第六章 ピュンマ
最悪の気分だった。
(嫌だな…)
鏡の中で、ピュンマは顔をしかめる。
重く沈んだ色の、艶のない肌。生気のない瞳。不機嫌そうに固く結ばれた口元。正直、こんな状態で医者の前に出るなど真っ平だった。しかし、今更逃げ出すわけにも行かない。ジェロニモが書斎に入って早二時間。…そろそろ、自分の名前が呼ばれる頃だ。
大きなため息を一つついたとき、書斎のドアが開いた。少しぼんやりとした表情のジェロニモが、のそりとその巨体を現す。
「待たせて、悪かった。…ピュンマの番だ」
それだけ言って自室に引き上げていくジェロニモを見送りながら、ピュンマは再び、盛大なため息をついた。
(まあ、いいや。日本人…黄色人種の医者なら、黒人の僕の顔色なんてわかりはしないだろう)
肌の色で医者を…いや、人間を差別する気など毛頭ないが、日本人の医者が普段黒人を診ることなどほとんどないというのは事実だと思う。ピュンマは思い切って、書斎のドアを開けた。
だが。
にこやかに自己紹介を始めたはずの藤蔭医師の顔が、わずかな間に硬く強張っていく。
(しまった…ばれた…か?)
「ピュンマさん?」
厳しい声。ほっそりと華奢な女医の、白くて長い指が、逃げる間もなく黒檀色の腕をつかむ。
「どう…なさったんですか? ひどく、顔色がお悪いですよ。…おかしいな。検査結果はどこにも異常がないはずなのに…いえ、失礼しました。すみませんがちょっと、そこのソファで結構ですから、横になって下さいませんか?」
(嫌だ!)
とっさにその手を振りほどこうとするピュンマ。しかし、藤蔭医師の指はその細さからは想像もつかないほど力が強くて―
(な…何故…だ?)
いつの間にか、全力でもがいていた。なのにこの、白くて細い指が離れない。
(サイボーグである僕の力でも、振りほどけないなんて…!)
「ピュンマさん!」
叱りつけるような藤蔭医師の言葉に、ピュンマがはっと顔を上げる。と、漆黒の、切れ長の瞳が自分のすぐ前にあった。
(あ…あ。彼女の瞳と同じだ。同じ色、同じ光、同じ…強さ…)
(貴方は、異形の身体に温かな…人間の心を持っている男(ひと)。私は…人間の身体に異形の…餓鬼の心を持った女よ! …お願い。私のことは追わないで。もう―忘れて!)
(リタ!!)
記憶の中、幻の中、夢の中。どこでだかわからないが、叫んだのは確かに自分。行ってしまったのは、確かに―リタ。僕の愛した、僕を愛してくれた女…
「へえ…じゃ、貴方の村と私の村って、すぐ近くなんだ。わあ、嬉しい! ご近所様よね!」
初めて会ったとき、そう言って手を叩いて喜んでくれたリタ。僕の国を援助してくれるNGOの主力メンバー。でも、その出身は意外にも、僕の国。それも僕の生まれた村の、すぐ近くで。
僕の村と同様、いや、それ以上に彼女の村は貧しかった。首都からの距離は五百キロ。密林と岩山に囲まれた大地を開墾していくなどそう簡単にできる相談ではなく、その上土壌も農業には向いていないときている。やっとの思いで切り開いたほんの小さな畑には、育つ作物などほとんどない。すくすくと育つのは固い幹に固い葉、そしてその実さえも固い殻に覆われた、桁外れに生命力の強い樹木だけ。それを利用しようとしても、食べるのに精一杯の村人には林業その他の産業を起こすことさえ到底無理な話だった。医者すらもいなかったその僻地にやってきたスペイン出身の赤毛の若い医師と村の娘が恋に落ちて生まれた娘、それがリタ。
リタの母は父を心から愛し、その仕事を手伝いたいと望んだ。リタの父は母を心から愛し、結婚後、彼女を自費で自国の看護大学に留学させた。必死に勉強した母はやがて優秀な看護士として村に戻り、父と二人、やせた大地に立てられた掘っ立て小屋のような診療所で夜も昼もなく、ひたすら病人の看護に立ち働いたという。
当時、僕らの国は内戦の真っ只中で、その上厄介な風土病が蔓延していた。国連を始め、さまざまな組織や世界中の篤志家からは山のような救援物資が届いたけれど、それらはみんな首都宛で―そこにしか空港がなかったんだから仕方がない―内戦によって道路という道路が破壊し尽くされたこの国で、遠く離れた小さな村々にそれらを送るなんて、到底無理な話だった。
結局、溢れんばかりの医薬品や医療器具は首都の倉庫に空しく眠るしかないままに時は過ぎ―リタが三歳になったある日、父がとうとう風土病で倒れ、二日も経たずにこの世を去った。残された母は涙を流す暇もなく、父の遺志を告ぎ―たった一人で診療所を切り盛りし、病人たちの世話をし続けた。その合間合間に、各国の医療機関と無線で連絡を取り、父の代わりの医師の派遣をひたすら要請しながら―
父の死から二年後、遥かな北の国からようやく村にやってきた新しい医師を、リタの母は歓喜の笑みで迎え―駆け寄って、握手をする直前に力尽き、石ころだらけの地面に倒れ伏したまま、二度と起き上がることはなかった。
「母の死に顔は…綺麗だったわ。…至福の微笑ってものがあるとしたら、ああいう表情じゃないかな、って思った。多分、一生…忘れられない。でもね、私にとってもっと印象的だったのはそのときの、新しい先生の言葉だったのよ」
目の前で倒れ、そのまま事切れたリタの母の痩せ細った身体に取りすがり、医師は叫んだ。
(畜生! 俺は…俺はもう、半年も前にこの国に到着していたんだ! なのに…ここへ来るための車が、そのためのガソリンがどうしても手に入らなくて…たった…たった五百キロだったのに! 俺の国からこの国までの距離に比べたら、ほんの目と鼻の先だったのに…!)
