何日君再来 7
ふと目を開ければ、飛び込んできたのは満天の星。
(あ…)
驚いて周囲を見回し、そして気づく。夜空ノムコウ―遥かなる天の高みに、たった一人ぽつんと浮かんでいる自分自身に。
(やれやれ…。まーた、やっちまった…)
絶対零度の空間に漂いながら聖は苦笑する。このところ、めったに体験しないからすっかり安心していたのに―
(何でこう、好き勝手に飛び出してきちゃうんだろうなぁ…)
「天地遊行」。俗に言う幽体離脱。自らの「気」のみを自由自在に飛ばしてありとあらゆるところに一瞬にして移動する、藤蔭家の能力者にとってはごくごく初歩の技術。
事実、祖母などはこの能力を駆使して遠く銀河の果て、あるいは灼熱のマグマが荒れ狂うこの惑星の深奥までも飛ぶことができるらしい。おそらく姉が生きていればそれと同じことを簡単にやってのけただろう。
だが聖の場合、その領域にはほど遠く―。
どんなに頑張っても移動距離はせいぜい肉体からの半径五キロ以内。しかも自分の「気」ときたら、意図的に飛ばそうとしたときには中々身体から離れようとしてくれないくせに、精神的に疲れていたり、極度に動揺して心を抑えきれなくなったが最後、その意思なんかにはお構いなしに思い切りよく飛び出してしまうのだから、はっきり言ってまるで使い物にならない。多分今回の原因はこの前の土曜日、祖母の家で―心ならずも思い出してしまった、あの過去の記憶の所為なのだろうけれども。
(要は、現実逃避ってやつなのかね…)
肉体から離れ「気」のみで漂う今の聖は、不可視不定形の純粋なエネルギー体。だが彼女自身の目には、まぎれもない自分の姿形がはっきりと見える。もっともそれは半透明の、淡く頼りない影に過ぎなかったが。
多分これは、聖が心の奥底で望んでいるからこそ知覚できる幻にしか過ぎないのだろう。たとえ藤蔭の能力者とはいえ、今の自分が幽体離脱状態であることをしっかりと自覚しているとはいえ。所詮人間である身にとって、その形を失うということは何にもまして心細く、恐ろしいことなのかもしれなかった。そんな恐怖、あるいは怯えから逃れようとする自己防衛本能が、こんな目くらましを自分自身に見せているとしたら。
(現実逃避の中の現実逃避ってかぁ? あーあ、やだやだ)
うんざりと肩を―実体を持たぬ、自分自身の概念の中にしかない、幻の肉体―をすくめ、ふと下界に目をやれば。
(こんな時間だってのに、よくもまぁきらきらと…きらめいていやがること)
今夜、聖がベッドにもぐりこんだのはかなり夜が更けた頃だった。だとしたら今はもう完全な真夜中、日付が変わってからも相当長い時間が経っているはず。なのに、足元に広がる人工の光の渦は―天空に輝く光を模した欲望の灯り、聖の厭う「現実」とやらが我が物顔にのさばる人の世の、傲慢な自己主張は―衰えるということを知らぬがごとく、いつまでもいつまでも―輝いていて。
「…くっ!」
顔を背け、きっと唇を噛みしめた少女の顔が、真っ直ぐに天を見つめる。そして一気に、空の高みへ向けて翔け昇った。
銀の龍の背に乗って―いや、自分自身が白銀の龍、さもなくば青白く輝く光の矢と化してただひたすらに、上昇を続けてきたその挙句。
(くぅっ…)
まっしぐらなその飛翔が、不意に止まった。
(くっ…そおおぉぉぉっ…)
幻の腕、そして足を懸命にかいてさらなる高みを目指そうとする顔が、苦痛に歪む。
もう…行けない…。
能力の限界。自らの肉体から五キロ以上離れた場所にまで「気」を飛ばすなんて、今の聖には到底無理な話。
(う…うおぉぉぉぉぉっ!)
