第八章
爺さんの姿が見えなくなるともう、セイはほとんど駆けるように街へと急いだ。道らしい道もない岩だらけの荒地は決して歩きいいとはいえなかったが、そんなことは気にもならない。
(よかった…これでセレインは星外へ出られる。ちゃんとした治療を受けて、またもとの通りに歌うことができるんだ。…そればかりじゃない。僕もまた、みんなのところへ帰ることができる。セレイン、マスター、ランヴィル…それからギル。みんなにもう一度、会える。何もかもがこんなにうまくいくなんて、思ってもみなかった…)
爺さんのところへ行こうと決心したときから、諦めていた自分の命。二度と会えないと思った、大好きな人々。そのどちらもが、再び手の中に戻ってきた。しかも、首尾は上々。体中から湧きあがる安心感と喜びが不思議な力となって、手に、足にみなぎってくる。
それでも、遠くにぼんやりと高いビルの影が見えてくるまでには三時間近く、歩き続けただろうか。不意に、かすかな地鳴りに似た音が聞こえたような気がして、セイはぴたりと足を止めた。
(何だ…? 一体)
反射的に地面に伏せ、耳を大地にあててみる。…気の所為じゃ、ない。確かに、得体の知れない凄まじい爆音が、こっちに近づいてくる。
(バイ…ク?)
その正体に気づき、顔を上げたときにはもう遅かった。地平線すれすれにもやもやとした土ぼこりがたち、その中に幾つもの巨大な黒い影が見えたかと思ったときには、既に十数台の大型バイクが少年のすぐ目の前まで迫っていた。
「ヒャッホーッ」
「ホーッ、ホーッ!」
獣のような叫びを上げ、襲いかかってきたライダーたちはどれも半裸に近い格好で、凶悪そのものの面構えをしていた。それだけならともかく、彼らは手に手に物騒な武器を持って…マシンガン、レイガン、マグナムといった近代兵器から、弓や槍、中には何世紀も前の暴力映画(それも3Dホログラム映像ではなく、フィルム撮影の二次元映像という骨董品!)で流行ったようなごつい鋼鉄の棘のついた棍棒を持った奴までいて…しばしセイは、あっけにとられてぽかんと口を開けたまま、動くことすら忘れてしまっていた。
そいつらはみんなアクセルを全開にしていたらしく、セイを十メートルから十五メートルも追い越してやっと停まった。と、全員がさっとバイクの向きを変え、セイに向かって不気味なエンジンの音を響かせる。リニアやホバー仕様のバイクなら狙った場所でぴたりと停まれるのにご苦労なことだが、こんな荒地ではそんなものは使用不可能である。可燃性物質を燃料とする車輪駆動型のバイクはその原理こそ原始的で幼稚なものの、このような悪路では最新型以上の性能を発揮する。しかも、目の前のバイクはどれもこれもその中でもかなりの高性能マシン揃いであることがすぐに見て取れた。たとえ仮装行列顔負けのふざけた格好をしていても、こいつらをなめてかかったらとんでもないことになる…最初の驚きがおさまると同時にそう判断したセイは素早く身を起こし、この正体不明のバイク軍団に対し、油断なく身構えた。
彼らは一様に、あからさまな敵意を持って少年を見つめている。中には、威嚇のつもりかあの獣じみたカン高い叫びを上げたり、卑猥な言葉を投げつけてくる奴もいた。
(間違いない。こいつらは僕を狙ってる。でも、一体何故?)