あとで聞いた話だが、彼は車とガソリンを手に入れる為に医療器具以外の全ての持ち物を売り払い、首都の暗黒街の頭目にまで掛け合ったらしい。そして、道なき道をたった一人、まさに命がけで走り続けてようやくこの村にたどり着いたのだ。かつての父のように何もかも捨てて、身一つでやってきてくれたその医師の到着が遅れたことを責めることはできないと、わずか五歳でリタはもうわかっていた。
結局彼女はその医師に引き取られ、両親を失った淋しさを埋めて余りある愛情を一身に浴びて育ったのだが。
「それまで私、両親やその先生のような医者か看護士になろうって思っていたのよ。でも、そのときに気づいたの。どんなに優秀で献身的な医者も看護士も、車やガソリン…いえ、道路がなければこの村には来られないってことに。だったら、まずそこから手をつけるべきだと思った。内乱を鎮め、国を建て直し、道路その他の環境を整備して、人も物資も国全体に、平等に行き渡るようにすることのほうが先だって。…でもって、結局この仕事についたわけ」
そう言って、リタは笑った。僕の隣に横たわって。僕のこの、銀の鱗に覆われた腕に抱かれて。
初めて二人が一夜をともにした夜。最初に告白してくれたのはリタの方だった。…それが、僕にとってどんなに嬉しいことだったか。…今でも、あのときの気持ちを言い表すことなんてできやしない。でも、その次に僕がしたことは、彼女を抱き締めることでも、キスをすることでもなかった。
無言のまま、シャツの袖を捲り上げた僕。あらわになった銀色の鱗。口元を手で押さえ、はっと息を呑んだリタ。
「脅かしてごめん…でも…僕も君を本当に愛しているから…全部話しておきたいんだ」
そして僕は、全てを告げた。自分がサイボーグであること、そしてその経緯。それから…かつて僕を愛し、この現実に耐えることができなくて自ら命を絶った少女のこと。
「…君の気持ちはすごく嬉しいし、僕の気持ちにも嘘はない。でも、僕はこんな…」
得体の知れないえずきがこみ上げてきて、一瞬僕は言葉に詰まる。
「化け物…異形の存在だから…」
渇ききった口、強張った舌をようやく動かして、僕は言う。
「君に恐れられ、嫌悪されても文句は言えない。ただ、これだけは真実の気持ちだ。僕を愛していると言ってくれて、ありがとう」
リタは、微動だにしなかった。口元に手を当て、黒い目をこぼれんばかりに見開いて。
「リタ…?」
伸ばそうとした手が止まる。…こんな手に触れられたいと思う女―いや、人間なんて、いるわけがない―。
「少し、外に出てくるよ。帰るんだったら、その間に…鍵は、そのままでいいから」
リタの立つ場所をわざと避け、大きく部屋を回って玄関のドアまで行った僕が、ドアノブに手をかけたそのとき。
不意に、何か温かいものが背中に抱きついてきた。今度は僕が、動きを止める。
「いや…行かないで…どこにも行かないでよ、ピュンマ!」
はっと振り向いた僕の目を、リタの涙をたたえた目がしっかりと見つめていた。
「貴方は、化け物なんかじゃない! 異形でもない…そんな…銀色の身体が何だって言うの!? 貴方なら、そんなことで自分の心をあっさり変えてしまうの? もし、私の身体がこの世で一番醜かったとして…いいえ、もしも貴方よりおぞましい化け物が巣食っていたとして…貴方ならそれでもう、私を愛することをやめてしまうの!?」
そんな言葉より、彼女の目から溢れ出す涙が哀しくて…幼子のように泣きじゃくりながら必死に訴えるその泣き顔を見ているのが苦しくて。
いつしか僕も、しっかりとリタを抱き締め返していた。
「私が愛したのは、貴方の魂…だから貴方も、私の魂を…愛…し…て…」
激しく互いの唇をむさぼりながら、リタがあえぐような声でやっと、それだけ言った。
原則として、僕らの仕事は自分の出身地以外を担当することになっている。故郷への思いいれのあまり、公平な判断を損なってはいけないという執行部の配慮だ。
