何日君再来 5


 聖は、自分を生んでくれた人のことを何一つ覚えていない。

 物心ついたときから、聖が家族として認識していたのは父光一郎と母雪江、そして誰よりも大好きな姉、光の三人だけだった。

 ただ。

 不思議なことが一つ、あった―。

(×××××××―)
(※※※※※※※―)
 具体的な思考は何一つわからなかったけれど、自分を見る者たちほとんどの心の中に、かすかに揺らめくさざ波、どちらかというとあまり―好意的とはいえない心象。
 それが家族以外の人間だけだったら、聖は何も気にしなかったかもしれない。だが、一番哀しくて不安なことには、自分の母であるはずの雪江、父であるはずの光一郎の心にも、同じような波動が感じ取れること。
 持って生まれた能力を別にしても、幼い子供の心は親の心理を敏感に感じ取る。いつも、自分を見るたびに母の心に生まれる葛藤と困惑―愛していいのか憎んでいいのかわからないまま、結局はその両方の感情をもてあまして自分自身を傷つけ、惑う母の心―。
 一方、聖に対してはまるで無関心だった父。弁護士という忙しい仕事柄、普段家族とともに過ごせる時間が少ないのは仕方なかったとしても、その、たまの団欒にさえ父の興味が自分に向けられた記憶など、一度もない。
 両親が、自分に全く愛情を持っていないわけではないことはわかる。それぞれの―特に、母の心の奥底には、聖を愛しいと感じ、大切にしようという想いが確かに流れていた。
 ただそれは、一般的な大人が一般的な子供に感じる保護本能に限りなく近くて。我が子のためなら命も捨てる、真摯で強烈な―そして時には自分勝手なエゴにさえ変貌するような、親の純粋な想いと呼ぶには、母のそれはあまりにもためらいが多すぎ―父のそれは、あまりにもそっけなく、乾きすぎていた。
 それを漠然と感じるたびに、幼い聖は辛くて、切なくて。「どうしてだろう」と考えて考えて、考え抜いて―ついには自分が何か悪いことをしたからではないかと不安になり、まだ回らぬ舌で精一杯謝罪の言葉を紡ぎだそうと必死に努力し…結局、それすらも思うままにできぬ自分に腹を立て、泣き出してしまうのがお決まりの出来事だった。
(ごめんなさい…ごめんなさい…)
(めんちゃい…めんちゃい…)
 たった一言。それを言えれば、母の顔は明るくなるのではないかと思う。父がもっと、近しい存在になるかと思う。そればかりか、自分を見つめる他人どもの視線も、もっと優しくなるのかも―。なのに、口も舌も、自分の思うように動かせない。心からの、しかし何でもないごく短い言葉がどうしても…どうしても出てこない。そんな自分に癇癪を起こし、泣きべそをかくたびに、いつもすっ飛んできてくれたのは、母でも父でもない、姉の光だった。
(ひぃちゃん…ひぃちゃん…。どうして泣くの。…お姉ちゃんが、ここにいるよ。ずっと、そばにいるよ…だから、泣かないで…)
(めんちゃい…めんちゃい…)
(何で謝るの。ひぃちゃんは何にも悪いこと、してないじゃない。ひぃちゃんは悪くない。絶対に―悪くなんてないっ!)
 うまく言葉に乗せられない想いを、いつも的確にわかってくれた姉。「お前は悪くない」―呪文のように繰り返しながら、いつまでも自分を抱きしめてくれた姉。

 あのとき、自分たちはいくつくらいだったのだろうか―

 まだ言葉がうまく話せなかった自分はおそらく三つか四つ―。だったら、八つ違いの姉は多分十一か十二。
 そんな子供が、あんなにも優しい言葉で―あんなにも深い慈しみで自分を包んでくれたというのに、どうして大人たちは―当惑と狼狽、ためらいがちな愛情とほんのわずかな嫌悪―そんな感情をしか、自分に向けてくれないのだろう。

