第九章


「…ねえ! どうしちゃったの、あの子。『メトセラ』に泊まるのは昨日だけだって言ったんでしょ。今日は…戻るって。そう、言ったんでしょ? …どうしたのかしら。何か、悪いことでもあったんじゃないかしら」
 何度目かにセレインが苛だたしげな声を上げたとき、マスターは正直言ってこれ以上どうなだめたらよいのかわからなかった。
(今夜は『メトセラ』に泊まる)
(明日、邪魔しないころを見計らって戻るから、心配しないで)
 あのガキがそう言ったとき、その裏に何かあるような奇妙な胸騒ぎがして、引き止めようとしたんだ―マスターは心の中でつぶやく。
(だが、確かにあのとき、俺にとって一番気がかりだったのはセレインのことだった)
 だから―特に深追いもせずすぐに楽屋へ取って返し、ぐったりとしたセレインを、こわれものを扱うようにそうっと、そうっとこのコンパートメントに連れて帰って、一晩中ついていた。幸い、翌朝目を覚ました恋人は前夜よりもずっと元気を取り戻していたので彼はほっと胸をなでおろしたのだが、そうなると余計、あの少年のことが気にかかってたまらないのも事実であった。
(畜生! どうして俺は、あのときあいつを追いかけなかったんだろう。そう、さっさと捕まえて、大人をからかうんじゃねえ、と頭の一つも小突いて、そして一緒にここへ戻ってきていれば…)
 少なくとも、セレインをこんなに心配させることはなかっただろう、とマスターは一人後悔のほぞを噛んでいたのである。
「やっぱり、遅すぎるわ。…あたし、ちょっと見てくる」
 一方のセレインはというと、昨夜はかなり具合が悪かったし、コンパートメントに帰ってからも少し熱を出したりしたので今日は一日中ベッドにいたのだが、時が経つとともに少しずつ回復し、夕方になってようやく起き出して軽い食事なども取れるようになっていた。だが、まだその足は心もちふらついているし、外へ出るのはちょっと無理だろう。マスターは慌てて、出て行きかけたセレインを止める。
「莫迦。まだ外へなんか、とても出られねえよ。また熱でも出したらどうすんだ」
「だって、気になるんだもの!」
 きかん気な子供のように叫ぶセレインに、マスターは苦笑する。
「…わかったよ。じゃ、俺が見てきてやる。なら、いいだろ?」
 セレインは何か言い返そうとしたが、それでも渋々ながらうなづいた。
「よーし、いい子だ。なに、すぐに戻ってくるさ」
 恋人を軽く抱きしめ、マスターが外へ出て行こうとしたそのとき、不意にドアが開いた。
「セイ!」
「セイ! お前、どうしたんだ、その格好!」
 悲鳴にも似た二人の声に迎えられ、少年は軽く微笑みながらドアにもたれていた。
「ただいま。…遅くなって、ごめん…」
 セイの姿は、彼らを驚かせるには充分すぎた。まず、着ている服がずたずたに破れている。足の傷口からはまだ血が滲んでいたし、顔にも大きな擦り傷があった。
「…一体、何があったの? 何でこんな…」
「おい、そのままじっとしてろ。動くんじゃねえぞ!」
 あたふたと狭い部屋の中を駆け回り、薬や着替えを探すセレインたちにはお構いなしに、セイは早口に話し始めた。
「セレイン。マスターも、よく聞いて。旅券を作ってくれる人が見つかった。金は、今あるだけでいいってさ。明日、取りに行くことになってるんだ。マスター、行ってくれる? 西の街外れ…『メトセラ』の前の通りを真っ直ぐ行って、三本目の道を左にまがった、ほら、壊れかけた橋の向こうの廃ビル…知ってるだろ? 明日、必ず行って!…大きな、ガラス張りの方じゃないよ。その陰の、小さくて古い方。わかった?」
