くそじじい 3


「へ? じゃお前結局そこで思いっきしすっ転んで鼻血噴いて、鼻の穴にティッシュぎゅうぎゅうに詰めたそのツラで魚辰の爺ちゃんに新任のご挨拶を申し上げたってか。たはっ、そいつぁ確かにちょいと…いや、かなりしまらねぇ話だわなァ」
 例の初めての往診の顛末を聞いて、何とも複雑な表情を浮かべたのは松井元人警部。若先生より一つ年上のこれまた幼なじみで、町一番の大工の棟梁、松元の親方の息子に生まれたくせに何故か警察庁のキャリア官僚になってしまったという変り種である。今日は久々に互いの休日が重なったとて、二人揃って馴染みの飲み屋「たぬきばやし」へと繰り出し、カウンターに並んで腰を落ち着けたわけなのだが…。
「も、今思い出しても顔から火が出るよぉ…。何せ、隆志の悲鳴のおかげで勝っちゃんおじさんやスミ子おばさんまですっ飛んで来て、やれ薬だ包帯だって大騒ぎになっちゃったからさぁ…ったく、医者が往診先で怪我して患者の家族に手当てしてもらうなんて、マジでシャレにもなんねぇっつーの」
「まさしく『何と申し上げればよろしいのやら』ってトコだな」
 それから先は松井警部としてもかける言葉が見つからなかったのか、黙って徳利を取り上げ、若先生の猪口に酒を注ぎ足してやっただけだった。
「それよりもっとこっ恥ずかしかったのはあの柿泥棒の話だよっ。そりゃぁ悪いのは間違いなくこっちなんだ、文句なんて言える筋合いじゃないのは俺だってよくわかってっけどさ…いきなりあんなでっかい声で言うこたねぇじゃんか。ありゃきっと、店先にまで聞こえたぜぇ。おまけにさぁ、その次の往診のときも…」
「何だよお前、もしかして二回連続、往診先の玄関ですっ転んだってか?」
「とんでもないっ! いくら俺でもそこまでドン臭くねぇよっ。だけどそんときも玄関開けた途端に爺ちゃんとおばさんの大声、それも前回と全く同じやり取りが聞こえてきてさ、最後にまたまた『ヒデ坊てぇとアレか!?』って爺ちゃんが叫んで、今度は…」
 そこで突然、顔を真っ赤にしてうつむいてしまった若先生に、松井警部がぐっと自分の耳を近づける。
「え? こんだ何をバラされたんだ。…誰にも言わねぇからほれ、話してみろって」
 それでもしばし若先生は無言のままだったが、やがてついに観念したのか、消え入りそうに小さな声で。
「今度は…一四年前、『松元』の悪タレと一緒に『富士の湯』の女風呂覗いて向島の染勇に思いっきし洗い桶ぶっつけられたあのマセガキか!?…って」
 おそらくそれは若先生にとって、先の柿泥棒の件以上に痛い「過去の古傷」だったことだろう。が、それを聞いた松井警部の反応は、あまりといえばあんまりで。
「ぎゃははははっ! あーそれ、俺も覚えてるっ! や〜、あんときの染勇姐さんのピッチングときたらそりゃもう見事なモンだったよな〜♪ あれだけの腕持ってんだったら芸者辞めて女子ソフトボールの日本代表…いや、プロ野球の選手になったって充分やってけるのに…って、俺ゃ幼心にも真剣に考えたんだぜえ」
 腹を抱えて大笑いした挙句、目に涙をためつつそんなことをほざいてしまったからたまらない。
「な…何だよそれ!? 俺…相手が松っちゃんだからこそ、恥を忍んでこんなことまで話したってぇのにそんなバカ笑いしやがって…。大体柿泥棒のときも覗きのときも、そもそもの言い出しっぺは松っちゃんで、必死に止める俺を無理矢理引きずってったんじゃないか! あーあー、だったらもういいよ! 帰る!」
 そのまま席を蹴って立ち上がりかけた若先生を、今度は松井警部、慌てて押し止める。
「おい待てヒデ! あ…あのっ、今のは俺が悪かった! すまねぇっ! そうそう、確かにあんときの主犯は俺で、お前は共犯…どころか被害者だったんだよな。おしっ、だったらそのときの詫びも含めて今夜の勘定は全部俺が持つからよ、機嫌直してささ、もう一杯」
 ただひたすらに平身低頭、口八丁手八丁で懸命になだめればそこはそれ、若先生もほんの少しではあるが心を動かされたらしい。
「え…? 今夜の勘定全部松っちゃん持ちって…それホント?」
「ホントだホント、嘘なんかじゃねぇって。だから安心してどんどん行け! ほれ飲め!」
 ようやくほっと胸をなでおろした松井警部がさらなるご機嫌取りとお酌に励んだおかげですっかり機嫌を直してくれた若先生。しかしついでにしっかり出来上がってもしまったようで…。