 長いこと悩み続けてきた疑問が解けたのは、ほんのわずかなきっかけからだった。

 あのときの自分は、もう少し大きくなっていたはずだ。幼稚園か、それとも、そろそろ小学校に上がろうという頃だったろうか。
 母方の知り合い―あとで聞いた話だが、それは父の仕事ともかかわりの深い、どこかの大物代議士の令夫人だと言うことだった―がたまたま家にやってきて、子供たちも挨拶をするために奥座敷に呼ばれた。姉と二人、緊張しつつもきちんと畳に手をついて、精一杯丁寧に頭を下げ、そして顔を上げたその瞬間に。
(…ああ、これがその、愛人の子ね)
 何の前触れもなく、いきなり心に響いてきた他人の声。「アイジンノコ」―意味もわからず、きょとんと目を見開いた聖に、なおも追い討ちをかけてきたその夫人の、心の声。
(何? 不躾に人の顔をじろじろ見て。…やっぱり、生まれが生まれだけにいくら躾けようがどうにもならないのかしら。…光一郎さんも、いえ、誰より雪江さんが、よくこんな子を引き取ったものだこと。あとでご苦労なさらなければいいけれど)
 実際に、声を出して言われたわけではない。その人も、表面上は穏やかな笑顔を浮かべていたから、同席していた父や母にそんなことがわかるはずもなかった。ただ、そのあと一瞬自分に向けられた一瞥の、氷のような冷たさ。蔑みきった眼差し。
 それが一体何を意味するのか―それすらもわからないまま、聖は次の瞬間、大声で泣き出していた。ただ、その人の視線が怖くて―眼差しにこめられていた敵意が辛すぎて―。
そんなことは露知らず、あたふたと慌て、聖を叱りつける父。必死にそれをとりなしながら、いつも以上に狼狽し―困惑しきった母。両親のその姿に、いつもの罪悪感が湧き上がってきて、聖はいっそう激しく泣き叫び、消え入りたい思いにひたすら縮こまるしかなかった。
 そんな背中に、しっかりと置かれた温かい小さな手。聞き慣れた台詞。
「違う! ひぃちゃんはそんなんじゃない! ひぃちゃんはあたしの大事な妹だっ! ひぃちゃんは、何も悪くないっ!」
 そのあとのことは、何も覚えていない。記憶にあるのはただ、その人を睨みつけた姉の火を噴くような瞳と、それにたじろぎながらもいっそうの嫌悪をこめて―まるで汚物でも見るように自分たち姉妹を睨み返したその人の、絡みつくようにねっとりとした、敵意に満ちた視線だけだった。

 その出来事がどう作用したのかはわからないが、以来、聖は自分の「能力」というものをはっきりと認識するようになった。何故かはともかく、自分には他人の本心を読み取ることができるらしい―そして、どうやらそんなことができるのは自分だけのようだ―。
 戸惑わなかったと言えば嘘になる。だが幼い子供の心というのは、はかなく脆いように見えて、意外と柔軟かつ強靭だったりするものだ。聖も別に、「能力」のことで悩んだりしたわけではない。幼稚園、あるいは小学校にだって、他のみんなにできないことを平気でやってのける友達はいくらでもいた。みんながまだ前転後転に苦労しているというのに軽々とバク転(後ろ宙返り)をこなしてしまう子、算数が異常に優秀で、小学校に上がったばかりだというのに三、四年生レベルの問題を簡単に解いてしまう子、絵がものすごく上手で、早々と「将来は大画家だ」と図工の先生に太鼓判を押されている子―だとしたら、自分のこれも、同じようなものなのだろう。
(でも多分、こんなことができるからって学校の先生は褒めてくれないだろうな…)
 ぼんやりとそんなことを考え、ちょっぴり残念に思う―「能力」についての悩みなど、せいぜいそれくらいのものであった。第一、「他人の本心を読み取る」といったところでそういつもいつも―あのときのように―人の心の奥底にうごめく本性が言葉になって伝わってくるわけでもない。ただ―ただ、何となく―相対している人間の心理、想いの行方などがぼんやりと感じ取れる、それだけの場合がほとんどだったというのが正確な事実である。
 だが、それでも。時折、ぽつりぽつりと心に伝わってくる単語、そしてその言葉に対する相手の心象―すなわち意味は、どれもこれもあまりに赤裸々なものばかりで。
(アイジンノコ)
(光一郎さんのほんの些細な過ちでできてしまった…余計な子)
(ウワキ)
(全くもう…雪江さんというれっきとした奥様がいるのに…どうしてよその女になんぞ)
(イタラナイツマ)
(でもそれも、仕方ないかもしれないわね。いくら身体を壊したからといって半年もご実家に…それも、光ちゃんまで連れて。…光一郎さんが淋しくなっても、当然よ)
(オンナノ、オンナヘノコクハツ。ソシテ、ダンザイ―)
(結局は雪江さんにも落ち度があったっていうことよね。…だったら、これも仕方のないことだったのかも)
 そんな、針のような思念を。聞くだけでもいたたまれない、辛い言葉をたった一人、密かに紡ぎ合わせて―。
 小学校三年になる頃の聖は、自分を取り巻く家族の本当の事情をほぼ正確に理解するようになっていた。