 息もつかず一気にまくしたてた少年の言葉に、セレインたちは目を丸くして動きを止めた。さすがに、セレインが星外へ出られるという話を耳にしたときには二人の顔がぱっと輝いたが、今はその嬉しい知らせをゆっくり聞いているときではないとすぐに気づく。
「…ねえ、ねえセイ、落ち着いて! 話はあとでゆっくり聞かせて。今はとにかく、傷の手当てをする方が先よ」
「セレインの言う通りだぜ。さ、早く足を見せな。…ったくもう、この間の怪我が治ったばっかりだっていうのによ。とんでもねえ悪ガキだな、お前は」
「時間が、ないんだよ」
 セイは何かにせきたてられているかのように、再び言葉を続けた。
「ラドフって爺さんがいるから。その人に僕の名前を言えば、旅券を渡してくれる。忘れないで! 西の外れ、橋の向こうの小さな古ぼけた廃ビルだよ」
「ちょっと、セイ!」
 セレインがいささか閉口した様子で何か言いかけた。と、同時に。
 コンパートメントのドアが激しく叩かれ、セレインとマスターはびくりと身を震わせた。途端、セイは話すのをぴたりとやめ、視線を二人からドアに移す。
「…誰?」
 恐る恐る、セレインが立って行ってドアの外に声をかける。ドアの向こうからはかなり若い、てきぱきとした声で返事があった。
「遅くにすみません。『アモール』の親父さんから、大事なお届け物を預かって来たんスけど」
「支配人が…? なあに、一体」
 『アモール』の名前に警戒心が一気にほどけ、セレインはドアを開けた。そして、ドアの向こうにいる者を認めた刹那。
「ひ…」
 言葉にならぬ音が、小さく唇からもれる。
「失礼。セレイン・デュフールさんですね」
 あくまでも穏やかに、礼儀正しく問いかけたのは一目見てわかる統治体駐屯軍の将校。…一人では、ない。かなりの人数の兵士たちを従えて、丁寧な言葉とは裏腹の鋭い目つきでセレインを見つめている。
「申し上げにくいことですが、貴女の部屋に犯罪者が潜んでいると通報があったのです。部屋をあらためさせて頂きます」
 言葉が終らぬ先に、何人かの兵士がずかずかと部屋に上がりこんでくる。
「ちょっとあんた、何すんのよ! 何が、どうしたのさ! わかるように言ってよ!」
 何が何だかわからないまま、セレインは喚いた。
「おい、てめえら何なんだよ。人の家に土足で上がりこみやがって…うわっ!」
 奥から聞こえてきたのはマスターの怒鳴り声。最後の悲鳴は、兵士たちの誰かに殴られでもしたのか。
「マスター! セイッ!」
セレインは反射的に、奥へ走りこもうとした。が、その足が動いたかどうかのうちに、彼女はいっそうの驚きに、そこに立ちすくむ。
「え…何…で…!?」
 出てきたのは、さっきの将校。そしてその後ろ、二人の兵士に両腕を押さえこまれ、足を引きずりながら引き立てられてきた…少年。
「ふざけんじゃないわよ! 何でこの子を…この子を連れて行くのさッ!」
 激しい勢いでセレインは軍人たちを突き飛ばし、少年を後ろにかばった。奥から慌てて出てきたマスターが、二人をさらに、その背後にかばう。
「あんたら、一体これはどういうことなんだ? こいつは…このガキは俺たちの知り合いで…こんな、軍に睨まれるようなことなんざ何もしちゃいないはずなんだ。それをどうして? …教えてくれよ!」
 必死に少年を守ろうとする二人に、将校は哀れむように笑って見せた。
「ずいぶんと肩入れをなさるものですね。…ま、仕方がない。何も知らぬ貴方方にとっては、こいつはただの子供にしか過ぎんのですからな」
