くそじじい 4


 だが、たとい町中の大人たちににガキ扱いされようと御仏に門前払いを食わされようと。
 幸いにして若先生がぶち当たった天災、すなわち魚辰の爺さんの昔話攻撃は一か月足らずで収まった。さすがの爺さんといえども、子供の頃から極めて品行方正な優等生だった若先生に関してはそうそうツッコむネタを持っていなかったのかもしれない。とはいえ裏を返せば、そんな優等生を相手にしてさえ週二回の往診×一か月足らずすなわち約四週間弱の間、毎回毎回違う悪事をバラかし続けたこの爺さん、やはり只者ではないと言うべきか。
 それに昔話攻撃が収まったとて、若先生の苦難そのものまで終わりを告げたわけではない。むしろそんなモノはまだまだ序盤戦の小手調べ、ちょっとした座興程度にしか過ぎないということを、この不幸な青年医師はそれからすぐに思い知らされる羽目になるのであった。

 現在爺さんは富岡家の一階、庭に面した日当たりのいい和室で寝たり起きたりの生活を送っている。病後の年寄りが養生するには文句なしの環境ではあるものの、何しろ脳梗塞の後遺症もあることだし、正直若先生としては布団よりも介護用ベッドの方がより爺さんの負担を軽減できるのではないかと助言したいところ、しかしそんな本音などたとい口が裂けても絶対に言えるものではなかった。…というのも。
 布団よりもベッド、そう考えたのは爺さんの息子夫婦、勝っちゃんおじさんとスミ子おばさんも同じだった。ところがいざその話をしてみれば、当の爺さんが頑として首を縦に振らない。そこで、もしかしたらベッドの重さで畳が傷むのを気にしているのかと考えた勝っちゃんおじさんが「カーペット敷くから大丈夫だよ」と言葉を添えた瞬間、とんでもない怒鳴り声が返ってきたのだそうで。
(オイコラ勝治! てめぇ俺をそんな西洋かぶれの部屋に寝かせる気か!? 憚りながらこちとられっきとした江戸っ子、べっどだのかあぺっとだのなんてぇトコで暮らしたひにゃ体中にカビが生えちまわぁ! 第一日本にゃ「寝台」「絨毯」てな言葉がちゃんとあるんでぇ! 何でもかんでも横文字使う前ぇに、そのクサレ頭で小学校一年生からもっぺん勉強しなおしてきやがれこのバカ息子!)
 途端今度は勝っちゃんおじさんがぶちキレ、あわやつかみ合いの大喧嘩になるところを、一緒にいたスミ子おばさんと隆志が飛びつかんばかりにして押し止めたのだという…。
「…まったくねぇ、うちの父ちゃんもいい年して病人相手に大人気ない」
 母親の紀代医師相手にスミ子おばさんがそうこぼしているのを耳にしたときの若先生はまだ研修医だったが、どっちかといえば勝っちゃんおじさんの方に海よりも深く同情したものである。他にもその手の話はあちこちから耳にタコができるくらい聞き及んでいたから、若先生自身も爺さんの前では言葉遣いから立ち居振る舞いに至るまで細心の注意を払うよう心がけていた。加えてこれもある意味「災い転じて福となす」というヤツか、初めて爺さん宅―富岡家を訪れた際の思いがけない先制攻撃及びアクシデントのおかげですっかり萎縮してしまった若先生、それから半月ほどは往診に行ってもろくろく喋ることさえできなかったせいで、特に目立った失敗もせずに済んだのだが―。
 仕事でも勉強でもスポーツでも、「ようやく慣れてきた頃が一番ミスをしやすい」というのは古今東西共通の真理、そしてその危険因子は大抵、思いもかけないところに転がっているというのもこれまた普遍の事実だったりするのだった。
 四度目、いや五度目の往診のときだっただろうか。かつての緊張もいくらか解けたか、爺さんの昔話攻撃にも大分慣れてさほどの動揺もなく聞き流し、何とか普通に喋れるようにもなった若先生が、挨拶のあと聴診器を取り出して何の気なしに。
「それじゃこれから聴診器を当てますので、畏れ入りますが寝間着の前を開けていただけますか、辰五郎さん」
 そう言った途端、爺さんの雷が落ちた。