訝しみながらもセイの手がナイフを隠した襟元に伸びる。と、群れの中からどちらかといえば小型のバイクに乗った男が一人、前に出てきて…
「やっと見つけたぜ。おい、小僧。いつかは中々洒落たこと、やってくれたよなあ」
闇にうごめく亡者のような、陰鬱な声。それを聞いた途端、セイは全てを悟った。
「ゴド…か、お前」
低いつぶやきを耳聡く聞きつけ、ゴドの高らかな笑い声が響き渡った。
「仰せの通りさ。…ずいぶんと探したぜ。ほれ、この、右目のお礼をしたくてよ」
笑いながら黒い眼帯を指差して見せる。が、もう一方の目は激しい憎悪に暗く、燃え狂っていた。
「さあ、てめえら。くだくだしい話は抜きだ、やっちまえ!」
ゴドの手がさっと翻る。と同時に、十数台のバイクがセイに向かって突進してきた。
「う…わっ!」
それこそ身体すれすれに、フルスピードで向かってきたバイクを避けようと、セイは大きく飛びのいた。しかしそのときにはまた別の奴が襲いかかる。ご丁寧に、レーザーやマグナムの火花というおまけつきで。
あちこちに転がりまわり、避けているのが精一杯のセイは、あっという間に傷だらけになる。が、男たちは常に一定の距離を保ち、決してセイを跳ね飛ばそうとはしない。それどころか、絶え間なく撃ちこんでくる銃の照準すら、微妙にずれているような気さえする。
(そうか…こいつらはどうやら、ここで僕を殺す気はないらしい。弱らせて、自分たちのアジトに連れ込んでから思う存分、なぶり殺しにしようって腹か)
それはたぶん、セイの腕に怯えている所為もあるかもしれない。何しろ、親玉そのものの片目を潰した相手なのだから。
(だったら、こっちにも打つ手はある!)
見極めると同時にセイはきびすを返し、追ってきた中でも一番大きそうなバイクに向かって走った。
「わぁっ!」
案の定、思いがけない行動を取られた相手がうろたえて、バイクの向きを変えようとする。
「遅い!」
言うや、空気を切り裂いて飛んだ銀の刃!
「ひっ…」
肩を深々と貫かれ、情けない悲鳴を上げて乗っていた男が転がり落ちる。その反動で大きく傾いたバイクが倒れるよりも早く、セイの手がハンドルにのびる。そのまま押さえ込み、飛び乗ろうとした瞬間、鋭い音とともに何かが少年の足に絡みついた。
「甘いぜ。そんなことくらい、俺様に読めないとでも思ったか!」
そのままぐい、とバイクから引きずりおろされ、大地に叩きつけられる。
「ゴド!」
片手でムチを操りながらゴドは器用にバイクを乗り回していたが、セイを捕らえたと知るや、ぐんとスピードを上げた。
「く…っ」
懸命にもがいても、所詮はかない抵抗。岩肌を空しくつかもうとした両手の爪がはがれた。胸から腹、足にかけて焼火箸を当てられたような熱痛が走る。ゴドのバイクがバウンドした瞬間、激しい衝撃を脇腹に受け、セイはふっと意識が遠のくのを感じた。地面に飛び出していた岩塊にでもぶつかったのか。半ば朦朧としながら、そんなことを考えているのが不思議に思えた。
かすかに、銃声が聞こえたような気がする。…しかし、身体のどこにも痛みは感じない。…神経すら、すでに麻痺したのか。
意識の糸が、底知れぬ闇の中でぷつりと切れた。
「…セイヤ! セイヤ! おい、坊主、しっかりしろ!」
遥かな声が、だんだん近くなってくる。冷たい手が、頬をぴしゃぴしゃ、叩いてる。セイは、うっすらと目を開けた。
「ほう…やっと、気がついたか」
心配げにのぞきこんでいた皺だらけの顔が、ふっとほころぶ。それが誰か、気がついたと同時にセイは跳ね起きた。
「爺さん!」
途端、さっきの焼けるような痛みが蘇り、セイは小さな呻き声をあげる。
「ほれ、急に動くんじゃない」
軽く頭をはたかれた。が、その一方で爺さんは片手をセイの背中に当て、ゆっくりと抱き起こしてくれる。