「そうよ! この子は子供よ! それも…優しい、いい子だわ! なのに、何であんたらがこの子を連れて行こうとするの!?」
 しっかりとセイを抱きしめ、狂おしい形相で絶叫するセレインの目が、はっとしたように大きく見開かれた。
「まさか…これはあの人の差し金なの? あの人…駐屯軍総司令、ジュノー准将…!」
 瞬間、その腕の中でセイがかすかに身を震わせた。だが、興奮しきったセレインは気づかない。今の彼女はまさに、大切なわが子を守ろうと敵に向かって牙を剥く雌豹そのものであった。
「何もかも…これが目あてだったのね! 親切ごかしの言葉も、紳士的な態度も! 畜生…そうと知ってたら、あのままあいつを帰すんじゃなかった! あの夜、この手で殺しておけばよかったんだッ!」
(こんな状況は長く続くはずもない…希望をもって、生きたまえ)
(素晴らしい歌姫に、いつまでも哀しい思いをさせたくなかった)
 あの夜の、静かな。しかし、真実だと思った言葉。生まれて初めて、好感を持った統治体の将校。
 だがそれは、何もかも嘘だったと言うのか。何もかも…彼女から情報を引き出そうとするための、その場限りの偽りだったのか。
 准将の嘘、そしてそれを見抜けなかった自分への怒りが炎となって全身を灼き、セレインの精神があわや狂気へと堕ちかかろうとした寸前。
(…待て。熱くなるな。…まず、何としてでも事情を聞きだすんだ。…わかったな)
 いきり立つその肩をそっと押さえたマスターの、ひんやりとした指。かすかな目配せ。有無を言わせぬその眼差しに、セレインはかろうじて正気の縁に踏みとどまった。
(そうだ…今ここであいつをいくら罵ってもどうなるものでもない…)
 きつく唇を噛み、腕の中の少年をより力を込めて抱きしめる。その様子に幾分安心したらしいマスターが、あらためて将校に向き直った。
「…聞いての通りだ。俺たちは…俺も、この女も…このガキにはえらく世話になった。理由もわからねえまま、こいつを貴様らに渡すわけにはいかねえ…何があったのか、教えてくれ。頼む!」
 将校は、深いため息をついた。しかしセレインとマスターの目には、それが妙にわざとらしい、芝居がかった仕草に見える。
「全く、あなた方はすっかり、この悪魔に騙されてしまったようですね。…なら、言いますが…その少年は、殺人犯です。三十年前、ラヴォール大統領、サー・レ・リコゼッタを殺した、その犯人なのですよ」

「え…」
「何?…何だって!?」
 一瞬、息を飲んで二人は言葉を失った。将校もまた、それ以上何も言わない。沈黙の中、部屋の壁にかかったアンティークな掛け時計の音だけが、正確に、時間の流れを伝えている。
「おい、あんた何言ってんだよ」
 突然、マスターが大声を上げた。いつもより変にカン高い、引きつった笑いが混じった声。
「リコゼッタが…彼が殺されたのは三十年も前のことだぜ。…考えてもみろよ。このガキはまだ、生まれてもいなかった。…そいつにどうして、人殺しなんてできるんだよ。…はは…こいつはおかしいや。はは…はっはっはあ、だ!」
 手を打ち鳴らし、大声でマスターは笑い続ける。その姿を冷たく見下ろしながら、将校が兵士たちに軽く、うなづきかけた。
「この世の中にはね、どうにも信じられないこともままあるものなのですよ」
 今度こそ、兵士たちの行動は容赦なかった。マスターを、そしてセレインを荒々しく押しのけて少年を引きずり出し、外へと引き立てていく。
「セイッ!」
 叫びながら、ふとセレインは思った。
(…この子…どうして何も言わないの? 言いがかりだとも、「僕はやっていない」とも…どうして…?)
