラド高原の片隅にひっそりと息づくその小さな集落は、彼の求めてきた故郷とあまりにも似ていて。
わずかな畑を耕し、山や森、そして川や湖の恵みに頼って生きる人々。精霊の声を聞くという村長のもと、常に己に必要なものだけを求め、むさぼることも、欲張ることもしない彼らの暮らすその場所があまりにも懐かしくて、いつしかジェロニモはその一角に住みついたのであった。
最初のうちこそ「よそ者」と白い目で見られたこともあったが、いくらも経たぬうちに村は彼を受け入れてくれた。それは彼の優しさと穏やかな気性、寛い心を村人たちがすぐに見抜いたからだったが、何よりも皆に歓迎されたのは、彼がもたらした外の世界の「知識」であった。そのほとんどは、心ならずもサイボーグにされたが故に否応なく身につけざるをえないものであったものの、それは少なからず村人の役に立ち、ときには誰かを救うこともあった。初めてジェロニモは、サイボーグになったことを精霊に感謝する。今でもそれはあまりにも哀しく辛い現実ではあったが、少なくともそのおかげで、自分はこうして、彼らの役に立つものを手に入れることができたと。
やがて、村長とも親しくつき合うようになり、まるで息子のように可愛がられて、ついにはその補佐役まで任されるようになった夢のような日々。
ところが―
突然、村を揺るがす大問題が発生したのだった。
「確かに、道路ができれば皆が助かる。街から豊富な物資も運ぶことができるだろうし、突然の病人だとて、すぐさま大きな病院に運び、手当てを受けさせることができるだろう」
そう言った村長の、苦渋に満ちた顔を、ジェロニモはいまだに忘れられない。
「だがしかし、そのためには我らのあの森を、山を、切り崩さねばならない。それも、かなりの広範囲にわたってだ。となれば当然、我らの暮らしも変わるだろう。生業を、あるいはこの村自体を捨てなければならぬ者さえ、出ないとはいえん…」
州都フェニックスのとある企業が、政府の後押しを受けて新たな幹線道路を建設しようとしていた。村人に生きる糧を与えてくれる、あの山と森の中央を一直線に貫いて。
もちろんそれは、村人たちが承諾すればの話だ。選択権はあくまでも村にあると企業の担当者は言った。考える期間は二ヶ月。そのときまでに意見をまとめ、返事をしてほしいと半ば一方的に告げて、いかにもエリート然としたホワイトカラーは街に帰っていった。
「周囲の自然はできる限りもとのまま残すと街の者たちは言う。しかし、真っ二つに引き裂いておいてもとのままも何もなかろう。村の者も戸惑っておる。あの山と森を傷つけるなど決して許せるものではないが、いざというときのことを考えれば、道路ができるのはやはり…ありがたい。かく言うわしも、迷うておる愚か者の一人に過ぎん。そこでわしは、精霊にお伺いを立てることにした。このような問題は、人の子の欲や感傷で判断することではないと思うての」
そこでいきなり、村長は顔を覆った。
「だが…今回に限って、わしに精霊の声は聞こえてこなんだ。何度やっても、どれほど真剣に祈っても…駄目だったのだ…そこでじゃ、ジェロニモよ。今度はお前が精霊たちに問いかけてはくれんか。わしらは…この村の人間どもは、一体どうすればよいかと…な」
その重い頼みを、ジェロニモはあえて引き受けた。流れ者である自分を受け入れてくれたこの村に対する、せめてもの恩返しとして。
しかし。
恐ろしいことに、ジェロニモにもまた―精霊の声を聞くことができなかったのだ。村長同様、持てる力全てをふりしぼり、声の限りに問いかけても、返ってくる言葉はない。これは、ジェロニモにとって大きな衝撃だった。長い間、畏れ敬いながらも親しい「友」としてともに歩んできた精霊たちからの拒絶。いわばそれは、彼の中にわずかに残っていた人間としての自信を打ち砕く仕打ちであった。たとえ身体の半分が機械になってしまったとしても、精霊の声を聞き、心を通わせることができる限り、自分を人間だと信じる彼の思いは揺らぎはしなかったのに、今やそれが不可能になってしまったのである。その事実はさしもの巨人をさえ、深い絶望の底に叩き込むには充分だった。