 ずっと昔。まだ、自分が生まれてもいない頃―。
 母(と信じていた)雪江が体調を崩し、しばらくの間実家に帰っていたらしい。若手の敏腕弁護士として忙しい毎日を過ごしていた夫、光一郎の負担を少しでも軽くするために、まだ幼かった娘、光を連れて。
 光一郎は、雪江の父の法律事務所で働いていた(その縁で二人は結婚したのだ)。当然、経営者である岳父は光一郎に気を遣い、何かと理由を見つけては自分の家に招待し―別居していたとはいえ、光一郎と雪江、そして光はしばし家族とその祖父母を交えた団欒を存分に味わっていたはずである。
 なのに―。それなのに。
 光一郎が、雪江以外の女を愛した―いや、抱いてしまった―。
 たった一度のことだったのに、女の身体には光一郎の子供が宿り…女は光一郎に内緒でその子を産む決心をした。
 やがて、月満ちて生まれたのが聖。正式に婚姻していない男女の間に生まれた私生児、「アイジンノコ」―。
 聖の実母も、元は藤蔭家の住まう地元の地方議員の娘であったらしい。事実、彼女の父―聖にしてみれば実の母方の祖父―は選挙が近くなると頻繁に藤蔭家を訪れ、選挙戦を勝利に導く方位だの禁忌事項など、あれこれ鎮女から教えを乞うていたのだそうだ。だが、その本心に潜んでいたのは藤蔭一族への侮蔑と嫌悪。日本史の闇の中にしか生きる場所を見出せなかった得体の知れぬ外法使いに対する恐怖。そして…差別。
 そんな男が、光一郎の子供を宿した娘を許すわけがない。
 また光一郎も、愛ゆえに彼女と一夜を過ごしたというわけではないらしく…。
 かくして、己が父からも自分を抱いた男からも見捨てられた実母はたった一人、ありとあらゆる仕事をこなして必死に聖を育てていたのだという。  だがそれも、聖が二歳の誕生日を迎えるまでのことだった。
 無理に無理を重ねた実母はとうとう力尽きて病に倒れ、そのままひっそりと世を去った。残された聖を光一郎が引き取ったのも、あまりに頑なな彼女の実家に辟易し、にっちもさっちも行かなくなったから…というのが真実のようだ。