「はぁぁぁ〜…れもさぁ、松っひゃん…俺、これからもずっと往診行くたんび、あの爺ひゃんに昔の悪さいちいちバラされ続けなきゃいけねぇんらろか…。いくら『身から出た錆』たぁいえ、やっぱそれっれあまりにあんまり過ぎねぇかぁぁぁ〜?」
「あ…ああ、そうだよな、ヒデ。でもさ、何つったってあの爺ちゃんも九〇過ぎだし、前にその、脳梗塞か? …でひっくり返ったこともあるしよ、やっぱ頭ン中もちょっくらぼんやりしちまって、昔のことっきゃ思い出せねぇのかもしんねぇぜ? だったらここは医者として、広く深い心で大目に見てやったらどうかなぁ〜、なんて…」
「ンな『医学倫理』の講義みれぇなお説教なんか聞きらくねぇっ! いいかぁ…医者らってなぁ…医者らってやっぱ人間なんらよぉっ! 昔の悪戯大声でバラされりゃこっ恥ずかしいし情けないし、腹だって立つんだ悪いかこん畜生っ」
 さんざんクダを巻いた挙句、とうとう半べそ状態でカウンターに突っ伏してしまった若先生に、さすがの松井警部も途方にくれてしまったとき。
 不意に、誰かがその腕をちょん、ちょん、とつっついた。
「…なぁおい、ヒデ坊、ゲン坊…。余計な口出しかもしれねぇが、魚辰の爺さんの昔話ってなぁ地震や雷、鉄砲水と同じ『天災』みてぇなモンだからよ、ぶち当たったのが身の不運と諦めて、あんまし気にしない方がいいと思うぞ?」
「そうそう。何せあの爺さんときたら、これまで叱り飛ばしてきたご町内歴代の悪ガキどもの所業をいちいち全部覚えてやがるからなァ。しかもそれを当の悪ガキ…じゃねぇ、今や立派な大人になった『元』悪ガキに会うたんび、挨拶代わりに大声で喚き散らして赤っ恥かかせるのが何より楽しみだってんだから始末に負えねぇやな」
 隣席から声をかけてきたのはこれまたご町内の顔なじみ、武部電気店店主の武部寛ことヒロおじさんと、有限会社新井印刷社長の新井大治郎こと大ちゃんおじさんだった。どちらもそろそろ五〇代後半、若先生や松井警部にとっては二周り以上も年上の「父親世代」だけあって、なるほど魚辰の爺さんのこともよく知っていると見える。それにしても地震や雷、鉄砲水と並び称されるとは、どうやらかの爺さん、よっぽど厄介な年寄りらしい。
「へぇぇ…そりゃ初耳だ。ま、昔っから口やかましい雷爺ぃたぁ思ってたけどよ、まさかそこまでやるたぁ、畏れ入り谷の鬼子母神ってヤツだな。…あ。でもさおっちゃん」
 いかにも感心したように腕を組み、何度もうなづきながら聞き入っていた松井警部が、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「今ヒデとも話してたんだけどさ、前にあの爺さん、脳梗塞でひっくり返っただろ。いくら何でもそんな、頭の病気で倒れたあとまで昔のこと全部覚えてられっかぁ?」
 途端、おじさん二人はちっちっちっ…と舌打ちをしながら大きく首を横に振った。
「だから、病気なんぞでおとなしくなるような可愛らしいタマじゃねぇんだってばっ。それが証拠にヒロと俺は、まさしく爺さんがその病気でうんうん唸ってる真っ最中に、さっきのヒデ坊と全く同ンなじ目に遭ってるんだぜ?」
「…いくら始末に負えねぇ年寄りたぁいえ、長いつき合いだしいろいろ世話になってるしって、仏心出して見舞いに行ったのが運の尽きだったんだよな…」
 そこで大きくため息をつきつつ、さらにおじさんたちが語ってくれたところによると。
 彼らが爺さんを見舞ったのは、その容態が大分落ち着いたという噂を聞いたあとだった。しかしそのときの爺さんはいまだ昏睡状態、声をかけてもほとんど反応がなく、さすがの二人も「こりゃかなり危ないんじゃねぇか」と暗い気分になってしまったのだという。
「そんな俺らの傍らでよ、嫁のスミちゃんが必死こいて『ヒロちゃんが来てくれたよ、大ちゃんも一緒だよ』って話しかけてるのが何とも切なくてなぁ…。ひっそりこっそり横向いちゃ、柄にもなく涙だの鼻水だの拭ってたと思いねぇ。そしたら、だ」
 何とそれまで息も絶え絶えだった爺さんが不意にぱっちり目を見開いたかと思うや、ろれつの回らない口調で高らかに叫んだ、その台詞というのが。
(何だぁ!? 寛と大治郎…てぇとアレか? 五一年前、神社の鳥居にションベン引っ掛けやがったバチ当たりと、四八年前、二丁目の平助の畑から大根三本かっぱらいやがったコソドロガキか!?)