 心をよぎったかすかな疑問に、一瞬セレインの動きが止まる。その彼女の脇をすり抜け、兵士たちに追いすがろうとしたマスターが銃床の一撃を受け、跳ね飛ばされた。
「やめろ!」
 瞬間、部屋中に響いた鋭い声。そこにいた誰もがはっとして動きを止める。
「もう…やめてくれよ。その人たちを傷つけるのは。…あんたたちの目的は、僕だろう? それが、あいつの命令なんだろう? …僕は、何もしない。おとなしく、あんたたちについて行くよ。…だから、もうやめて。…お願いだ」
 既に、兵士の一人によって後ろ手にかけられた手錠。加えて両腕をがっしりと屈強の男たちに抱えられ、半ば部屋の外へ押し出されつつ、セイはほっそりとした首を後ろへねじ曲げ、懸命に叫んでいた。
「彼らは、何も知らない! ずっと…僕が騙していたんだ。信じてよ! 本当に、無関係なんだ、二人とも!」
「…信じてやるよ」
 ゆっくりと、将校が答えた。その口調はセレインたちに対するものより遥かに横柄で、かすかな憎しみさえも漂わせていた。
「セレイン…マスター…」
 紫の静かな瞳が、そこにへたり込んだままじっと自分を見つめている二人の上に向けられる。
「ごめん…ずっと、騙していて。でも、僕はあんたたちが好きだった。…あんたたちのために僕がしたこと…それだけはみんな、本当だよ。忘れないで。…絶対に…ね」
 何とも言えぬ―優しげで、哀しげで、必死な―そして、何よりも美しい微笑みが、少年の最後の表情だった。
「ご協力、ありがとうございました」
 部下たちが少年を連れて出て行ったあと、一人残っていた将校がセレインとマスターに向かって、莫迦丁寧な敬礼をしてみせた。
「こちらは、些少ですがわが軍からの謝礼です。情報提供者から―それが誰かはわかりませんが、貴方方に渡してくれと頼まれましてね。どうぞ、お受け取り下さいますよう」
 そういってずっしりと厚みのある封筒を床に置いた将校は、ついでのようにこうつけ加えた。
「それから…ジュノー准将は今回の件には関与しておられません。我々は、あの方が赴任してこられる前からずっとあの少年を追い続けてきたのです。…いかに総司令とはいえ、まだここに来て一か月もたっていないような人間の指図など…受けるものじゃない」
 最後の言葉を吐き捨てるように言い放った将校が、再度の丁寧な敬礼とともに立ち去ったあとも、セレインとマスターは茫然としてそこに座り込んでいるだけだった。





 統治体駐屯軍本部。石造りの冷たい建物は、かつてセレインとマスターが連行された頃と少しも変わっていない。銃を携えた歩哨二人が守るその正門から、黒塗りの車が三台、音もなく基地の中へと入っていった。
 先頭の車が基地本部、車寄せの真ん前にぴたりと止まる。後続の二台もその後ろに停止した。
「着いたぞ。降りろ」
 将校に言われて、セイは閉じていた目をゆっくりと開いた。促されるままに、車から降りる。先に降りていた兵士たちの銃が、一斉にその胸に照準を合わせた。
「…」
 少年は一瞬、胡散臭げな視線を走らせたが、何一つ抵抗するでもなく、黙って目の前に聳える黒い、大きな建物の影を見上げた。
「立ち止まるんじゃない。歩け」
 背後から突きつけられた銃口が、軽く背中を小突く。建物の中に入ると空気はひんやりと冷えて、気の所為か、かすかな血の臭いさえ漂ってくるように思えた。
 将校が先に立ち、暗い廊下をどこまでも歩いていく。そのすぐ後ろには、両腕を二人の兵士に押さえつけられたセイ、さらにそのあとには数名の兵士が続く。
 階段を下りたり上ったり、エレベーターを乗り継いだり。彼らが足を止めたのは、かなり長い間歩いた後だった。
 目の前に大きなドアがあった。壁も床も石でできた、窓すらもろくになく、明りも必要最低限のものしかないこの前時代的な要塞の中、妙に不釣合いな最新式の不透明樹脂のドア。
