第十二章


「知ってたのか…」
「…わかるさ。君はどうしても、あの二人を巻き込みたくなかったんだろう? だがもし一緒にいるところを見られたら、彼らも間違いなく君の仲間―秘密を知っているものとして抹殺される―そう、思ったんだろう?」
 セイはうつむいたまま、黙っている。准将がその肩を優しく叩いた。
「君の予想は正しかった。君の居所が知れた時点で、彼らもぐるだと思い込んだ者はかなりいたからな。だが、私はことをあまり大袈裟にはしたくなかったから、とにかくアルワジ中尉からの連絡を待つように言い続けておいた」
「ジュノー准将…」
「そうしたら、飛び込んできたのは何と、中尉からの報告ではなく誰だかわからん男からの密告電話だった。…そこで、考えたのさ。この件に関わっている『男』のうち、こんな電話をしてくるのは誰だろう、とね。セレインの恋人は多分違う。彼は死んでも我々に協力などするまいよ。しかし、そうなると誰もいなくなってしまう。他の連中がそこまで深く君とつき合っていたとは考えにくいからね。とすれば…わかるだろう?」
「…じゃあ、部下には何て言ったんだい」
「申し訳ないが、結局はあの男に密告者になってもらったよ。何らかの理由で君が我々に追われていることを知ったものの、恋人の手前隠れて通報してきたのだろうし、素直に我々に知らせてきたところをみると君の秘密自体には気づいていない可能性が高いとね。もし気づいていたら、その秘密を独り占めして大儲けの一つでもしようと考えるに違いないからと言いくるめておいた」
「…マスターも、随分と悪人にされちゃったもんだ。気の毒に」
「そう言わなければ、彼らを守ることができなかったんだよ。幸いみんなそれで納得してくれた。中には半信半疑の者もいたかもしれんが、情報部にとっての最大の目標はあくまでも君であって彼らではない。あとで何か問題が起こったら全責任は私がかぶることになるのだからそれでいいとでも思ってくれてるのだろうさ。シュヴァリエ大尉も中々の演技を見せてくれたんだろう?」
 少年が、きょとんとした表情になる。准将はそれに軽く笑いかけ、幾分面白そうに話を続ける。
「隠れて通報してくるくらいだから、あの男はセレインの前では精一杯君をかばおうとするだろう。そのときは武士の情けで芝居の片棒を担いでやれ、と言っておいたんだよ。
…ああ、もう一つあったな。私はあくまでこの件に関わっていないことにしてくれとも頼んでおいた。実は、君の居場所を確かめるために私は一度『アモール』に行き…セレインに会ったことがあるのでね。彼女は用心深い女で、君に関してはあくまでも知らんふりを通していたが、この件の裏に私がいると知れば、それを見抜けなかったことできっと自分を責めるだろう。あんな美しい女性、それも不世出の歌姫にそんな、悲しい思いはさせたくなかったのだよ」
「…あんたが美人に弱いなんて、初めて知ったな」
 そこまで言われて少年も安心したのか、その声にはほんのわずかではあるが笑いが混じっていた。が、ようやく和やかになった雰囲気を打ち消すような厳しい口調で、准将は再び口を開く。
「セイヤ。君は、あの二人が好きなんだろう? だったら、もっと彼らの気持ちを大切にしてやれ」
「え…」
「自分を殺してまで彼らをかばい、その願いをかなえてやりたいという君の気持ちは立派だ。だが、君は大切なことを忘れている。君がそんなにも好きだというあの二人…彼らもまた、君に負けないくらいの気持ちで君を好いている、ということを」
「あ…」
「あれ以来、君は多分…他人と必要以上に深く関わることを必死で避けてきたんだろう? 自分の運命に誰かを巻き込むことを恐れ、ぶっきらぼうな態度、何ごとにも無関心な言葉…そんな、氷の仮面をずっとかぶり続けて。そして万が一、誰かを好きになったとしても、一方的に尽くすことしか自分にも、その相手にも許そうとしなかったんじゃないのかね? …無理もない。だが、ね。たとえどんなに拒んでも、君が抱いた好意、『好きだ』という想いは必ず、その同じ強さを持って君に返ってくるものなんだよ。思い出してみたまえ。セレインたちに限らず、今まで君が出会ってきた人々を。君が『好きだ』と思った人々を。彼らは君の気持ちを平然と受け流していただけかね? 与えられて当然と、ただ受け取るだけだったのかね? この三十年間、君を好きになってくれた人間は一人もいなかったのかね?」