息も絶え絶えな悲鳴をもらしつつ、聖はなおも手を伸ばそうとする。厭わしい「現実」から少しでも遠ざかりたくて。「お嬢様」と持ち上げつつ、陰で「愛人の子」とせせら笑う、無数の―したり顔の大人たち、そいつらが牛耳る「現実」からできる限り、離れたくて―。
だが。
そんな願い一つで限界を超えられる奇跡なんて、あるわけがない。
どんなにあがいても。もがいても。
きらめく星々は懸命に伸ばした手よりも遥か遠い彼方、人の手による機械―飛行機でさえも、震える指よりなお上を飛ぶ。
(く…はぁぁぁぁっ…)
もがく指が、空しく宙をかく。爪を立て、どんなにかすかなよすがをも捉え、すがりつこうとする必死の思いもまた、空しく虚空に消える。
そして―。
不意に、体から全ての力が抜けた。真っ暗になる視界。薄れる意識。
はっと気をとり直してももう遅い―死に物狂いで抵抗し、もがきまわる力すらも使い果たした挙句、あとはもう―あの厭おしくおぞましい現実世界に向かってまっしぐらに―堕ちて行く自分。
逆転した天地。人の子の身にとっては耐え難い速度が身の毛もよだつ恐怖となって全身を総毛立たせ、思考を凍りつかせる。
だが、次の瞬間にはそれこそが、半ば自虐的な快感となって―。
(あたしの―堕ちる先にあるのは多分、あたし自身の身体そのもの…)
(だったらいっそ、砕けてしまえ。このやるせない心と身体、この世に存在する価値さえない肉体と精神が思い切りぶつかって、どちらも永遠に―)
(この世界から、消えてしまえばいい―!!)
願わくばそのとき、粉砕され、飛散した自分の欠片が―この抱えきれない怒りと迷い、そして悲哀とを世界中にまき散らし、この世に未曾有の無間地獄を生み出すことができたらどんなに面白いか。
まっしぐらに、ただ堕ちていくだけの堕天使、いや、現実世界に破滅をもたらす悪魔と化した自分を想像し、苦しくも邪悪な笑みが口元に浮かんだのも一瞬のこと―。
「聖! いつまで寝てるの! いい加減に起きないと、学校に遅れちゃうわよ!」
階下からの母の叫び声に途切れる夢。果たせぬ願い。
「ふぁ〜い」
寝ぼけ眼で返事をする自分は、純粋無垢な天使などではない。しかし、堕天使にも悪魔にもまた、なれず―。結局残るのは、心身ともに疲れ果てた己れ自身と、虚しく破れた夢の破片、重く濁った暗い願いの残滓だけ。
だが。
たとえどんなに打ちひしがれていようとも、どんなに心が重く沈んでいようとも。新たに明けたこの一日をいつも通りに、平々凡々に過ごして行かなくてはならないのは、生活にくたびれ果てた大人だろうが、親のすねをかじっている高校生だろうが全く変わりがなくて―。
結局、朝の仕度を慌しく終えた聖はいつも通りに家から飛び出す羽目になる。そのあとは、学校に向かって全速力でダッシュだ。
「聖! 大丈夫だった!?」
「この間は、あれからどーしちゃったんよぉ!」
例によって教室の窓を開けてくれた瞳子と煕子の叫びが頭にきんきんと響く。その窓すら、今日は飛び越える元気もなくて半ばよじ登るようにして乗り越えた。一昨日の土曜日、あの祖母と丸半日ともに過ごさなくてはならなかったダメージはかなり深刻で、続く日曜日はほとんど終日虚脱状態、さらにその次の今日、月曜日でさえ、体調は決していつも通りとはいえない。
だが、心配そうに自分を見つめる友達二人に黙っているわけにもいかず。
瞳子と煕子に土曜日の出来事全部を話し終えるまでには(もちろんあの幼い日の記憶、そして昨夜の幽体離脱の話は抜きにしてだが)、午前中の休み時間全部と昼休みの半分を費やすことになった―。
もちろん、全てを聞いた瞳子と煕子にも言うべき言葉なんてあるはずがない。
「うーん…。そりゃぁ、何て言っていーんだか…」
