第十章
その、同じ頃―セレインのコンパートメントでは、取り残された二人がようやく正気を取り戻し、動き始めていた。
「…何故?」
セレインの、第一声。彼女の視線はぼんやりと空をさ迷い、あてもなく同じ問いを繰り返すだけである。
「どうして…あの子…」
マスターの方はもう少し現実的な心を取り戻していた。放心しきった恋人の隣に座り、その肩を優しく抱いてはいたけれども、その脳細胞は凄まじい速度で今までのことを一つ一つ、詳しく検証していたのである。
(三十年も昔のリコゼッタ暗殺事件…まだ十五、六のあいつがその犯人なんて、そんな莫迦なことがあるもんか)
(だが、あの将校は言った。「この世には、信じられないことがある」と。どういうことだ。俺には、何もわからない。でも…)
「セーイッ!」
突然、セレインが立ち上がり、狂ったように外に走り出そうとした。
「セレイン!」
マスターは懸命にその身体を押さえつけながら、なおも考えをめぐらせる。
(あいつ…帰ってきたときからやけに急いでいた。「時間がない」と。そして、誰だかわからない密告者は、俺たちに褒賞金を渡せ、と言ったらしい…まさか…)
「セイ! セイ!…ねえ、あの子を助けてよ! 殺されちゃうわ! あんな…あんな、統治体の軍人どものところにおいといたら!」
「セレイン!」
叱責といっていい、鋭い声。セレインはびくりと身を縮め、おずおずとマスターを見上げた。
「…いいか、セレイン。よく聞くんだ。俺の考えてることを。そして、一緒に考えてくれ。…何が真実なのか。どうすれば、あのガキを助けてやることができるのか。…頼む」
セレインの目に、わずかながら冷静さが戻ってきた。彼女はいまだ震える指でしっかりとマスターの手を握りしめ―そして、はっきりとうなづいた。
(もしも…もしも、俺の推測が本当だったら…)
一瞬、マスターは躊躇った。しかしすぐにその迷いは振り払われ、彼は口を開いた。長い、長い物語。何もかも、マスターの推理にだけもとづいた、もしかしたらまるきり的外れかもしれない話。しかしセレインは口一つ挟まず、じっとそれに聞き入っていた。
闇が、動く。ゆっくりと、ゆっくりと、少しずつ。閉じた目には、何も見えない。それでもなお、眩し過ぎる光が自分を照らしているのだけはわかる。しかし、セイが見ていたのは―いや、感じていたのはより深い、身体の奥底に在るもう一つの闇。そこで密やかにうごめくのは、彼自身の心臓。肺。胃。肝臓。そして膵臓。腸。それらを覆う、網の目のような血管。その中を、動く。赤血球、白血球、血小板、リンパ液。…動いているもの。緩やかに、少しずつ、彼の中から流れ出していく、紅の滴り。
頭から、頬へ。頬から、手足が冷たくなっていく。心臓の鼓動が、激しくなる。…息をするのが苦しい。でも、それは我慢できる。耐え難いのは、恐怖。暗い、紅い流れにやがて意識も感覚も吸い込まれ、そのまま二度と帰れぬ暗黒の中へ沈み込んでしまう…
…苦しいのは、我慢できる。でも、この失墜感には。底知れぬ奈落へ引きずりこまれていく恐ろしさには…
ついにセイは悲鳴を上げ、跳ね起きようとした。が、開いた眼に飛び込んできたのは灼けつくような白光。そして、叫んだ声はただの喘ぎに過ぎず、跳ね起きたつもりだったのはほんのわずかなあがきにしか過ぎなかった。
「心音、低下」
「血圧、四五/三三」
「脳波が乱れ始めました。…博士! これ以上の採血は危険です!」
再び慌しい声の報告が飛び交う中、博士は重々しくうなづいた。
「…大したものだ。普通人ならとうに死んでいるはずなのに、まだ身動きできる力が残っているとはな」