 将校がつとわきに寄り、壁に向かって何やら指を走らせていたかと思うと、不意にそのドアが開いた。途端、あふれ出るまばゆい光。セイは、反射的に片手で目を覆おうとした。しかし、両腕は動かせない。手錠はあれからずっとかけられたままだったし、その上大の男が二人がかりでその腕を押さえつけているのだ。目を細め、それでも何とかこの強烈な光から逃れようとする少年の耳に、新たな声が響いた。
「ようこそ、セイヤ君。…いや、セイ君と呼ぶのが本当なのかな?」
 目を上げたその向こうに、白衣を着た一人の初老の男が立っていた。背後に、何人かの同じ服装をした人間たちと、最新式の機械設備を従えて。
「シュヴァリエ大尉、ご苦労だった。…おかげで、またとない研究材料を手に入れることができたよ」
 鷹揚にうなづきかけられて、将校は深々と頭を下げた。
「お役に立てて何よりです、博士。…あと、何か御用は?」
 「博士」と呼ばれた男は、顎をしゃくってそれに応える。
「その椅子に、検査対象を固定するように。そして…しばらくそこに待機していてもらおうかな。何せ、どんなことをやらかすかわからん相手だ。平和な、学究の徒であるわしらでは手に負えんかもしれんからな」
 すでに、セイは室内の明るさに慣れていた。あの暗い廊下から突然入ってきたからこそ目も眩んだが、こうしてみると何のことはない、ごく普通の明るさの部屋に過ぎない。
 …軍の基地、というよりはどこかの大病院、といった方が似つかわしい部屋。「博士」が指し示し、兵士たちが自分を引き立てていく椅子は、そのまま病院の診察台だ。黒い革張りの、ゆったりとした大きな椅子…
 そこに少年は座らせられ、革のベルトで足首と腰とをしっかりと固定された。手錠が外される。
「あ…上着は、脱がせておいてくれ給え。シャツはそのままでいいから」
 兵士たちは黙々と「博士」の言葉に従った。ついで、両の手首がしっかりと椅子に固定される。ご丁寧に、首にまでも太い皮ベルトがぴったりと巻きつけられた。
「やっと、これで話ができるな」
 引き下がった兵士たちのかわりに少年の顔を覗きこんだ「博士」の目は、長いこと欲しがっていたおもちゃをようやく手に入れた子供のように輝いていた。
「わしは、テオドル・メンテス。この基地の軍医だ。医者といっても、臨床医ではないぞ。あくまでも、研究こそがわしの天職だと思っとる。そして、学生の頃から君の父上の論文に深い興味を覚えていた…」
 滔々と喋り続ける博士の言葉は、しかし相手の耳には全く入っていないようだった。
 研究専門の医者…言われなくても、少年にはわかっている。彼にとっての自分は、病を癒し、命を救うべき「患者」ではない。それどころか、人間でさえないのだろう。その膨れ上がった知識欲のために好きなだけ玩び、生きながら切り刻んで当然の、ただの…「実験動物」。いや、もしかしたらそれ以下の、単なる物体に過ぎないのかもしれない。
 それだけわかっていれば充分だ…とでも言いたげに、セイはその四肢をこの椅子に縛りつけられてからずっと目を閉じ、以後周囲に何が起ころうともまるで関係がないといった様子で眉一筋、動かそうとはしなかったのである。
「人が話しているときは、ちゃんと聞くものだよ、セイ君」
 苛立ちと不快もあらわにそうつぶやくと、博士はセイの顔に手をのばし、顎をつかんで無理矢理自分の方に向けさせた。巻きつけられたベルトがのどを圧迫し、少年の口元から吐息とも、呻き声ともつかない音がもれる。
「ランプ」
 命令と同時に、椅子の真上に設置されていたハロゲンランプが光を放つ。強い光。その中に自らも半ば身をのり出しつつ、博士はセイの閉じたまぶたを押し開けた。