「はあ…とにかく、間に合ってよかったわい。さっき、お前さんがあの骸骨みたいな男に引きずりまわされていたときには、もうだめかと思っていたんじゃがな」
爺さんの言葉にうなづきながら、ゆっくりと周囲を見回してみる。と、最初に目に入ったのは、荒地の上、かっと目を見開いて転がっているゴドの死骸だった。
「う…え」
苦い胃液が喉もとにこみ上げ、セイは口を押さえた。頭をもろに撃ち抜かれた死体の傷口からは血と脳漿が派手にこぼれ、灰色の土に赤黒いしみを作っている。眼帯が外れた右目は、ただの肉色の虚ろな穴。残された左目は見開かれたまま幾分濁り始め、それでもなお、怒りと恨みに凝り固まった形相が激しい執念の名残をにじませ…
「ほれ、あんまり見るんじゃない」
さりげなく身体の向きを変えてくれた爺さんの手にすがりつくようにして、セイはうわごとのようにつぶやいた。
「あいつ…あいつをこんなふうにしたのは、僕なんだ。あの時、あいつの片目を潰さなければ、ゴドはこんなところで、こんな死に方をすることはなく…爺さん、何があったの? どうやって、僕を助けてくれたんだい? …誰がゴドを、殺したの?」
とりとめもなくつぶやき続けるセイをあやすように、爺さんはそっと、その背中をなでてやる。
「よしよし、わかったから。いい子だから、落ち着いてな」
そして、低い声でゆっくりと話し始めた。
「お前さんが帰ったあと、わしも家に戻った。じゃが、畑仕事の道具を出しっぱなしにしておったことを思い出してな、裏へまわろうとして何の気なしに窓から中を覗き込んでみたら、ヨゼフの莫迦が『端末』を使ってどこぞへか連絡しておるのが見えての。無論、何でもないと言えば何でもないことじゃ。しかし、音声モードを使わずに手動モードを使っているらしいことに気づいたとき、わしには嫌な予感がした。…あいつは、最近ろくでもない奴らとばかりつき合うとるからのう。他人には聞かせられないような悪巧みの相談でもしておったらえらいことじゃで、すぐさま家に飛び込んで、腕ずくで『端末』を取り上げ、通話記録を調べてみたら―驚くじゃないかい。最後の通話相手は何と、ゲデルとかいう、わしですら知っとる街の害虫じゃった。そこでわしゃ、泡を食って飛び出してきたというわけじゃ。お前さんとゲデルとの間にあったことは『メトセラ』で小耳にはさんどったし、お前さんの顔はヨゼフにもしっかり見られてしもうたからなぁ…まあ、とにかく間に合ってよかった」
老人は話を終えると、よっこらしょ、と声をかけながら立ち上がった。
「大丈夫か、立てるか…車の中に入るがええ。街へ、帰るんじゃろ。送ってってやろうよ」
「車…」
ぼんやりと聞き返したセイに、爺さんは少し離れたところに停めてあった小型トラックを指し示した。かなりの旧式であちこちに錆が浮き、エンジンをかけた途端に分解してしまいそうな代物だが、造りだけはがっちりしているようだ。
「さ、よしよし。ゆっくりと…ゆっくりとな」
爺さんに支えられて、セイはそろそろと立ち上がってみた。体中の皮膚がひりひりと痛む。胸から腹にかけてはシャツも上着もぼろぼろに破れ、染み出した血はまだ湿っていた。かすかな違和感を感じて頬を手の甲でこすると、そこにも鮮やかな紅がかすれている。
「わしがこいつで駆けつけたのと同時くらいじゃったか、あの男のムチがお前さんの足を捕まえたのは。で…こいつで奴の頭をぶち抜くまで、引きずられていたのは数十秒かそこらだったかの。さほどひどい傷ではないと思うが…ちょっとの間、我慢せいよ。街についたら、手当てもしてやれるからな」
爺さんが使った武器は、トラックに負けないくらい年代物の、一丁のライフルだった。
「ありがと…ラドフ爺さん」