冷たい、乾いた指がそっと少年の腕から針を引き抜く。
「今日のところはこれで終わりにしておこう。やがて、君の体力が回復するまでな。残念だが、これではまだ足りないのだよ。私の実験のためには…な。シュヴァリエ大尉!」
「は…はっ!」
突然名前を呼ばれた大尉ははっとして姿勢を正した。
「検査対象を三十四号へ連れて行くように」
「はい!」
硬い、敬礼。ついで、大尉の合図に兵士の一人が進み出る。その顔は、青ざめていた。今、目の前で行われていた「作業」をずっと見つめ続けるのは、さすがの彼らにとっても決していい気分のものではなかったらしい。
兵士の手が、少年ののど、そして手首から皮ベルトを外す。上体が、起こされた。兵士は彼なりに気を遣ったのか、かなり静かな動作だったにもかかわらず、セイは激しい眩暈にその腕の中に倒れかかった。
「手錠を」
博士の声は、あくまでも変わらない。兵士が再び少年を抱き起こしながら、その手を後ろで組ませる。すかさずもう一人が銀色に鈍く光る鉄の輪を持って同僚を助けに行った。金属質の、小さな音。
「…よし。残りのベルトも、解いてやれ」
すかさず、腰と足首が自由になる。しかしセイは、全く同じ姿勢のままぴくりとも動かなかった。身動き一つ、もう一人ではできなかったのだ。
「服を着せてやれ。終ったら連行しろ」
博士の命令一つで兵士たちは操り人形のように、忠実に動く。シュヴァリエ大尉でさえ。闇色の冷たい霧が落ちてきて、次第に視界はかすんでいったが、その光景はどこか滑稽に思えた。
(不思議…だな。こんなときでも…まだ「おかしい」なんて…そんなこと、感じるんだな)
セイの口元に、仄かな微笑が浮かぶ。博士の目が、きらりと光った。
銀色のボタンが外されたあと、シャツが直され、上着がふわりと肩に着せかけられた。傍らの二人の兵士が両側から少年を抱え上げようとする。が、一人が相棒を目で制した。そのまま、膝と腋の下に腕を入れ、抱き上げる。少年の身体は、彼一人で充分すぎるくらい、軽かった。
「何をしている。一人で歩かせろ」
博士はもう全てをシュヴァリエ大尉たちに任せ、邪魔にならないよう後方に退いていたが、相変わらずこの場を仕切っている一番の実力者は彼だった。その目が、面白そうに細められている。
「は…しかし…」
セイを抱き上げていた兵士は何か言おうとしたが、博士の鋭い一瞥がその言葉を遮った。兵士は仕方なく、少年を床に下ろす。
立とうとする足は震えた。膝が、がくりと折れる。それでもセイは懸命に倒れまいと踏みとどまった。
再び、幾つもの銃口がその背に向けられる。シュヴァリエ大尉が博士に一礼してドアを開け、セイを導いて外に出る。暗い、石の廊下。歩きながら何度もつまづき、少年は石畳に倒れこんだ。その都度、後ろに続く誰かが、手にした銃の先で身体を小突く。浅い、せわしない呼吸をしながら、ふらつき、よろめきながら。先程の、あの部屋への道のりのおよそ倍近くも歩いたあと、ようやく大尉の足が止まった。
「ここだ。入れ」
半ば錆びついた、頑丈な鉄の扉。独房への入り口。廊下と同じ、床も壁も積み上げた石で覆われた、灯り一つない、じめじめと冷たい空気がよどんでいる狭い空間。一歩中に入ると同時に、セイは床に崩れ落ちた。張りつめていた糸がぷつりと切れ、少年は今度こそ完全に意識を失い、冷たい、硬い床の上に倒れこんだまま、二度と動こうとはしなかった。
(いいか、セレイン、よく思い出すんだ)
(俺たちがあの司令部で尋問を受けたとき、ちらりと聞いたこと。それから、さっきのあの忌々しい軍人野郎が言っていたこと、セイの『騙していて、ごめん』という台詞…)
