第六章
その夜。『メトセラ』のオーナー、ランヴィルは、ついこの間雇い入れたばかりのピアノ弾きの演奏を店の片隅でじっと聴いていた。知らず知らず、口元がほころんでくる。自分の耳に狂いはなかった。若いに似合わず、かなりの腕だ。…当り前か。短い間とはいえ、あのセレインと組んでいた奴なんだからな。
「オーナー! 珍しいですね。いつもはこんな時間に店においでになることはないのに」
通りかかったウェイターが、声をかけていく。彼は軽く笑って手を振った。
「まあ、いいじゃないか、ギル。私だってたまには店の様子を見たくなるのさ。ま、気を使わないでくれよ」
言いつつ、今しがた控え室で交わしていた会話を思い出す。
(セレイン…ね。喜んでいたよ。貴方が、ファンだって言ってくれたこと)
(そうか? …ふふ…私も嬉しいよ。彼女はまだ、私のことを覚えていてくれたんだな)
(貴方も、彼女たちの仲間だったのかい?)
そう問いかける少年の舞台衣装は、いつもの黒い絹のタキシード。私服のときよりはぐんと大人びて見えるものの、ランヴィルから見ればまだほんの子供だ。…そう、彼らが母星の独立を目指して戦っていた頃のような。
(ああ。最後の総攻撃をかけるとき、イルファンク中に散らばって本部の合図を待っていたうちの一人さ。本部に手入れが入ったと知って、できる限り遠くに逃げた。市内の隠れ家など当てにせずにな。そのおかげで、助かったんだよ。市内に潜伏していた者は残らずやられてしまった…)
(セレインは、そのことを一番気にしていたよ)
(だろうな)
ランヴィルの目が暗く翳った。その場に居合わせなかったとはいえ、あの後の虐殺の悲惨さは嫌という程知っている。その様子を彼に語った誰もが、セレインとその恋人の裏切りを激しく非難したものだった。
(だけどね…私はどうしても…彼らを責める気持ちにはなれなかったんだよ。あの二人はいつも、誰よりも激しく、誰よりも強かった。どんなに危険な戦いにも決して怯むことなく、みんなの先頭に立って飛び込んでいった。誰よりも傷つき、誰よりも血を流しても、弱音を吐くことなど絶対になかった。…そんな彼らが裏切ったということは…おそらく、私たちの想像を絶するような目に遭わされたに違いない。肉体的にか、精神的にか…どちらにせよ、私も自分が同じ立場に立ったなら多分、裏切ってしまうと…そう思ったからね)
ランヴィルのつぶやきに、少年は静かに微笑んで、うなづいた。
(ええ。僕も、自分が同じような目に遭ったら多分…)
口調はあくまでも一般論を語るときのそれ。だがその一瞬、少年の瞳をよぎった底知れぬ深い翳。たとえ地獄の闇とて、もう少しは明るいだろう。それを目敏く見て取ったランヴィルの目が、不審と疑問のあまり自分でも気づかぬうちに二、三度瞬く。
(ランヴィルさん…?)
不思議そうに首をかしげる少年の声にランヴィルははっと我に返り、軽く手を上げて平静を装った。
(いや、何でもない。…とにかくね、残念なのは、誰もが私と同じように考えたというわけではなかったことだ)
深いため息。
(私のように、運良く生きのびた者たちがいつしか集まって、この街はできた。新移民や統治体寄りのラヴォール人の住む『首都』には入ることさえ許されず、かといって、西に細々と暮らす頑固者たちもまた、我々に白い目を向ける。考えなしに莫迦な騒ぎを引き起こして統治体の締めつけをいっそう厳しくしたと怒っているんだよ。そのくせ、彼らは統治体の横暴を憎みながら、何一つ行動を起こさなかった。『無抵抗の抵抗』などと気取っているそうだが、所詮は自由を戦い取るだけの勇気もない、臆病者の集団だ…そして、どちらからもはじき出された半端者が、そのちょうど真ん中に暮らしているというわけだ。…ここに住むものは誰も、他人に言いたくない過去を一つや二つ抱えているが、そのほとんどは何らかの形であの事件に関わっているのさ。直接武器を取って戦いに参加したのは私を含めてほんの数人だが…親が、子が、兄弟が。あるいは友達や恋人があの戦いに加わって無残に殺されたという者は結構たくさん残っているからね)
(でも、セレインはこの街でも歌っていたじゃないか)
少年の反論に、ランヴィルは苦笑した。
(それは比較的新しい住民の集まっているあたりだよ。戦いが終わった後、それとは何の関係もない理由で『首都』からはじき出された者も、少しずつこの街に入りこんでいるからね。たとえば、ゲデルのような。だがそれは所詮、少数派だ。残りの多数派は…まだ、彼らを許してはいない。そして私も―この街の実質的な長の一人として、住民の心情を無視するわけにはいかん。…情けない、話だがね)
苦笑が、自嘲の笑みに変わった。が、すぐに彼は本来の快活な表情を取り戻し、あらためて少年に訊く。
(今夜の予定は? 店が終わるまで、弾いてもらえるのかな?)