悩み苦しんだ挙句、ついにジェロニモは一つの決心をする。日本へ行こう、と。日本は彼にとって、祖国の次になじみ深い国である。そして、この国の自然は時として、アメリカのそれよりも人間に近いところに在るような気さえしたものだ。もしかして日本の精霊ならば、何か道を指し示してくれるかもしれないと、藁にもすがる思いで来日したジェロニモはギルモア邸に旅装を解く間もなく、この国のあちらこちらを訪ね歩いた。北は釧路湿原、大雪山から白神山地、富士山、那智の大滝、阿蘇山を経て、南は屋久島の縄文杉の森まで、あらゆる場所の精霊に問いかけ、祈り、教えを乞うた。
だが、それでもやはり、精霊たちの声は聞こえないままで―
いつしか約束の二ヶ月までには、あと半月あまりを残すのみとなっていた。
(さようなこと、いくら神々に問うても無意味よ)
女の、嘲笑を含んだ声がジェロニモを正気に戻す。
(汝の言う鉄と混凝土の道が山や森を滅ぼしたところで、それがいつまで残るというのだ? どうせ百年か二百年が関の山であろうに。人の子にとっては永劫に等しい時かも知れぬが、神々にとっては須臾の間よ。いずれは皆、土に還る。さすればまた、木々や草が芽吹き、また新しき山、幼い森ができるだけのこと。今汝らがどのような決断を下そうと、神々には露ほどの関わりもないわ)
見下げ果てたような女の言葉に、ジェロニモは必死の反論を試みる。
「確かに…そうかもしれん。だが、そんなことを言っているうちに、全ての自然が滅ぼされてしまったらどうするのだ。俺にそれを言う資格はないかもしれんが、今の人間はあまりにも驕り高ぶっている。自然や精霊すらも自らの思いのままになると信じている。そんな人間どもが、もしこれからも好き勝手に振舞い続けたとしたら…」
(そのときは、人の子が滅びるだけよ)
哄笑。甲高い笑い声が鼓膜に突き刺さり、ジェロニモは一瞬、眩暈を覚えた。
(天地の姿が変わり果て、その狭間に生きるものが全て死に絶えたとしても、やがてはその新しき天地に育まれた新しき生命が生まれてくるであろうに。なればまた神々も、その一つ一つに宿るだけのこと。たとえそれが今の汝らには思いもつかぬ異形の世であったとしても、それはただ、相の移ろいに過ぎぬ。森羅万象は常に流転し、あらゆる相を示しながら永遠に存在し続けるもの。今ある相にこだわり、それ以外の相を恐れ、厭い、おぞましいと感じるのは人の子だけぞ)
ジェロニモの肩が、がくりと落ちる。…これが、精霊の答えか。…そうだ…俺はどうして忘れていたのだろう。どのように親しみ、ともに存在していると感じてはいても、人間と精霊とは別の世界、別の次元に住むものなのだ。人間の苦悩を精霊は超越し、精霊の思考は人間の理解の外にある。自分たち人間の悩みや迷いの答えを精霊に求めること自体、精霊の声を聞くものとしての法を越えた行為であったのに。
(所詮、人間の問題には人間自身が答えを出さねばならぬということか)
きっぱりと顔を上げたジェロニモに、女は微笑んだ。今までの嘲笑とは違って温かい、包み込むような笑み。
ジェロニモは女に深々と頭を下げ、そのまま背を向けた。
答えは見つけた。ならば一刻も早く人の世に戻り、それを皆に知らせなければならない。そんな彼を、女が呼び止めた。
(待て。神々からの言づてはもう一つあるぞ)
眉をひそめ、不審そうな顔で振り向くジェロニモ。
(黄金や白銀、赤銅や黒鉄といった金物の中にも、金山毘古神、金山毘売神の二神がおわしますことをご存知か? ならば硝子や混凝土、プラスチックやセラミック等にもまた、それぞれの神々が宿られしこと、何ぞ疑うべきことのあらんや)
何が言いたい? ジェロニモの眉間のしわが、更に深くなる。
女がまた、慈母にも似た微笑を浮かべた。
(汝の内なるもの全てに神がおわし、常に汝とともにある、ということよ。…生命のあるもなきも、全て同じこの天地より生り成りしもの。…汝は紛れもなく、人の子ぞ。神々を敬い、畏れ、常にともに生きる、まことの人の子よ、とな)
雷に打たれたかのように硬直したジェロニモの耳に、忘れていた滝の音が響いた。轟々と周囲をどよもすそれはいつしか女の声をかき消し、濃い霧となって立ち上る水煙がその白い着物も緋色の袴も、輝く黒曜石の瞳をも覆い隠し…
「検査結果は良好ですよ。異常は一切ありません」
気がつけば、目の前には藤蔭医師の姿があって。
「…いつまでもこの状態を保つよう、心がけて下さいね」
あの女と同じ黒い、濡れたような瞳がにっこりと微笑んでいた。