くそじじい 5


「へぇ…おぎんさんとお園さんに線香を? そいつぁいいことしなすったねェ、若先生」
 石原医院の診察室でしみじみと大きくうなづいたのは、この前「たぬきばやし」で一緒になった大ちゃんおじさんだった。風邪でもひいたのか、頭痛とのどの痛みがひどいと言うので早速診察してみれば案の定そののどは真っ赤、呼吸音も少々乱れている。幸い熱は三七度二分と大したことはないとはいえ、微熱というのは時として高熱よりもだるくて大儀に感じるもの、さぞ辛い状態だろうに何故か元気溌剌の絶好調ならぬ舌好調、たちまちぎん婆ちゃんたちの思い出を次から次へと語り始めて賑やかなことこの上ない。
「とにもかくにもあのおぎんさんて人ァ評判の美人でねぇ。俺らがガキの頃は町中のおっちゃん兄ちゃんたちがみんな岡惚れしてたモンだ。へへ…俺なんかもよ、勝治ンちの母ちゃんに会えると何だかすげぇ得したみたいな気になってな。もしかしたらあれがおっちゃんの『初恋』ってヤツだったのかもしれねぇ」
「ああそれ、わかる気がするなぁ。ぎん婆ちゃん、年取ってからもきれいでしたもんね…はいおじさん、次はちょっと後ろ向いて下さい」
「あいよ。…でもなぁ、おぎんさんは若けぇ頃、散々辛い目見てんだよ。何でも戦争で家族も家もみんな失くしちまって、上野あたりの闇市に掘っ立て小屋みてェな飲み屋出して細々と食いつないでたんだと。そこへたまたま魚辰の爺さんが一杯引っかけに入ぇったてぇのが馴れ初めらしいんだが、そんなこんなで大変な苦労してきたせいか、気働きが並じゃなかったねぇ。掘っ立て小屋でも何でも、さすが飲み屋の女将やってただけあって、派手な銘仙かなんかをぞろりと着こなしてたりするとそりゃあ艶っぽいモンだったが、参観日やら何やらで勝治の学校に行くときにゃあくまで地味できっちりした拵えしてさ。きっと、勝治に恥欠かせねぇように気ィ遣ってたんだろうなぁ…」
「へぇ…そうだったんですか…。ところで、やっぱり風邪みたいなんで念のため、注射しておきましょう。そこのベッドに横になって下さいますか」
「ありゃりゃ、参ったね。さてはこの間孫が幼稚園からもらってきたヤツが移りやがったかな?」
 首を傾げつつベッドに横になっても、おじさんの口は止まらない。
「もっとも戦争で苦労したなぁこのへんのジジババみんな一緒だけどな。あの爺さんもよ、戦争が始まってすぐ兵隊に取られて南方あたりに送られたらしいが、何でも怪我だか病気だかでいったん帰ェされてきたんだと。…で、その養生が思いがけなく長引いちまったのがかえって幸い、どんどこ年も食ってくし、多分二度目はねぇだろうって安心してたてぇのにさ、終戦間際の兵隊不足のあおりでまたまた赤紙がきちまって…そんときゃ勝治もまだようやっと二歳になったばかり、爺さんもさぞ心残りだったろうよ」
「それじゃぁ勝っちゃんおじさんの産みのお母さん…お園さんもさぞ苦労したことでしょうねぇ…すみません、ちょっとちくりとしますよ〜」
「痛てっ! …うん、ある意味爺さんよりゃお園さんの方がよっぽど大変だったかもナァ。もっとも俺だって勝治とどっこいの年だし、お園さんのこたぁほとんど覚えてねぇけどよ。終戦後すぐに亡くなっちまったんだって、多分爺さんの留守中の苦労が祟ったんだろうが…ま、せめてもの救いは爺さんの復員が思ったより早くて、お園さんの最期を看取ることができたってことくれぇかな…って、こんで終わりかい?」
「はい。あとはお薬を出しておきますから朝昼晩きちんと飲んで、二、三日は安静にしていて下さい。少なくとも熱が下がるまでは会社になんて行っちゃだめですよ」
「おうさ合点承知の助、しばらくおウチでいい子にしてらぁ。ありがとうな、若先生」
 言葉はぞんざいでも丁寧に頭を下げ、そのまま診察室を出て行こうとした大ちゃんおじさんが、ふとドアの前で足を止めて振り返った。
「しかし何だ、最近の若先生は面構えが違ってきたねぇ。初めのうちァただにこにこ優しいばっかりで―って、医者が優しくなかったら患者はたまったモンじゃねぇけどよ―そのへんの気立てのいい兄ちゃんと大して変わンなかったが、今は何つうかきりっとしてさ、『医者の貫禄』みてぇなモンが漂うようになってきたじゃねぇか」