「…」
 無言のまま、大きく見開かれた紫の瞳。それは准将を見つめているようでもあり、あるいはもっと遠くの、別の何かを見ているようにも思えた。しばしの間。
「い…や。…だけど…だけど僕は…」
「人を、殺した者。そして、人ならざる者。そう言いたいのかね。だが、そのどちらに関しても君に何の責任がある? リコゼッタの事件についてはさっき言ったろう。それに…もう一つの件についても…」
 少年が、激しく首を横に振る。言いかけた准将の言葉を、全身で…拒む。
「違う! 責任が誰にあるかなんて、問題じゃない! 問題は…今の僕…僕の…」
「たとえ君の身体がどんなに変わってしまっていても…君ははみ出したりしていないさ」
「准将!」
「昨晩のことを思い出してみるがいい。メンテス博士の『実験』の後、立ち上がる力もなかった自分のことを。独房に着くと同時に気を失い、まる一昼夜の間目覚めることのなかった自分のことを。…君は、人間だよ。確かに、並の人間よりは強靭な生命力を持ち、姿かたちも―この先何年経とうとも変わらないかもしれない。だが、君にもやはり限界があり、それを超えることはできない。もし超えたら、君とて生きていられないだろう。…わかるか? 君は決して、『死』を超越してはいない! ただ、生まれてからそこへ至るまでの道程がほんの少し…長過ぎるだけだ。自分の生命を弄ぶのはもうやめたまえ。やがて来るもの…あらゆる生命の上にもたらされる永い、安らかな眠りはいつの日か、必ず君のもとにも来るはずだから! だから、それまでは生きねばならん。 わかるか…?」
「あ…あ!」
 准将の懸命の説得にも、なお…なお少年は抗おうとして…反論しようとして、何かを言いかける。しかし…声は、出ない…
「セイヤ」
 准将はそっとソファに移り、力なくうなだれる少年の肩に手を置いた。
「私の言葉の全てを納得することは君には無理かもしれん。…それは、それでいい。この世の誰もが信じることのできる真理など、この世には存在しないのだから。だが…それでもせめて、そう考えることのできるよう、努力してはくれないだろうか。セレインたちの…君が今まで出会った、君を好きでいてくれる人々の為に」
「ジュノー…准将!」
 細い肩をかすかに震わせ、少年がその瞳の奥で見つめていたもの。
(セレイン…マスター…ラドフ爺さん…ランヴィル…ギル…)
 その前にも。たくさんの人がいた。たくさんの…懐かしい、優しい人々が…。

(いいわ。あんたが寝つくまで、こうして手を握っててあげる)
(俺、お前を尊敬しちゃってんだよ。…だから、気にすんなよな)
(お前さんのような人間が、平和に生きていくのは並大抵のことじゃなかろうが、それでも…の)
(どんな人生でも、生きて、生きて、生き抜くことじゃ)
(どんな人生でも)
(生きて、生きて)
(生き抜くことじゃ。どんな人生でも)
(生きて、生きて…)

「セイヤ」
 そっと頬を叩かれ、セイは目を上げた。ジュノー准将が軽く自分の頭を抱き寄せ、優しい表情で自分を見つめている。…この男にもこんな顔をすることができるなんて。あらためて、少し、驚く。
 かつての、敵だった。今でも彼の全てを許せるとは思わない。心の底、まだ…まだ、暗い憎しみの燠火がちろちろと胸を焼く。でも…
 でも、それでも…もう…
「ありがとう」
 頭を准将の胸にもたせかけたまま、セイははっきりとそう言った。
「まだ…納得しきれたわけじゃないけど。今でもやっぱり、苦しいけど…あんたの言ったように考えてみることにするよ。…じっくり、というわけにはいかないかもしれないけどね」
「何故? 本当に納得できるまで、とことん考えてみればいい」
「そうしたくても、メンテス博士あたりが許しちゃくれないだろう」
「ああ…そうだったな」
 准将はつぶやき、つと立ち上がった。無言のまま少年の肩に触れ、後ろを向かせる。かすかな金属音。同時に、少年を縛めていた手錠がぽとりとソファに落ちた。
「何を…!」
「逃げたまえ」