爺さんはほんのわずか、目だけで笑ってエンジンをかけた。ポンコツトラックがぶるん、と一回身を震わせ、走り出す。…どうやらこいつ、性能は見かけよりずうっといいらしい。流れるように去っていく岩肌を横目で見ながら、セイはほうっと息を吐き、目を閉じた。
「少し、眠るがええ。アジトに着いたら起こしてやる」
行く手をさえぎる大きな岩塊を避けながら、爺さんが言う。セイはふと、気になって尋ねた。
「アジト…? 爺さん、そんなもの持ってたの?」
「おう。街の外れ、ちょいとした片隅にな。小さなもんだが、半年や一年ゆうに暮らせるさ。お前さんも好きなだけいればよいわさ。…ほとぼりが冷めるまでな」
「じゃ、あの家は?」
「当分、戻らん」
「え…」
「あとあと面倒が起こらんように、ヨゼフの奴にもちょいと思い知らせてきた。ま、殺したわけじゃないが、まともな神経を持っとる人間なら、二度とわしに関わろうとはするまいよ。…じゃが、念には念を入れろ、と言うしな。しばらくの間は街でひっそり暮らすつもりじゃ」
「…」
セイは、黙って目を伏せた。それを見て、爺さんは声もなく笑う。
「何じゃ、情けない顔をして。気になどするな。ありゃ、単にわしとほんの少し、血がつながっとるというだけの男じゃ。あれがどんな奴か知っとったら、お前さんもそんな顔はするまいよ。…さ、いいから少し、眠れ」
爺さんの声は優しかった。表情を暗く翳らせたまま、それでもセイはほんのわずかうなづいて―トラックが爺さんの隠れ家へ着くまでの間、少し、眠った。浅い眠りの中、いくつもの夢の影が通り過ぎていく。それらはとらえどころのない、切れ切れのかけらにしか過ぎなかったが、どれも少年の心の奥底にある切なさと、淋しさから千切れてきた破片であることだけは確かだった。
「…ほれ、着いたぞ。起きんか」
とろとろとまどろんでいたのがほんの一瞬に思えた。肩をそっとゆすぶられ、不承不承目を開けるとそこはもう見慣れた街の一角。珍しくもないちっぽけな廃ビルの前に爺さんは車を停め、自分より頭一つは大きい少年をしっかりと抱きかかえながら、迷うふうもなく建物の中に入っていく。
エレベーターなどとっくに動かなくなっていた。一歩一歩階段を上って、最上階の突き当たり。そこにはごく普通の鉄のドアが一つ。
「よっ…と」
両手でセイを支えたまま、爺さんは器用にドアを開けた。
「わ…あ」
傷の痛みも忘れ、セイは感嘆の声を上げた。
「どうじゃ。中々のもんじゃろ」
爺さんが自慢げに言う通り、そこは隠れ家にしては上等すぎる部屋だった。ちょっと見たところでは、こじんまりとした1LDKのコンパートメント。日常生活に必要なものは何でも揃っている。しかも、そのどれもがまっさらの新品で、ちり一つ、ついてはいない。
「人生、何があるかわからんでな。稼いだ金でこのビルを買い取り、少しずついろいろな道具を運び込んでおいたんじゃよ」
何でもないふうに爺さんは言う。が、セイは気がかりな視線を向けた。
「でも、かえって危ないんじゃないか? このあたりにだって、ゲデルの目は光ってる。爺さんがゴドを殺したなんてわかったら、どんな目にあわされるか…」
少年の懸念は一笑に付された。
「なあに、ゲデルという奴にゃ、わしと渡り合うだけの度胸はないよ。ありゃ、ただの小心者に過ぎん。本当に恐ろしかったのはゴドじゃよ。そいつがもういなくなったんだから、何も心配することなどないわさ。余計な心配などせんでええ。それより、さ。傷を診てやろうよ」
言いながら、薬箱を取り出してきてもすることはほとんどなかった。爺さんが駆けつけてくるのが早かったおかげか、傷はどれも見かけほど大したことはない。ただ、岩角にぶつけて痛々しく腫れている脇腹と爪のはがれた両手の指先だけは、放っておいてよいものではなかった。
「あ…爺さん、包帯は巻かないで」
