何日君再来 6
(煕子ん家と瞳子ん家…学校に近いのは煕子の方だけど、あの子は今日も確か美術の塾があるはず…だったらやっぱ、瞳子だっ!)
祖母の家の、今は誰もいない茶の間の受話器に飛びつき、めまぐるしく思考を回転させる聖。やがて、決心がつくやいなや素早く瞳子の家の電話番号を回し、苛々と爪をかみつつ呼び出し音を数える。
(はい。松宮でございます)
幸いにも、聞こえてきたのは瞳子の声。聖は安堵のあまり、我知らず絶叫していた。
「と、瞳子っ!? あたし! 聖っ! ねぇ、ユーミンのレコードとポスター、どうなったぁぁぁっ!?」
(聖!?)
思いがけない相手からの電話に、瞳子の声も甲高くなる。
(ちょっとあんた、どうしちゃったのよぉ! あれっきり帰ってこないから、約束通り十二時四十五分には教室、出ちゃったけどさぁ…マジですげぇ、心配してたんだよっ)
「ごめんっ! それについては謝るっ! でもそれより、レコードは…? ポスターはあああぁぁっ!?」
生死を賭けんばかりの勢いで叫び続ける聖。だが、それに対する返事は一瞬の絶句、そして…。
(…ごめん。せめてあんたの分も買っとこうって、煕子と二人、限界まで頑張ったんだけどさー…あの砂かけババァ、えれー頑固で…。ほらあんた、例の予約券持ったまま初音ちゃんとこ行っちゃったでしょ。『予約券もないのに余分なレコードなんか売れるかいっ』の一点張り。…結局、負けたっ! …悪いっ!)
「あ…」
途端に力が抜け、へたへたとその場に座り込んでしまった聖。しかし、瞳子や煕子を責める気にはなれなかった。第一、受話器の向こうの声はかなりかすれている。部活で鍛えた瞳子の声がこんなになるとはただごとではない。きっと―よっぽど長い間、レコードをめぐってあのババァと大論戦を張っていたのだろう。
「そっか…。じゃ、仕方ないね…」
こみあげてくる涙を抑えつつ、必死に平静を装う。
(ごめん。本当に、ごめんなさいっ! …でも聖、あんたも一体どうしたん? 今、どこにいるの。家?)
おずおずと問い返してくる瞳子に、聖は慌てて周囲を見回し、声をひそめて。
「…うん、家は家だけど、実は…ばーちゃん家。詳しいことは月曜日に話すからさ、今は…」
瞳子も煕子も、聖の能力、そして家の事情についてはある程度知っている。「ばーちゃん家」の一言を聞いた途端、電話の向こうの友達は全てを察したようだった。
(…わかった。じゃ、詳しい話は月曜日、学校で。…あんまし長話もできないんだろうからこれで切るけどさ、本当に…本当に、ごめんねっ!)
「そんなそんなっ! 謝るのはこっちの方だよ! でもとにかく、あとは月曜、学校でっ!」
がちゃりと受話器を置く音が、妙に空しく響いた。
(はぁ…)
その場にへたり込んだまま、つい口をついて出たため息。
祖母からの話は、いい。それが妙な方へ転んで、思い出したくもない過去を祖母と叔母に聞きほじられたのもまだいいとしよう。だが―。
(ああ…ニューアルバム…それから…ポスター…)
何ヶ月も前から楽しみにしていた二つが見事におじゃんになってしまっては、そう簡単に立ち直れるものではない。ニューアルバム…レコードの方は、気長に待ってさえいればいずれ手に入るだろう。だが、あのポスターだけは…楽音堂のババアの言葉どおり、初版プレス限定の特別付録だったのだ。発売日を逃してはまず手に入るまい。
「はあああぁぁぁ…」
再び、大きなため息をついた聖がふと顔を上げたのは、廊下に面した襖をほんの少しあけ、そのわずかな隙間からこちらをのぞいている小さな姿に気づいたからであった。
「お姉ちゃん…」
「せいる?」
小さな従妹が、精一杯の自制心をふりしぼって、襖の陰からじっとこちらを見ている。
「…あの…もう、ご用…終った…? お姉ちゃん、また…せいると…遊んでくれる…?」
懸命に言うその姿があまりに、愛おしくて。遠慮がちなその言葉が、かつての自分の姿に重なって。
「うん。もう、みんな終ったよ。だからお姉ちゃん、いくらでもせいると遊んであげる。…何して遊ぼっかぁ!」
途端、ぱっと輝いた幼な子の笑顔に、落胆していた聖はせめてもの慰めを見出したのであった。
「まぁまぁ、聖ちゃん。もう少し…もうほんの少し、待っててもらうわけにはいかないかしら。…ほら、そろそろ叔父さんも帰ってくるし。叔父さんね、この頃聖ちゃんに会えなくて、とても寂しがってるのよ。『お帰りなさい』の一言でいいの。それだけで、きっとすごく喜ぶと思うわ。…だから、もう少し…ね」
結局、あれからずっとせいると遊び倒し、初音とともに夕食までご馳走になってしまった聖だったが―さすがにそろそろ帰らなくてはと口にした途端、血相を変えた御法が遮るようにその前に立ちはだかった。
(あれ…? 御法叔母ちゃんって、こんなにぐだぐだ、しつこく客人を引き止めるような人だったっけ…?)