 落ち着いてはっきりとした、准将の声。
「君を彼らの実験材料にするつもりなどない。ただ…話がしたかったのさ。用は済んだ。君は、君自身の世界に帰るがいい」
「だって! そんなことをしたら…」
 自由になったことでかえってセイはうろたえていた。思いがけない成り行きに頭が混乱している。が、准将は至って平然とそこに立っていた。
「狂ったのか? ジュノー准将! そんなことをしたら、あんたの立場はどうなるか…」
「ちゃんと、考えてあるよ」
 そう言って准将が取り出したのは、一丁の銃。
「私が長年使っているものだ。型は古いが性能は折り紙つきだよ。ほら、ここのスイッチでレーザーにもパラライザーにも切り替えることができる。見てごらん」
 差し出される銃をセイはわけもわからず受け取った。ずしりとした重み。鋼鉄の、鈍い輝き。准将の愛着そのままに手入れが行き届いている。
 あれこれ首を捻りながら、持ち慣れぬ銃をいじり回している少年を見て、准将は口もとをほころばせた。
「ここを脱出するには武器が要る。その銃を使うがいい。どうせ君のナイフは全部、私の部下に取り上げられてしまったんだろう?」
「まあ…ね。だけど、何故…」
「私にとっては責任逃れのごまかし。そして、君にとっては時間稼ぎと…復讐の、最後の機会」
 世間話をしているような軽い口調で准将は言う。
「君が、撃てばいいのさ。私を…ね」
「何だって!?」
「スイッチをどちらに切り替えるかは君次第だ。どちらにせよ、見張りの兵士たちが私を見つけ、君が逃げたことを察知するまでには多少の時間がかかるだろう。そして私はあくまでも被害者として―ま、おめおめ君を逃がしてしまった不注意は咎められるだろうがね―今夜の話を秘密のままにしておくことができる。うまい考えだろう?」
「僕に、自分の生命をゆだねるって言うのか?…あんたを…長いことあんたを憎み続けてきた、この僕に」
 銃をしっかりと握り締めながら、セイの手が震えている。復讐。確かにこれは絶好の機会だった。なのに…なのに…
 どうしてこんなに、手が震えるんだろう?
「そういうことだ。このまま君を逃がしても構わないんだがね。総司令ともあろうものが、全くの無傷のままでいるにもかかわらずいつまでも捜索命令を出さないというのもあまりにわざとらしいだろう?」
 嘘だ…。目の前で、幾分にこやかにさえ思える表情で語る准将を見ながら、セイは直感した。
 何もかも、全部、こじつけだ…この男は、最初から僕に自分を殺させるつもりだったんだ。多分…多分、三十年前の…償い…と…して…
 目の前に、穏やかな目をした男がいた。かつての若さ、鋭さのかわりに、深く、寛大な光をその淡い、鋼鉄の瞳の中にやどらせた男。自分と同じ歳月を、同じように迷い、出口を探し続けてきた男。
 変わった…ね。ジュノー大佐。
「どうした。早くしないと、兵士たちがまた君を連れに来るぞ」
 復讐。もはやそれは、ここでこの男を撃ち倒すことではなかった。復讐。もし、セイにまだその気があるのなら。もし、目の前の男に自分と同じ、いや、それ以上の苦しみを味あわせてやろうと思うのなら。
 このまま、銃を捨てて立ち去ればいい。三十年待ち続けた贖罪の機会をぶち壊してしまうことこそ、准将にとっては死よりも過酷な報いとなるはず。でも…
(だけど、僕は)
 銃を持ったセイの右手が、ゆっくりと上がる。そして正確に、准将の胸に照準を合わせた。その様子を黙って見ていた准将が、静かに微笑む。長いこと背負ってきた重荷をやっと下ろせる、期待と安らぎの笑み。
「さよなら、ジュノー准将。…もう、二度と、会わないよ」
「さようなら、セイヤ。無事に逃げ切り、生きのびてく…」
 准将に最後まで言わせないまま、セイは引き金を引いた。一瞬、ほんのりと明るくなった部屋。そして、床に崩れ落ちた准将の身体。
 セイは最後にもう一度、振り向いた。うつぶせに倒れている准将がどんな表情をしているのかはわからない。それに軽く一礼し、ドアに手をかける。
 鍵は、かかっていなかった。
 そっと、開いてみる。人の気配はない。セイはゆっくりと部屋の外に出た。用心深く、左右を見回す。右は、行き止まり。左は…。