「何でじゃい」
少年の指先を消毒液で洗い、薬箱から包帯を取り出した爺さんの手が、ふと止まる。
「ナイフ…投げられなくなる。ここから帰るまでだって、何があるかわからないからね。…その、絆創膏でいいよ」
淋しい笑顔。爺さんが、ほっとため息をつく。
「因果なもんじゃの」
小さくつぶやいただけで、爺さんはセイの言う通りにしてくれた。礼を言い、少年は立ち上がる。
「何じゃ…もう帰るのか。もう少し休んでいったらどうかね」
「ん…でも、セレインたちに少しでも早く知らせてやりたいから。持ってきてるんだろ? 道具」
ウインクで指し示す、奥の小さなドア。
「目敏い子供だの。…ああ。ありゃわしの寝室兼、仕事場じゃ。…ま、ええわな。約束は、わしゃ守るぞ。じゃ、明日、な」
セイは小さくうなづき、軽く手を振って爺さんの部屋を後にした。階段を下りていきながら、つい脇腹に手がいく。爺さんが湿布薬をはってくれたが、まだかなり痛むようだ。
「ま、いいか。ゆっくり帰るさ」
一人ごちて、セイは静かにまた階段を下りていった。
ほんの少しの間だと思っていたのに、意外に長い時間が経っていたらしい。外はもう夕暮れ近く、陽は大きく傾き、空もやや暗くなり始めていた。
どうやらこの地域はセレインの部屋とはちょうど反対側にあたるようだ。セイは明日訪ねてくるための目印を探しながら、街をほぼ横断するコースをとり、ゆっくりと歩いていった。
(ん…?)
かなり歩いた後、セイの足が止まる。セレインの部屋はもう目と鼻の先。
(何か、おかしい気配がする。…つけられて…る?)
少年の姿がすぐそこの細い路地へすい、と消える。と、少し間をおいてもう一つの大きな影が音もなく同じ路地へと入り込んでいった。
「おい。僕に何か、用なのか?」
突然声をかけられて、影はぎくりと立ち止まる。はっと振り返ると路地のすぐ入り口、崩れかけた塀にもたれて腕を組んだ少年が、睨むような目つきで彼を見つめていた。
「あんた、ずっとつけてきたろ。知らないなんて言わせないぞ」
男は何か言いかけたが、下手にごまかせる相手ではないことを知っているのか、いかにもしょうがない、といった様子をあらわに見せて肩をすくめた。
「また会いましたね。『お嬢さん』」
セイははっと身を硬くした。思い出した、こいつ…昨日の夜の、酔っ払い!
「昨夜は失礼しましたね。大丈夫でしたか」
少年の動揺を見て取ったか、男は莫迦にしたように頭を下げた。
「あんたは誰だ! 昨日から僕をつけまわしていたのか!?」
「つけまわす、とは心外だな。私は、君が誰かを知りたかったんだよ。あのとき、うまい具合に君の写真を撮ることができたのでね。昔の君を知っている方に見ていただいた。…結果は、思った通りだったよ」
セイは無言のまま、唇を噛んだ。ほっそりとした右手が、そっと胸元にのびる。
「私は統治体情報局のアルワジ中尉。一緒に来てもらおうか。統治体駐屯基地へね」
「嫌だ、と言ったら?」
じりじりとセイは後ろに下がった。その細い身体から激しい殺気が噴き上がる。
「腕ずくでも、おいで願うさ」
懐から銃を取り出したアルワジ中尉がにやりと笑う。セイの手がさっと翻る。しかし夕闇を切って飛んだナイフは空しく撃ち落され、地面に転がった。
「君の得意な武器がナイフだということはわかっている。だから、射撃の腕は情報部随一の私を任命されたんだろうな、ジュノー准将は」
「ジュノー…だって?」
その名を聞いた途端、セイは凍りついた。頬から血の気がひき、紫の瞳が大きく見開かれる。
(あいつの名前だけは…二度と聞きたくなかった!)
その名によほど衝撃を受けたのか、ぼんやりと立ちすくんだ少年に、中尉がゆっくりと近づいてくる。ごつごつとした大きな手が、さっとセイの右手を捕まえた!