(いえ。今夜は前半だけで上がります。セレイン…風邪でもひいたのか、調子が悪いようでね…変な咳ばかりして。医者からもらった薬を飲んでるとは言ってたけど、ってことは、前からおかしかったのかもしれない。今日はちょっと、早く帰りたいんです)
(そうか。歌手にとって、のどは唯一の財産だ。大事にするように伝えてくれ)
あの時、嬉しそうにうなづいていた少年と、今目の前にいるピアノ弾きとはまるで別人のようだ。うっとりと、呆けたように聞き惚れている客の一体何人が、あのピアノ弾きの真の姿を理解しているというのだろう。
流れているのは、穏やかで品のいいバラード。曲調もメジャー・キーで決して暗いものではない。なのに…何故、こんなに哀しいのだろう。何故、こんなに切ないのだろう。聴いているだけで、息苦しくなってくるほどに。ランヴィルは思わず、片手で頭を抱えた。
「…オーナー?」
店の中では忙しげにウェイターたちが立ち働いている。さっきのとは別の声が、怪訝そうに問いかけてきた。
「何でもない。…何でもないんだ。放っておいてくれ。…頼む」
肩をすくめ、首をかしげながら遠ざかっていく若者の姿を目の端に映しながら、ランヴィルは考えるともなく考えていた。
(…何がある? あの少年の心の中には何がある?)
その答えは、ランヴィルには永遠にわからない。わからないもどかしさが、なおさら苦しい。ピアノの音色に乗って届いてくる哀しさと切なさが、その苦悩をいっそう、深くする。
華やかな灯りに彩られた店の中、一人眉を寄せて、彼はじっと流れてくる音楽に聴きいっていた。
「ただいま! セレイン、調子はどう?」
明るい声がコンパートメントに響く。ベッドに横になっていたセレインは少し身を起こし、わずかな笑みを浮かべて同居人の少年を迎えた。
「おかげさまで、大分いいわ。ごめんね…あたしの所為で、仕事…切り上げてきたんでしょ?」
「何言ってんだよ。僕が怪我したとき、セレインはあんなに熱心に看病してくれたじゃないか。お互いさまだよ。…薬、ちゃんと飲んだ?」
「ええ」
話しながらセイは手早く上着―それはゴドの鞭のおかげでまだ、背中に大きな裂け目がついたままだった―を脱ぎ、持ってきた包みの中身を片づけ始める。
「ランヴィルが、お見舞いだって。リキュールくれたんだ。酒は今、ちょっと…って言ったんだけど、リキュールはもとは薬だったんだ、これもきっと、のどに効くってさ。寝酒代わりに飲んでみるかい?」
「…ありがと」
ガウンをはおり、起き出してきたセレインがセイを手伝おうとする。
「セレイン…寝てろよ! 風邪は、眠るのが一番なんだからさ」
「…いいのよ。あたし、風邪なんかじゃないんだから。…違うのよ! 病人扱いなんかしないで!」
自分でも思わぬほど強い口調になったのに驚いて、セレインは口元を押さえた。セイもちょっと驚いたふうだったが、こちらはすぐに気を取り直したのか、またもとのままに話しかけてくる。
「…そうだね。咳が出るだけで、他は何でもないんだし。…でも、気をつけたほうがいい。無理は禁物だよ」
「そうね…あんたの言う通りだわ。…ごめんなさい。やっぱり、もう少し休ませてもらうわね」
ベッドに戻る後姿、その肩が心もち落ちている。セイは無言のまま見送ったが、やがて大きなため息をつくと、片づけものの続きに取りかかった。
「どうしたんだい。お前が一人で来るなんて、思ってもみなかったぜ。え、未成年」
マスターがカウンターの向こうからにこやかに声をかけてくる。この男が笑うところなど滅多に見たことはないが、その笑顔は魅力的だ。少なくとも、いつもの…何かに思い悩んでいるようなしかめっ面より、ずっといい。
「マスター…いつも、笑ってればいいのに。いつもの怖い顔よりずっとカッコいいのにな」
「無理言うなよ」
セイがこれといった注文を出さないので、マスターはあの夜のウオツカを水で割り、少年の前に置いた。
「笑うってのも結構疲れるもんなんだぜ」
「ん…わかるよ。僕もそうだ。今日一日で、もう…」
「おいおい、どうしたよ」
「セレインの具合が悪いんだ」
「何…?」
沈みきっているセイの気を引き立てようと、努めて明るく振舞っていたマスターの顔が、かすかに険しくなった。
「咳が出るんだ。時々…だけどすごく苦しそうな。風邪だろうとは思うんだけど、本人は違うって言う。じゃあ、何なんだ…訊こうとしたけど、訊けなかった。怒られそうで」