「御法…? 今日は一体どうしたの。いつものあんたらしくないわよ。そりゃ、あたしたちだって貞輝さんには会いたいけど、もう八時半過ぎたし、あんまり遅くまでは…何しろこいつ、これでもまだ高校生だし」
きょとんとした聖の頭を軽くつついた初音も怪訝そうな顔になったが、御法は引き下がらない。
「でもどうせ、聖ちゃんは姉さんが送っていってあげるんでしょう? だからもう少し…」
「ちょっと、御法…?」
首をかしげた初音が、さらに何かを言いかけたそのとき、玄関の戸が開く音が聞こえてきた。
「あ! パパだぁっ!」
たちまち、せいるが玄関に飛び出していく。一瞬顔を見合わせた聖と初音も、結局はそのあとに従った。最後に、どこかほっとしたような顔の御法が続く。
玄関では愛娘に飛びつかれた貞輝叔父が、靴を脱ぐこともできずに苦笑しているところだった。大学の助教授といういかめしい肩書きにもかかわらず、もとからにこにこと人当たりのよい叔父ではあるが、小さな娘にかじりつかれて目じりを下げきったその姿には、いつも以上に威厳もへったくれもあったものではない。
「こらこらせいる。そんなに抱きついたらパパ、お家に上がれないじゃないか。…やあ、義姉さん、聖ちゃん、いらっしゃい」
「こんばんは、貞輝さん。お邪魔してます」
「ご無沙汰しております、叔父さん」
挨拶を交わす間も、まだ父から離れないせいる。とうとう根負けしたらしい貞輝が、鞄とともに抱えていた二つの紙袋の一方を、小さな娘に差し出す。
「ほらせいる、お土産だぞ。クリスマスにお人形さんに着せてあげるドレス、欲しがっていたろう? 開けてごらん」
「え、本当!?」
現金にも、せいるの関心はたちまち父からお土産へと移ったらしい。だが、そのおかげでようやく貞輝は家に上がることができた。
「まぁ貴方、お帰りなさい。お疲れ様でした。…ほら、せいる。お土産を開けるのはお部屋でおやりなさいな」
夫から鞄を受け取り、軽く娘をたしなめた御法が、それとない目配せを夫に送る。と、貞輝もそれに軽くうなづいて。
「それとこっちは、聖ちゃんへのお土産だ。久しぶりに会えて、叔父さん、とっても嬉しいよ」
もう一つの大きな紙袋を何と、聖に差し出したのである。聖の目が、大きく見開かれた。
「え…? そんな、叔父さん、あたしにまで…? わ、悪いですよぉ、いくら何でも。ただでさえ今日は御法叔母ちゃんに夕御飯もご馳走になっちゃって、こんな遅くまで…」
「いいからいいから。さっきも言ったろう。聖ちゃんとは最近めったに会えないし、たまに顔を合わせたときくらい、叔父さん面がしたいのさ」
「そうよ、聖ちゃん。いいからもらってあげてちょうだいな。さ、それじゃぁいったん茶の間に戻りましょうか」
叔母夫婦に何となく丸め込まれた形で茶の間に戻った聖がさらに驚いたのは、手渡された紙袋の中身を目にしたときであった。
どこかの和菓子屋の店名が印刷してある紙袋自体はかなりくたびれていて、お世辞にも―たとえ姪相手とはいえ―「お土産」などと偉そうに差し出せるものではない。だが、その中身はというと。
三十センチ四方ほどのごく薄い板のような包みと、何やら大きな紙を丸め、輪ゴムで留めて筒状にしたもの。
(え…? まさか、これって…)
途端、聖の手が先ほどのせいる顔負けの勢いで包みを開ける。と、そこから出てきたものは―。
「えーっ! うっそー! どうしてぇぇぇっ!!」
何と、今日発売のユーミンのLP、そして特別付録の…特大ポスター。
