第七章
「あたしも、今更『アモール』でなんてよく歌う気になるもんだと思うわ」
この頃、セレインが仕事に行く前必ずといっていいほどもらす、独り言。
「…そりゃ、あそこの支配人には恩義もあるし、こんなふうに他の仕事がないときでも快く迎えてくれるありがたい古巣には違いないんだけどさ」
化粧の仕上げ、口紅を引きながら、いつしかそれはセイへの問いかけとなっていく。
「いやらしいと思わない? 客はみんな、『首都』の金持ちか統治体の威張りくさった軍人たち。あいつら、表面上はあたしの歌を褒めてちやほやしてくれるけど、心の底では軽蔑してるのよ。何たってあたしは、いまだに保護監察つきの身なんだもんね。何かあったらすぐに収容所行きよ。…それが怖くて、統治体に尻尾を振ってる負け犬。本当はみんな、そう思ってるんだわ。…ま、そう思われても仕方ないといえば仕方ないけどね」
「でも、僕たちは生きていかなきゃならない。生きていればこそ、いつかは反撃の機会もつかめるんだよ」
そしていつも、少年は答える。いつも、セレインの側で。あるときは楽譜を揃えながら、あるときは香り高いコーヒーを入れながら。だが、たいていの場合―セレインはそんな少年の言葉などまるで耳に入っていないかのごとく、自分勝手に小さく肩をすくめ―それでも、軽く少年を抱き寄せ、頬にそっとキスをすることは忘れずに、さっさと部屋を出ていってしまうのだった。
だから、いつしかそれにすっかり慣れてしまったセイが、セレインのつぶやきを聞き逃してしまったのも当然のことかもしれない。
「…そうよね。世の中、まだ捨てたもんじゃないわ。統治体の将校にだって、あんな人がいるんだもの」
「…え?」
はっと顔を上げたときにはもう、セレインの唇が優しく頬に触れていた。
「いいのよ。結局は、あんたの言った通りだったってこと。…生きて、いかなきゃね。生きて、歌っていかなきゃね。あたしには、それしかできないもの。そのためには、今日も、稼がなきゃ! …行ってくるわね」
「あ…」
何かを言いかけた少年に向かって、小さなウインク。そしてそのまま、艶やかな笑みだけを残し、セレインは慌しくコンパートメントを出ていった。残された少年は、淋しくそこに佇んだまま、ぎゅっと唇を噛みしめる。
(大切なことを、訊きたかったのに)
ぼんやりと振り返った紫の瞳に、テーブルの上に置いてある楽譜の束が映った。セイもまた、そろそろ出かけなければ仕事に間に合わない。機械的に楽譜を点検し、バッグに入れながら、少年は心の中で誰にともなく問いかける。
(何故? どうしてセレインは、あんなに金をためようとしているんだ)
最初、セイと組むことを申し出たときも、金の為だと言った。セイのピアノに惚れ込んだ…確かに、それもあるかもしれない。が、彼女がセイに向かって手を差しのべた本当の―より切実な目的は、金の為だという気がする。実際には、彼女一人でも日々の糧には充分過ぎるほどの金を得ることができるというのに。
(どうして?)