 まだ十にも満たぬ子供にとっては辛すぎる真実。だが、全てを知ったとき、聖の心には何故か、哀しみも嘆きもわいてこなかった。ただ、長年の疑問がようやく解けたことにほっと安堵した―それが正直な気持ちだったことを、今でも覚えている。
 母の戸惑い、父の無関心。今までは何もわからず怯えるだけだった哀しい反応とて、理由さえわかれば立ち向かう勇気もわいてくる。
(あたしは、お母さんの子じゃなかったんだ…。お父さんさえ、あたしを望んでいたわけじゃなかった…)
 だったら、いつまでも母や父の愛情を求めても無駄なこと。だったら自分は、少しでも早く自立して、たった一人で生きていけば、それでいい。
 その決意が、あまりの衝撃を受けたが故の現実逃避、哀しくて泣き出したい気持ちの裏返しだということを教えてくれたのもまた、光だった。
「ひぃちゃん…。あんた、このごろ変だよ。何か、あったの…? お姉ちゃんに、言ってごらん」
 とある夜、いつになく真剣な顔で。怖いくらいの表情で、自分をじっと見つめた姉の瞳の輝きが、聖にはただただ、不思議だった。
(…どうして、この人にはあたしの考えてることがみんなわかってしまうんだろう? いや、それよりも―自分とは半分しか血がつながっていないくせに、どうしてこの人はこんなにあたしを大事にしてくれるんだろう?)
 姉の想いより、自分の疑問にすっかり気を取られていた聖が返したのは表情のない、しかしどこか距離を置いた視線。だがやがて、全てを察したらしい姉は、顔色を変えて聖に飛びついてきた。
「まさかあんた…わかっちゃったの? みんな…みんな、わかっちゃったのぉぉぉっ!?」
 …昔から、この姉には隠し事などできなかったことをぼんやりと思い出す。
(ああ…もしかしたらお姉ちゃんにも、あたしと同じことができるのかもしれない―)
 もう一つ、初めて気づいた家族の真実に驚き、半ば感動さえしていた聖とは対照的に、光はただ、ひたすら妹をきつく抱きしめながら、自分の方が大声で泣き出して。
「何でもない…何でもないんだよ、そんなこと…っ! 悪いのはお父さんだ。そして、何もかも知ってるくせに何も言わないお母さんだっ。なのにどうして、あんたばかりがこんな辛い思いばっかしなきゃならないんだろう…。我慢ばっかして、謝ってばかりいて…あんたもあたしも、そこまで無理してこの家にいる必要なんて、ないのにね…」
(あんたもあたしも…?)
 しゃくりあげながら必死に叫ぶ姉の言葉にふと首をかしげたのもつかの間のこと。
「…ねぇひぃちゃん、それなら…いつか、大きくなったらひぃちゃんとお姉ちゃん、二人だけで暮らそう。お姉ちゃんがお仕事して、ひぃちゃんを食べさせてあげる。だからひぃちゃんはいい子でお留守番して、ご飯とか、作ってくれればそれでいい。…できるかな?」
 涙に濡れた目でにっこりと笑いかけられたとき、聖の心の中でも何かがぷつりと切れた。
「お姉ちゃん…っっっ!!」
 たちまち、堰を切ったようにあふれ出す涙。渾身の力を込めて姉にすがりつく細い腕の、凄まじい力。
「…できるよ…あたし、何でもするよ…っ! お料理も練習する! 一人でお留守番したって泣いたりなんかしない。だからお姉ちゃん…お姉ちゃんは絶対にあたしを置いてかないで! いつまでも、一緒にいて…っ!」
「うん…うん、いるよ…お姉ちゃんは、いつまでもひぃちゃんと一緒にいるよ…」
 とめどない涙を流しながら、互いに固く抱き合った姉と妹。今思えばそれが、聖が人前で涙を流した最後の記憶だった。

 結局。あのときの約束を、姉は守ってくれなかった。母という人がありながら別の女を抱いた父、全てを知りながらただそんな男についていくことしかできなかった二人の母。男と女の間に生まれる「愛」という名の美名に隠れた理不尽さや利己主義といったものを徹底的に糾弾し、厭い、拒絶していたはずの姉は、ある日突然一人の男に恋をして、甘い夢に酔い、そして破れ―我知らず相手の男の命を奪い、自分の命をも自ら―断った。
 その悪夢のような出来事の中でさえ、聖には涙を流した記憶などない。ただ、心にぽっかりと開いた穴、そこを吹き抜ける乾いた冷たい風に凍え、全てを拒絶してひたすらに縮こまっていただけ。
 だが、いつまでも身を丸め、縮こまっていることは許されなかった。
 姉の死からわずか二年後、突然父が病に倒れたのである。暗い瞳で「癌」という病名を告げた医者は、いっそう沈鬱な面持ちで「もう、手の施しようがない」と言葉を続けた。まして、父はまだ若く、病気の進行も早くて。結局たった半年の闘病生活を送っただけで、あっけなく―光のもとに旅立ってしまった。