「あんときゃ危うく、こっちが心臓麻痺起こしてあの世行きになるトコだったぜ…」
「やがてリハビリが始まったあとはもっとひでぇや。いやさ、そうなりゃ時にはスミちゃんや隆志が付き添って爺さんを散歩に連れ出したりもするだろ。そんなトコに行き会えば、俺らだって当然挨拶の一つもするわな。てぇと爺さん、やっぱ最初はぼ〜っとして俺たちの話を聞いてるだけなんだけどよ、そのうち頃やよしとみた途端…」
「突然、こっちの鼓膜がぶち破れるような声張り上げて『五〇年前、横丁のご隠居が可愛がってた犬のどてっ腹にへのへのもへじの落書しやがった悪タレ』だの『四九年前、学校の板塀引っぺがして焚き火してイモ焼きくさったクソガキ』…と、こうだ。しかもその何年前、何年前てぇ言い草がどれもこれも正確そのもののドンピシャリときちゃ、何もかも承知の上だってわかンねー方がどうかしてるだろっ、オイ!」
「ま、この町の人間…特に男連中ときたら、あの爺さんのゲンコツ喰らわねぇで大人になったなんてヤツぁ一人もいねぇからな。今更やれいっぱしの店の主でござい、会社社長でござい、なんて粋がったところで爺さんの前に出りゃンなモン、屁のつっぱりにもなんねぇこたぁ嫌ってほど承知してらぁ。でもよぉ…」
「とうに子供も孫もいるこんな年になって、五〇年も昔の悪さ大声で言い立てられる切なさ辛さときたら、言っちゃ悪りぃがお前らみてぇな若造連中の比じゃねぇってんだよコンチクショウっ!」
 挙句の果てには感極まったか酒が回ったか、涙交じりの絶叫がそのまま男無念の忍び泣きの二重唱に変わってしまっては完全に立場が逆転、松井警部ばかりかカウンターに突っ伏していた若先生までもが起き出して、懸命に慰めるより他どうしようもない。
 と、今度は背後のテーブル席から。
「これこれ、寛や、大治郎や。いい大人がこんな小さな子供らに愚痴をこぼしてどうするというのじゃ。大体最初はお前たちが子供らを慰めてやっとったんだろうに」
 穏やかな、しかし突然聞こえてきた声に四人ははっと振り返る。するとそこには、皺深い温顔とつややかな禿頭をほんのりいい具合に色づかせた作務衣姿の老人―町の名刹、浄心寺の慈海和尚が面白そうに微笑んでいた。その向かい、これまたいい色に染まった顔ばかりか体つきまで巌のようにごつい四十がらみの男は、寺のすぐ近くにある光栄建設の専務、崎田銀蔵である。
「や、これはどうもご住職に崎田専務、お揃いで」
「年甲斐もなくみっともないところをお目にかけまして失礼致しました」
 たちまち涙もどこへやら、腰を浮かせて最敬礼するおじさん二人に松井警部と若先生も続く。しかし慈海和尚は鷹揚な仕草で皆に席に戻るよう促して。
「いやいや、そんなに畏まらんでもよいわさ。それより魚辰の爺様のことじゃがな、憚りながらこのわしとて、あの爺様にかかればまだまだ浄心寺の小坊主扱いなんじゃぞ。そればかりか、ここな銀蔵さんトコの光井会長でさえ、いまだに使い走りの小僧っ子呼ばわりされとるわい。それを思えば、わしらよりはるかに若いお前さん方が言いたい放題言われたところで何も恥ずかしいことなどなかろうに…違うかな?」
 福福しい笑顔で諭され、おじさんたちがカウンターに座ったまま平伏する。だが一方の松井警部と若先生は、目を白黒させてただただ顔を見合わせるばかり。というのも、慈海和尚や光栄建設の光井会長といえばヒロおじさんや大ちゃんおじさんよりもさらに年上、そろそろ七十代も半ばに近い町の長老格ではないか。そんな人たちまであの爺さんには頭が上がらないとしたら、それこそ神も仏もあったものではない。
「へ…? ご住職、そりゃ本当なんスか?」
 茫然と訊き返した松井警部に、慈海和尚はからからと楽しげに笑った。
「おお、そうじゃよ。わしが今の寺に修行に来たのは十七の年じゃったが、その頃にはもうあの爺様は立派な魚辰の主、その上町の世話役までやっとったからのう。おそらく光井会長も似たようなモンじゃろうて。…ほれ銀蔵さん、あんたからも説明してやんなさい」
「は? はぁ、そりゃ一向に構いやせんが…俺なんかがお仲間に加わったりしたら、あとでゲン坊…いや、松井警部さんにご迷惑がかかるんじゃないですかい?」