 暗赤色の絨毯がずっと敷かれている。真っ直ぐな長い廊下。ぼんやりと暗くなり、何も見えなくなる少し手前で絨毯は切れていた。その先に続く冷たい石畳。セイがすでに見慣れた、この基地の本当の姿。
(こっちだ)
 足音をひそめて、セイは駆け出した。
 足元の床が柔らかい赤から暗い灰色に変わるあたりに小さな明り取りの窓があった。ちょっと高い位置。だが、背伸びをすれば何とか外を見ることができる。セイは爪先立って精一杯伸び上がった。夜の暗さと、いっそう激しさを増した雨のおかげでろくすっぽ見えるものもなかったが、それでもほんのりと明るい窓が、一つ、二つ…どうやらここは基地の最上階らしい。七階…いや、八階か。
(ま、そんなもんだろうさ)
 おおよその見当はついた。セイは再び、走り出す。
 最初の階段はすぐに見つかった。が、駆け下りた場所には再び、長い廊下。万が一の侵入者を簡単には逃がすまいという配慮だろう。無人であるのが幸いと言えば言えたが、一階下りるごとにまた次の階段を探していたのでは、いつか気づかれる。しかし、ほかに方法はない。セイは走った。暗い、硬い石の上を。凍るような、真冬の夜を。
 それでも、三番目の階段を見つけたときまでは誰にも会わずにすんだ。もしかしたらジュノー准将が兵士たちを遠ざけておいてくれていたのかもしれない。しかし―
 一歩踏み出した瞬間、階下で何かが動く気配がした。ぱっとあたりが明るくなる。
「誰だ!」
 鋭い誰何の声。セイはとっさに手すりの陰にうずくまった。
 重い足音が、ゆっくりと階段を上ってくる。かすかに、銃を構える音。相手の息遣いさえ、今でははっきりと聞こえる。冷たい石の壁に身を押しつけるようにして、セイは渡された銃を構え、間合いを計った。一歩、二歩、三歩…近づいてくる足音は、じれったいほどゆっくりとしている。セイの手に、力がこもる。痛いほど目を見開いて、すぐ下の踊り場を見つめる。
(奴が、ここに来たときに…!)
 ほんの十数秒が、あまりにも長く思えた。それでもついに、黒い軍靴の先が目に映る。ついで、仄見えた銃口。そして、現われた警備兵。
「お…お前は!」
 ぎょっとした兵士の顔が凍りつく。すかさず、セイは引き金を引いた。人間の倒れる、重い音。が、次の瞬間さらに大きな音が基地中に鳴り響いた。
(しまった!)
 警報。警備兵の一人でも倒れたら作動するように仕掛けられていたのか。が、そんなことを考えている暇はない。セイは二段跳び、三段跳びに急な階段を駆け下り、次の階段を探して石の廊下を走った。
「こっちだーッ」
「いたぞッ」
 武装した兵士たちが飛び出してくる。大勢の足音が、壁に反響して何十倍にも聞こえてくる。灯りという灯りは皓々と基地内を照らし出し、今や身を潜める暗がりすらろくにない。廊下の向こうから押し寄せてきた一団に向かって目くらめっぽう銃を撃ちまくる。不意打ちをくらって声もなく倒れた兵士たちを飛び越え、黒髪をなびかせて少年は走った。
 曲がり角。足音をひそめ、ぎりぎりまで寄ってみる。敵も同じように息をひそめているらしいが、大人数のこととてどんなに気をつけていても気配を完全には消せない。しばらくそのままで待った。気の短いのが様子を見に近づいてくる。くすんだ色の軍服がちら、と見えた瞬間、セイの銃が火を吹いた。
「うわっ」
「ここだぁっ!」
「グレンがやられたぞ!」
 殺到してこようとはするものの、下手に姿を見せて仲間の二の舞になってはという懸念が今一つ、思い切った行動を取らせない。
「あっ!」
「ぎゃっ」
「うわあああああっ」
 兵士たちのほとんどは、まだ侵入者の正体に気づいていないのだろう。情報不足が彼らを必要以上に慎重にさせ、その機動力を奪っている。そんな兵士たちの目前に飛び出した刹那、手にした銃を乱射する。この戦法は思ったより効果的だった。しばらくの間、同じことを繰り返し繰り返し…それだけで追っ手の数は面白いように減っていく。が、それはほんのつかの間のことに過ぎなかった。
「あ…っ」
 かなり、下の階へ来ていたはず。多分…あと二つか三つ、うまくすればたった一つの階段を見つければ一階に…出口へ通じる階へとたどり着けただろう、その場所で!