「咳…だけか?」
「ああ。熱もないし、他は全然何でもないんだ」
「じゃあ、本当にただの風邪じゃないのか。あいつはああいう女だから、必要以上に大事がったり、甘やかそうとするとすぐに怒り出すぜ。莫迦にされてる…とでも思うんだろうな。…手におえない、ジャジャ馬だ」
「なら、いいんだけど」
セイは苛ついたように爪を噛んだ。
「何か…違う気がする。セレインがもっと別のことを隠しているような、そんな気がするんだ」
「考え過ぎだぜ、そりゃ」
おどけるような口調とは裏腹に、いつしかマスターはカウンターから身を乗り出してセイの言葉に聞き入っている。目の色は真剣だ。セイもまた、そんなマスターをじっと見つめ返していた。
「…来てくれよ! いつか、僕が怪我した夜のように。あんたになら、セレインは話すよ。安心して、みんな打ち明けることができるよ。ねえ、頼むよ! 僕じゃ駄目なんだ。…あんたでなくちゃ」
「そりゃ、買い被りってもんだぜ」
いつしか暗い表情に戻ったマスターが、低くつぶやく。
「あいつは俺を憎んでる。…軽蔑してるって言った方がいいかな。昔…ちょっとしたことがあって、俺はあいつの心を酷く傷つけちまったんだ。あいつは一生俺を許しゃしねえさ」
「セレインが憎んでるのは、あのときの自分だ。マスターじゃない」
「え…」
「僕は知っている。何もかも。ランヴィルから、全部聞いた」
穏やかな声だったにもかかわらず、マスターは弾かれたように身を引いた。そのまま、自分を見つめている紫の瞳から逃れるように顔を背ける。
「セレインにも話したよ。全部、聞いたってね。そしたら彼女、言ったんだ。『彼を罵ったのは、あのときの自分と重ねて見てたから。彼を裏切らせたのはあたしだ。あたしがいなければ、あの人は決してあんなことはしなかった』って。セレインは今でも、あんたを愛してる」
何かを言おうとしながらマスターの唇が震えていた。セイの声が、静かに響く。
「セレインを助けてくれよ。…ね、マスター。できるだけ早く、彼女を訪ねてやってほしいんだ。彼女には、あんたしかいないんだから」
そのまま少年は立ち上がり、酒の代金をそっとカウンターの上に置くと、一度も振り返らないまま、足早に店を出ていった。
久しぶりの仕事に、セレインは緊張していた。このところずっと思わしくなかった体調もようやく落ち着いてきたところへ、『アモール』の支配人から入った依頼。この間から噂になっていた統治体駐屯軍の新任司令官がいよいよ赴任してきたという、その歓迎会。軍人相手というのがちょっと気に食わなかったが、そんなことを言っていてはプロは勤まらない。二つ返事で承知したものの、しばらく歌っていなかったことへの不安だけが、かすかに心に引っかかっていたのだった。
ところが、舞台の出来は自分でも驚くほど上々だった。ほんの短いショウ・タイムだったにもかかわらず、客席からは惜しみない拍手と賛辞の渦が沸き起こり、セレインの緊張も不安も、何もかも吹き飛ばしてくれた。
そのおかげで、今夜ばかりは彼女の軍人への憎しみや嫌悪感もいくらか和らいでいたに違いない。宴が終わり、フロアの出口で支配人とともに客たちを送り出す彼女の顔には、心からの華やかな笑みが浮かんでいた。何人もの客が彼女と握手を交わし、その歌を褒め称えた。彼らの言葉の全てに嘘がないということははっきりと感じ取れたし、だからこそ、セレインも嬉しかった。彼女は客の一人一人に心からの礼を述べ、再び自分の歌を聴きに来てくれるよう、優しい言葉で言い添えた。客たちが一層感激したのは言うまでもない。
そして、いよいよ今夜の主賓―統治体駐屯軍新司令官、A・ジュノー准将が姿を現した。仕立ての良いタキシードに身を包んだ、背の高い、がっしりとした体格の、中年の紳士。いや、もしかしたら既に初老という年代にさしかかっているのかもしれない。だが、その身体には余分な贅肉などこれっぽっちもついていなかったし、そのくせ、その立ち居振舞いには年輪を重ねたものだけが持つ落ち着きと、深い自信がにじみ出ている。
只者ではない―誰もが一目でそう感じるに違いないその人は、静かにセレインの前に立った。
「今夜はどうもありがとう。貴女のおかげで、パーティーがいっそう楽しいものになったよ」
言うと同時に、准将はセレインの頬に口づけた。瞬間、セレインの身体がぴくりとこわばる。
(え…?)
