第十一章
突然、荒々しく蹴り上げられてセイは目を覚ました。
「起きろ。尋問だ」
シュヴァリエ大尉ではない。もっと年かさの、ごつくてがっしりとした男。
「ぐずぐずしてるんじゃない」
乱暴に腕をつかまれ、無理矢理立たせられた。途端、目の前が暗くなる。わずかに残った血が一気に足の方へ下がり、頬が冷たくなる。が、セイは何も言わず耐えた。何を言ったところでこの男が自分をいたわってなどくれようはずもなく、むしろ、より酷い仕打ちを加えるいい口実にしかならないだろう。だから―
「ジュノー准将じきじきの取調べだ。…大したもんだな。その年齢で、ラヴォール駐屯軍総司令から名指しで呼び出されるとはな」
憎々しげな声とともに思い切り小突かれたときも、少年は黙っていた。ただ、おとなしく―自分をここに連れてきたのとは段違いに粗野で荒っぽい兵士たちの言うがまま、歩いていくだけである。
何度も廊下を曲がり、エレベーターや階段を上ったり下りたり。この石造りの建物を歩くときは、いつもそうだ。縛められた両手、背中を小突く銃口。いつのまにか、それに慣れている。…もう、この先に待っている男が誰であっても皆、同じだ。
(ごめんよ、アルワジ中尉。…あんたが僕をあいつのもとへ連れて行こうとしたとき、僕はどうしてあんなに抗ったのか。今の僕はもう、何も感じてないのにね。あのときこんな気持ちになっていたなら、あんたを殺さないですんだかもしれなかった。…それとももう、憎しみも、嫌悪も感じることができないほど、僕の身体は弱ってるんだろうか。…それでも、いいや。もう…)
意識がふっと遠くなりかけたそのとき、不意に兵士たちの足が止まった。
目の前に、またも大きなドア。しかしメンテス博士の研究室とは違い、手で開けなければならない作りになっているようだ。先頭に立っていた例の男が、落ち着かなげに咳払いを繰り返した後、ドアの中に向かってやや上ずった声で申告する。
「ハミル伍長であります! お言いつけの虜囚を連行致しました!」
「入れ」
応えたのは、思いのほか穏やかな、年老いた声。セイがはっと顔を上げたと同時にドアが開いた。
「…伍長か。御苦労だった」
広い部屋。あっさりとして何の飾りもない空間ではあるが、置かれている数少ない備品はどれも手の込んだ高級品ばかりである。奥の壁一面に大きく切られた窓の外は暗かった。まだ夜が明けていないのか、それともすでに丸一日経ってしまったのだろうか…
その暗い窓の前には黒檀作りの大きな机。そこに軽く手を置き、一人の男が立っていた。
(年を、取ったな…)
それが、セイの第一印象だった。実際の彼はまだほんの少し、老いの兆しを見せ始めたくらいの年齢で…メンテス博士なんかよりずっと若く見えた。しかし、少年がかつて知っていた頃の刃物のような冷たさ、ぎらぎらといつも得体の知れぬ炎を燃え狂わせていた瞳の強さはとうに失われ、身体もまた、ひと回り小さく痩せてしまったようで…それがかえってセイの気力をそぎ、何故か哀しみさえも呼び起こすようで…いつのまにかセイはうつむき、黙ったまま、ただ自分のつま先だけを見つめていた。
「御苦労だった、伍長」
部屋の主はもう一度繰り返し、続いて手真似で兵士たちに下がるよう指示した。
「この少年を一人残してでありますか!」
たちまち伍長が顔を真っ赤にして大声を上げる。それはどこか吠え立てる熊に似ていた。
しかし相手は顔色一つ変えず、ゆっくりと手を上げ、うるさい抗議の声を黙らせる。
「大丈夫だよ、伍長。私と彼とは旧い御馴染みなんだ。…心配するようなことは、何もない」
言葉はあくまでも静かで威厳に満ちている。伍長はやむなく引き下がった。一糸乱れぬ敬礼のあと、兵士たちはゆっくりと部屋を出て行く。最後に伍長がなおも心配そうに振り返ったが、その姿もすぐ、ドアの向こうに消えた。
ドアが閉まる音。続いて、遠ざかっていく足音。それらの全てが消え去るのを待って、部屋の主はやっと少年に声をかけた。
「久し振りだね」
「…」
セイは黙ったままだった。どう応えればいいのか、わからなかった。ずっと…憎み続けていた男。殺してしまいたいほど恨みながら、一方では恐ろしく、その手から必死に逃げ続けていた相手。…こいつだ。間違えるはずなんて、ない。
