第四章 夢の迷い路


 午後十時。リビングに戻ってきたフランソワーズに気づいたジョーの口元がほころぶ。
「お疲れ様。…で、藤蔭先生は?」
 返ってきたのは、小さなため息。フランソワーズはいささか困ったような顔で、ぽふ…っと小さな音とともにジョーの隣にぐったりと腰を下ろした。
「…みんな、断られちゃったの。寝室の用意も、お風呂も。予定外の客なんだから構わなくていいって。眠るのは書斎のソファでいいし、その前にシャワーが浴びられれば充分だっておっしゃって…結局、私がやったのは御客様用の掛け布団を書斎に運んで、シャワーの使い方を説明しただけよ。遠慮…なさっているのかしら」
「食事のあとも、すぐに書斎にこもっちゃったしね」
「『片づけ手伝いましょうか』とは訊いて下さったのよ。でも、まさかお客様にそんなことさせられないでしょう? …そう言ったらすぐに部屋に戻られちゃって…気を悪くされたのかしら。私、精一杯丁寧に話したつもりだったんだけど」
「女の人だから、君にあんまり負担をかけないよう気を遣ってくれているんだよ」
「だといいけど…ところでジョー、他のみんなは? 休むにはまだ、早いんじゃない?」
「うん…それがね。張大人とグレートとアルベルトが、なんだかえらく考え込んでるみたいで、近寄りがたい雰囲気だったんだよ。で、僕たちも何となく黙り込んじゃってさ。三人はさっさと部屋に引き上げたんだけど、そのあともどこか、気まずくて…結局みんな、逃げ出しちゃった」
 フランソワーズが、はっとした表情になる。
「え…? それじゃ貴方、ずっとここに一人で…待っていてくれたの?」
「まあ、ね…。君が戻ってきたとき、誰もいなかったら淋しいんじゃないかと思って」
 照れくさそうに頭をかいたジョーの隣、フランソワーズの顔がぱっと輝いた。今までの表情はどこへやら、なめらかな頬はうっすらと紅く色づきさえして。
「でもこれで安心した。…さあ、僕たちも今夜は早く休もうよ。明日もまた、あるんだろう? 健康診断の…」
「結果説明、ね」
 顔を見合わせてくすりと笑った二人は、そのまま一緒に立ち上がり、連れ立って二階へと上がって行った。それぞれの部屋に入る前にもう一度軽く微笑み合い、挨拶を交わす。
「お休み、フランソワーズ」
「お休みなさい、ジョー。…よい夢を」

 「よい夢を」といくら言ったところで、悪夢が訪れないという保証にはならない。夜のしじまに巣食う夢魔は知らないうちに人の心に忍び込み、恐怖、悔恨、苦悩、嫉妬…あらゆる闇模様に彩られた万華鏡を回し出す。
 最悪なのは、二度と思い出したくない過去がそこに映し出されたときだ。そして今夜は、ジョーにとっては運悪く、その最悪の夜に当たってしまったらしい。