口づけそのものがショックだったわけではない。こういう場面ではよくあること。まして、准将のそれは極めて礼儀正しく丁寧で、不快な気持ちなどまるで起こさせないものだった。彼女を驚かせたのは、その瞬間、耳にささやかれた言葉だったのである。
「今は君たちにとって辛い時代だろう。だが、こんな状況は長く続くはずもない。統治体はいつか、必ずラヴォールから撤退する…希望をもって、生きたまえ」
セレインは、自分の耳を疑った。統治体の軍人が、それもラヴォール駐屯軍の司令官ともあろう者が口にする台詞ではない。
茫然と立ちすくむセレインにかすかな笑みを投げかけ、准将は店の玄関に続く短い廊下を歩き出した。突き当たりのガラスのドアの周囲には、彼を待っているかのように他の客たちがたむろしている。
「待って!」
思わず、セレインは准将を呼び止めていた。
「何だね?」
振り向いた瞳は淡い鉄色。穏やかで深い光をたたえたその目は、何故だかあの少年の紫の瞳を思い出させた。
「何故…どうして私に、あんなことをおっしゃったんです?」
走り寄ったセレインの頬に、准将の唇がもう一度、軽く触れた。
「立場上、君の素性は知っているものでね。素晴らしい歌姫に、いつまでも哀しい思いをさせたくなかった。だが、でまかせではないよ。単なる個人的見解ではあるが、実現する可能性は大いにある」
「でも…統治体の、駐屯軍司令官ともあろう貴方が…」
「まあ…ね」
准将は、苦笑した。
「下手な奴に聞かれたら、即座に軍法会議だろうな。…だが君は、秘密にしておいてくれるだろう?」
「え…ええ! もちろんですとも!」
そう答えた声のあまりの大きさに、慌ててセレインが自分の口を押えたとき、一人の若者が准将に駆け寄ってきた。
「指令! お車が参りました」
「ああ…ありがとう」
軽くうなづきかけ、若者とともに玄関に向かった准将が、ふと、何かを思い出したように振り向いた。
「そういえば、どうして今夜はピアノを使わなかったんだい? 噂ではここしばらく、君は凄腕のピアニストとコンビを組んでいたというじゃないか」
「お気に…召しませんでした?」
セレインの声がわずかに固くなった。准将の赴任は、つい半月ほど前のことだと聞いている。なら、何故セイのことを知っている? セレインとセイが別々に仕事をするようになったのは、彼がラヴォールに来るよりも前のことだ。
「どうしたね?」
一瞬、不思議そうな表情になったものの、准将はセレインの戸惑いの原因にすぐ思い当たったらしい。
「ああ…私がここに来てから、君たちが一緒に舞台に立ったことはなかったんだったね。だが、素晴らしいコンビだったそうじゃないか。歓迎会の場所が決定した途端、幹事役が教えてくれたよ。…私はこれでも音楽は好きな方でね。楽しみにしてきたんだが…」
今までに比べて、その語り口は少し…饒舌になったようだ。声も、不自然に大きくはないか? もちろん、うがち過ぎと言ってしまえばそれまでだけれど。
「あの子…出ていってしまったんです」
気がつけば、口から流れ出していた嘘。セレインは、かすかな危険の匂いを感じ取った自分の本能に従うことに決めたのだ。
「私が…少し、体調を崩してしまったもので。歌えない歌手なんかと組んでいても何の得にもならないって、また…流れていってしまいました」
「おやおや」
准将は、肩をすくめた。
「随分と冷たい相手だったんだね。かなり若い男だという話だったが」
「若いどころか、まだほんの子供でしたわ。…だからこそ、そうやってあっさりと出ていってしまったんでしょう」
「わがままな子供に、いつでも大人は泣かされるというわけだ。まあ…そんな相手なら、始めから縁がなかったと割りきることだね。君の歌は、それだけで人々を十分に引きつける力を持っている。私も近いうちにまた聴きに来ることにしよう」
最後の軽い笑みとともに、准将はセレインに背を向けた。そして、今度こそ振り返ることもなく店を出ていく。玄関付近に固まっていた連中もそれに続き、パーティーはようやくお開きとなった。