「コラてめェ! まだまだ鼻ったれのガキのくせして何生意気な口聞きゃぁがる! 憚りながらおいらァまだ、おめぇなんぞに馴れ馴れしく名前で呼ばれるほど落ちぶれちゃいねぇんだ! ガキはガキらしく素直に『爺ちゃん』と呼びゃぁがれ!」
「はっ、はいっ! 爺ちゃん、ごめんなさいっ!!」
 瞬間、怒鳴られた言葉の意味を理解するよりも早くその場で土下座した若先生。が、畳に額をこすりつけた後でふと気づく。
(あれ…? ちょっと待てよ? 確か僕の経験上、大抵のお年寄りは他人から無闇に「お爺ちゃん」「お婆ちゃん」なんて呼ばれることの方をよっぽど嫌がってたような気が…)
 しかしこの爺さんの怒声を耳にしたが最後、頭よりも先に体と口が反応して即座に謝ってしまうのは過去二十数年かけてこの身に叩き込まれた立派な条件反射、こうなったらもう医者の威厳もへったくれもあったものではない。
 と―。
「まぁまぁお爺ちゃん、落ち着いて。ヒデ坊だって決して悪気があったわけじゃないんですから。最近のお年寄りは『お爺ちゃん』だの『お婆ちゃん』だのって呼ばれるとかえってヘソ曲げちまったりしますからねぇ…この子だって何かと苦労してるんですよきっと」
 まさしく地獄に仏の蜘蛛の糸とでも言うべき助け舟を出してくれたのは、診察結果その他の注意事項を聞くために店を抜け出して同席していたスミ子おばさんだった。
「でもよぉおスミ、おいらァコイツがまだオムツ当ててた頃から知ってんだぜ? いくら大っきくなって医者になったからってそんなガキにだなァ、いきなり他人行儀に『辰五郎さん』呼ばわりされるなんざ、あんまり情けなかねぇか、オイ」
 さしもの爺さんも、四十年近く同じ屋根の下で暮らしてきた嫁―スミ子おばさんに対してはどことなく甘えるような口調になる。そんな爺さんに、おばさんはうん、うんと優しくうなづきかけて。
「そうですねぇ、そりゃ確かにちょいと淋しいモンですよねぇ…。だけどヒデ坊は小さな頃からそりゃぁいい子のお利口さんですもの、お爺ちゃんが『嫌だ』って言えばもう二度とそんな呼び方はしませんよ。…ねぇヒデ坊―じゃなかった、若先生?」
「はいっ! それはもう、決してっ!!」
「ほらね。だからお爺ちゃんもご機嫌直しておあげなさいな。あンましかっからかっからしてるとまた血圧が上がっちまいますよ」
「…ふ…ふん! おスミがそう言うんじゃ…仕方ねぇな」
 どうやら爺さんも、これ以上医者の前での嫁いびり…じゃない、嫁の前での医者いびりを続けるのは得策ではないと判断したらしく、不承不承にではあるがうなづいてくれた。
 このときの若先生が、スミ子おばさんの背後に燦然と輝く後光を見たのは言うまでもない。しかし今日の若先生は完全に運だのツキだのというモノから見放されていたらしく…。
 聴診器による診察の次は血圧と、診療鞄から血圧計を取り出したとき、玄関先から高らかな呼び鈴の音が響いてきた。
「あら誰だろ。…すみません、ちょっと失礼しますね」
 おばさんが席を立った途端、爺さんの目がきらりと光った。しかし測定準備にすっかり気を取られた若先生は気づかない。「じゃぁ計りますよ〜。力を抜いて、楽にして下さいね」などと声をかけつつ爺さんの腕にマンシェット(別名カフ。測定用バンド)を巻きつけ、先程の聴診器を上腕動脈に当てて脈拍を確認、続いて片手に握った加圧用ゴム球をぱふぱふぱふ…このあたりはさすが手慣れたもの、流れるような動作であった…のだが。
 ふと、爺さんの腕にわずかな力が入ったような気がした。
「あれ? 爺ちゃん、変に力なんか入れたら数値が狂っちゃうよぉ」
 軽く注意をしながらも、血圧計の目盛と聴診器に響く脈拍に神経を集中していた若先生の目が、次の瞬間こぼれ落ちんばかりに見開かれる。
「う…げぇっ!! 最高血圧一九一の最低一四六…!? んなバカなっ!!」
 そればかりか聴診器から聞こえる脈拍までいつしかふっつりと途絶え、顔を真っ赤に染めた爺さんが目を閉じたままぴくりとも動かなくなってしまったではないか。
(ヤベぇっ! 発作か!?)