「何するんだ! …嫌だ! あいつのところへなんか、誰が二度と行くもんか!!」
「そんな駄々をこねるものじゃない。准将はたいそう君に会いたがっておいでだぞ。…無理もない。長いこと、君を追い続けていらしたのだからな」
一瞬、紫の目が炎の激しさで中尉を射た。その視線に気圧された中尉の動きが止まる。その隙をついて、細身のナイフが目にもとまらぬ速さで放たれる。
「甘い!」
至近距離にもかかわらず、ナイフは再び撃ち落された。が、それと同時にセイは中尉を突き飛ばしてその腕から逃れた。すかさず、中尉は銃を構えなおす。ほとばしった薄青い光がセイの足をかすめ、少年はよろめき、膝をついた。
「言い忘れていたが、私は君を五体満足で連行しろとは命じられていない。傷つけても殺しても構わん、と言われている。ま、殺すことは無理かもしれんがな…」
のっそりと近寄ってくる黒い影は、セイの何倍も大きく見えた。しかもその手にはセイの胸にぴたりと照準を合わせた銃が鈍く光っている。セイは動かなかった。手負いの若い獣の目で、ただじっと、近づいてくる男を睨んでいる。
「さあ、私と来い」
再び、中尉の手が少年を捕まえようとしたとき!
細い身体が弾かれたように飛びかかってきた。構えている銃ごと右手を抱えこまれた中尉の指が引き金をひく。が、銃口はすでに見当はずれの方向を向いていた。慌てて少年を引きはがそうとした刹那、中尉はきらりと光る銀色の刃を見た。
「うわっ!」
悲鳴を上げた中尉の手から銃が落ちる。その手の甲には三本目のナイフが手のひらまで突き刺さっていた。中尉はそれをすばやく引き抜き、落とした銃を拾おうと手をのばす。しかし、それよりもセイの方が早かった。
「う…」
形勢逆転。いまいましそうに顔を歪めた中尉の額に、彼自身の銃がぴたりと押し当てられていた。
「さあ、言え! どこまで調べた? 僕の…過去のほかに何を知った?」
押し殺した声に、有無を言わせぬ気迫がこもっている。中尉はそれでも不敵に笑い、少年を焦らすようにゆっくりと口を開いた。
「さほど、多くはないさ。…まず、君の隠れ家。…そして、君をかくまっている二人の男女の名前。あと、君が毎夜演奏している店の名前。…それで、全部だよ」
「本当に? 本当にそれだけか!?」
引き金にかけた少年の指に力がこもる。そして、その顔は真っ蒼だ。中尉の声が嘲るように続く。
「本当だとも。君がこの惑星にいるという情報を我々がつかんだのは、ついこの間のことだからな。それも、当初は君だという確証さえつかめず…なのに何と、ジュノー准将は御自らその真偽を確かめに行かれた。君が演奏していた『アモール』というクラブへね。店の連中の口は堅かったが、そこはそれ、准将にはピンとくるものがおありだったんだろう。直ちに私を見張りとして『アモール』付近に張り込ませ、君が姿を現すのを待っていらしたというわけだ。だがまさか、昨日の今日で君が街から姿を消すとは思いもかけず…あのとき私は後悔のほぞを噛んだものだが、准将は君が必ず帰ってくると断言された。そして今、全てが准将のご推察どおりになったというわけだよ」
中尉はそこで、笑い出した。こんな状況にもかかわらず、勝ち誇ったような高笑い。
「何がおかしい!」
「ここまで話しても、君が私を殺さないことだよ」
刹那、中尉の膝頭がセイの腹を直撃した!