部屋の主―地球連邦統治体ラヴォール駐屯軍総司令A・ジュノー准将は、わずかに眉をひそめ、少年のすぐそばにかがみこみ、うつむいていたその顔を下から覗きこんだ。
「ん…?」
目にした少年の顔色の蒼さに准将の眉間の皺がいっそう深くなる。
「…気がつかないで、悪かった。おいで」
そのまま抱きかかえるように、ソファに導いて座らせてくれる。机の前にしつらえられた応接セットは部屋の他の調度と同じくかなりの高級品だ。おそらく、合成皮革ではない本物の動物の皮を使ってあるのだろう。この時代、そんなものを使えるのは各惑星の元首クラスの人間か、さもなければ軍人だけだ。そっと自分を支え、そこへ連れて行く准将の手がまるで父親のような心遣いを示しているのを、セイは無視することに決めた。
「…かなり、顔色が悪いな。具合でも、悪いのか?」
自らも向かいの椅子に腰かけながら准将が訊く。セイはわざとその心配そうな表情から目をそらし、不機嫌につぶやいた。
「あんたの医者は、サディストだ」
「何?」
「血を抜かれた。普通の人間だったら死んでる量だってさ。…気を失って、無理矢理起こされて、連れてこられた」
まだ体力の消耗は激しいらしく、そこまで言うだけで息が切れてきた。波打つ胸、そして肩を痛ましげに見つめていた准将の口から洩れた、大きな吐息。
「…メンテス博士か?」
かすかなうなづき。投げやりな仕草。
「すまない、ことをした。私がいたら、そんなことはさせなかったのに。オリーデルゼ…新興の地方都市でちょっとした事故が起こったので視察に行っていた。今夜、帰ってきたんだ。…言い訳でしかないがね」
「…別に、いいよ。何とか、生きてるんだし。…もっともそう長くじゃないだろ? 博士が言ってたよ。…僕の身体を標本にしてしかるべき研究室に収めるって。…こっちも、別にそれで構わないんだ…」
そのまま、セイはぐったりとソファの背にもたれこんだ。その目は閉じられ、息をしているのさえいかにも苦しげである。准将が、つと立ち上がった。真っ直ぐに執務机の方へ行き、その引き出しから何かを取り出してくると、少年の傍らに座る。
「飲みなさい。増血剤だ」
頭に手をかけ、こちらを向かせてそっと口もとに錠剤を落とし込む。白い、細いのどがごくりと音をたて、大きく上下した。うっすらと、開くまぶた。ぼんやりと睨み据えている瞳の、鮮やかな紫。
「メンテス博士の件は、許してやってほしい…」
再びもとの席に戻りながら、准将が低く言う。
「彼は、君が焼き捨てたノートの復元に生涯をかけている。あれこれと、突拍子もないことを考えては君の父上の学説に近づこうとあがいている…この前、もし君が見つかったら、という話をしていた。彼は、君の血液を普通人に輸血したらどうなるか…ということを熱心に語っていた。普通人の血液を全て、君のものと取り替えたらどうなるだろう…とね」
突然、甲高い笑い声が准将の、独り言とも取れる低い声をさえぎった。
「あははははっ…何なんだよ、それ…そんなの、無理だよ。僕は、伝染性の細菌なんかじゃないんだから。僕の…それは違う…もっと根本的な…細胞核や、ミトコンドリア…DNA、RNA…もっと深い、もっと細かいレベルから…」
不意に、少年は激しく咳きこんだ。准将が慌てて手を差しのべる。
「セイヤ! 落ち着け! そんな、興奮して急に叫んだりするな!」
「だって…おかしいからさ」
切れ切れの、少年の声。
「ちょっとでもあの論文を知ってる奴なら…わかってていいはずのこと。僕のように…生理学は専門外のガキにさえ、わかってること…それが何で、あいつにわからないんだい? 『博士』と呼ばれてる、あ…いつに…さ…」
「セイヤ! もういい! 黙れ!」
力ずくで押さえつけたかのように、その一喝は少年の口を閉じさせた。准将の表情が、安心したようにふと緩む。いくらかの余裕さえ取り戻したふうに、准将は言葉を続けた。
「怒鳴って、すまなかった。…確かに、博士の行為は研究者として極めて愚かだったと思う。…だが、仕方のないところもあるのだよ。つまり…」
少年は、何も言わない。半眼に開いた紫の瞳だけが、相変わらず刺すような光をたたえて准将に向けられている。
「…つまり、な。博士があんなことをしたのは、半ば復讐の為だったんだ」
セイの目が、見開かれる。驚きと、心の奥底で納得したような、奇妙な表情。