 残されたのは、全く血のつながらぬ母と子―。

 だが、このたて続いた不幸のおかげで―

 雪江の心が少しずつ、少しずつ…変化していったらしい。

 聖がそれに気づいたのは、父の納骨もとうに過ぎた頃だった。
 四人で住んでいた頃でさえ広すぎるくらいだった豪勢な屋敷に、今は自分と母のたった二人だけ。ゆったりと余裕のあるはずだった空間が、いまでは妙にがらんとしてもの淋しい。その所為か、雪江―母は、何かにつけて聖の名を呼ぶようになった。
「聖…? どこにいるの?」
「聖、出かけちゃったの…?」
「聖、聖…」
 母は大抵、居間で編み物だの習字だのをしている。どちらも、結婚前からの趣味だったそうだ。家族の数が半分になってしまってからは、やらなくてはいけない家事も随分と減り、こうして自分自身の時間を持てるようになったことは多分、母にとっても悪いことではなかったはずなのだが。
 一心不乱に毛糸を操り、あるいは白い紙にしたためられた鮮やかな―あるいはかすれ、薄れた墨痕と戯れるほんのちょっとした隙に―。
 ふと周囲を見渡して、自分以外誰もいない部屋に気づくことで。夫も娘も、自分を置いてあっさりと彼岸へ旅立ってしまったと、あらためて思い知ることで。
 雪江はようやく、「淋しい」という思いに気づいたのであろう。今までも、彼女は嫉妬やら葛藤やら戸惑いやら、ありとあらゆる感情に振り回されてきた。だが、そのときにはいつも光一郎が、そして光が。自分が夫と呼び、自ら産み落とした娘がすぐそばにいて―。
 その二人を永遠に失ったとき、雪江は初めて、「淋しい」という気持ちを知り、それを共有する相手として素直に聖を見つめることができたのかもしれない。

 たった一人残された、もう一人の娘。
 自分と同じ思いを抱えているはずのたった一人の存在。
 一方の聖はといえば、「淋しさ」などは自分に言わせれば第二の天性、今さらそんなことが何だと鼻で笑うことも簡単にできたはずだが。
 それでも、母が懸命に自分を呼ぶ、その声が嬉しかった。「はーい」と元気よく返事をして、居間の入り口からひょいと顔を出す自分を見た母の―もう葛藤も戸惑いもない―純粋に聖の存在を受け入れ、彼女がいることで心から安心したふうの微笑みを見るのが何よりの幸せだった。