(それらがみんな、事実だとしたら。誰も…嘘を言っていないとしたら。全てを納得できるようにつなぐには、こう考えるしかない)
長い夜がやっと明けた朝。マスターは一人、セイに教えられた道を歩いていた。一緒に行くとあくまでも言い張るセレインを説得するには骨を折ったが、セイが―あの少年が何の為にあんな行動を取ったのかと―その一言で、彼女は折れた。それでもなお、マスターが部屋を出るまで不安げに繰り返すことはやめなかったが―
(必ず、帰ってきてね)
(一人であの子を助け出そうなんて、考えないで…)
(一人で待つのはもう嫌…早く、早く、戻ってきて…)
「ああ。帰るさ。必ずな」
心に浮かんだ恋人の面影に向かって、マスターがつい口に出してつぶやいたとき、ふと見上げた目に、並んで建つ二つのビルが映った。
最初、ノックに応えて細めに開けたドアの向こうからこちらをうかがっていた老爺は、いかにも一癖ありそうな油断のならない目つきをしていたが、セイの名を告げた途端、その態度はがらりと変わった。
「おう、そうかそうか。…あんたが、セレインの。ああ。もう約束のものはできとるよ」
早速部屋に招き入れられ、手ずからコーヒーを入れてくれた小柄な姿は、どこから見ても人のよさそうな好々爺にしか見えない。しかし取引の話が始まり、マスターが自分たちのなけなしの金とともに差し出した封筒を目にした途端、再び爺さんの表情が変わった。
「そ…うか。そんなことが…。哀れなものよ。運命の手をすり抜け、何とか逃げ出そうとしよるのに、奴らは今もあの子を諦めてはおらなんだか…もう…何十年も経っとるというのに…」
深い吐息とともに痛ましげに目を伏せた爺さんに向かって、マスターは身を乗り出した。
「爺さん。教えてくれ。三十年前、何があったのか。…俺が聞いちゃ、いけないことなのかもしれないが、俺は…いや、俺たちはあのガキを何としてでも助けたい。統治体軍部の奴らからだけじゃなく、その…過去の運命ってやつからも。そのために、知りたい。だから…頼む!」
叫ぶように言葉を結び、深々と頭を下げたマスターを、爺さんはただじっと見つめている。
「実は俺、ある仮説を立てたんだ。爺さんの口から話すことができないって言うんなら、せめて、それを聞いてくれ。そして、合ってるか間違ってるか…最後に首を縦に振るか横に振るかだけでいい。それだけでいいから」
その後もしばらくの間、爺さんは黙っていた。しかしやがてその顔がきっと上がり、鋭い目が正面からマスターに向き直る。
「話して、みるがええ」
爺さんも知ってると思うが、俺とセレインは十年前のゲリラ事件の首謀者として、統治体に逮捕されたことがある。そして、尋問中にちょっと小耳に挟んだんだが、例の…リコゼッタ暗殺事件ってのは、リコゼッタの何だかわからん研究の人体実験に使われていたラヴォール人が犯人だったらしいな。そのときの俺たちは、そんなこと信じなかった。だが昨日、あいつがその犯人だと言われて…まだたった十五、六にしか過ぎないあんなガキに、そんなことできるはずがないのに…あいつ…一言も否定せず、抵抗もしないで連れてかれちまった。しかも最後に『騙していて、ごめん』なんてことまで言って。それを聞いたとき初めて、じゃあ、それは真実なのかと思った。だが、だとしたらどうしてその頃生まれてもいなかったようなガキにリコゼッタを殺せるんだ。…で、思い出したのさ。十年前に聞いたことをな。
…なあ、爺さん。今十六のガキが三十年前の事件を起こしたって思うから、わかんなくなっちまうんだよな。そうじゃなくて、三十年前に十六だった奴がいまだに十六だって考えれば…辻褄は、合う。そうじゃないか?