「君が我々の手から逃げ出してまださほど経っていないときだ。ツェネルーンで君を見かけたという情報をもとに情報部が初めてエージェントを差し向けたとき…覚えているだろう?」
「…ああ」
「彼らは君を捕らえられなかった。そればかりか、全滅だ。我々がいかに愕然としたか、察してくれるだろうね」
「…僕は、彼らを殺すつもりはなかった。ただ、これ以上追ってこられない場所へ逃げこめば諦めるだろうと…ツェネルーンの極点近い断崖絶壁…あれは、僕にとっても賭けだった。逃げられるか、死ぬか…過酷な、僕だけに許された賭け…普通の人間には、とてもできない…」
少年の声は低く、静かだったので、准将はそれを止めなかった。
「海に飛び込んだとき、まさか後を追ってくるような奴はいないと思った。…なのに…なのに彼らは、追ってきた!…結果、僕は生きている。彼らは、死んだ…」
「そうか…」
一瞬、准将は言いよどんだ。が、すぐに沈痛な面持ちで告げる。
「そのときのチーフが、メンテス博士の兄だった…」
紫の瞳がちら、と准将を見た。何もかも、予測していたような顔。
「やっぱり、ね…」
「知ってたのか?」
「いや…だけど、あんたの回りくどい話し方を聞けばね。あらかたの推測はつくよ」
「そうか…」
「そんな奴は、結構いるんだろう? メンテス博士のほかにもさ」
准将が答えるまでには、少々の間があった。
「そうでもないよ…少なくとも、一般の兵士たちにはそう多くはない」
少年は、ふと微笑んだ。ほかにどうしようもないとき、人間は笑顔を浮かべるものなのかもしれなかった。
「ところで…何故、ここに来た?」
しばらくの間互いの物思いにふけっていた二人の間の静けさを破ったさり気ない問いかけ。
「あんたの部下に連れてこられたから」
少年の答えもあっさりとしたものであった。准将が苦笑する。
「いや、そうじゃなくてだな…どうして、ラヴォールに帰ってきたんだい?」
目だけをほんの少し動かして、少年は准将を見た。薄く笑ったその頬は、さっきの薬が効いたのかほんのりと紅らんでいる。呼吸もさほど苦しげではなくなっていた。
「さあね…僕にも、わからない。ろくろく、暮らしたこともない惑星なのに。忘れたい思い出しかない場所なのに。どうしてだろう? 僕自身が、何度も僕に訊いてみたよ。…答えは出なかったけどね。ただ、ずっと遠くの星々を渡り歩いて生きていると、時折どうしてもここに帰りたくて帰りたくて仕方がなくなるときがある。毎晩毎晩夢に見て…夜中に、跳ね起きる。…そんな時、思うんだ。僕の帰る場所…離れようとしても引き寄せられる、そこでなきゃ決して満足できない場所…それが、ラヴォール…故郷なんだな、って…」
「そして帰ってきて…セレインと会ったのか」
セレインという名を聞いて、少年はぎくりと身を震わせた。が、すぐにもとの平然とした表情に戻る。アルワジ中尉―自分の、殺した相手―が言っていた。お前をかくまっていた男女の名前は調査済みだと。
「彼女の為に、君は随分親身になっていたようだね。優しかったのかい? 彼女は。…愛して、いたのかね?」
「いいや」
少年は、ゆっくりと首を横に振った。
「セレインは、勝気で強情っ張りで、激しい女だったよ。でも、何に対しても真剣で、決して妥協なんかしなかった。何より嘘が嫌いなくせに、生きていくために…歌のために一生懸命嘘をついて…うまく騙しおおせなかったと涙ぐむような女。…好き、だった。でも、あんたの言うような意味で愛しているのとは違う。…僕が愛しているのはライラだけだ。今でも、ね…」
「ライラ、か…あの子も、激しい少女だった。私の目には、泣き虫の甘ったれの女の子にしか見えなかったのにな。私があの子の命を盾に君を脅したとき、はっきりと―あたしは死んだって構わない!―そう、言い切った…」
「あの子は、そういう子だよ」
「だから、愛した…か」
准将の指がつとポケットにのび、煙草を取り出した。机上のライターがぽっと明るい火をともす。一息、大きく吸った口から、白い煙が細く、長くたちのぼった。
「メンテス博士のこと…僕、許せると思うよ」
准将がはっと少年の顔を見上げる。ソファの背にもたせかけたその顔は無表情で、ただ、瞳だけがはっきりと―この部屋を越えた、遠いどこかを見ている。