「とりあえず、レコードとポスターが手に入ったのはよかったけどさぁ」
「そのかわりにあの、中等部の幽霊退治しなきゃなんなくなったってのはまた…」
「ね、聖。あんた結局、レコードとポスターエサに、めんどくさいこと全部、お祖母ちゃんに押しつけられたんと違う?」
「ううう…確かに。でも頼む。今は、何にも言わないで…あたし、とてもじゃないけど言い返す元気ない…」
今日ばかりは食欲なんてカケラもない。それでも、心配した煕子が購買部から買ってきてくれたコーヒー牛乳だけは瞳子と二人の監視のもと、強制的に飲み込まされたわけだけれど。
一方、ぐったりと机に突っ伏した聖を見下ろし、不安げな視線を交わした瞳子と煕子。「今は、何も言わないで…」という友達の願いを聞いてやりたいのは山々だが、こればっかりは―確かめないわけにはいかない。
「うん…それならうちらはもう何も言わないよ。…でも、これだけは教えて」
「あんた一体、これからどーする気なん?」
いくぶんおどおどとした二つの声に顔を上げてみれば、泣きそうな顔で自分を見つめている友達。聖は精一杯不敵に笑ってみせた。
「…とにかく、その『幽霊さん』に会ってみないことにはどーしよーもないから…。今日の放課後、その植え込みに行ってみるよ。それから先のことは…あとで考える」
「大丈夫…なの?」
「ん。うちのばーちゃん曰く、そいつはこの学校や、生徒自体に悪意を持ってる奴じゃないらしいから…ちょっと顔みて、話するくらいなら平気なんじゃないの? それくらいの能力は、あたしにだってあるよ。だから、心配しないで」
だが、そんな言葉をいくら積み上げたところで二人の表情はちっとも変わることなく―。
「あーん、もう! 他のことだったら、少しはあたしらも手伝ってあげられるのにっ」
「ね、聖…。うちらじゃ何の助けにもならないかもしんないけどさ、でもせめて…一緒に行くくらいは…できないかな? たった一人でそんなモンと『ごたいめーん』だなんて…あんまりヤバすぎるよぉ」
「…あんがと」
目に涙を溜めてそう言ってくれる二人の言葉は骨身に沁みてありがたかった。…でも、向こうがどんな奴かもわからないうちに、大事な友達を巻き添えにするわけにはいかない。
「でも、ホントのホントにヘーキだから。…もしこの先、あたし一人の手に負えなくなったら絶対、あんたたちにも応援頼むよ。だから今日だけは…一人で行かせて。…第一、そんな深刻になる問題でもないしぃ。今までだって、中等部の連中が何人もその『幽霊さん』見て、そんでも死人は一人も出てないじゃん。だから、大丈夫」
「聖…」
「それよか、この話は誰にも、絶対秘密にしといてよ。初音叔母ちゃんから昨日電話があってさー、この話、峰バァと叔母ちゃん、それからキミちゃん以外には先生方にも知らされてないんだって。だから、絶対―お願いだから、誰にも言わないでね!」
佐田校長と自分はともかく、現在聖の担任である中村教諭にもまた、一通りの事情を話しておこうと考えたのは、初音叔母のせめてものけじめであったのだろう。だが、そんな大人の事情など少女たちにとってはどうでもいいこと、瞳子と煕子はただ―自分たちの親友、聖からの頼み、それだけの理由のために―なおも言いたいことはあっただろうけれど―全てに口をつぐみ、深々とうなづいたのであった。
午後六時。聖はゆっくりと、座っていたソファから立ち上がる。
「もう…行くの?」
自席でテストの採点をしていた初音叔母もまた立ち上がり、ドアのところまで送ってくれた。誰にも知られず秘密裏にことを運ぶため、聖は全校生徒が下校するまで初音叔母のいる社会科研究室でひっそりと息をひそめて…というか、時おり居眠りなどしつつ、ぐたぐただらだらと暇をつぶしていたのである。