「やーん、何これぇぇぇっ! 叔父さん、ありがとうございますっ! あたし…あたし、すごく、嬉しいっ!」
その傍らでは、ついさっき同じように飛び上がって喜んでいたせいるが、もらった人形のドレスをしっかりと抱きしめながら硬直していた。自分よりずっと年上の「お姉ちゃん」が、こんなにも我を忘れてはしゃぎまくるのを見るなど、おそらく生まれて初めてなのだろう。
だが、大人たちはあくまで平然として。
「そんなに喜んでもらえたら、叔父さんも飛び上がるくらい嬉しいよ。…でも、お礼は御法叔母さんにお言い。さっき叔母さんが電話を入れてくれてね。『聖ちゃんはどうやら今日発売のレコードとポスターが欲しくてたまらないみたいだ』って。だから叔父さん、買ってくることができたんだよ」
「さっきの聖ちゃんの電話、どうやらせいるが聞いてたみたいなのよ。『お姉ちゃん、しょんぼりしてて可哀想』って言うから詳しく話を聞いてみたら…ねぇ? で、叔父さんの大学の生協でもレコードは扱っているし、もしかしたらと思ったの」
「あ…」
あまりの嬉しさをどう表現していいかわからず、聖はとっさに一番手近なせいるに抱きつく。一度は完全に諦めていたレコードとポスター。それが思いがけず手に入ったのは全て、この叔母一家のおかげなのだ。腕の中、いっそうがちがちに固まりきった従妹をより強く、抱きしめながら。
「叔父さん…叔母ちゃん…そしてせいるっ! 本当にありがとうっ! も、あたしどうしていいかわかんないっ!」
叫ぶように言いながら、あらためてしげしげと目の前の叔父、そして叔母を見つめる。
(…叔父さんはまぁ…お婿さん…だけど…この御法叔母ちゃんって人は、本当にこのばーちゃんや初音叔母ちゃんと血がつながっているんだろうか…)
何しろ、ほんの半日前には鎮女と初音、祖母ともう一人の叔母に心ゆくまで翻弄された聖である。こんな思いがけない心遣いを示されては、疑いたくなるのも無理はあるまい。
だがその感動も、御法が次に口を開くまでのことであった。
「本当に、聖ちゃんがこんなに喜んでくれたら私たちまで嬉しくなっちゃうわ。…ね、貴方、やっぱり申し上げた通りでしょう? 単位をエサに釣れば…いえ、交渉すれば、たかがレコードやポスターの一つや二つ、絶対に譲ってくれる学生さんがいるって。貴方の授業の単位を取るのはそれはそれは難しかったって、遊びに来るOBの皆さんがいつもぼやいていらっしゃいますものね」
「それは手厳しいな、奥さん。僕はさほど厳しい授業をしているつもりはこれっぽっちもないよ。第一これを譲ってくれた亀田君は、このまま行けば『優』間違いなしの成績なんだしねぇ」
「あら貴方、そんなことご本人におっしゃったの?」
「まさか。教師がヘタに学生を甘やかしたりしたら、本人のためにならん。…とはいえ、単位取得間違いなしってことだけでも保証されれば彼もこれから心安く学生生活が送れるというもの、安心料だと思えばこんなの、安い安い。…第一僕はちゃんと正規の代金と引き換えに譲ってもらったんだからね。別に、亀田君が損したわけでもない」
「それはよろしゅうございましたわ」
穏やかな微笑を浮かべつつ、和やかに語り合う叔母夫婦。だがしかし、代金をきちんと払おうがどうしようが。
(叔父さん…叔母ちゃん…。それってやっぱ、その学生さんからレコードとポスター、カツアゲこいて巻き上げたってことじゃ…ないんでしょうか?)