 そしていつか―あれほど愛した姉を失った哀しみすら、その喜びと幸福に次第、次第に薄れてきたはずだったのに。

 なのに―。

「聖! 聖!」
 自分を呼ぶ声に、はっと聖は我に返る。ああ…これはお母さんの声じゃない―お祖母ちゃんの―そして、叔母ちゃんの声だ…。
「聖。…黙ってちゃわからないよ。悲しいことや悔しいことがあったんなら、何もかもみんな、吐き出しておしまい。ばあちゃんも叔母ちゃんも、みんなあんたの、味方だよ…」
 真顔でそう言ってくれる祖母、そしてその脇で泣きそうな顔になっている初音叔母の気持ちは本当に、ありがたかったけれど。
 あれだけの長い物語を今ここで手短に話す術など聖は持ち合わせていなかったし、いくら親戚、同族とはいえこれはやはり自分の家だけのこと。
 ただでさえ度重なる失言にかなり自己嫌悪に陥っていたところへもってきて、これ以上あんな思いをするなんて死んでもごめんだ。
 だから。
 精一杯知恵を絞って。
 慎重に言葉を選びながら。適当に真実を織り交ぜながら、この祖母と叔母に必要以上の負担をかけてしまわないように細心の注意を払い―。
「…ああ、ごめんなさい。…あのね、お母さんは昔―確かに、あたしを見るたびに困ってた。あたしを愛そうとしてくれて、だけど…どうしてもそれができなくて。でもそれも、お父さんが亡くなるまでの話なんだ。それからのお母さんは、たった一人残った家族であるあたしを心から大切にして…そして、頼ってくれてる。でもって、あたしも、お母さんが大好きだから―。お祖母ちゃんや叔母ちゃんが心配するようなことはもう、何一つない。これだけは、本当だよ―」
 軽い口調で笑って見せたものの、聖の心臓は今にも体の中から飛び出さんばかりに激しく脈打っていた。何しろ祖母は姉をもしのぐ「大」能力者である。もちろん自分も、姉にあっさり心のうちを見透かされていた頃に比べればかなり成長し、大人の小ずるさなんぞも身につけたつもりではいるが、この古雌狸の前では所詮生まれたてのひよっこにしか過ぎない。
(頼むからばーちゃん…これ以上のツッコミはなしにしてくれよぉ…)
 そんな聖の祈りを知ってか知らずか。
「…そうだったのかい。大変だったんだねぇ、聖」
 祖母が妙にしみじみと、ため息混じりにつぶやいた。
「雪江さんもまだ若かったから…理屈ではわかったつもりでも、自分自身の心を抑えることはそう簡単にはできなかったんだろうさ。でも、元はといえばみんな光一郎―このばあちゃんのバカ息子がまいた種だ。雪江さんや光、そして波子さん―あんたの本当のお母さんには―いや、誰よりもあんたには本当に辛い思いをさせたと思うよ。…ごめんよ、聖。お父さんに代わってこのばあちゃんが謝るから、どうぞ、許しておくれ…」
「ちょ、ちょっとお祖母ちゃんっ!」
 いきなり畳に手をついて頭を下げられ、聖は慌てた。ヘタにツッコまれなかったのは確かにありがたいが、こんな成り行きになってしまっては、それはそれでどうしていいのかわからない。第一、こんな浪花節の世界ははっきり言って超苦手である。
 だが、祖母はなお、語り続けることをやめてはくれなくて―。
「…でも、それでわかったよ。光が―うちに来ても、できるだけ早く帰ろうとした理由が」
「お姉ちゃんが―?」
 姉の名前を出されては、聖としても聞き捨てならない。
「あの子が、中学に入った頃から修行のために時折このうちにやってきてたのは知ってるだろう、聖」
 訊かれた言葉に、素直にうなづく。姉の強大な能力に気づいた祖母は、できるだけ早く自分の手元で修行をさせたがっていた。しかし、父の猛反対に遭い―どうやら光一郎は、この藤蔭の血筋を深く忌み嫌っていたらしい―だが、年々強くなっていく姉の能力を見せつけられてはさすがの父も折れるしかなかったようだ。祖母に言わせれば「遅すぎた」のかもしれなかったが、とにかく月に二度か三度、姉はこの家を訪れるようになっていたはずだ。
「いつも光は、修行が終わると慌てて家に帰ってしまうんだ。『たまには夕御飯でも食べてお行き』なんていっても聞きゃしない。理由を尋ねたら、『ひぃちゃんを一人にしておけない』…ってさ。その頃は、ただ仲がいいからとばかり思っていたけど、光にしてみれば、心細い思いをしているお前のことが、何より気にかかっていたんだねぇ…」
「お姉ちゃんが、そんなことを…?」
 祖母が、無言のままうなづく。そして、次に出てきたのは思いがけない言葉。
「でもね聖。いつも一緒にいたことで救われていたのは決して、お前一人じゃないよ」