 いきなりお鉢を回された崎田専務がいささか面食らった様子で訊き返してきたのは、その勤務先である光栄建設にはもう一つ―小さいながらもれっきとした暴力団、「光順会」という裏の顔があるからだったりするのだが。
「何の何の。御仏の御前では皆平等じゃで、妙な遠慮は無用じゃ、無用」
「そうだそうだ! ついでにこの『たぬきばやし』ン中は御仏さえも認める治外法権地帯、崎田の兄貴と俺が仲良く話しこんでたところで誰に文句を言わせるこっちゃねぇやい」
 住職と松井警部に口々に言われ、ようやく崎田も安心したようである。
「そうかい? だったらお言葉に甘えさせていただくが…実はあの魚辰の爺さんってなぁ元々ウチの先代大親分の知り合いなんだわ。何でもウチがまだ『光順会』じゃなくて『羽衣一家』を名乗ってた時分、町のイザコザか何かの件で単身直談判にやってきた爺さんの度胸を先代がえれぇこと見込んじまったらしくてよ、『あれほどの男をカタギの衆にしておくのは惜しい』とか何とか、『お前、俺』のごくごく親しいつき合いしてたんだとさ。それが何せ六十年近くも前の話とくりゃぁ、さすがの光井会長もまだまだ盃頂戴したての三ン下だ、爺さんがツラ見せるたんびに最敬礼でお出迎え、お見送り申し上げてたてぇから、小僧っ子扱いされても仕方ねぇやな。…もっとも会長にとっちゃそれが何とも楽しいらしくて、結構面白がってるみてぇだけどよ」
 崎田の話に、目を丸くする一同。どうやらさすがのおじさんたちもここまで詳しい事情は知らなかったらしい。ただ、慈海和尚だけがいかにも楽しげな笑い声を上げて。
「ふぉっふぉっふぉっ。それはどちらも大したものじゃのう。光井会長ほどのお人をいまだ小僧っ子呼ばわりする爺様も見上げたモンじゃが、それを面白がっとる会長もまさに融通無碍、悟りの境地に達しておられるわさ。いや、善哉善哉。…のう、皆の衆。人間、齢七十、八十にもなれば多かれ少なかれそのように達観するものよ。寛や大治郎など、あと十年ちょっとの辛抱ではないかい。それまでは日々修行と思うて精進するがよいわえ」
「へ…へへぇぇぇ〜っ」
「ちょ…ちょっと待って下さいよぉ、ご住職! あの…それじゃぁ僕の方は一体…」
 再び平伏したおじさんたちの隣、今まで黙っていた若先生が何とも情けない声を上げた。だがそれも無理はなかろう。「あと十年ちょっと」と言われたおじさんたちの方はともかく、若先生が「齢七十、八十」になるまでにはどう少なく見積もってもあと五十年はかかる。和尚もその事実に気づいてくれたのか、見事な禿頭をぴしゃりと叩いて。
「おお、そうじゃそうじゃ。元はといえばヒデ坊の話だったんじゃな。すまなんだのう。じゃが、安心するがよい。修行への入り口はヒデ坊やゲン坊のすぐそばにもちゃんとあるでな、その糸口さえつかめば悟りなんぞあっと言う間に開けるわい」
 しかし、そんな頼もしい言葉にほっと安堵の息をついたのも束の間。
「じゃがのう…いまだ人の世の穢れにろくろく染まってもおらぬ無垢な心が悟りを開いたとて、大して面白くもありがたくもないぞ?」
「…は?」
 途端、目を点にした若先生(…と松井警部)を見つめる慈愛に満ちた瞳。…が。
「浮世の泥沼でもがき苦しみ、無明の闇にとことんまで迷うた者でなければ真の悟り、解脱のありがたさなど到底わかるものではないわさ。あれこれ悩み迷うて世俗の垢にまみれるのも立派な修行ゆえ、まずは煩悩の底なし沼にでもどっぷり浸かってみることじゃな。ふぉっふぉっふぉっ」
「そ、そんなぁぁぁ…」
 再び高らかな笑い声を上げた和尚とは裏腹に、泣き声を上げてしまった若先生。…と、同じくその場に立ちすくんでしまった松井警部の、ため息交じりのつぶやきが聞こえてきた。

「…結局俺らって、魚辰の爺さんだけじゃなくて町の連中全部…それどころか御仏にさえまだまだションベン臭えガキとしか見られてない…みてぇだなァ…」




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