そのときの僕らも、それぞれ生まれ故郷の村とは遠く離れた別の地域を担当していた。
「じゃ、行ってくるわね。…半月間、会えないのが辛いな」
「僕もだよ」
物資を輸送するためのトラックに乗り込むリタを見送りながらかわす、慌しいキス。それでも君は、輝くような、飛び切りの笑顔を見せてくれる。あれから何度も繰り返した、僕たちだけの内緒の儀式。
だからそのとき、彼女が僕に秘密を持っているなんて、夢にも思っていなかったんだ…。
彼女が出発してから、ちょうど三日後。本部に信じられない連絡が入った。
「何…! 物資の強奪だと!」
無線のレシーバーを耳に当てた地区リーダー、ジェフの叫びに他のメンバーも一斉に振り向く。何やら早口でまくし立てていたジェフが無線を切り、蒼白になった顔を一同に向ける。
「三日前出発した輸送車が、物資ごと奪われた…。しかも、その手引きをしたのがどうやら、リタらしい…」
頭をガン、と殴りつけられたような衝撃に、僕の全身から感覚が消えた。
それからの数日は、まるで夢の中にいるようだった。メンバーの中から急遽選抜された追跡チーム(当然、僕は外された)によってすぐさま発見されたトラックは、道路も標識もない密林と岩山の間で半日間カーチェイスを行った挙句、ガソリン切れであっさりと捕獲されてしまった。強奪犯は全員、暫定政府の司法機関に引き渡され…ただリタだけがひっそりと本部に連行されてきたらしいが、彼女に会うことなど、到底不可能だった。
そして、事件発生から五日後。僕はジェフに呼ばれた。
「…リタが、全部認めたよ」
気のいいカナダ人の頬はげっそりとこけ、金色の無精ひげが青白い肌にもやもやと張りついている。
「故郷の村に、少しでもたくさんの物資を送りたかったんだそうだ。だから、積荷の四分の一の分け前を条件に、強奪犯たちの誘いに乗ってしまった、と…」
声もなく立ちすくむだけの僕に、ジェフも泣きそうな目を向ける。
「どれほど大量な物資が送られてきたところで、この国全土に分配すれば、それぞれの取り分なんぞほんのわずかになっちまう。…リタの村ではまた例の風土病が発生したらしくて、正規の支援物資なんぞ焼け石に水もいいところだったそうだ。…あの病気は、彼女にとってはトラウマだからな。きっと、発作的にあんな行動を取ったんだろう」
僕は、何て返事をしていいかわからない。
「結果的には、物資も全て取り返したし…俺としてはこのまま内密に済ませたい。俺のメンツとか、そんなんじゃないんだ。彼女を…リタをこの組織から、失いたくない。…だからピュンマ。お前が、彼女を説得してくれないか。彼女…責任を取って辞めるって言って…聞かないんだ」
ジェフのすがるような目に、僕はわけもわからずうなづいていた。でも、その翌日彼女に会ったとき。僕はまだ、彼女にかける言葉を見つけられないままでいた。
僕の顔を見た、刹那のリタの表情を僕は忘れられない。羞恥と後悔と苦悩と…何よりもきっぱりとしていた、別れの意思。
「貴方は、異形の身体に温かな…人間の心を持っている男(ひと)。私は…人間の身体に異形の…餓鬼の心を持った女よ! …お願い。私のことは追わないで。もう―忘れて!」
そして結局、僕はリタを引き止めることができなかった。
どうして…どうして僕はあのとき、彼女を抱きしめてやれなかったんだろう。
彼女は、こんな僕を愛してくれたというのに。
彼女がたとえ何をしようと、僕が許せないはずなど…なかったのに。
真っ暗闇の中、一人膝を抱えて縮こまりながら、僕はただ、この闇に溶けて消えてしまいたいと、それだけを必死に神に祈っていた。
彼女を抱きしめられなかった自分が悔しい。
彼女に「許す」と言ってやれなかった自分が恥ずかしい。
僕はなんて狭量な、情けない男なんだろう…もう…死んでしまいたいよ…
(お前は理想家だからな。…そういうこともあるだろうさ)
不意に、肩に置かれた温かい手。優しい声。…ジェフ?