「やれやれじゃの」
支配人が大きくため息をつき、額の汗を拭った。
「駐屯軍相手は、気骨が折れるよ。まあ、その分金払いはいいから、文句も言えんが」
「本当ね」
支配人のぼやきにうなづきながらも、セレインはかすかに微笑んでいた。
(A・ジュノー准将…)
多少、心に引っかかる何かは残ったものの、セレインは生まれて初めて、統治体の軍人に対して好感を持ったのである。
「…如何でしたか」
運転席からの問いかけに、ジュノー准将はかすかにうなづいた。
「脈はありそうだな。誰か一人、あそこにつけておけ。…射撃の得意な奴がいい」
「かしこまりました」
ただそれだけの会話を乗せて、漆黒の大型セダンは統治体駐屯軍基地へ向かい、夜に溶けるかのように音もなく走りつづけていた。
どうやら、セレインの身体は完全に回復したようだった。あんなに不安に駆られ、大騒ぎをしたのはセイの取り越し苦労だったのかもしれない。マスターは、セレインを訪ねてきたのだろうか。セレインも再び仕事を始めたとはいえ、今や二人の仕事場は完全に別々であり、顔を合わせるのは夜のほんの一時だけになってしまったから、そんな話を聞くことさえもできなかった。だが、とにかく今のところセレインの体調は落ち着きを取り戻し、毎日を元気に過ごしている。が、ずっと部屋に置いてある白い薬の包みに気づくたび、セイは不安げに眉をひそめていた。
(そう言えば…セレインと暮らし始めてからもう、二か月になるんだな)
約束の期限が切れるまで、後一か月弱。もともと、気の進まないのをセレインに無理矢理押し切られた形で交わした約束である。期限が過ぎたらさっさと逃げ出してしまうにこしたことはないが、幸い、今のところ恐れている「危険」の兆候は見当たらない。街の顔役と一騒動あったのはまずかったが、このあたりではよくあることだ。ランヴィルという頼もしい後ろ盾もできたことだし、気にすることはない。セレインにだって、マスターがいる。
(何も、心配することはないんだ。…そう、何も…)
「浮かない顔をしてるじゃないか。美人が台無しだよ」
軽く肩を叩かれて振り返ると、ランヴィルが立っていた。そろそろ『メトセラ』のショウ・タイムが始まる頃。控え室には、他の人影はない。
「セレインの調子はどうだね。元気でやっているかい?」
「ええ、何とかね」
セイは、困ったように笑った。それを見て、ランヴィルが面白そうな表情になる。
「どうしたんだ。はっきりしないな」
「何でもないって言えば何でもないんだけど…ごく普通に仕事にも出かけてるし、咳もほとんど出なくなった。…だけど薬の包みがいつも、ベッドの傍に置いてある。それが少し、気になるんです」
「ふむ…」
ちょっと考え込むように、ランヴィルは片手を顎に当てた。わざとのように小首をかしげ、唇をへの字に曲げて見せる。そんな芝居めいた仕草がよく似合う男だ。
「考え過ぎじゃないのか? 症状がよくなっても念の為、薬を飲み続けるってのはよくある話だし。そんな、気にするようなことじゃないと思うがね。…それとも、君はやっぱりセレインに惚れてるんじゃないのか?」
「何を莫迦なことを。セレインは、マスターが好きなんですよ」
「セレインのことは聞いたけど、君の気持ちは聞いてないんでな」
からかうようなランヴィルの言葉を、セイは冷めた笑いで受け流した。
「僕の気持ちだって、言ったはずですが。セレインを女として愛してはいないって」
「おい」
不意に真顔になって、ランヴィルは指をセイの顎にかけた。そのままくい、と上向かせ、少年の顔をじっと見つめる。
「嫌い嫌いも好きのうち…って言葉、知らないかい。セレインはいい女だ。そんな女と一緒にいて何も感じないなんてこと、私には信じられないんでね。…それとも何か? 君には他にもっと好きな女でもいるというのかい?」
「…ええ」
ぱん、と音を立ててセイの手がランヴィルの手をはねのける。