 慌ててその鼻先に手をかざせば、呼吸までもがも止まっている。まさか…心肺停止状態?
 一瞬頭の中が真っ白になったにもかかわらず、若先生はすぐさま行動開始していた。爺さんの腕からマンシェットを引っぺがし、その頭が乗っているそば殻枕を心もち背中の方へ押し込んで首をのけぞらせ、気道確保完了…このへんでようやく思考が追いついてくる。
(脳梗塞の発作、それも心肺停止となれば一刻も早く救急車で病院に搬送しなくちゃいけないけど…心音、呼吸が止まったのはわずか数秒前、だったらこっちの方が先だ!)
 そう思ったときにはすでに人工呼吸の準備も完了、たった今気道確保したばかりの爺さんの鼻をつまみ、吹き込む空気が漏れないよう口の周囲を手で覆いながら自分の口を近づけて、いざマウス・トゥ・マウスで息を吹き込もうとした刹那。
「ぶはぁぁぁ〜っ! バカヤロてめぇ! ンな、鼻も口も塞いじまったら息ができねぇじゃねぇか! その前ぇは人の首、へし折れるくれぇのけぞらせやがって、医者のくせして患者殺す気かこのスットコドッコイ!」
 何とたった今まで心臓も呼吸も止まっていたはずの爺さんが、自由になる右腕で懸命に体を起こし、肩でぜぇぜぇ息をつきながら怒鳴り散らしたからたまらない。
「じ、爺ちゃん…?」
 今度は危うくこっちの方が心肺停止寸前、その場にへたり込んだ若先生はそれっきり、声を上げることもできなかった。
「…ったく、いくら新米だからってなァ、この程度の細工に気がつかなくてどうすんでぇ! お前の母ちゃん…紀代先生なんざ、俺が腕に力入れた途端に見破ったぞ。いい加減こっちのからかい甲斐にも限度ってモンがあらァ、ちっとは母ちゃんの爪の垢でもいただいて精進しやがれこのヒヨッコ医者!」
 言いたい放題まくしたてられているうちに、ようやく若先生にもことの真相が見えてくる。
「じゃ…じゃぁ爺ちゃん、もしかしてずっと…息止めて力んでた…?」
「おうさ。ついでに腋の下にもコレ挟んでな」
 ぽん、と布団の上に放り投げられたのは、横半分に切って二枚重ねに貼り合わせたカマボコ板。
(バルサルバ効果かよ…)
 息を止めて力むと交感神経が刺激され、直腸筋や腹筋、あるいは唇や声帯などの筋肉が緊張して通常以上の力を出すことができたり、心拍数の増加や末梢神経の緊張等も引き起こされて血圧が上昇したりする。この現象をバルサルバ効果というのだが、通常以上の力はともかく血圧上昇の方は高齢者や循環器系疾患の患者にとってははなはだ危険、ときには命取りになる恐れもあるのだ。まぁ、それに比べれば腋の下にカマボコ板―異物を挟むのはただ単に血流が滞って血管の脈動が末端部分に伝わらなくなるだけ、ごく短時間であれば副作用もせいぜいちょっぴり腕が痺れる程度であろう分はるかにマシ、いや安全だろうけれど。…じゃ、なくて。
(いくら何でも医者からかうために命懸ける患者なんざいねーだろフツゥゥゥゥ〜ッ!!)