その後は、結局いつもと同じ。何も訊けず、何もわからないまま、やがて少年はため息と共に肩をすくめ、少し遅れて自分の仕事へと出て行くのだ。そんな夜、セイが引く曲はどれも哀しい。今や、毎日の演奏の全てをセイに任せきっているランヴィルが、時々心配そうに肩を叩いてきたりする。
(すみません。今度はもっと陽気なやつを演るようにしますから)
そう言いつつ、どこか悄然と引き上げていくセイを、ランヴィルがいっそう気にかかるような目で見送るのも、既に『メトセラ』ではお馴染みの光景となって久しい。
その夜も、そんなふうに終わろうとしていた。
「セーイ! 電話だぞぅ!」
仲よしのウェイターに呼ばれて、セイは舞台口から走ってきた。
「ありがとう、ギル」
「『アモール』の親父さんからみたいだぜ」
「支配人…?」
セイは慌てて電話に飛びついた。受話器を取ると同時に、本体に接続された十二インチ程の小さなディスプレイに、支配人の顔が現れる。
「おお…! セイ…君…か。いや、通じてよかった。すぐに来てくれんか。セレインが、大変なんじゃ」
「え…っ!」
「舞台が終わったと同時に倒れてな。ひどい咳で、さっきなど…血を吐いた。…頼む! すぐに来てくれ」
受話器を持ったまま絶句するセイに向かって、ディスプレイの中の支配人は泣きそうな顔で訴える。
「嫌がるのは承知の上じゃ。わしだって、一度演奏しただけの君のことは、名前すら忘れかけていた。じゃが…じゃが、セレインが呼んでるんだよ! …あの娘が…君を呼んでるんじゃ! お願いだ…来てくれ。迎えに来てやってくれ、頼む!」
「―わかりました」
答えるのと同時にセイは控え室を飛び出していた。
「おい、セイ!」
「どうしたんだ!」
突然のことに驚いて呼びとめるギルの声、ランヴィルの声…『メトセラ』の舞台裏は、すさまじい喧騒に包まれた。
ひそやかに近づいてくるかすかな足音を、『彼』の耳は聞き逃さなかった。素早く物陰に隠れ、息を殺してじっと『アモール』の出入り口をうかがうその瞳が捉えた獲物。人目を避け、そのくせ妙に慌てた様子で店の裏口へ通じる細い路地へと走り去った黒い影。
どこからかもれてくる薄明かりの中、『彼』は満足そうに唇をほころばせた。
「セレイン!」
楽屋口のドアがすさまじい勢いで開き、内側の壁に当たって派手な音を立てた。廊下の隅で待っていた支配人が文字通り飛び上がり、次の瞬間へなへなとその場に座り込む。
「おお…セイ君か? 待っていたんだよ。…よかった。本当によかった、君が来てくれて。…しかし、どうしたんだね、その格好は」
「用心の為ですよ」
顔の半ばまで隠すように目深にかぶった帽子に加え、濃い色のサングラス。帽子を取ると、漆黒の髪がさらりとこぼれ落ちた。サングラスを外すのももどかしげに、セイは支配人に尋ねる。
「セレインは?」
「あの子なら、楽屋で休ませておる。…一体どうしたのか、わしにもまったくわからんのじゃよ。今夜は全くの普通営業じゃった。特に気の張る客がいるでもなし、ショウ・タイムだってさほど長いものじゃなかった。普段のセレインなら…」
が、セイは支配人の言葉など最後まで聞いてはいなかった。セレインの居場所を聞くや、ぱっと楽屋へと駆け出していく。慌てた支配人が、あたふたと小太りの身体を揺すりながらあとに続いた。
細い廊下を一気に駆け抜け、いつかの夜セレインが使っていた部屋の前に来ると、セイはそっとドアをノックした。返事は待たず、そのまま静かにドアを開ける。部屋の奥のソファに横たわっていたセレインが、閉じていた蒼いまぶたをゆっくりと開く。
「セレイン!」
「セイ…来てくれたの。…ごめんね。また、仕事の邪魔をしちゃったわ」
「いいんだよ、そんなこと」
ソファの傍らに少年は膝をつき、紫の瞳が気遣わしげにセレインを見つめる。
「ねえ…今夜こそ、訊いていいだろう? のど…悪いんじゃないの?」
「…ただの風邪だって、言ったじゃない」