問いかけられた爺さんの頭が、ゆっくりと縦に動く。マスターは、やはり…という顔になり、力が抜けたようにぐったりと椅子にもたれこんだ。
「そこまで気づいとるんなら、あとはわしが話そう。お前さんも、もう察しとるんじゃろうな。リコゼッタの研究というのは、不老不死じゃった。元は、リコゼッタの援助を受けとったある科学者の研究だったそうじゃが。彼は、研究を重ねていくうちにその衝撃的な内容が必ずしも人のためにはならんと気づき、理論のみは発表したものの、現時点ではその実現は不可能だと報告した。しかし、それは嘘じゃった。彼の、発明品―人の身体を人ならざるものに変えるための理論と実践方法はすでに完成しておったし、充分実現可能なものだった。そしてその事実はどうやってかリコゼッタの知るところとなり、リコゼッタは彼に、それを記したノートをラヴォール政府に渡すよう執拗に要求した。…リコゼッタの目的が何だったのかは、わしも知らん。銀河中の金持ちどもにその情報を売りつけて金を稼ごうとしたのか、あるいはそれを使って最強の軍隊でも作ろうとしたのか。どちらにせよ、ろくなものじゃあるまい。もちろん科学者は要求を突っぱねた。大統領が脅そうがすかそうが、頑として言うことを聞かなかった。…反逆罪で、家族もろとも逮捕されるまでな。権力を持った者がよくやる手じゃよ。濡れ衣でも何でも、身柄を拘束してしまえばあとはどうにでもなるでな。そして力ずくでノートの在処を聞き出したあとで、口封じの為処刑した…」
淡々と語る、爺さんの声。しかし、じっと聞き入るマスターの膝の上で、いつしか両手が固い拳に握りしめられ、唇はわなわなと震え出した。
「爺さん…それ、本当の話かよ。…畜生! それがもし、真実なら…俺が…俺たちがラヴォールの英雄として奉っていた奴は、とんでもない人でなしだったってことかよ!」
「…ん…まあ、な。じゃが、この辺境のちっぽけな惑星を中央へ押し出す為には、そしてこの惑星の人々の暮らしを統治体並みの豊かなものにする為には手段を選んでなどいられなかったというのもまた、事実なんじゃよ。そこが政治というものの難しいところでな…あ、いや、話がそれてしもうたな。とにかく、例のノートはリコゼッタの手に渡り、もともとの発明者は闇に葬られた。じゃが、その科学者は逮捕される前、たった一人の息子―わずか五歳の幼子を地球へ逃がしていたんじゃよ。しかも、ノートの一番大切な箇所を覚えこませてな。いくら資料や記録を押収しても、その子供がいなくてはノートは不完全なままだ。リコゼッタは躍起になって子供の行方を捜したが、ついに見つけることはできなんだ」
そこで爺さんは一息ついた。卓上のコーヒーカップに手をのばし、ゆっくりとすすりこむ。そしてマスターは、爺さんが再び話し始めるのを身じろぎもせず、ただじっと待っていた。
「…そして話は、十一年後に飛ぶ。ある年、統治体の役人だという連中がラヴォールへやってきた。名目は当時問題となっていた鉱石の輸出にかかる関税引き下げの折衝とか何とか言うとったが、実はそれ、行方不明になっていた例の子供、といってももう立派な少年に成長しとったが、その子をリコゼッタに引き合わせようという企みよ。地球も、リコゼッタの研究、そして十一年前の科学者処刑の真相をどうしてか嗅ぎ当てたと見える。が、ノートその他の資料の在処、そして研究の詳しい内容まではわからない。ならば全ての鍵を握っておるその子供を探し出し、リコゼッタの味方になる振りをしてともに秘密を聞き出して研究を完成させようとしたんじゃな。ラヴォールでは、もうかなりのところまで理論の解明が進んどったというし。完成したらそれを奪って地球へ持ち帰ればいい。…で、統治体情報部が総がかりでやっと見つけ出したその少年を、半ば脅迫まがいにラヴォールに連れてきた…」