 瞬間、はっとして大きく目を見開いた聖をよそに一息入れ、すっかり冷めてしまったお茶をゆっくりとすすりこんだ祖母は―。
「お前が生まれる前の光はね…すごく―すごく、淋しそうだったよ。雪江さんはもちろんのこと、光一郎にも残念ながら、藤蔭の能力なんてものはかけらもなかった。そんな親の元にただ一人、それも一族で一、二を争うような力を持って生まれてしまった娘がどんな思いで大きくなったか、考えてごらん。…光一郎はこの家自体を嫌っていたからね。あたしや初音たちも光が小さな頃はあんまり会わせてもらう機会がなかったんだけど…。たまに会うたび、いつも思った。…なんて、淋しい目をした子供なんだろう、ってね。その光の目が、そして表情が変わったのは聖、お前が来てからだよ。自分と同じ『能力』を持つ妹ができて、よっぽど嬉しかったんだねぇ。お前と一緒にいることで一番救われていたのは―もしかしたら光自身だったかもしれないと―あたしゃ、今でも思うんだよ」
 聖にとっては、初めて知る事実だった。
 ああ、だからか―。
(あんたもあたしも)
 小さな頃からずっと心に引っかかっていた言葉の謎が、今始めて、解けた気がする。
 だが。
「そんな…っ! そんな、お祖母ちゃん! だって、あたしの力なんて、お姉ちゃんとはとても比べ物にならなくて…お姉ちゃんみたいなすごいこと、あたしには何にもできなくて…」
「それでも、何一つできないってことはないだろう?」
 祖母の目が、何とも言えぬ優しい光をたたえて聖を見た。
「さっきのお母さんとの話にしたって…いくら雪江さんが理屈で割り切れない葛藤を抱えていたとしても、小さなあんたを言葉で直接傷つけたはずはない。あの人だって、それくらいは覚悟してあんたを引き取ったはずだからね。だから、さっきの『あたしを見るたびに困ってた…』なんて台詞も、お前がお母さんの不安定な『気』を、そしてその原因を、ぼんやりとでも読み取っていたからわかったことなんだろう? 違うのかい?」
「うん、まあ…それはそうだけど…」
 納得していいものかどうかなおもわからないまま、反射的にうなづいてしまった聖。途端、祖母がにんまりと意味ありげな笑いを浮かべた。
「そうかい! それならやっぱりお前は立派な藤蔭の『能力者』だよ。初音、学校の幽霊に関してはこれから全て聖に任せるからね。来週一番に、お峰さんにそう伝えておくれ…あ、いや、あとであたしから電話しておこう。それよりお前も、できる限りこの子の力になってやっとくれね。頼んだよ」
「あ…!!」
 気づいたときにはもう遅い。目の前には「してやったり」とばかり、得意満面の祖母と、「聖、ありがとう! 助かるわぁ!」と深々と頭を下げた叔母。
(ちくしょおおおおぉぉぉっ! 騙されたっ!)
 やはり、海千山千の大雌狸に小さなひよこがたてつこうとしても無駄なことだった。
 初めに頭を下げて聖の動揺を誘い、人情話で守りの隙をつき、誘導尋問で自分の陣地に誘い込んだ挙句、揚げ足を取って一気に寄り切る。持って生まれた性格と、藤蔭家の長として過ごした長い年月の蓄積によって初めて可能になる、見事な作戦であった。
「くううぅぅ…っ!」
 唸ろうが後悔しようが、すでに逃げる道はない。
(あああっ! あたしのバカっ! このババアの言うことにちょっとでもほだされたが最後、ロクなことにならないって何度学習すりゃ覚えるんだよっ!)
 苦虫を千匹分ぐらい噛み潰したような表情で自分自身を責め続ける聖の耳に、祖母の頭上にかけられた年代物の柱時計が時を告げる音が響いた。一、二、三…合計、四回。
(げ…もう四時っ!?)
 たちまち頭の中に蘇る、もう一つの重大事項。
「ばあちゃん、叔母ちゃんっ! 悪い! ちょっと失礼っ」
 叫ぶように言い残し、席を蹴って座敷の外に飛び出した聖を、祖母の声が追いかけてくる。
「聖! それで結局、お前は承知するのかい? しないのかい?」
「ああもう、わかった! わかりましたよ! 幽霊でも妖怪でも、何でも祓うよっ! だからちょっと…ちょっとだけごめんっ!」
 怒鳴り声とともにぱたぱたと廊下を駆け去っていく足音に、祖母が最後に投げた言葉は果たして届いていたのだろうか。
「でも聖! さっきの…光のことは本当だからね! 忘れるんじゃないよ!」
 返事の代わりに鎮女と初音の耳に聞こえてきたのは、切羽詰った絶叫だけであった。
「御法叔母ちゃん! 一生のお願い! 電話、貸してえええぇぇっ!」
 


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