「てめぇっ!」
「チビのくせしてナメんじゃねぇぞ!」
「ぶっ殺してやる!」
 深紅の夕焼け。半ばゴミ捨て場と化した廃工場の跡地。響き合う怒声。自分より頭一つは大きな高校生の集団に取り囲まれ、まだやっと中学二年になったばかりのジョーは、たった一人で戦っていた。初めての乱闘。
 到底、勝ち目なんかないと思う。しかし、何もしないで袋叩きに遭うのだけは真っ平だった。素早く敵を見回し、中でも一番身体の小さい相手に殴りかかる。だが、そいつの顔に叩き込むはずだった拳はあえなくかわされ、かわりに相手の蹴りがもろに鳩尾に食い込んだ。
「ぐ…うっ」
 呻き声。酸っぱい胃液が口の中に逆流してくる。しかしジョーは崩れかかった体勢を何とか立て直し、今度は逆を突いて一番でかい奴の懐に飛び込んだ。思い切り曲げた膝を一気に伸ばしざま、拳を真っ直ぐに突き上げる。今度のパンチは見事に相手の顎に炸裂し、悲鳴と血飛沫が飛び散った。
「この野郎…っ!」
 相手方の表情が殺気立つ。どうやら、敵を本気で怒らせてしまったらしい。
「バカ。中坊相手に何熱くなってんだよ」
 少し離れて、崩れかかった塀にもたれている頭らしい奴がぼそりと言うのが聞こえる。
「殺しちまったらいくら俺ら未成年でもケーサツ行きだぞ。ちったあ考えろ」
 だが、完全に激昂しきった手下どもは聞く耳を持たない。
「やれやれ…」
 と、頭が肩をすくめたとき。
「そんな顔するんなら、てめぇが止めろよ。…あいつらがハコ(少年院)送りになっちまったら、あんただって困るんだろうが」
 にきびだらけのその頬に、ひんやりと冷たい何かが当たった。
 はっとした頭が身構えるより早く。
「おい、てめえら! さっさとそのガキ放しな! さもなきゃ大事な頭のほっぺた、永遠のスダレ模様にしてやるよ!」
 いつの間にか頭の両手をしっかりと押さえ込み、その顔に鈍く光るカミソリをぴったりと当てていたのは、紺のブレザーにジャンパースカート、背中までかかる漆黒の長い髪の…女子高生だった。
 そこにいた全員の動きが止まる。
「聞こえなかったのかよ!」
 少女の指にぐっと力が入る。頭の身体ががくがくと震えだした。
「や…やめろっ! そのガキ、放せ!」
「放すだけじゃない、さっさと消えな! このカミソリは二枚刃だぜ。頭のツラに、一生消えない傷がつくよ!」
「だ…だめだ、言うとおりにしろっ! …頼むっ!!」
 少女の凛とした声と、頭の情けない悲鳴が奇妙な二重唱となって。
 気がついたときには二人きりになっていた。というより、散々殴られて地面に倒れているジョーを、少女が立ったまま見下ろしていた、といった方が正しい。
「…おい、ガキ。立てるか」
 叩きのめされ、身動き一つに悲鳴を上げる身体を何とか動かし、上半身だけを持ち上げたジョーの茶色の瞳を、少女の黒い、切れ長の瞳がしっかりと受け止めた。