「それじゃ聖、頼むね。…気をつけて」
平然としているように見えて、初音の声には不安がみなぎっていた。元は自分の頼みとはいえ、聖をたった一人で行かせるのは初音にとってもかなり勇気のいることだったに違いない。しかし所詮初音とてほとんど「能力」を持たぬ身、無闇に同行して聖の足手まといにでもなったらそれこそ取り返しがつかないから―。
気丈な表情を装いつつ、かすかに頬を震わせ、唇をぎゅっと噛みしめている叔母に、聖は目一杯元気な声を張り上げる。
「はっ! それでは藤蔭聖、行ってくるでありま〜す」
軽い敬礼までしたあとは、研究室のドアを一息に閉めた。初音が心配する気持ちはよくわかるけれども、それでも、こんな顔をしている叔母をいつまでも見ているのは…嫌だ。
秀桜学園の、生徒の最終下校時刻は午後四時半。それから一時間半もたった今となっては校内にはまるっきり人の気配がない。真冬のこととて外はすでに宵闇に包まれ、その上廊下や階段の照明も必要最低限に落とされた薄暗がりの中を、聖は恐れ気もなく進み、程なく校舎の外へ出た。
地平線のあたりにはまだかすかな明るさが残っているものの、陽はもう完全に沈み、空には瞬く星さえも見える。そんな中、黒々とそびえ立つ校舎が不気味だ。とはいえ中等部校舎一階、第一職員室の窓にはまだ皓々と明かりがついていて。
(おっと、ヤバいヤバい。センセー方にめっかったらえれーこっちゃ)
その窓の脇だけはこっそりと身を屈め、抜き足差し足で通り過ぎる。そして、いよいよ中等部校舎西端―その角を曲がれば例の植え込み、というところまで来て聖はふと頭上に光るもう一つの窓を見上げた。校舎の三階、社会科研究室。
そこだけは、明かりがついているだけでなく窓が全開になっている。おそらく初音が、あの表情のままじっと聖を見つめているのだろう。だがここを曲がったあとは、その視界から聖の姿は消える。初音はおそらく、居ても立ってもいられない気持ちでいるのに違いない。
例えどんなに厳しくても。時には姪っ子をおもちゃにして存分に弄んでくれるにしても。もしこれから聖に何かあったら、あの窓から飛び降りてでも駆けつけてくれるはずだ、初音叔母という人は。
(一歩間違えば尊属殺人…こりゃいっちょ、気合い入れていかにゃあ!)
一つ、大きく深呼吸をして。聖は迷うことなく、校舎の角を曲がった。
その植え込みのあたりは、ほとんど完全な暗がりだった。敷地内に設置されている外灯や非常灯の光もここにはほとんど届いてこない。当然、肉眼には何も見えなくて当然なのだが―。
(…いる!)
視覚でも聴覚でも嗅覚でもない、藤蔭の能力者だけが持つ研ぎ澄まされた不可知の感覚が、確かに何ものかの存在を捉えた。警戒しつつ、一歩一歩ゆっくりと植込みに近づいていく。だが、まだそいつの全貌はわからない。ただそこにいるという本能的な確信、そしていつしかちりちりと逆立った全身の産毛だけが、目に見えぬ「何か」の存在を聖に訴えかけてくる。
と―聖の足が草むらに踏み込み、かさり…と小さな音を立てた。
途端―!
(来たか―!)
周囲の「気」がゆらめくのを感じ、聖はとっさに身構えた。その目の前、ほんの数メートルしか離れていない場所が、ぼんやりと明るくなる。
そして、いよいよそこにある一つの姿が浮かび上がろうかとしたとき―!
(…キヨコサマ?)
不意に頭の中に響いた、鈴を転がすような声。
(え…?)
これって、もしかしたらもしかして―!?
だが、聖が首をかしげるよりも早く―。
そいつは、姿を現した。
(え…ええええええぇぇぇーっ!!)
大声で叫び出しそうになって、聖ははっと口を押さえる。こんなところで叫んだりしたら全ては水の泡だ。だけど―。
(ちょっと待てぃっ! こんなんって、ありかよぉっ!)