 若先生の脳裏で魂の絶叫が爆発した刹那、襖が開いてスミ子おばさんが戻ってきた。
「まぁまぁ、申し訳ありませんでした。回覧板のついでにちょいと、町内会でやってる不用品回収について訊かれちゃって…って、どうかなすったんですか!?」
 いまだ声を失ったままへたり込んでいる若先生と、顔を真っ赤にして荒い息をついている爺さんを前にしては、おばさんの血相が変わったのも仕方なかろう。しかし…。
「あ、いえ何でもありません。…じゃぁお爺ちゃん、最後にもう一度血圧を…今日の診察はこれで終わりですからね」
 何とかその場を取り繕い、爺さんの呼吸が落ち着くのを待ってもう一度血圧を測り直してみれば今度は全くの正常値、そこでようやくほっと息をついた若先生がどうにかこうにか無事本日の診察を終えた後。
「ネェ若先生…ここだけの話、さっきお爺ちゃん何かやらかしたでしょ?」
 爺さんの部屋を後にした若先生に、見送りだといってついてきたスミ子おばさんがそっと耳打ちした。
「えっ、そんな…とんでもないっ! 爺ちゃん、ずっとおとなしくしててくれましたよ」
 だがおばさんには何もかもお見通しのようである。
「嘘おっしゃい。何せウチのお爺ちゃんときたら先生のお母様…紀代先生にもしょっちゅう悪戯を仕掛けてましたからね、こっちだってすぐわかるんですよ。本当に、先生方には申し訳ない限りで…あの、せめてものお詫びといっちゃぁ何ンですが、ちょっとお茶でも召し上がっていきませんか? 今日は義母の月命日だもんで、好物だった『おぎ野』の栗まんじゅうをたんと買ってきたんですよ。若先生も、お好きだったでしょ?」
 とか何とか、半ば強引に茶の間に招き入れられ、いそいそとお茶の支度などされてはとても逆らうことなどできない。
「じゃぁ、折角ですから僕もお婆ちゃんにご挨拶を…お線香、上げてもいいですか?」
「ええ、もちろん! …そういう優しいところは昔の『ヒデ坊』のまんまですねぇ。仏様もきっと大喜びですよォ」
 言いつつそっと目頭を押さえたおばさんに一礼し、茶の間に続いた奥の部屋に鎮座ましましている仏壇の前に座った若先生だったが―。
(あれ…?)
 仏壇の中には写真立てに入った遺影が二枚。うち一枚は若先生もよく知っているぎん婆ちゃん―十年ほど前に亡くなった、爺さんのおかみさん―なのだけれどももう一枚、すでに半分セピア色になっている二十代半ばの女性にはまるっきり見覚えがない。随分と古そうな写真だし、もしかしたら爺さんの姉妹だろうか…にしては、顔が全然似てないような。
 そんな困惑を目敏く見て取ったか、再びスミ子おばさんの声が響く。
「あァ…そっちの若い人はうちの亭主の産みの母親でお園さんっていうんですが、気の毒に終戦直後―亭主がまだ二つか三つの頃に亡くなったんです。いえ実は、ぎん婆ちゃんは後妻さんでしてねぇ。確かその四、五年あとに爺ちゃんと一緒になって、それからは実の子同様に亭主を育ててくれたばかりか、ことあるごとに『産みのおっ母さんを忘れちゃいけないよ、大事にご供養するんだよ』って…。だからあたしも、この家のおっ母さんは二人いるんだって思って…それぞれのご命日には必ずその好物をお供えしてるんですよ。で、今日はお園『婆ちゃん』が大好きだった栗まんじゅう。ぎん婆ちゃんの方は月末だから、悪いけどもう少し待ってとくれね。ご命日にはちゃんと好物お供えするからね…」
 最後は遺影に向かって、まるで生きている人間相手のように語りかけるおばさんの姿に、若先生もどことなくしんみりした気分になる。
「そうだったんですか…全然知りませんでした」
「そりゃァ、昔遊びに来てた頃の若先生、いえヒデ坊はまだ子供だったから…こんな『大人の事情』なんぞわざわざ話すこっちゃありませんよォ」
「それもそうだ」
 そこでおばさんと笑い合い、線香を上げて丁寧に手を合わせた若先生だったが。
「でもま、あたしが言うのも何ですけど、どっちの婆ちゃんもかなりの別嬪さんでしょう? こんな器量よしを二人も嫁にもらえたんだ、うちの爺ちゃんもあれで昔はかなりいい男だったのかもしれませんねぇ」
 ほんのちょっぴり自慢げな、おばさんのこの一言を聞いた瞬間だけはさすがにその顔が引きつるのをどうしようもなくて―。
 そりゃまぁ、確かに仏壇の中の婆ちゃん二人は美人だった。若くして亡くなったお園「婆ちゃん」はいかにも清楚で優しげで、例えるならば百合の花のような女(ひと)だし、一方すっかり年老いたぎん婆ちゃんの写真にだって、昔日の華やかな美貌の名残がまだありありと残っている。お園「婆ちゃん」が百合ならば、ぎん婆ちゃんはさながら牡丹か芍薬のような女(ひと)だったのではあるまいか。

 だが、どんなに美しくても清楚でも華やかでも。

 よりにもよってあの爺さんと結婚した、それだけで仏壇の中で静かに笑っている美女二人がとんでもない物好き、はたまた人知を超えたゲテモノ趣味の持ち主としか思えなくなってしまった若先生なのであった…。




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