「畜生…!」
 目の前に、長い真っ直ぐの通路がのびていた。この建物には珍しく、かなりの間隔をおいてだが結構大きめの窓が並んでいる。が、明るく照らし出された基地の中からでは夜の闇そのものの不気味な黒い穴にしか見えない。曲がり角はおろか、ちょっと隠れられるだけのわずかなくぼみすらない一本道。走り抜けるにもかなりの時間がかかるだろう。こんなところで挟み撃ちにでも遭ったらもう終わりだ。
(引き返してみるか…?)
 しかし…。
 ここへ連れてこられてから、兵士たちに引き回された記憶を頼りにここまできた。もしここで、全く知らぬ通路に踏み込んでしまったら…
(二度と逃げ出せない、基地の奥へ迷い込んでしまうかも…)
 足を止め、躊躇っていたわずかな時間。と、背後から聞こえた追っ手の足音。
(今引き返したら、捕まる!)
 ままよ!
 セイは弾かれたように駆け出した。
 ほんの一瞬の差で追っ手の兵士たちがなだれ込んでくる。まさに間一髪だった。が、ほっとしたものつかの間、すぐに激しい銃撃がセイを襲う。走りながら、それでも何度か背後に向けて銃を撃ちまくったが、大した効果はなかった。
「うわっ!」
 一条の熱線が、もろにセイの背中を貫いた。背骨のやや右、腰のあたり。
「あ…」
 足がもつれ、膝をついた。激しい衝撃がゆっくりと痛みに変わっていく。身体を縦に引き裂かれるような苦痛が、それでも気を失うのを防いでくれている。
(捕まるもんか!)
 してやったりとばかりに飛び出してきた数人を無我夢中で撃ち倒した。しばし、銃撃が止む。その隙に、よろめきつつも立ち上がる。もう、飛び出してくる奴はいないようだ。残りの兵士たちは廊下の端近くにかたまって、銃口だけをこちらに向けている。
「腰抜けどもめ…」
 壁にもたれて息を整えながら、つぶやいて笑ってみる。そしてゆっくりと壁から離れてみると、そこには赤黒いしみがべっとりとついていた。
(どうやら…急所は外れているみたいだな)
 震える足を無理矢理前に出し、さらに進もうとした。再び、青白く光る熱線が乱れ飛ぶ。そのうちの何本かが肩を、足を、頬をかすめ、小さな傷を作った。目標を外れ、石の壁を砕くものもある。その音が周囲に反響してより大きく響いたおかげで、気づくのが遅れた。
(え…?)
 はっと顔を上げたそのとき、前から撃ち出された熱線が、大きく見開いた紫の瞳に映った。
(挟み撃ち!)
 一番恐れていたことが、ついに起こった。はっと目を凝らすよりも早く、前方に入り乱れる足音、銃を構えて走りこんできた兵士たち。
(あ…あ)
 呆然と立ちすくんだセイを、いっそう激しい銃撃が襲う。壁にへばりつくようにして避けるのがやっと、傷口を押さえた指の間からはまだ生温かい血が滴り落ちてくる。
(だめか…とうとう…)
 観念の目を閉じ、セイはゆっくりと両膝をついた。と、そのとき。
 どこかで光った青白い光が、視界をほんの少し、明るくした。
(そうだ! 窓…!)