「それにしちゃ変だよ。他は何ともないのに咳だけがずっと続いてる。…薬だって、今も飲み続けてるんだろ? 知ってたよ」
「何じゃと!」
かなり遅れて部屋に着き、セイの後ろで心配そうに見守っていた支配人が驚いて叫ぶ。
「セレイン! お前、ずっと具合が悪かったのか? …なら、何でわしに言わん! そうと知ってたらわしは、お前を舞台へなぞ立たせんかったものを」
孤児だったセレインを拾い、歌手として立派に育て上げたこの老人にとって、彼女は実の娘も同様だった。その狼狽ぶりを困ったように見ていた『娘』が、やがて静かに微笑んで優しく声をかける。
「いやね、支配人もセイも…そんな、心配そうな顔、しないでよ。…別に、命がどうこういう病気じゃないんだから」
一瞬、覚悟を決めたように目を閉じ、ほうっと細い息を吐くと、セレインはゆっくりと語り始めた。
「去年の…今頃だったかな。ちょっとのどの調子がおかしくなって、医者へ行ったのね。そしたら、診察の途中からあれこれうるさく訊かれて…その後、検査だって。一週間したら結果が出るからって。あたし、不安で不安でたまらなかった。だって、あの医者ときたら、何にも言ってくれないんだもの」
「そんなことはいいから…! で、結果はどうだったんだ!」
支配人はいつしかセイを押しのけ、セレインの手をしっかり握ったままおろおろと先を促す。セイはその後ろにじっと立ち、何一つ口をはさむでもなく、セレインの話にじっと耳を傾けていた。
「ポリープ…だって。のどに、腫瘍ができてるの。身体の…他の部位に転移するような悪性のものじゃないけど、このまま放っといたら二年もしないうちに声が出なくなるそうよ…手術で取ってしまえばすぐに治るけど、声帯のすぐ近くだから…下手をすると声帯そのものが使いものにならなくなってしまう…ラヴォールでは無理みたいね。医者も、設備も不充分。地球とか、ファテル…ツェネルーンの大病院なら大丈夫って言われたわ」
「地球にファテル、ツェネルーンか。どこも、ラヴォールからは往復だけで一か月近くかかる惑星だね」
「遠いよ…ね。あたしには、とても行けない。往復の交通費だけでも当時のあたしの蓄えが全部吹っ飛んじゃうくらいだったもの。…でも、お金なら作ればいい。本当の問題は、そんなことじゃなかったのよ」
「セレイン…」
セレインの手をぎゅっと握りしめたままの支配人が、泣きそうな声でつぶやいた。セレインはそれにうなづきかけて、
「あたしは、今でも保護観察の身。ラヴォールの外へ出ることは禁じられてる。どうしても星外へ出ようと思ったら、非合法手段をとるしかない。…偽造旅券。それを作るためにはとんでもない額のお金が必要らしいけど、あたしはそれに賭けようと思った。だから、この一年、どんなところでだって歌ったわ。手遅れになる前に…必死だった。ごめんね、セイ。あんたと組んだのもその為よ。迷惑がるのを無理に引きとめて、いつかはひどい怪我までさせて…ごめんね。でも、もうだめ…時間切れ。あたし、もう歌えない…」
最後の言葉は嗚咽にまぎれた。両手で顔を覆い、それきり何も言わぬセレインを、支配人もセイも黙って見ていることしかできなかった。重苦しい沈黙。が、不意にセイが、低い声でセレインに訊いた。
「セレイン…時間切れって、もう、手術してもだめってこと?」
「え…?」
はっと目を上げたセレインの頬には、まだ涙の跡が残っている。
「そんな…そんなわけじゃないけど」
セイが何を訊きたいのかよくわからないまま、セレインは支配人と顔を見合わせた。
「血を吐いたらもうかなり進行してるって…あとはあっという間に悪くなって、一か月かそこらで声はだめになるって聞いたわ。手術自体は、完全に声が出なくなる前なら何とかなるらしいけど」
「…ってことは、まだ一か月…病院へ行くまでの日程を除いても半月、あるわけだ」
「セイ…?」
この、わずか十五、六の少年が何を考えているのか、セレインにはわからなかった。
「どうするっていうの? あと半月ばかりあったところであたしはもう歌えない。お金だって、稼げないのよ。今の、手持ちの金額じゃまだとても、足りないっていうのに…」