聖が呆然とその場に立ちすくんだのも無理はあるまい。何故なら、闇から溶け出すように忽然と姿を現したそれは―。
「中等部の幽霊」は―。
黒羽二重の紋付に臙脂紫の袴、そして赤い鼻緒の草履、結い上げて大きなリボンをつけた髪―。
紛れもなくこの学校の―秀桜学園の―戦前までの制服を身につけた、聖自身とほとんど年の変わらぬ、一人の美少女だったのである。
(おいおいおいおいっ! よりにもよって、どーしてこんなのが出てくるんだよっ!)
幽霊に―というよりその姿にパニックになりかけた聖の口がぽかんと開く。正直、もっともっと強面のおっかなそうな奴が出てくると覚悟を決めてきたというのに、これでは当て外れもいいとこだ。
だがそんな聖の目の前、幽霊―美少女はどこか哀しげな、怒ったような表情になって―。
(キヨコサマじゃ、ないのね…。貴女は、一体誰?)
再び響いてくる、可愛らしいきれいな声。戸惑いながら、聖も精一杯、友好的な思念を送る。
(あたしは…藤蔭聖。ここの―秀桜学園の高等部二年生。ねぇ、そう言う貴女は…一体誰?)
だが、それに応える声は二度と聞こえず。
ぷい、と横を向き表情をくしゃくしゃに歪ませた幽霊は、今にも泣きそうな顔のまま、あっという間に聖の前から消え失せてしまった。
あとに残されたのは、聖と―再び闇と静寂を取り戻した植え込みの木々だけ。さっきまではっきりと感じ取れたあの気配すら、今はもうこれっぽっちも残っていない。
(えーと…。んー…。これって一体…)
それでもまだ、声を出してはいけないと言う理性だけはかろうじて残っていたけれど。
(何なんだあああぁぁぁっ!!)
心の中で絶叫した聖は、そのままなおもしばらくの間、たった一人―ぽつんとたたずんだまま、あっけにとられた表情で闇を見つめているしか…なかった。
「うーん…『キヨコサマ』『キ、ヨコサマ』『キヨ、コサマ』『キヨコ、サマ』…」
ぶつぶつとつぶやいていた聖の肩を、瞳子がぽん、と叩いた。
「何、聖。まーだ、考えてんの?」
翌日、聖の無事な姿を見た瞳子と煕子が涙さえ浮かべて抱きついてきたのは言うまでもない(ちなみにそれは、あのあと社会科研究室に戻ったときの初音叔母も同様だった)。だが、一時の感動が治まればそこは好奇心旺盛な女子高生のこと、たちまち例の幽霊についての質問攻めだ。聖の方も、すでにある程度話してしまっているからにはここだけ口をつぐむわけにもいかず―。昨日のことは洗いざらい報告し、二人もまたそれで納得したのだけれど。
どうしても、わからない謎が一つ。最初に頭に響いてきた、「キヨコサマ」という単語。
あのときの幽霊の言葉はほとんど理解できたと思う。だが、こればっかりは―どう考えればいいのかまるっきりわからないまま、丸一日ぶつぶつと同じ言葉をつぶやき続ける「ちょっとアブナイ人」になってしまった聖に。
「…それってさぁ、やっぱ固有名詞と見るほかないんとちゃう? 『キヨコ、様』ってさー」
瞳子の後ろからひょいと顔を出した煕子が、もっともな意見を述べる。
「だってその幽霊、昔のこのガッコの制服着てたんでしょ? 『はいからさんが通る』みたいな」
「うん。紛れもなく紅緒さんや環さんそっくりだった。ただ、着物は黒の羽二重だったからマンガよりはかなり地味だったし、足元は編み上げブーツじゃなくて草履だったけど」
「そりゃ、そのスタイルがうちの流儀だったんだからしゃーないべさ。…じゃなくてぇ。あのさ、大昔はここって、友達同士でも『様』付けで呼び合ってたっちゅーじゃん。だったら絶対、間違いないよ。ね、それよりもう帰ろ。こんな時間まで残ってんの、うちらくらいだよ。せっかく聖が無事帰ってきたんだもん。『ウィーン』行ってぱぁっとやんない? パフェでもプリン・アラモードでもっ!」