そこまで聞いたマスターの顔に、はっと何かに思い当たったような表情が浮かんだ。爺さんはちら、とそれに目をやったが、何も気づかぬふうに話を続ける。
「可哀想なのはその少年じゃ。ラヴォール政府と統治体情報部…両方に責められて随分と酷い目に合わされたらしいが―リコゼッタの執念は常軌を逸していたし、統治体側の責任者というのが確か、ジュノーとかいう名前で…階級は大佐だったか。とにかくこれが、情報部一の冷酷非道な男だったらしいからのう―それでもその子は親譲りの強情で頑として口を割らなかったらしい。…が、地球から追ってきた妹…血のつながらぬ、幼い恋の相手を盾に取られたとき、ついに彼は屈した。そして、研究は完成し…奴らは初めての人体実験にその少年を使ったんじゃ。…そこまでされて、少年がどうやって反撃の機会をつかんだのか。もしかしたら統治体の裏切りがあったのかもしれんが、とにかく、最後の最後で彼はリコゼッタに勝った。リコゼッタの秘密研究所に忍び込み、ノートの原本とコピーその他、研究に関する一切の記録を焼き捨て、新種のコンピューターウィルスでオンラインデータも全て消去し―ついでにラヴォールの行政・経済ネットワークも滅茶苦茶にしてくれよったで、惑星全土にも大混乱が巻き起こったが―それを察知し、自分を捕らえようとしたリコゼッタと戦い、殺した。じゃがそれは、少年にとっては敵討ちだったんじゃよ。両親を、そして自分自身の未来をも奪った相手への当然の報復じゃ。やがて、それに気づいてあとを追ってきた統治体情報部の連中の目の前で、彼は断崖から身を投げた。捕らえようとした軍人どもの銃弾を全身に受けてな…以来、その行方は誰にもわからん。これが、三十年前の事件の真相なんじゃよ」
長い物語は終った。爺さんは、もう何も言わない。ただ、かつての出来事を反芻しているかのように、ぼんやりと遠い一点を見つめているだけである。一方マスターはというと、さっきから爺さんに何かを言おうとしているのだが、その思いは中々言葉にはならず…。
「じゃあ…じゃあ、あいつが…」
幾度も口を開きかけて言いよどんだあとの、問いかけ。
「その…『少年』ってのが、あいつなのか…そんな…何て…」
応えは、深いため息。マスターが、両手に顔を埋める。その様子に目を留めた爺さんが、再び独り言のように話し始める。
「わしが前に住んでいた家は崖の上に建っておっての…あの坊主が最後に身を投げた断崖の底を流れる川の、ちょうど下流沿いに当たっておった。ある日、何の気なしに窓から見下ろした沢にあれが引っかかっていたときは驚いたよ。慌てて助けに行ったものの、酷い怪我での。わしゃ、十中八九、もうだめだと思うた。…そのときには、ただの子供だと思っていたからな。が、助け上げてみるとその傷が人並はずれた速さで治っていく。わしゃ、正直言って気味が悪かったさ。じゃが、わし以上に驚いていたのはあれ自身だったんじゃな。ただ呆然と自分の身体を眺め、一言も口をきかず…わしが薬や包帯を取り替えてやろうとするたびに怯えたように縮こまって…身体より、心の傷を癒してやるためにどれだけ苦労したかしれん。ようやくあれがぽつりぽつりと今の話を始めたのは一か月以上経ってからじゃ。それも、わしに心を許したからじゃない。リコゼッタの死が公けになり、血眼になってあれを探していた統治体の手がわしの家の方にまでのびてきたからじゃ」
もう一度、爺さんがカップを取り上げる。ほんの少し、底に残った、冷めたコーヒー。