そのとき、再びドアが荒々しく開かれた。
「マスター!」
セレインが、はっと身を起こす。その肩を、骨ばった男の手が固く抱きしめた。
「さっき、ね…ここへ来る途中で連絡しておいたんだ。今夜はこのまま二人で帰りなよ。そして、ゆっくり話してみるんだ。…いいね」
言い終わると同時に、セイは部屋の外へと出ていった。
「セイ!」
叫んだセレインにうなづきかけたマスターがすぐに少年のあとを追う。
「待てよ!」
出入り口近く、廊下の曲がり角の薄暗がりで、マスターはようやくセイに追いついた。
「おい…いいのかよ。そりゃ俺は、今夜はずっとあいつについてるつもりだったが…お前は一体どうすんだ」
心持ち顔を赤らめて、焦って問いつめるマスターを見て、セイはくすりと笑った。
「僕なら『メトセラ』に泊まるよ。ギルがスタッフの仮眠用のベッドを空けておいてくれてるんだ。明日…邪魔しないくらいの時間を見計らって戻るから、心配しないで」
からかうようなその表情に、マスターは思わず声を荒くした。
「何、わかったようなこと言いやがって、このガキが! お前に気ィ利かせてもらうほど、俺はまだ落ちぶれちゃいねえんだよ!」
「あんたに気を遣ってるつもりなんて…ないよ。ただ、セレインが一番頼りにしてるのはあんただからね。…彼女、すごく落ち込んでる。絶望してるって言った方が早いかな。慰めてやってくれよ。僕の方はちょっと…やることがあるんでね」
「何?」
一瞬、セイはマスターから目をそらし、うつむいた。
「正直言って、僕は今、迷ってる。少し、考える時間が欲しいんだ。…セレインには、『メトセラ』に泊まるってことだけ言っといて。決心できるかどうか、僕にもまだわからないし…もしだめだったら、がっかりするのは彼女だから」
そう言ったセイの顔は、薄暗い照明の加減か、普段より一層蒼白く見えた。
「おい!」
「じゃあね」
得体の知れない不安に襲われて、その華奢な腕をつかもうとしたマスターの手をするりとかわし、セイは軽く手をを振りながら夜の中へと消えた。
「セイ!」
残された男はもう、後を追うことも忘れたかのように茫然とつっ立っているだけである。
楽屋口前の暗い路地を通りすぎる間にセイは先ほどの帽子をかぶり直していた。長い髪をすっぽりと収めたおかげで、まるで違う人間に見える。路地の突き当たりはもう少し広い通りとの交差点になっていたが、その道にも明りらしい明りは見えない。
(こっちの方は、もう少し賑やかなあたりに出てからでいいな)
ジーンズの上着の胸ポケットにサングラスを引っかけ、セイはやや急ぎ足で『メトセラ』へと向かった。
真っ直ぐ歩いて三本目の通りを右に曲がると、後は店への一本道だ。何の気なしに、セイがサングラスに手をやったとき。
「ああ…っと。失礼!」
向かいからふらふらとやってきた酔っ払いが、もろにセイにぶつかってきた。かなり大柄な、がっしりとした体格の男に半ば跳ね飛ばされ、セイの身体はすぐ傍らの街灯の柱に思いきり叩きつけられる。帽子が落ち、長い髪がぱあっと広がった。
「ああ…こりゃどうも、すみません。あの、怪我はないですか、お嬢さん」
薄暗がりの中、酔っ払いはセイを少女だと思ったらしい。おろおろと助け起こし、酒くさい息を吐きながら懸命に服の埃を払ってくれている。
「…平気です。何ともありません」
セイもしいて誤解を解こうとはせず、むしろいつもより幾分甲高い声を出して、仕草もわざと頼りなくして見せたりした。その一方で乱れた髪をうまく使い、顔を見られないよう細心の注意を払う。ひたすらぺこぺこと頭を下げる男を適当になだめ、セイは足早にそこを立ち去りかけた。
「ちょっと待ってください、お嬢さん!」
不意に、背後から大きな声をかけられたセイはびくりと身を震わせ、反射的に振り向いた。ほんの一瞬、その姿が薄ぼんやりとした街の灯の中、はっきりと浮かび上がる。
「落し物ですよ」