「ウィーン」というのは学校から二駅ほど離れた街にある名曲喫茶だ。店構えも中身もごくごく普通、しかし店内のB.G.M.はクラシック音楽のみ。美術だけでなく音楽にも造詣の深い煕子はもちろん、聖や瞳子にとってもお気に入りの店ではあるのだが(ただし、しつこいようだが下校途中の寄り道は校則で固く禁じられている)。
「…祝ってくれんのはありがたいけどね。でもマジ、とんでもなく大変な目に遭いかねないのはこれからなんだよ」
大きくため息をついた聖に、はしゃぎまくっていた煕子も一瞬にしておとなしくなる。
煕子が自分の気を引き立てるためにわざとはしゃいでくれたなんて、聖には最初からお見通しだ。だが、それにつきあって盛り上がる気分になんて到底なれやしない。
それというのも。
除霊だろうが悪霊祓いだろうが、その基本はみんな同じ。何らかの理由があって成仏できない―本来行くべき場所にたどり着けない霊の哀しみや怒り、あるいは恨みの全てを受け止め、理解して―ともに泣き、時にはともに怒りつつ心の底からその浄化を願う「供養」の心。霊能力者と悪霊との火花を散らす対決なんて、マンガかTVドラマの中だけの話だ。藤蔭の能力者にとって、最初から力ずくで霊を粉砕するなど、口にしただけで一族全員から絶縁されかねない最大の禁忌事項なのである。それが許されるのは、自分の命を失いかねない絶体絶命の窮地に立たされた場合のみ。第一今の聖の能力では、そんな実力行使に出たところで、勝てる保証などまずない。
しかし、一口に「供養する」なんて言ったところで―。
相手が何故成仏できないのか、どんな心残りを抱えてこの世に留まっているのかがわからないことには、その想いの全てを受け止め、共感することなどまずできない相談である。
と、いうことは。
あの霊の生い立ち、そして生涯について調べてみなければ、この先どうしようもないということであって―。
「はああぁぁぁ…」
再びため息をついた聖に、今度は瞳子が明るい声をかける。
「ま、いろいろ事情はおありでしょうが、何にしても友達同士で『様』つけなんて、お互いそんな時代に生まれてなくてよかったね。『聖様』とか『煕子様』なんてこっ恥ずかしいこと、あたしにゃ到底、言えねーよ」
がっくりと肩を落とした聖が、それでもちらりと瞳子を見る。
「そりゃ、あたしだって同じだよ。…例の『キヨコサマ』って言葉にしてもさ、煕子の言う通り固有名詞だって考えるのが一番しっくりくるってのもわかってる。でもさ、万が一…万が一名前じゃない、別の意味を持ってるとしたら…なんて考えるとねー。それにもし名前だったとして『キヨコ』ってどんな字書くわけ? 苗字は? 卒業年度は? …もしかしてそれ全部調べなきゃなんないっつーたらえれーこったよ、こりゃぁ」
正直、霊の身元調査自体がいやだというわけではない。ただ―あまりにも調査範囲が広すぎるのだ。何しろこの学校の歴史は百年以上、しかも幽霊の着ていた「はいからさんスタイル」がここの制服だったのは創立当初から戦前までときている。
「んーっと…。通算何年くらい使われてたんだ? アレ」
「えっとぉ…このガッコができたのが確か明治初期でぇ…明治元年は西暦一八六八年、だったらテキトーに一八七五年あたりとして、第二次世界大戦の終戦は一九四五年だから…」
「うるさい。それ以上言うな、煕子」
煮詰まった挙句にかなりとげとげしい口調になったのは許してほしい。だって西暦一八七五年から一九四五年までといえばおよそ七〇年。下手をすればこのあと、その七〇年分の卒業生を全員調べ上げなくてはいけないかもしれないのだ。
(そりゃ確かに、あたしゃ藤蔭家の人間で…人材不足のこのご時世、『能力者』としてやっていかなくちゃ仕方ないのかもしれないけどさ…)
しかし七〇年。しかし卒業生全員。
「うわああぁぁんっ! マジで一体こりゃ、何なんだああぁぁっ!」
放課後の教室、瞳子と煕子と三人だけになったこの場においては誰に遠慮する必要もない。聖は今度こそ、腹の底に力を込めて思う存分絶叫したのであった―。