 そして。
 いつの間にか二人はさっきまで敵の頭が寄りかかっていた塀の前に並んで腰を下ろしていた。
「…吸うか?」
 いきなり差し出された煙草。ジョーの目が点になる。
「え…でも俺…まだ中学生だし、もし見つかったら…」
 途端に少女が、大きな声で笑った。
「ばーか。あんな暴力沙汰起こしといて、今更何言ってんだよ」
「いつもやってるわけじゃない!」
 言ってからしまったと思ったが、もう遅い。少女のふっくらとした唇の端が、面白そうにつり上がった。
「へえ…もしかして、初めての喧嘩か? にしちゃあ、度胸あるな。あんなでかブツども相手に選ぶなんてさ。ま、そんなこたどうでもいいや。吸わねえのか? …大丈夫だよ、あたしといれば。絶対に、見つからないから」
 つい正直に答えてしまったおかげで莫迦にされたようなのが悔しくて、ジョーは目の前の箱から一本取り出そうとした。子ども扱いなんて、されたくない。が…
「痛ゥッ!」
 突然、親指に走った鈍い痛み。反射的に引っ込めようとした手を、少女の白くて細い指がさっと捕まえ、しげしげと眺める。
「あ…あ、なるほどね。…お前な、殴り合いするときに親指握りこむバカがどこにいるんだよ。下手すりゃ親指折れるぞ。拳の握り方ってのははこうやってな…」
 言いながら、手を取って握り方を教えてくれる。いつしかすっかり宵闇の紺に染められた空の下、かすかな残照に照らされたその横顔を、ジョーはただ呆然と見詰めていた。
 言葉遣いは、恐ろしく悪い。東京でも特に柄の悪い地域として知られているこの辺りの不良に勝るとも劣らないほど。だが―漆黒の長くて真っ直ぐな髪と、同じ色をした切れ長の大きな瞳。透けるように白い肌や整った顔立ちは、名匠が丹精込めて作り上げた日本人形のように清楚で美しく、匂い立つような…品がある。
 「親指は外。他の四本の第一関節と第二関節の間にそって、ぴったりくっつけて…で、この面で殴る」
 ジョーの想いになどお構いなく、少女はその手の中で握らせた拳の、四本の指の根元と第二関節とで作られた面を自分の掌に押しつけた。
「喧嘩の基本だぜ。覚えときな」
 言い捨てると同時に、かちりと小さな音。一瞬、明るくなった周囲。
「…とは言っても中坊じゃ、まだ力も弱いんだろうしな。あたしみたいに隠し武器でも持つか? これはこれで、練習が必要だけどさ」
 口から煙を吐き出しながら取り出したのは、二枚のカミソリ。間に十円玉が挟まれていて、ずれないように両面テープで止めてある。ジョーは、目を丸くした。…いつの時代の不良だ。いまどき、スケ番なんか流行らないぞ。
 そんなジョーの表情に気づいたのか、少女はかすかに笑った。
「古すぎるって言いたそうだな。でもな、古きよき匠の技ってのは、あたしら現役が伝承してかなきゃならねえもんだろうが」
 それもちょっと、違うと思う…。ますます怪訝そうな顔になったジョーを見て、少女は再び、声を上げて笑った。
「もっとも、もうこんなのほとんど売ってないけどな。最近じゃみんなプラスチックのカバーがついたカートリッジ式になっちまった。ま、あと二年半店に並んでりゃ、それでいいけどさ」
「二年半…?」
「あたしの高三の夏休みが終わるまでってこと。こーゆーのはクラブ活動と一緒でな、高三の夏が終わったらそろそろ引退、って相場が決まってるんだよ」
 吸い終わった煙草を塀に押しつけて、火が消えたところでぽい、と投げ捨てながら少女は立ち上がった。
「でもお前はまだまだ、これからだろ。高校出るまでずっとこの手のセーシュン送りたかったら、もっと強くなんな。それから、もっとマシなダチを作るんだ。見てたんだぜ。最初に絡まれたのはお前じゃなくて、一緒にいた仲間だったんだろ? なのに他の連中はみんなさっさとズラかりやがって、仲間をかばい続けたお前だけが残った。そんな、仁義のカケラもねえ奴らとつるむくらいなら、一人でいろ。…でないと、ガキんちょのうちに命日が来ちまうぜ。…じゃあな」
 そのままくるりと背を向け、立ち去ろうとした背中に。
「待てよ!」
 ジョーの、鋭い声が飛んだ。「マシなダチを作れ」。それは多分…、いや、絶対的な正論。
だけど―
「偉そうに、説教なんかたれるな! 高校生ったってまだ一年坊主なんだろうが! 大人ぶって威張りくさるんじゃねえ! 第一、あんたみたいなお姫様に、俺の何がわかるって言うんだ!」
「お姫様…?」
 振り返って首をかしげた肩口から、絹糸のような髪がさらりとこぼれる。
「その制服…知ってるぞ。秀桜学園…山の手の、超お嬢様学校じゃないか。そんなとこ通ってる奴に、俺の気持ちがわかるもんか! 俺みたいな…」
 孤児、と続ける勇気はさすがに出なくてジョーは口ごもる。こんなお姫様にそんなことがわかったら、きっと…
「セーフク一つで、そんなこと決めつけんじゃねえよ!」
 一瞬の躊躇いと弱気は、鞭のような一喝に砕け散った。
「呼びたきゃ勝手に呼びやがれ。でもな、お姫さまにだっていろいろあるんだよ。白雪姫みたいな正統派から、シンデレラみたいなたたき上げ、乙姫みたいな性悪までな! …そっちこそ、何もわかんねえガキのくせにでけえ口叩くんじゃねえ!」
 あまりの気迫とその内容に、ジョーは返す言葉が見つからなかった。声もなく立ちすくむ少年になど目もくれず、今度こそ少女は宵闇の中に消えていこうとする。
 言い負かされたままで終わらせたくないという気持ちの中に、ほんの少し―まだ別れたくないという思いが混じって。
「だ…だったらあんたは、どんなお姫様なんだよ!」
 必死に考えて、やっとそれだけ叫んだ。半ば闇に溶けかけていたシルエットが立ち止まり、ふと振り返った気配がする。
「『天守物語』の富姫ってとこかな…泉鏡花だよ。これ以上知りたきゃ、自分で調べろ、ガキ!」
 しばらくの間を置いてこんな声が、風に乗って返ってきたのが夢の終わりだった。

 朝日が。
 カーテンの細い隙間から。
 そっと差し込んできて悪夢を溶かす。
 頬に当たる光の温かさに目を覚ましたジョーに、夢の記憶はなかった。
 ただ。
 いくつかの言葉の欠片が、澱のように頭の中にこびりついている。
(お姫様…富姫…天守物語…泉鏡花…)
 最後の名前だけは聞いたことがある。明治時代の、有名な小説家。…だが、どうしてそんな名前を急に思い出したのだろう。
「ジョー、起きてる? そろそろ、朝ご飯よ」
 軽いノックとともに、ドアの向こうからフランソワーズの声が聞こえた。
「うん、わかった。すぐに行くよ」
 そう答えてベッドを抜け出し、普段着に着替えながらもなお、ジョーはずっと首をかしげ続けていた。

 


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