「う…ぐっ」
ばね仕掛けのように中尉の身体が跳ね上がり、少年に飛びかかった。凄まじい勢いで、セイの手から銃を取り返そうとする。かたや、奪い返されまいとする少年との激しい取っ組み合い。一つの武器を取り合って、二つの身体が上になり、下になり…必死の揉み合いの中、セイの耳にはっきりと聞こえた…声。
「いつまでも莫迦な意地を張るな。…どのみちお前はもう逃げられん。お前をかくまっていた連中もだ。みんな仲良く、反逆罪さ」
そのとき銃がどちらの手にあったのかセイは知らない。ただ、覚えているのは突然目を貫いた青い光。そして、かっと熱くなった手のひら。そして、気がついたときには大柄な男の骸が虚ろな目を開いて足元に転がっていたこと。
「あ…」
しかし、セイが放心していたのはほんの一瞬だった。傷ついた足もそのままに、さっとそこから立ち去ろうとする。
どこへ…? セレインの…マスターのところへ。…知らせなきゃ…ラドフ爺さんのこと。星外へ、出られること。…統治体駐屯軍が、彼らをも狙っていること。早く…早く、早く…。
しかし、走り出しかけたその足は、追いかけてきた虚ろな声にさえぎられた。
「…どこへ行く? …今さら…どうしたってムダさ。駐屯軍の一個大隊が、とうにこの街を囲んでる…少しずつ、少しずつ…包囲を狭めて…いつか、捕まえる…お前たちを…ふふ…もう…絶対に…逃げら…れ…は…」
「違う!!」
血を吐くような、かすれた絶叫。
「違う! セレインは…マスターは…支配人は、ランヴィルもギルも! みんな、僕の仲間なんかじゃない! みんな何も知らないんだ!」
が、応える声はもはやない。こと切れた中尉の襟首をつかんで激しく揺さぶりながら、少年は狂ったように叫び続ける。
「おい、あんた! 何とか言えよ! ジュノー大佐に伝えろよ! …彼らは…彼らはみんな、何も知らないんだって!」
そして。しばらくののち、少年は悟る。もう…この男には何も聞こえないのだと。何も見ず、何も言わぬただの肉塊にすぎないのだと。
ふらりと少年は立ち上がり、そのままあたりをうかがいながら、今度こそ走り出す。今まで目指してきた暖かな部屋とは正反対の方向へ。木枯らしが、そのつややかな髪をさあっとなびかせ、吹き過ぎていった。
なるたけ、細い道。できる限り、人目につかない道。賑わい始めた繁華街の陰から陰へ、セイは走った。その足はあるとき突然止まり、じりじりとどこか知れぬ方角を探ってみたり、あるいは不意に、それまでとは逆方向へ全力疾走したりした。何度も何度も。
ついに息が続かなくなって道端にへたりこんだとき、セイは全ての逃げ道が完全に断たれたことを知った。
あれから、街の全方向を探ってみた。しかし、どの通り、どんなに細い裏道にも、駐屯軍の兵士たちがたむろしていた。あるものは軍服姿で、またあるものはごく目立たぬ私服に身を包み、ばらばらと散らばって―少しずつ、その輪を縮めていた。おそらくはセレインのコンパートメントを中心として。どの方向へ向かってみても、セイ一人ではその周到な囲みを破ることはほぼ、不可能だと思われた。
もう、逃げられない。…なら、どうする? いっそ、このまま捕まってしまおうか。誰にも会わないで。…それでも奴らがセレインたちに手を出さないという保証はない。いや、たとえそうにしたって…
(伝えなきゃ…)
ラドフ爺さんのこと。セレインを星外へ出してやれる手だてが、ついたこと。…だけどもし、セレインたちと一緒にいるところへ踏み込まれたら?
(多分、セレインたちは必死で僕をかばってくれるだろう。でも、そしたらあいつらはきっと、セレインやマスターも僕とぐるだと…僕の秘密を知っていると思うに決まってる。ただでさえ、統治体の覚えは悪い二人だ。下手すりゃ、どんな目に遭わされるかわからない。…だからといって、二人に必要なことを全部告げたあとで、彼らとの関係がわからないほど遠いところへ逃げ切ることなどできやしない。…なら、どうすればいい?)
長いこと動かなかった少年が、やがて再び立ち上がり、きょろきょろとあたりを見回した。と、その視線がある一点で留まる。すっかり暮れた街の灯に照らされた、緊急通話ブース。全銀河系の人々にとって、『端末』の所持が当然のこととなった現代においても、万が一の故障・事故に備えて、こんな数百年も前の公共設備がまだところどころには残っているのだ。セイはそこに飛び込むと、せわしなく指を動かしてある番号を呼び出した。そして、さほど長くなかった通話を終えるとそのまま宵闇に姿を消した。