「昔…一緒に育った女の子。小さくて、可愛くて、僕のことを心の底から慕ってくれていて…今はもう二度と会えないけど。僕は今でも、あの子のことを愛してる。あの子以上に好きになれる女なんていないよ。今も…そして多分、これからも」
「…悪いことを言ったな」
しばしの沈黙の後、ランヴィルは申し訳なさそうに頭を掻いた。
「いいんですよ。…ああ。そろそろ出番だ。行かなくちゃ」
さっと身を翻し、セイは出て行く。この店でも、セイは華やかなスポットライトの中に自分の身をさらそうとは決してしなかった。ぼんやりとした間接照明、彼とピアノを半ば隠すように天井から垂れ下がったカーテン。それが唯一の舞台装置。今夜のランヴィルは店に出ようとはせず、このままここで少年の演奏を聴くことにしたらしい。密やかな、しかし期待に満ちた拍手の中、最初の曲が始まった。セイが好んで弾く古い夜想曲。静かで、どこか寂しい感じのするその旋律を、いつしかランヴィルもすっかり覚えてしまっている。
「ん…?」
曲が、終わりに近づいた頃。ピアノの音がわずかにはずれた。…多分、客のほとんどは気づかなかったろう。が、これはセイがこの店で演奏するようになってから毎晩のように弾いており、いつだったか彼自身も一番得意だといっていた曲であることをランヴィルは知っていた。
(たまには…な)
間違いは誰にでもあるものだし、別に、プロとして許しがたいほどのミスでもない。が、ランヴィルはその夜のセイの演奏が終わるまで、首をかしげ続けていた。
「お疲れ様」
「お疲れ様でした」
その夜の出演者たちが、口々に声をかけあいながら引き上げてくる。その中に、一人浮かない顔のセイがぽつりと佇んでいた。
「お疲れさん」
「あれ…ランヴィルさん。どうしたんです? 今日は途中で帰るって、確かさっき…」
「そのつもりだったんだがね」
思わせぶりな笑みを浮かべ、ランヴィルがセイの肩に手をかける。ひんやりとした絹のタキシードの肌触りが心地よい。そのまま少年をぐい、と引き寄せ、耳元で小さくささやく。
「どうした? さっき、とちっただろう。単なるミスじゃあるまい。…何か、あったか?」
「ばれてましたか」
悪びれた様子もなく聞き返されて、ランヴィルは少し、たじろいだ。
「ん…まあ、大したことじゃなかったがね。…ちょっと、気になってな」
「別に、何でもないと言ってしまえばそれまでなんだけど」
ズボンのポケットに両手を突っ込み、ちょっと不良めいた仕草でセイは舞台の袖に歩み寄る。
「あそこ…客席のちょうど真ん中あたり、帰り支度を始めている爺さんに見覚え…ありますか?」
言われた方に目をこらすと、まさしく一人の痩せた老爺が店を出ていくところだった。体つきこそ貧弱だが、なかなか上等の衣服を身につけている。ちょっと見たところでは、『首都』の小金持ちの隠居、といったふうだ。
「ああ…あの老人だったらよく来るよ。常連の一人と言ってもいいかな。君の、知っている人かね」
「いえ…」
少年は、ゆっくりと首を横に振る。
「多分…違うと思います。それにもしそうだとしても、向こうは僕のことなんか覚えてないでしょう。そういえば…どの辺に住んでるって?」
「よくは知らないよ。ただ、相当古い家らしいことは確かだな。五十年以上住んでいるから、最近は傷みが激しくて困るとこぼしていたのを聞いたことがある」
あんまりさりげなく訊かれたので、つい、答えてしまった。はっとランヴィルが口を押さえたのを見て、セイは黙ってため息をついた。
「…じゃあ、違う。僕の知っている爺さんはラヴォールに移住してきてまだ数年も経ってないはずなんだ。こっちへ来るときに家を新築したとも聞いたしね。…別人だな」
残念そうに肩をすくめた、それが妙にわざとらしく見えた。
「じゃ、今夜はこれで上がります。お疲れ様でした」
軽く頭を下げ、セイは控え室を出て行った。
「食えねえガキだぜ」
取り残されたランヴィルのつぶやきは、誰の耳にも入らなかった。