が、男は拍子抜けのするほどあっさりとした口調で左手を差し出しただけだった。その手のひらの上に、セイのサングラスが乗っている。
「あ…どうも」
頭を下げるふりをして再び髪を顔の上に垂らしたものの、男は口をあんぐりと開け、まん丸の目でセイを見つめている。白い、細い指がひったくるような速さでサングラスを取った。すかさずそれをかけながら、セイは再び男に背を向け、歩き出していた。
「気をつけてくださいよう! あんたみたいな綺麗な娘が一人歩きできるようなとこじゃないんですからねえ!」
風に乗って酔っ払いのだみ声が聞こえてくる。セイはもう、そちらを見返ることすらもせず、ひたすらに『メトセラ』に向かって歩き続けていた。
「セイ! よかった、無事で」
『メトセラ』に入った途端、ギルの素頓狂な声がセイを迎えた。
「あいつら、見張ってなかったか?」
セレインとのことはランヴィル以外の誰も知らない。ギルには、ねぐらの近くにゴドらしい男がうろついているから泊めてくれ、と言ってあるのだ。
「うん…何とかね。今ちょっと戻ってみたんだけど、それらしい奴はいなかった」
「じゃあ、一安心って訳だ」
「ああ。でも念の為、今夜はここに泊めてもらうよ。明日になったら帰ってみる」
「大丈夫か?」
心配そうに、ギルが訊く。
「あいつらの執念深さときたら、まともじゃないぜ。いつだったか、あいつらにほんのちょっとたてついたチンピラが一年以上も追っかけ回された挙句、なぶり殺しにされたことがあるからな。…お前、ゴドの片目潰したそうじゃないか。一年どころか、十年だって追い回されるぜ」
「おーお、やだやだ。おっかないな」
セイはわざとらしく肩をすくめ、身震いしてみせる。
「ま、そんなことにはならないよう気をつけるよ。それより、早く寝ちまおうぜ。お前だって明日早いんだろ?」
「おっと、そうだった。明日はよう、店のディスプレイ変えるんだとさ。しかも営業はいつも通りだとよ。朝一からの突貫工事だぜ。参るよなあ」
気のいいウェイターはそのまま、セイを従業員たちの休憩室に案内していった。
「その一番端のベッド使ってくれよ」
指さしながら、ギルはさっさと服を脱ぎ、パジャマ代わりのTシャツに着替えている。一方、セイの方は着替えなど持ってはいない。上着を脱いだだけで、言われたベッドにもぐりこむ。
「今日は無理言ってごめんな」
ギルが明かりを消そうと手をのばしかけたとき、セイの声がぽつりと言った。
「…なあに、いいって。お前、女の子みたいな綺麗な顔してんのにあのゲデルとゴドをやっつけたんだろ。根性あるよな。それだけで俺、尊敬しちゃってんだよ。…だから、気にすんなよな」
「ありがとう」
ふっつりと明かりが消え、二人はそのまますぐに眠りについた…はずだった。少なくとも、ギルはそう思っていた。
夜中―かすかな緑色の非常灯の光に照らされた隣のベッド。その上に起き上がったまま、じっと闇を見つめているセイの姿を、ギルは見た。朝までに二、三度目を覚ましたが、その度いつも、同じ姿でセイはそこにいた。
翌朝、昨夜の言葉通り、ギルはまだ暗いうちから起き出して店へと出ていった。出がけにちら、と隣のベッドを見るとセイはよく眠っていた。ほっと安堵の息をつき、友達の目を覚まさないよう足音をひそめて部屋を出る。そして午前中一杯、休むことなく立ち働いて戻ってみると―そこには誰もいなかった。きちんとたたまれた毛布、皺ののばされたシーツ。その上に置いてあった紙切れが一枚。
(ありがとう。この次また、一緒に飲もうな)
「セイ…」
紙切れを握りしめたまま、ギルはつぶやいた。「この次また―」とは書いてあっても、そんな日はもう二度とこないのではないか―そんな奇妙な予感がした。できることなら、あの美しい少年の後をすぐにでも追いかけてみたい気さえした。しかし、その行く先さえ知らない自分であってみれば、ただいつまでもそこに佇んでいることしかできなかった。