「あはは、そうですか? 自分ではそれほど変わったつもりはないんですけどね。でも、ありがとうございます。どうぞお大事に」
 そう言ってにっこり頭を下げたものの、若先生の意識が最近少しばかり変化してきたのは事実だった。…というのも全ては魚辰の爺さんとの丁々発止が原因だったりするのだが、いくら「医は仁術」とはいえただ穏やかで献身的なだけでは到底医者など務まらない、時には患者と全力で闘って叩きのめすくらいの覚悟が必要なのではないか、と考えるようになってきたのである。
 特に、そのときの若先生はとある「一大決戦」―かの爺さん相手の生活習慣、特に食事指導―を控えていた。もっとも前述したとおりそれもまた立派な町医者の職務、別に珍しいことでも何でもない。加えて爺さん、さすが魚屋の隠居だけあって肉よりも魚が大好き、ついでに野菜もよく食べるという…まぁ、診察中のすったもんだはともかくも、食事習慣にかけてだけはこれ以上ないくらいの優等生なのである。
 なのにどうしてそんなごく当たり前の食事指導が「一大決戦」などという物騒なモノになるのかというと―これ全て、我々日本人に様々な恵みをもたらしてくれる「四季の移ろい」のせいだったりして。
 いかな残暑が続けども、九月に入れば次々と市場に出回る秋の味覚、もちろん魚とて例外ではなく、脂が乗り始めた秋刀魚や鯖、鮭、戻り鰹などが食卓を賑わせるようになる。まして晩秋十月末の現在ともなりゃ、盛りの短い戻り鰹はともかくも他はますます脂たっぷり、さらに加えてこれまたしっかり脂を蓄えた冬の魚―ブリ(ハマチ)やマグロまでもが旬の走りでご登場…と、魚好きには待ちに待った時節の到来だろうが、医者としては少々頭の痛いこともあるのだった。
 確かに、魚の脂にはコレステロール値を下げて血液粘度を薄め(いわゆる「血液さらさら」というヤツ)、動脈硬化や高脂血症、血栓予防に役立つEPA(エイコサペンタエン酸)、DHA(ドコサヘキサエン酸)が豊富に含まれており、脳梗塞の持病を持つ爺さんにとってはもってこいの健康食品には違いない。しかしやっぱり脂は脂、過剰に摂取すればカロリーオーバーで肥満につながりかねないし、その上あんまり血液さらさらになり過ぎて血液の凝固作用が低下すると、今度は「なめときゃ治る」程度の傷なのにいつまでも血が止まらなくなったり、脳出血の危険性が高まるという説もある…。なんていうのはかなり極端な例としても、それ以前にごく単純かつ切羽詰った問題として「どんな健康食品でも食いすぎれば腹を壊す」のである(←当たり前だ)。
 だが、もはや食べることしか楽しみのない病後の年寄りに食事制限をさせるなど、本人はもちろん家族にとってもさぞ辛いことだろうし、その説得には相当骨が折れるに違いなかった。…というわけでその次の往診日には若先生、それこそ川中島か関が原、はたまた日本海海戦並の覚悟を決めて爺さん宅に「出陣」したのだが。
 診察こそ珍しくも無事終わったものの、その後例の茶の間でスミ子おばさんに話を切り出した途端、案の定おばさんは難しい顔つきになってしまって。
「うーん、困りましたねぇ…。何しろうちの爺ちゃんは脂の乗った魚が大好きだから…。秋刀魚なんて毎日だって食べたがるし、鰹だって初鰹より戻り鰹がお気に入り、ブリ食べるなら断然背側より腹側、マグロに至ってはまだ誰もトロになんか見向きもしなかった時代から―あら若先生、ご存知ないですか? 昔ゃねぇ、トロ食べる人なんてほとんどいなかったんですよ。だから魚屋も他のアラと一緒に捨てるか、猫のエサにするって人にタダで分けてやるかのどっちかで…なんて話がそれちゃいましたが、ええもう、本当にそんな頃から―中骨や腹の皮こそげて一欠け残さず、たっぷりのネギと一緒に『ネギトロ』にして食べてた人ですからネェ…」
「ええ、それは僕もよく存じてるんですけどね、いくら旬の魚とはいえ、あんまり脂っこいものばかり食べ過ぎると胃腸の方が心配で…」