 セイは一番手近な窓の下へ走った。床からよじ登れない高さではない。大きさも、彼一人が通り抜けるには充分だ。セイは手の中の銃を構え、素早くスイッチを切り替えた。…ジュノー准将に手渡されたとき、わけもわからずいじり回すふりをしてパラライザーに切り替えたままにしておいた銃が、かすかな音とともにレーザーに変わる。そして、窓ガラスに向かって最高出力で発射された。
 たちまち、ガラスが真っ赤に灼ける。飛び交い、身体をかすめる細い光が熱い。兵士たちがじりじりと近づいてくる中、セイは祈るような気持ちで引き金を引き続けた。

 基地の中庭でも、多くの兵士たちが侵入者を捜し回っていた。サーチライトが物憂げに首を振るたび、嵐の夜の中に彼らの姿がくっきりと浮かび上がり、また闇に消える。その光をかき消すような大きな稲妻。兵士たちは反射的に空を見上げた。が、そのときにはすでにあたりは闇に戻り、かわりに耳をつんざくほどの雷鳴が轟いた。はっと身をすくめた兵士たちをかすめて、サーチライトが基地の二階に並んだ窓を照らし出す。
「う…わ」
 目敏い誰かがもらした声。が、それが仲間たちに届くよりも早く、頭上から降ってきたもの。ガラス!
 何が起こったのかわからずに立ちすくむ兵士たちの上に、粉々に砕けたガラスの粒が降り注ぐ。
 その中に、誰かがいた。
 サーチライトに照らされ、光り輝く無数の星の粒と見まごうガラスの破片を身にまとわりつかせ―漆黒の長い髪に、きらめく雨の滴をちりばめながら堕ちてきたもの。
 闇に舞う天使。そこにいた人々の誰もがそう思ったに違いない。それほど、それは美しく、幻想的な光景だった。しかし―
 砕け散った二階の窓から舞い降りたのは、天使などではなかった。それは、修羅であった。レーザーによって砕けた窓から運を天に任せて飛び降りたセイは、見事な受身で墜落の衝撃をやわらげたが、勢いあまって大きく横に撥ね飛んだ。が、すかさず体勢を立て直し、まだ唖然としている兵士たちに向けて銃を乱射する。ただの群集なら、これで戦意を喪失するのは間違いないだろうが、何しろ相手は訓練をつんだ『精鋭』たちである。驚きのあまり我を忘れたとしても、おそらく瞬くうちに冷静さを取り戻してしまうだろう。それまでのわずかな隙に、この兵士たちの群れから抜け出さなくてはならない。銃のスイッチはいつのまにか再びパラライザーに戻されてはいたが、目にもとまらぬ素早さで四方八方に撃ちまくるその勢いに押され、兵士たちの輪のあちこちで、ささやかな恐慌の渦が巻き起こった。
 それでも目論見通り、彼らが自分を取り戻すまでの間にその包囲を脱出できたのはセイにとって幸運だったといえよう。中庭を一気に走り抜け、囲みが手薄な方へ、手薄な方へと進んでいくうちにたどり着いたのは基地の北側を区切る塀の際。周囲に人の気配はなかったが、目の前にそそり立つ、見上げるほど高いコンクリートの厚い壁は、この銃でも到底破壊することは不可能だろう。しかし、塀のすぐ近くにそびえた大木の枝が一本、うまい具合に外に向かって張り出している。背後からの追っ手の声はまだ遠い。セイは後ろを振り返ってにやりと笑うと、一抱えもありそうな木の幹に手をかけた。
 と、ふと気がついたように引き返す。あたりに生えている灌木の茂みを見渡して、なるべく雨がかからないような、それでいて目立つ場所を探してそっとそこへかがみこむ。
 そこに置いたのは、今まで持っていた銃。ジュノー准将が貸してくれた、ここまで少年の命を守ってきてくれた銃。
 せめて―せめて准将が目覚めたとき、これだけは手元に還るように―
 銃を置き、今度こそセイは木に登り始めた。雨に濡れた幹は滑りやすく、簡単とはいえなかったが、でこぼことしたこぶがあちこちにあるおかげで何とか登っていくことができる。何度か、ずり落ちて。そのたびに、またしがみついて。やっと例の枝に手が届いた頃、大勢の足音が近づいてきた。
(ようやく、お出ましか)
 枝を両手でつかみ、折れないことを確かめながら少しずつ体重を移していく。ぶら下がったとき、枝が大きくしなった。
(これなら、大丈夫だ)
 幾度か反動をつけて、さらに大きくしならせる。そしてタイミングを計り、セイは思い切りよくぱっと枝を放した。
 三十年前。同じような氷雨の夜。あのときからずっと彼を捉えて放さなかった死の誘惑を振り切って飛び出した、それは生への跳躍であった。

「うわ…っと」
 思ったより、勢いはずっと強かった。塀の向こうは柔らかな草むらであったものの、かなりの勢いで叩きつけられたおかげでセイはしばらく動くことができなかった。
「う…」
 起き上がろうとした全身が痛む。うめき声を上げながらそれでも何とか立ち上がり、後ろを振り返ってみる。
 飛び越えてきた塀は雨にけむってぼんやりとした黒い影にしか見えなかった。慌てふためいている兵士たちのどよめきも、切れ切れにしか届いてこない。
「やった…な」
 知らず知らずのうちに口元に浮かんだ笑み。しかしまだ、油断はできない。もっと、遠くへ…! できるだけ遠くへ、できるだけ早く…
(逃げなければ)
 逃げのびなければ全てが無駄になる。セイは歯を食いしばり、目の前の草原、さらにその向こうに続く森へと歩き始めた。
 森へ入ると雨もさほど気にならなくなった。幾重にも重なった枝が、降り注ぐ滴をさえぎってくれるのだ。が、どうしても思うように進めない。右足がほとんど動かず、心臓の鼓動とともに鈍く痛み始めている。今までは気が張っていたために気づかなかったのか。思う間もなく、それは耐え難い痛みとなって一歩ごとに、全身に響いてくる。
(畜生…骨…を?)