ちょうどその頃。セイは街の西はずれを歩いていた。このあたりまで来ると、ぷっつりと断ち切ったように建物の影が消える。人家も、商店、飲食店、そして何やらわからないビルの群れも、皆。そのかわり、丈の短い草が申し訳程度に生えている岩だらけの空き地がどこまでも続き、それを越えてずっと行けば例の頑固者たちのスラムへとぶつかるはずだが、別にそこへ行きたくてやってきたわけではない。
セイはそっと額の汗をぬぐった。年間を通して気温の低いこの惑星、特に今は真冬の盛りとはいえ、朝からずっと歩きつづけでは汗もにじんでくる。車かバイクの一つも調達してくればこんな苦労はしなくてすんだのかもしれない。しかし、あまり目立つ真似はしたくなかった。それに、目的地はもうすぐそこのはずだ。…そう、あの夜、ランヴィルから聞いたことに間違いがなければ。
左前方をきょろきょろ見まわす。もうそろそろ、谷が見えてきてもいいはずだ。そして、彼の目指す家はその谷を見下ろす崖の縁に建っていた…はずだった。
「おかしいな」
わずかに眉をひそめてセイは首をかしげた。が、次の瞬間その目がぱっと輝く。遠い彼方に、それらしい建物の影を認めたからだった。まだかなりの距離がありそうだったが、今までの道のりに比べればほんの少し。少年は足を速め、そのちっぽけな影を目指す。
思ったより小さな家だった。昔の記憶では、もう少し大きいような気がしたんだけど。古ぼけて傷だらけのドアを叩こうとしてはやめ、家の周囲を二、三度ぐるぐると回ったときだったろうか。背中に鋭い声が飛んで、セイははっと振り向いた。
「何じゃ貴様は! 人の家の前でちょろちょろと…」
皺だらけの、干からびて縮んでしまったような矮躯。この前『メトセラ』で見たときの贅沢な衣装は、今はぼろぼろの作業着に変わってしまっていたけれど。
「ラドフ爺さん!」
呼びかけられて、老人の目が真ん丸に見開かれた。
「セイヤ…! セイヤか! おお…おお…よく、無事で…」
「爺さんこそ。…元気そうだね」
たちまち老人の目が潤み、涙がしょぼしょぼと皺だらけの頬を湿らせる。老人は何に答えるというのでもなく幾度かせわしなくうなづいていたが、やがて大きな音とともに鼻をすすり上げ、セイを家の中へと差し招いた。
「お互い積もる話もあるだろうが、とにかく、家に入ってからだ。さ、さ、入るがいい。中でゆっくり、話を聞こうじゃないかい」
「…そうか、『メトセラ』でな…。はは、何か月かにいっぺんの息抜きのつもりでおったに、おかげで思いもかけぬ相手に会うものじゃて」
家ばかりでなく、中の家具備品に至るまでかなりの年月を経ているのだろう。角がすっかり丸く磨り減ってしまったテーブルは、すすめられて恐る恐る腰を下ろした椅子と同じくがたがたと不安定だったし、お茶の葉を出そうとして老人が手をのばした戸棚の扉は、その小さな身体の重さ全部をかけてやっと開く、といった代物だった。窓のカーテンにもあちこちに繕いの跡が見える。覚えていたよりもずっと小さな、みすぼらしくさえなってしまったこの家。が、セイにとってここは、数少ない懐かしい場所の一つに違いなかった。
「…もう、幾年になる? お前さんが、傷だらけでそら、そこの崖下の沢の岩角に引っかかっていたのを拾ったあの時から。五年…いや十年…年を取ると、どうも物忘れがひどくなっていかん。どれほど経ったかも思い出せんて」
ぴしゃぴしゃと頭を叩きながら上機嫌で喋り続ける老人の問いに、セイは笑って答えなかった。やがてさすがに話し疲れたラドフ爺さんがつい、自分のティーカップに手を伸ばしたとき。
「ねえ、ラドフ爺さん。…まだ、商売してんの?」
「何?」
爺さんの、表情が変わった。暗い光が、しょぼついていた目の奥できらりと光る。
「それを聞いて、どうする気じゃ」
「もし…続けているんなら、仕事を一つ、頼みたい。そうでなければ…」
「そうでなければ? どうする」