 今日は廊下への襖ばかりか仏壇のある次の間へのそれもぴったり閉まっているせいか、ちょっと狭苦しく感じる茶の間での会話はいかにも「隠れ家での密談」という風情、知らず知らずのうちについついお互い声が低くなる。
「だからここは一つおばさんのお力で何とか…せめて二日に一度はタラやカレイ、でなきゃタコやイカみたいな脂の少ない魚にしていただけると助かるんですが…」
「そうはおっしゃいますけど、何しろこの時期の魚といえば多かれ少なかれ脂が乗り切ったものがほとんどですからねェ…タラやカレイが本当に美味しくなるのはもうちっと寒くなってからだし、今が旬といったらせいぜいタコやイカくらいですか」
「だったらおばさん、是非タコとイカを! 二日に一度が無理なら三日に一度でもいいですからタコとイカ、タコとイカをよろしくお願いしますっ!」
 もはや隠れ家の密談も何のその、タコとイカとに一縷の望みをかけた若先生が、さながら選挙運動もどきの叫びと共に深々と頭を下げた、まさにそのとき。
「くぉらこのヒヨッコ医者! 今日は今日とて何ひそひそこそこそうちのおスミを困らせてやがる!」
 ぴったり閉じていたはずの次の間への襖ががらりと開いたかと思うや、当の爺さんが杖を片手に仁王立ちになっていたではないか。しかもその顔は先のバルサルバ騒動同様真っ赤に染まり、その上周囲に芬々と漂うこの匂いは…。
「じ、爺ちゃん!?」
「何で一人で起き出してきたりするんですよ! それにこの匂い…まさかお酒!?」
「てやんでぃべらぼうめ! 俺のことよりおスミだ、おスミ! やい手前ェ、いくら医者だからっていい気になりやがって、うちの大ェ事な娘っ子に無理難題吹っかけやがったりしたらタダじゃおかねぇぞ! ういっ」
 その啖呵こそ威勢がいいが、爺さんの足元はかなり危ない。脳梗塞の後遺症というよりも、どうやらかなり出来上がってる様子である。
「いや爺ちゃん、『無理難題』って、僕はただ爺ちゃんの食事の件でスミ子おばさんに相談とお願いをしてただけで…それに、『娘っ子』…?」
「けっ、生意気に口答えしやがるってかこのガキ! おスミたぁもうかれこれ四十年近く一つ屋根の下で暮らしてんだ、嫁どころか立派な俺の娘でぃっ! そもそも食事の相談てぇのが大きなお世話、俺ァ好きな食いモン我慢してまで長生きなんざしたかねぇ! ついでに余計なゴムホースだの機械だのくっつけられて生き永らえるのも願い下げでい、ひくっ。万が一そんな真似やらかしてみろ、七代後まで祟ってやるからなっ!」
「ああもう、そんな娘だのゴムホースだのなんかより、どこでお酒なんか見つけたんです!? うちのお酒はみんな台所の奥…あたししか知らないトコにしまっておいたのにっ」
 三者三様の絶叫が響く中、爺さんの足元がもつれ、その体が大きく横にかしいだ。
「危ないっ!」
 咄嗟に飛び出した若先生が抱きとめたものの、かなりの勢いで尻餅をついた爺さんが一瞬顔をしかめる。スミ子おばさんが再度、今度は店に向かって怒鳴り声を上げた。
「あんた! 隆志! 爺ちゃんが大変なんだよっ、どっちでもいいから早く来とくれ!」
 幸い大事はなかったようだが、かなり酔眼朦朧とした爺さん、両脇に座り込んだ若先生とおばさんの支えがなければ、今にもひっくり返って眠り込んでしまいそうである。
「何だ何だ、母ちゃん、若先生っ! 爺ちゃんがどうしたってぇ!?」
「隆志! 爺ちゃんがどっかからお酒見つけて飲んじまったらしいんだよっ。早く部屋に運んでやっとくれっ」
 そこへ慌てて駆けつけてきた隆志も、目の前の光景とおばさんの言葉に一瞬棒立ちになる。だが次の瞬間、何かに思い当たったようにそののどがひくっと鳴って。
「げ…ヤベっ! 母ちゃん、今日はぎん婆ちゃんの月命日じゃねぇかよ!」
 叫ぶが早いか親子の礼儀も長幼の序も完全無視、祖父、母、そして幼なじみの兄貴分の上をまたぐように躍り越えて次の間へと飛び込んだ若者は、一目仏壇を見た途端へたへたとその場に膝をついてしまった。
「畜生…やっぱやられた…。見ろよこれ…一滴も残ってねぇ!」