さっきまで完全に舞い上がっていた聖の頭は、いつしか氷点下以下の温度まで冷え切っていた。どうやらこの叔母夫婦とて、立派な藤蔭家の一族であることには間違いないようである。
ちなみに、聖たちが帰ったあと、鎮女と御法はこんな会話を交わしていたのだった。
「…ねぇ御法。聖にあんなレコードまで買ってやってよかったのかい? 年寄りが口を出すことじゃないだろうけど、あんまり甘やかしてもよくないんじゃないのかねぇ」
「あらお母さん、あれくらい甘やかしたうちに入りませんよ。第一、ああやってプレゼントの一つもあげておけば、お母さんや姉さんもこの先、楽なんじゃありません?」
「あたしや初音が? どういう意味だい」
聞き返しはしたものの、鎮女はすでに娘の意図を察したのだろう。その口の端が、面白そうににんまりとつり上がっている。一方の御法はやはり面白そうに、しかしこちらは婉然とした笑みを浮かべて静かに母親を振り返った。
「聖ちゃんはあれでかなり義理堅いお嬢さんですからね。もらうものだけもらってお母さんからの頼みを無視するなんてこと、絶対にしないはずですわ。ですがまだまだ高校生…その―学校の幽霊さんが手ごわくて泣き言を言ってくる可能性だって、皆無とは言えませんでしょう。そんなとき、既成事実を作っておけばいくらでも対処のしようがあるというもの。…違いますか?」
「…成程ね。ありがとうよ、御法…お前は本当に親思い、姉思いの娘だねぇ…」
そこで再びにんまりと笑い合う母娘。…案外この御法というひと、兄妹中で一番、母親の遺伝子を色濃く受け継いでいるのかもしれない。
そんな悪魔の会話など知るよしもなく―初音に送ってもらい、ようやく家までたどり着いた聖は、ただもうくたびれきってふらふらになっていた。叔母夫婦からの思いがけないプレゼントにすっかり舞い上がったとはいえ、あの祖母とまる半日一緒に過ごしたというのはやっぱり―かなりきつい。
「お帰りなさい、聖。初音さん、今日は遅くまでこの子がお世話をかけて申し訳ありませんでした」
「いえ義姉さん、頼みがあるからと無理矢理つき合わせたのはこちらの方ですもの。どうぞ、お気遣いなく」
玄関先で顔を合わせた母と叔母はたちまち親しげに話しこんでいるが、こちらにはもう口を聞く元気もない。ただ、時間が時間だけに初音叔母も気を遣ったのか、比較的早く話を切り上げ、「ちょっとお茶でも」という母の誘いも丁重に断ってさっさと引き上げてくれたのが、涙が出るほどありがたかった。
母もまた、そんな聖の様子に気づいたのであろうか。
「聖も今日は疲れたでしょう。ほら、早く上がって。荷物はお母さんが持ってあげるから、さぁ…」
言いながら、鞄に手をのばした母が、もう一つの紙袋に気づく。
「あら聖…。なぁに、これ」
「あ、それ…貞輝叔父さんと御法叔母さんにもらったの」
「まぁ本当!? あらあら、じゃぁ、そちらのお礼も言わなくちゃ…。聖、お母さん、これからお祖母ちゃん家に電話入れてくるわ」
荷物を手に、ぱたぱたと家の中に走りこんだ母。くたびれきった身体を引きずってのろのろとそのあとを追えば、家の奥からは早々と、弾みきった声が聞こえてきて。
「あ、御法さん? 今日はうちの聖が何から何まで、本当にお世話になりました…いえ、いえ、とんでもない! こちらこそ、お土産まで頂いちゃって…え? 貞輝さんが?」
電話の相手は御法叔母だろうか。ころころと楽しげに笑いながら話す母の声に、聖の口元もふとほころぶ。
しかし、その反面―
茶の間の入り口で立ち止まった聖の耳に、電話を中断したらしい母の声が届いた。
「聖? 貴女、お風呂はどうするの? お母さん、ついさっき入ったばっかりだから、ガスをつければすぐに沸かしなおせるわよ」
「あ…いえ、今日はもうこのまま休みます…。くたびれちゃったし、明日は日曜だし…お休みなさい」
「そう? なら…お休みなさい。風邪なんかひかないように、暖かくして寝るのよ…ああ御法さん、ごめんなさい。…ううん、大丈夫よ…」
階段の上がり口に置かれてあった鞄と紙袋を手に、二階の自室に向かう聖のあとを、なおも追いかけてくる、明るい母の声。