かたり、と小さな音がした。爺さんの手が、テーブルの下に隠れてる。巧妙に作りつけられた隠し引出し。その中に何があるのかもよく知っている。ジャックナイフ。爺さんはナイフの名手だ。こんなに近く、しかも座ったままの相手なら十中八九、今でも仕留められる。爺さんの視線が、一瞬、炎のような激しさでセイを射た。
「…さっさと逃げる。このテーブル、蹴飛ばして」
刹那の緊張のあとの、一瞬の沈黙。あっけにとられた顔でセイを見つめていた老人が、やがてぷっと吹き出した。
「な…何じゃ、この坊主は…人をびっくりさせおってから」
からからと響く大笑いの中、爺さんはやっと、それだけ言った。あとはもう、こみ上げてくる笑いを抑え切れないのか、ひたすら腹を抱え、口を押さえているばかりである。セイはというと、この少年には珍しく、老人と一緒になって声を立てて笑っていた。
「…ふふっ。そりゃ、冗談の一つくらい言えるようになったさ。…あれから随分経つ。僕だって、少しは成長してるからね」
が、その表情はすぐにまた厳しく変わり、あらためて老人に向き直る。
「でも、爺さん。今言ったことは本当なんだ。真面目に、答えてほしい」
老人もまたぴたりと笑いをやめ、同じ目をして少年を見る。
「古いことを、よく覚えているもんじゃて。…ああ。もちろん、今でもわしゃ現役じゃよ。仕事の数こそ昔より少なくなったがの。ついでに言えば、手間賃は昔より高いぞ。…お前さん、わしの仕事に見合うだけのものを持っとるのかね」
紫の瞳がかすかに翳り、少年はつと立ち上がった。そのままゆっくりと窓の方に行き、老人に背を向けて何気なさそうに外の景色を眺める…ふりをした。
「金は…払えるけど、多分…足りない。でも、その不足分を埋める担保はあるよ」
老人に聞こえるように、ゆっくりと、そしてはっきりと。言い切った言葉の最後が、ほんの少し、震えてる。
「何じゃ、その担保というのは」
「…僕」
さっと振り向いた少年の向こう、のどかな昼下がりの光が逆光となってその影を黒く浮き上がらせた。
「ほう…で、その価値は?」
目をしばたかせながら訊く老人の声は静かで、何の感情も隠してはいない。
「統治体が昔のままに、僕にかけた懸賞金。駐屯軍に僕の居場所を教えるだけで、爺さんの仕事の代金は丸々手に入る。僕自身を駐屯軍に突き出せば、おそらくもっとたくさんの…」
「うむ。それで?」
爺さんが、大きくうなづく。セイは静かに微笑んで、再び爺さんの向かいに腰をかけた。
「…一体、どこのどいつの旅券をでっち上げろというんじゃい」
「セレイン。セレイン・デュフール。歌手だよ」
「セレイン…? 知っとるぞ。あの娘、まだ歌っとるのか?」
「うん。だけど今、病気なんだ。命がどうこう…いうんじゃないけど、少しでも早く星外へ出て手術しないと二度と歌えなくなっちまう。でも彼女は保護観察処分を受けていて…」
老人の眉がぴくりとはね上がり、そのまま皺だらけの手がセイの言葉を遮る。
「そりゃ…難しい状況じゃな。しかし、何でお前さんが、自分自身を代金としてまで彼女を助けようとするんじゃ? …あの街で、あの娘が何と呼ばれているのか、知っとるのか?」
わざと言葉を切り、爺さんは少年の反応を待った。
「…知ってるよ」
長いまつげを伏せ、絞り出すように少年は言った。
「『裏切者』…だろ」
そして、その言葉に大きくうなづいた爺さんを、挑むような瞳で睨み据えて。
「でも、セレインは好きこのんで仲間を売ったわけじゃない!」
激しく叫んだその後で、セイははっとしたようにうつむき、黙ってしまった。爺さんがそれに、厳しく問いかける。
「だから…! お前さんがそこまであの娘に肩入れする理由を聞かせろ、と言うておるんじゃよ、わしは」
取り乱した自分を恥ずかしく思ったのか、セイの頬はほんの少し赤くなっていた。爺さんは答えを促そうとはせず、黙ってそんな少年を見つめている。
「セレインを…好きになった。それから、彼女の恋人も。優しくて、勇気もあって、信頼できる人たちだよ、二人とも。…そして、自分の過去に苦しんでる。その痛みや後悔は僕にはどうしようもないけれど、せめて今の苦しみくらい、何とかしてあげたいと思った。何かしてあげたいと思って、できなかった…それどころか傷つけて、命さえ奪ってしまったたくさんの人たちのかわりに」