 紫の、瞳。通常の光の中では黒くも見えるその虹彩が、この光の暴力ともいえる強烈な明るさの中、鮮やかにきらめいた。博士の口から、感嘆の声がもれる。
「…素晴らしい。磨き抜かれた紫水晶だな、君の眼は。…いずれ、標本としてしかるべき研究室に永久保存されるべき君の身体だが、できればこの眼だけは丁寧に取り出して、わし自身の書斎に飾っておきたいね。もちろん、変色、腐敗などせぬように細心の注意を払って、保存容器もようく吟味して、な…。実用一辺倒の野暮なガラス瓶なんかではなく、もっともっと美しい芸術品を選んでやろう。しかし、それはまだ先の話だ。どうやら君はわしの話になど興味は持てないようだから、さっさと実験にうつらせてもらおうか。…用意を」
 博士の命令は、ごく短い言葉で行われるのが通例のようだ。何もかも心得ているような助手たちが、さっとそれぞれの持ち場につく。中の一人が、ステンレスのトレイを恭しく博士に差し出した。その上にあるのは銀色の、小さなボタンのようなものがいくつか。が、博士はそれには目もくれず、セイの身体をあちこち調べ始めていた。
 頬から指先、そして足…博士はセイの傷口一つ一つを丹念に観察し、何らかの診断を下すともう一人の助手に命じてカルテに記入させていく。やがてその作業が終わると、白衣の手がシャツのボタンを外し始めた。
「…ん?」
 あらわになった少年の胸から腹にかけて、ゴドに引きずられた痕がまだ生々しく残っている。博士が、呆れたように首をかしげた。
「…一体君は、何をやらかしてきたんだね。それともわが軍の兵士たちによっぽど抵抗でもしたのかね。え、シュヴァリエ大尉」
 いきなり水を向けられた大尉は慌てて否定する。
「い、いえ! 全く抵抗はありませんでした!」
 が、博士はすぐに興味を失ったと見えてそれ以上問いかけることもせず、今までと同じように何やらカルテへの記入項目をもごもごとつぶやいただけだった。そしてようやく、差し出されたトレイから銀色のボタンを取り上げると、それを少年の身体に貼りつけていく。
「モニター、スタート」
 この銀ボタンはセンサーの一種らしい。たちまち、奥に設置されている機械がかすかな唸りとともに動き出し、コンピューターディスプレイが明るくなる。もっとも、セイの目には相変わらずぎらぎらと照りつけているハロゲンランプの光しか見ることはできなかったが。
「脈搏、七二!」
「呼吸、二三!」
「血圧、一一四/七〇」
 次々と読み上げられる数値に、博士は満足そうな笑みを浮かべながら耳を傾けている。
「脳波、正常」
「対象には、一切の生理学的異常は認められません」
 やっと、退屈な報告が終った。少なくとも、セイにとってはもうどうでもいいような難しい単語の羅列。すでに少年の目は再び閉じられ、そのやや青ざめた端正な顔は、何を聞いてもぴくりとも表情を動かさなかった。
 全ての報告を聞き終わった博士は、いっそう深い笑い皺を満面に刻みながら、つと右手を伸ばした。すでにそこには新しいトレイが捧げ持たれ、博士を待っている。
「君が極めて健康と聞いて、私は嬉しいよ。おかげで、すぐに次の作業が始められる。…どれ、ちょっと失礼」
 博士の手が、セイの腕に触れた。ひんやりと、冷たい手。同じ、冷たい感触がひじの内側に走る。アルコール綿。
「ちょっと、血液を取らせてもらうよ。…何、大したことはない。すぐに、終わる…」
 取り上げた針を、博士は丁寧にセイの腕に刺した。少年はあくまでも無表情のまま、眼を閉じている。程なく、部屋は沈黙に包まれた。ただ、かすかな音―ガラスのビーカーに赤い滴りが落ちていく規則正しい音がいつまでも響いているだけだった。




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