もう何の迷いもなく、真っ直ぐに自分を見つめてくれる優しい瞳。
まるで本当の姉妹のように、親しげに、楽しげに語り合う母と初音叔母、御法叔母。
どれもみんな…聖が望んでいたこと。
砂漠で迷う旅人にも似た、焼けつくような心の飢えと渇きの中で―ただひたすらに追い求めていた、夢のような―「家族」の肖像。
いや、今の聖が手に入れたのは、そればかりではない。
父の死後、母と二人で相続した膨大な遺産(その中には先代の藤蔭家当主…鎮女の夫、聖の祖父の残したものもかなりの割合で含まれていた)。多分…今後の母と聖の生活を、生涯にわたって保障してくれることは間違いないくらいの…金。
そして日本有数の名門校の中でも上位の成績を修め、スポーツの方でも―高校二年になった今でさえ、各クラブの顧問から冗談めかして入部を勧められるほどの自分自身。
…最愛の姉と大黒柱の父を失ったとはいえ、今の聖はおそらく、他人から見れば非の打ちどころもないほど恵まれた「お嬢様」のはず。そして聖自身もその幸福に感謝し、いつまでも大切にしたいと思っているはず。
なのに―それでもなお、感じる違和感。
これ以上ないくらいの幸福の中、どうしてもぬぐいきれない、いたたまれない気持ち。
(その正体なんか、とっくにわかってる―)
十年以上の月日を、ずっと自分という存在に苦しめられてきた母。
その葛藤と戸惑いの理由に悩み、怯え、己れを責めて泣いてばかりいた自分。
あんなに長い間。
苦しんだのに。泣いたのに。
父の死後わずか一年足らずで、聖を見る母の目はがらりと変わって。
それまでのあらゆる過去を、まるで忘れ去ったかのように。
今までずっと、血を分けた仲のよい母子として過ごしてきたかのように。
真っ直ぐに、愛情を込めて自分を見る母の瞳。
幾千を数える昼と夜の間、ずっと自分が欲しがっていたもの。
だけど。
(あの苦しみは、あの涙は―そんなにも簡単に忘れ去ってしまえるものだったのだろうか)
もし、あの頃の母の苦悩がその程度のものだったとしたら。
そんなちゃちなものに振り回され、ずっと縮こまって震えていた自分が、あまりにも惨め過ぎる。
そればかりじゃない。実の両親と、半分しか血のつながっていない妹との板ばさみになり、神経をすり減らしながらもなお、自分を守り続けてくれた姉も、また―。
だが、聖は知っている。今の自分が、他人の目にどのように映っているかを。
(恵まれたお家の、何もかも溢れんばかりに持っている「お嬢様」―)
(何一つ不自由のない、おまけに才色兼備の幸福な少女)
(誰もみな羨む、夢のような世界に住む存在―)
それはみな、動かしようのない事実。そう…今の聖は、この世の誰もが願っても得られないような「幸福」の真っ只中にいるはずなのだ。
それなのにこんな、心にうずくささくれのような感情をいまだにもてあましているのは自分が我儘だからなのか、それとも、純粋だからなのか。
我儘だからと自分を責めるのも、純粋だからと周囲を責めるのもどちらも簡単。
そして、どちらを選んでも結果は同じ。
(誰を、どんなに責めたって―この感情を―消せるわけがない)
聖の家は、二階もまたかなりの広さがある。自室へと続く廊下を歩きながら、ふと背後からじっと自分を見つめる視線に気づき、振り返れば。…廊下の暗がりにじっとうずくまり、責めるように、そして訴えかけるように、ひたとこちらを見つめているつぶらな黒い瞳。
(ねぇ…忘れちゃったの?)
(私のこと…。泣いてばかりいた、小さな可哀想な聖は…今の貴女にとってはもう、どうでもいい存在になっちゃったの?)
聖の顔が、切なげに歪む。
(…ああ…今でもあの子供は、この家に―いや、あたしの中にいる―)
しかし聖はそのままくるりと背を向けて。
(ごめん…。あんたのことは忘れてないけど、あんたの思いに応えることはもう―できない。過去の事情はどうあれ、今こうして「幸福なお嬢様」になっちゃったあたしには、そんなことはもう、許されていないんだ…)
暗がりに取り残され、哀しげに見つめる視線を断ち切るかのごとく、聖は足早に自分の部屋に入り、ためらうことなくそのドアを閉じた。