次第に細くなっていく声を老人は静かに聞いていたが、やがて、よっこらしょ、と声をかけながら立ち上がった。
「爺さん?」
つられて腰を浮かしかけたセイを、老人は目顔でそっと制した。
「まあええ、まあええ。…よかろ。わしとて時には、破格の値段で仕事をしてやることもあるさ。年寄りの酔狂さね。お前さんが払えるというその金のありったけを、明日持っておいで。そのときまでに、注文の品を作っておいてやるから」
「え…」
ぽかんと口を開け、きょとんと目を丸くしたセイに向かって、老人はにっこりと笑いかけた。
「気にするな。お前さんの所為だけじゃない。実はわしも、あの娘の歌が好きなんじゃよ。あれが聴けなくなっちまったら、ずいぶんと寂しくなっちまうことだろうさ。老い先短い人生とはいえ、ちょっとでも楽しいに越したことはないからの」
「ラドフ爺さん…」
「話が決まったからには、今日はもう帰っておくれ。わしゃ、すぐさま仕事に取りかかるでな、時間が惜しい」
「あ…」
それきり、何も言えなくなってしまったセイが、やっと口を開きかけたとき。
「ただいま」
一人の若い男が、のっそりと家に入ってきた。
「お…ヨゼフか」
うなづきかけた爺さんの顔を、それとはわからないほどに不快な色がよぎる。
「お客さんかい」
「うむ…まあな。もう、帰るとこじゃよ。じゃ、坊ちゃん、そういうことで。できれば今度は、あんたの兄さんとやらに直接来るよう、伝えておくれ」
突然、訳のわからないことを妙に大声で喚き立てたかと思うと、爺さんはセイの背を押し出すように家の外へと連れて行った。目顔で「何も言うな」という合図を送りながら。
「…何、帰り道がわからんと? 手のかかる坊ちゃんじゃの。…しょうがない、そこまで送ってってやろうよ。…おい、ヨゼフ! ちょっと出てくるぞ」
戸口のところでまた一人大声で叫び、爺さんはセイとともに岩だらけの荒地を、街の方に向かって歩き出す。
「…ちょっと…どういうことだよ」
話し声が聞こえないくらい家から離れたところで、やっとセイは老人に尋ねることができた。
「すまんかったな。ありゃ、ヨゼフというてわしの弟子…ということになっとる。ちょっとした縁続きじゃで、置いとるんじゃがな。あんまりいい人間とは言えん。少し技術を覚えたからというて、すぐにあちこちの胡散臭い連中から、金にはなるがくだらない仕事を請け負ってきよる。それでいっぱしの職人のつもりなんじゃよ。最近じゃ街のごろつきどもとばかりつき合うているようでな。金になることなら何でもする…お前さんの秘密に気づいたら、統治体の奴らに喜んで密告するような男じゃ。じゃからちょいと、な。…ま、大丈夫だとは思うよ。安心するがええ」
「そうだったのか…ありがとう」
セイが言うのに老人はうなづいて見せて、
「そんなわけじゃで、明日はお前さんじゃない方がいいな。さっき言っとった、セレインの…これ」
ごつごつとして皺のよった親指が、ぴんと立てられる。
「そいつに、ことづければええ。ヨゼフには、あんたの兄さんと言うておくから」
あれこれと気を遣ってくれたラドフ爺さんの気持ちが、セイには嬉しかった。目の縁が、熱くなってくる。
「うん…うん、そうするよ。本当に、いろいろとありがとう。元気でね、爺さん」
「お前さんもな。あ…む…お前さんのような人間が、平和に生きていくのは並大抵のことじゃなかろうが…それでも…の」
老人の手が、セイの手をしっかりと握りしめた。
「命は…大切にせいよ。…どんな人生でも、生きて、生きて、生き抜くことじゃ。…無事で、な」
セイもまた、老人の手を力強く握り返し、大きくうなづいた。やがて、手と手は静かに離れ、少年は一人、街へと引き返していく。何度も振り返るたび、老人はそこに佇んだまま、大きく手を振ってくれた。ずっと…ずっと。その萎びた小さな姿が見えなくなってしまうまで。