「…迷惑がかかるから出て行くと、あれは言うた。もしわしが普通の、堅気の衆じゃったら関わり合いになるのを恐れたりもしたろうが…何せこんな稼業をしておるでな。その頃には仕事の方ももっと手広くやっておって、わしゃちょっとした『業界の顔』じゃったし、自分なりの情報網も持っとった。だから、信じた。あれの言葉に嘘はないと。だから、止めた。…のう、お前さん。あの話を聞いたあとで、しかもそれが全部真実だと納得したあとで…あれを追い出せるかね? ふふ…あのときは大騒ぎじゃったよ。どうしても出て行くというあれと、引き止めようとするわしと。しまいにゃ、取っ組み合いまでやったさ。じゃが、とにかくわしはあれを押し留め、統治体の奴らからも隠し通した。そして、ようやくほとぼりが冷めた頃、あれが今度こそ、自分の意思で…わしの為にじゃなく、自分の為に出て行くと言うたとき、送り出してやったんじゃ。…そうか…あれからもう、三十年も経つんじゃな…」
マスターはもう、何も言おうとしない。爺さんの話が終っても微動だにせず、長いことうつむいたまま、椅子に座ったまま…
「ありがとう、爺さん。そこまで、話してくれて」
二人の間にたちこめた沈黙を破った声は、小さく震えていた。
「だけど…このあと俺はどうすりゃいいんだ? あいつを、助けるために…畜生! 何でこんなに頭が混乱するんだ! 俺の脳ミソは、そんなにヤワな代物だったのか…畜生!」
頭を抱え込んだ男の手が、激しくテーブルを叩いた。爺さんが、ゆっくりとそちらの方に顔を向ける。
「…好きでいて、やるがええ」
静かな声。マスターがはっと顔を上げる。
「あれは、お前さんとセレインのことが好きだと言うとった。お前さんたちも…あの坊主の過去を知ってもなおその身を案じ、助けてやりたいと思うているのじゃろ? じゃったら…ずっとその気持ちを変えずにいてやってくれ。何があっても、何が起こっても決してあれを疎んだり、恐れたりしないでやってほしい。…今まで、あれが出逢ってきた人間たちのほとんどにできなかったことを、お前さんたちだけにはやり遂げてほしい。…もしわしが死んでもあの坊主が心の拠り所を失くしたり、せんように…」
「爺さん…」
潤んだ声。爺さんの、皺に埋もれた目の中、ほんのかすかに、光るもの。
「…わかった。約束しよう。この先、何があっても俺たちはあのガキの味方になってやる。…何があっても、だ」
爺さんの顔に浮かんだ、満足そうな笑み。が、それは一瞬のこと。
「あー、それでじゃな。率直に言って」
たった今の感傷的な場面をごまかすような、もったいぶった口ぶりで爺さんは話し始める。
「もしお前さんがそのものずばり、あの石の建物からあれを助けたいというのなら」
「…なら?」
ごくりと唾を飲み、マスターが身を乗り出す。
「北を狙え。かなりの回り道になるが、西の荒地から川沿いに、基地の北側の森へ抜けるんじゃ。そっち側には見張りの兵士もおらん。高い塀さえ乗り越えれば比較的楽に入り込める。…ま、問題は中に入ってからじゃが。一番ええのは、このまま家で、あれの帰りを待っとってやることだと思うんじゃが…」
「北側の…森…」
確かめるように、マスターは繰り返す。
「じゃがな、決して軽はずみな真似はするなよ。…今、お前さんの手にある旅券…あれがどんな思いでお前さんたちの為に手に入れたか、それをようく考えてみるんじゃよ」
「わかってる。わかってるよ、爺さん。…ありがとう」
爺さんはこの最後の台詞を、マスターが帰るまで何度も何度も繰り返した。そしてマスターもまた、それにいちいちうなづいてやった。この小さく老い皺んだ爺さんが、自分たちと同じく、もしかしたらそれ以上にあの少年を、そしてその気持ちを気遣っていることが痛いほどよくわかっていたからである。
程なくマスターが爺さんの隠れ家を出たときには、そろそろ昼も過ぎようという時刻になっていた。これからセレインの部屋に帰るまでに、この混乱した思考を静めることができるだろうか。どこかで軽い食事でもして、心を落ち着けてから帰った方がいいのか。それとも、少しでも早く戻ってセレインにこの旅券を渡し、何もかも話してやるべきなのか…迷いながら、とにかく今彼は街へ向かって急ぎ足に歩き続けるばかりであった。