 意識して力を入れてみた瞬間、息も止まるような激痛が走った。
(やっぱり…)
 アルワジ中尉に撃たれた傷は、不本意ながらまる一昼夜の休息をとったおかげでだいぶ回復していた。今さら、こんなに痛むはずがない。だとすれば、二階から飛び降りたはずみか。それとも、塀を飛び越えて草むらに落ちた拍子に…?
 …考えても、仕方がない。今はただ、歩くだけ。ぽつり、ぽつりと落ちかかる雨が少年の髪を濡らし、足取りをさらに、重くする。
「あっ…」
 何かにつまづいて転んだ。無意識のうちに手が腹をかばう。ぬるりと温かい感触に、セイの記憶が蘇った。
(ああ…そうだ、あのとき…)
 石造りのあの廊下で、追い詰められて…確か、背中を撃たれたんだった。かなり強い衝撃を、覚えてる。
(背中から腹まで、ぶち抜かれたってわけか…)
 今まで足の方にばかり気をとられていたのは、この傷がほとんど痛まなかったから。と、いうことは…。
(かなり、深いな)
 立ち上がり、再び歩き出そうとした足がもつれた。今度は声を上げる暇もなく倒れこんだ先は、深い水溜り。顔がもろに、泥水に浸かる。
「うわ…!」
 口を開けば、流れ込んでくる水。吐き出そうとして、激しく咳き込んだ。息をしようとすると、再び多量の水が口に、そして鼻に入ってくる。のたうちまわり、やっと半身を起こしたときには体中が泥にまみれていた。ついた両手は半分水に浸かってぶるぶる震え、すぐにがくりと折れた。
「あっ…はぁっ!」
 水溜りの中に仰向けに倒れこむと同時に何だか急におかしくなってきて、セイは笑い出した。足は、相変わらずずきずきと痛む。そっと腹に触ってみると、まだじっとりと濡れている。かざした手のひらが真っ赤に染まっているのが、夜空を走る青い光にはっきりと見えた。
(こんなになってまあ、よくも逃げのびられたもんだ)
 あれだけの人数、あれだけの武器。それらを出し抜いて逃げられたということもおかしかったし、挙句の果てに今、人も通わぬ深い森の中で行き倒れになりかけているのも何故か、むしょうにおかしかった。
(一人の人間ができることなんて、どうせ、この程度さ。ジュノー准将…ごめん。あんたが言ってた僕の限界…思ったより、ずっと近いところにあったようだ。でも…許してくれるよね。僕は…僕は何年ぶりかで、本当に…心から生きたいと思ってここまできたんだから…それだけは…わかって…くれるよね)
 笑うだけ笑ってそっと目を閉じる。濡れそぼった全身が冷たい。雨はますます激しさを増したらしく、木の間からもれてくる滴も、いっそう絶え間なくなったようだ。
 身体はどんどん冷えていく。意識が朦朧として、ふっと途切れかけ、またぼんやりと戻ってくる。何度、そんな繰り返しをしただろう。やがて水は心もち温かく感じられるようになり、今度こそ、深い、暗い眠りが訪れようとしたかに思えたとき―
 ぽきりと枝を踏む小さな音に、セイは眠りかけていた目を開いた。
(誰―?)