(わかってるよ。お前はとっくに彼女を許してるんだろう? 許せなかったのは、あのときその気持ちを言葉に出せなかった、お前自身なんだろう?)
顔を上げた僕に、ジェフがふ…っと笑いかけた。
(人間って奴はどうしようもねぇよなあ。どんなに立派な理想を持ってたって、絶対にそれに追いつけない。毎日莫迦やって、迷惑かけ合って、そして、許し合う。そんなことばっかやってる間に人生終っちまうんだ)
俺なんか、今まで何回ドジ踏んだかわかんないぜ、と頭をかいたカナダ人。
(でもさ…それでいいじゃないか。どうせ、人間なんてその程度のモンなんだからさ。どんな莫迦やったって、相手のミスを許してやることができれば、それで充分なんだと思うよ。…理想なんて、人間がこれ以上阿呆にならないための命綱みたいなもんだ。だから、絶対手放しちゃいけない。だけど、それに追いつけないからといってあんまり自分を責めるのはよせ)
そう言いながら、彼の姿はどんどん遠くなっていく。
(間違えた、と思ったらまたやり直しゃいいんだよ。今からでも遅くない。彼女を追いかけてその過ちを許し、自分の過ちも許してもらえばいいんだ。…できない、なんて言わねえよな。…彼女もお前も、立派な、人間なんだから)
「ジェフッ!」
叫んで飛び起きたのは、ギルモア邸の書斎のソファの上。傍らには、心配そうな顔の藤蔭医師が座っていた。きょとんとして周囲を見回す僕に、女医は少し怒ったような口調で。
「もう…あまりびっくりさせないで下さいな。私…心臓が止まるかと思ったんですよ。今、石原先生にもお電話しちゃったところなんですから」
そう言ってため息をついた女医の顔は、次の瞬間、リタそっくりの笑顔になった。
「でも、異常なし、間違いないって言われました。だから…許してあげましょうね」
リビングのテーブルにメモ用紙を広げ、何やら書き込んでいたアルベルトが不審げな表情で顔を上げた。
「おい、ピュンマ。チケット、本当にこれでいいのか? 成田―フランクフルト―ウフル…ウフルって言ったらムアンバの隣の国じゃないか」
例の健康診断が終ってから程なくしてアルベルトとジェロニモ、そしてピュンマの三人は帰国の決意を固めた。だったら航空券はまとめて予約してしまおうということになり、アルベルトが他の二人の分のチケットも取りまとめて旅行会社に頼むことを引き受けたのだが―。
「あ、いいんだよ、それで。世話をかけて悪いけど、よろしく」
屈託なく応えるピュンマに、アルベルトはまだ首をかしげている。
「…寄り道か。お前さんにしちゃ珍しいな」
「まあ、ね」
どこか嬉しそうな、そして少々照れくさそうな様子で、ピュンマは言葉を続けた。
「行きたいのはムアンバの国内なんだよ。でも国境近くの村だから、ウフルから陸路を使った方が断然早いし、安全なんだ。ムアンバは結構広い国だし、首都が少し東に片寄ってるからね。そっちからだと国をほぼ横断しないといけなくなっちゃうから…」
その黒檀色の頬がわずかに紅潮している。普段はポーカーフェイスを決め込むことも多いピュンマだが、意外とその喜怒哀楽は表情に出やすい。
(ホウ…これはこれは)
何かピンとくるものがあったのか、アルベルトはそれ以上ピュンマを問い詰めることはせず、さり気なく話題を変えた。
「しかし、俺たち三人がいっぺんに国に帰ったらこのギルモア邸も少々淋しくなっちまうな。まあ、あの赤毛の鳥頭はまだしばらく日本にいるつもりらしいが」
「ジェットが残るんなら淋しいどころじゃないんじゃないか? それに、僕たちだってまたすぐにここに戻ってくるさ。何てったって、ここは僕たちみんなの『家』なんだから」
「それもそうだ」
言いながらメモを書き上げ、もう一度ざっと目を通してアルベルトは立ち上がる。
「しかし、年がら年中同じメンツというのも淋しいことには違いないさ。…誰かが彼女の一人でも連れてきてくれたら、それだけで家の雰囲気がぱぁっと明るくなるんだがな」
「え…? アルベルト、それってどういう意味…」
追いかけてくるピュンマの言葉は完全に無視してアルベルトはリビングを出た。一人残されたピュンマが今度こそ顔を真っ赤にしているだろうことは、振り向かなくても容易に想像がつく。
(たまには年齢相応に戸惑った顔を見せるってのもご愛嬌だぜ)
ささやかな優しい意地悪が思った以上に効果を挙げたのに満足して、アルベルトは受話器を取り上げる。やがて、面白そうに両端をつり上げた唇から、三人分のチケットを申し込む言葉がなめらかに滑り出てきた。