 深いため息とともに差し出されたのは白地に紅梅の模様も美しい、ただしかなり大ぶりの湯飲み。その中身は確かに空だったが、いまだ立ち上ってくるのは紛れもない、酒の…香り…。
「え…それじゃおばさん、この前言ってた『ぎん婆ちゃんの好物』って、まさか…」
 茫然とつぶやいた若先生に、おばさんの肩もがっくりと落ちる。
「すみません、若先生…。ぎん婆ちゃんはお園『婆ちゃん』と違って甘い物よりお酒が好きな人でしたから、月命日には必ずそのお気に入りの湯飲みでお酒を一合お供えして…」
 もっともそんなときには必ず奥の部屋の襖を開け放し、家族が代わる代わる爺さんの盗み飲みを見張っていたのだそうだが、先程若先生から相談を受けた際にうっかりスミ子おばさんが襖を閉めてしまった、その隙を突かれたらしい。
「はぁぁぁぁ…」
 今度は若先生とおばさん、そして隆志のため息三重奏が響く中、ふと眠気が醒めたらしい爺さん一人がまたまた怪気炎を上げる。
「けっ、どいつもこいつも辛気臭せぇ面しやがって…愛しい愛しい恋女房のお流れを亭主が頂戴して何が悪りィ!」
「あ、うん…そうだよね。飲んじゃったものはもう仕方ないよね。…だけど爺ちゃん、とにかく部屋に戻って横になろう、さ…」
「うるせぇ! 戻るんだったら手前ェで戻らぁ! 年寄り扱いするんじゃねぇ!」
 それでも何とか気を取り直した若先生が抱き起こそうとした刹那、振り払おうとして盛大に腕を振り回した爺さんの右肘が、狙い違わずその白衣の鳩尾…からビミョーに外れた一点を直撃したからたまらない。
「ふごべっ!!」
 たちまちその場に崩れ落ち、声もなくのた打ち回る若先生。それでもおばさんと隆志にはとにかくすぐ爺さんを部屋に戻すよう指示を出し、自分もまた這いつくばるようにしてその後に続く。そしてもう一度全ての診察をやり直し、全て異常なしと確認してああよかったと安心した途端、今度こそこれっぽっちも動けなくなってしまったのだった。

「も、本当に申し訳ありませんでした。よりにもよって若先生に肘鉄食らわせるなんて、院長先生や紀代先生にも何と言ってお詫びしたらいいか…」
 枕元、すっかり恐縮しきったスミ子おばさんが小さくなって頭を下げる。だが、申し訳ないのは若先生とて同じであった。何しろあの後、ようやく手が空いたとて駆けつけてきた勝っちゃんおじさん以下、おばさん、隆志と三人揃って土下座されたばかりか、またしても患者の家族に介抱(しかも今回は例の奥の間に床まで延べてもらって)される羽目になってしまったのだから。
「いえいえそんな、とんでもないっ。あんなの本当にただのはずみで、その上―こんなこと爺ちゃんには言えませんけど―所詮お年寄りの力だったっていうのにこんな…ご迷惑をおかけしてお詫びしなければいけないのは僕の方…う…げっ」
 必死に身を起こし、頭を下げ返そうとした途端、胃のあたりから強烈な吐き気がこみ上げてきた。「所詮は年寄りの力」とはいえ、どうやら当たり所がかなり悪かったらしい。せめてあの肘鉄砲が見事鳩尾に決まってくれていれば、こちらとしても気持ちよく失神できたはずなのに―と、思うにつけても。
「だけど、僕はともかく毎日あの爺ちゃんの世話なんてしてるんじゃ、おばさんの方こそさぞ大変でしょうに。本当に、頭が下がりますよ」
 日頃のスミ子おばさんの苦労を思い遣り、しみじみとそう言った若先生の言葉にはこれっぽっちの嘘もなかった。しかし、何故かおばさんはきょとんと目を丸くして―。
「え…? 若先生、それこそとんでもないっ! あたしにとっちゃ、うちの爺ちゃんとぎん婆ちゃんは願ってもない最高の舅と姑ですよ! ええもう、どんなに世話をしたって到底恩なんか返せるモンじゃありません!」
「はぁ?」
 意外な返事にこちらもついつい目を点にしてしまった若先生。すると、おばさんは…。

「あたしゃねぇ、昔一度だけ、亭主と離縁しようとしたことがあるんです。それを引き止め、諭してくれたのが爺ちゃんとぎん婆ちゃんだったんですよ…」




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