 ちゃぷん―と、今度は水を歩く音が聞こえた。そろそろと周囲を確かめながら、そのかすかな音は近づいてくる。
(追っ手か―!?)
 セイは跳ね起きた。そのまま立ち上がり、身を隠そうとする。両手足は寒さに凍え、感覚がない。しかし、無理矢理動かした。
 …死ぬのは、構わない。ずっと、望んできたことだから。でも、あいつらの手にかかり、実験材料にされるのは…ジュノー准将の想いを裏切るのは…
(嫌だ! それだけは…!)
 すぐ目の前に小さな茂みがある。半ば這うようにしてそこまでたどり着き、転がり込もうとしたセイの耳に、響いた声。
「セイ!」
 細くて高い、よく通る声。兵士たちの…男の声じゃない。女の…声だ。
「貴方―ッ!! いたわよ! いたわよ、セイが!…早く来て!」
 言いながら駆け寄ってきた女。涙に頬を濡らし、その白い、温かい手を差し伸べて泥に汚れた身体を抱き起こしてくれた女。
「セレ…イン!」
 つぶやいたときにはもう、セレインの腕がしっかりとセイを抱きしめていた。
「よかった…あんた、生きてたのね。ああ…ほんとに…ほんとによかった…セイ…」
 自分も泥水の中に座り込み、ほとんどすがりつくようなセレインの言葉が、やがてすすり泣きに変わる。
「セ…セレイン…ちょっと待ってよ。何でセレインがこんなとこに…どうして…」
 限界はとうに超えていたはず。でも、そんなことはどうでもいいくらい不思議な…ありえないこと。
「どうして…ねえ、どうして…答えてくれよ、セレイン…」
 いくら問いかけても、もうセレインは泣きじゃくるばかり。途方にくれ、空を仰いだそのとき、セイの耳に届いたもう一つの声。
「見つかったって!? セレイン、本当か!」
 がさがさと枝をかきわけて現われたのは、やせっぽちの、ひょろ長い影。
「マ…スター…」
「セ…イ…」
 一瞬言葉を失ったマスターの顔が、ゆっくりと…ゆっくりと、笑み崩れていく。やがてそれが、これ以上ないという歓喜の表情に変わり、その口もとからため息とも泣き声ともつかない音が細く、長く吐き出されたのちに。
「ィヤッホーッ!」
 飛び上がり、駆け寄ってきた男の手が、セレインとセイ、少年と女を力強く抱きしめた。
「よかった…奇跡ってなぁ、あるもんなんだな。畜生! 神様に感謝! ってやつだ。…おい、セイ…大丈夫か…立てるか、この悪ガキ!」
 口の悪さとは裏腹に、マスターの手は優しく少年を支え、なおもすがりつこうとするセレインをもそっと引き離してくれた。と、その手が生温かく濡れる。マスターの顔が、さっと引き締まった。それに気づいたのかセレインも泣くのをやめて、今度こそ力強く少年の身体を支える。
「セイ…お前、ひでえ怪我してるじゃねぇか」
「ああ…これ…実は…いや、それよりも…何で? 何であんたたちがここにいるんだ…? 教えてよ…ねえ…」
 安心が、驚きに呼び起こされた気力を萎えさせたのか。不意にセイは激しい眩暈に襲われた。倒れこんだ身体をマスターが受け止めてくれたのはわかったけど…そのあと、慌しくマスターとセレインが話していたのも、覚えてるけど…
(おい、セイッ! しっかりしろ! セレイン、車だ! 先に行って、エンジンかけとけ!)
(え…ええ! ええ! …でも貴方! この子、大丈夫なんでしょうね。必ず…助かるわよね!)
(莫迦! そんなのは俺たち次第だ。…とにかく急げ! 早く…早く連れてかなきゃ!…のところへ…)
 ここまで。僕が持ちこたえられたのはここまで。…もう、いいよ…ねえ。セレインもマスターも、そんな慌てたり、しないでいいよ。僕はこの惑星で二人に会えただけで、すごく…すごく嬉しかったんだからさ…
 そんな言葉を、言いたかった。が、すでにもう唇は動かず、目も耳も何も感じることができなかった。温かい…力強い腕に抱えられ、ゆらゆらと四肢を揺らしてどこかへ運ばれていく…それが、セイの最後の記憶だった。




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