「肉親を殺された恨み…一生かけて、と誓った憎しみ…どれも僕にも覚えのあることだから。ただ…不思議なだけだ。昔、同じ悲しみを味わった僕が今、全くの他人に同じ気持ちで憎まれている。僕自身は決して、一度でも…そんなこと、望みはしなかったのに」
固い、骨ばった指が煙草をもみ消す。指は、准将の苛立ちをあらわすかのように、とっくに消えてしまった吸殻を灰皿に押しつけ、押し潰し…
「セイヤ…頼むからもう、やめてくれ。私をそんなやり方で責めるのは。言いたいことをはっきりと言ってくれ。そうやって、何もかも遠くへ突き放したような話し方をされるのは辛い」
その言葉を聞いた刹那、少年の身体が跳ね上がった。
「言わせないのは、あんたじゃないか!」
「セ…イヤ…」
あまりの豹変ぶりに、准将はあっけに取られたふうに見えた。が、その顔のどこかに…ほんのわずか、嬉しさのようなものが浮かんで見えたのは錯覚だったろうか。少なくともセイには、それを見て取ることはできなかったようだ。
「何で…何でそんなに、僕をいたわってみせる!? いかにも心配そうに、申し訳なさそうに…何を今さら、そんな態度を見せつけるんだ。僕が…僕が本当にそうしてほしかったのはもっと…もっとずっと前だったのに。今、こんなに優しくしてくれる気があるんなら、どうしてあのときそっとしておいてくれなかった!? どうして…どうしてあのまま…あの娘と一緒にそっとして…おいてくれなかったんだ! どうしてだよ! 答えてみろよ!」
セイはすっくと立ち上がり、准将を見下ろす形で激しく言いつのった。興奮のあまり一歩前に出た足がテーブルにぶつかり、よろけ、倒れる。両手を縛められているおかげで側頭部がもろに、テーブルの角に叩きつけられそうになる。一瞬、差し出された支え。華奢な身体を抱きとめたのは、ジュノー准将の力強い腕だった。
「どうして…」
抱きかかえられたセイの顔は、驚いているようにも、泣いているようにも見えた。
「…だから! どうしてなんだよ! はっきり言えよ!」
「あのときのことを弁解する気持ちはさらさらない。…ただ、この頃思うことがあってね。それを君に聞いてほしかった」
「思う…こと?」
「ああ。あれから三十年、ずっと考えてきたことだ…」
准将の指が、また新しい煙草を取り出し、火をつける。
「ラヴォールから逃れ、『セイヤ』と名を変え…地球の養父母のもとで何不自由なく育ってきた君が初めて私と会って、すったもんだの末にラヴォール行きを承知してくれたとき…私は君が、死を覚悟していると思った。いや、死のうとしていたのだ。最後に、我々統治体情報部とリコゼッタに最大の報復をしたあとで、な…」
准将の口からさっきと同じ細い煙が流れ出す。セイは准将が再びソファにもたせかけてやったその姿勢のまま、上目遣いに憎しみをこめて相手を睨んでいる。
「ラヴォール行きのその前に自殺でもしていたら、私は君を忘れ去っていたろうよ。ちょっと見端がよく小利口に見えても所詮、ただの子供だったとね。…だが君は、生きた。あれほどの酷い仕打ちを受けながら…身体だけでなく、精神までもずたずたに踏みにじられながら…それでも、生きた。そして最後に見事な復讐をやり遂げたのだ。二つの惑星がのどから手が出るほど欲しがっていたあのノートの存在をこの宇宙から完全に抹殺することでね。…あのあと君が追いつめられて、可愛いあの少女だけを我々に託し、銃弾を一身に受けて谷底へ落ちて行ったのを見て、私は心底『やられた!』と思ったね。今度こそ君は自由になった、我々なんかの手の届かないところへまんまと逃れ落ちた、とね…」
「…死んだ、とは考えなかったのかい」
皮肉な問い。
「いいや、全く。リコゼッタが君の身体で試したあの実験の結果は私もよく知っていた。必ず生きている。そう信じたよ。必ず生きて、逃れ…そして、生き続けるとね。本当に、信じていたんだよ、心の底から」
燃え尽きた吸殻を今度はゆったりともみ消しながら、准将はセイを眺めた。何ともいえない表情。と同時に、何とでもいえる表情。やがてその指が、三本目の煙草に火をつける。
「地球へ戻ってみれば案の定君の捜索―そして、逮捕命令だ。あのノートが失われた以上、例の研究を進めるためには君自身の身体を調べるしかないからね。地球はまだ、あれを諦めてはいなかったと見える。ま、そんなことはどうでもよかったんだが…私は勇躍、それに従った。わずか十五、六であっさりと我々を出し抜いてくれた君という獲物を今度こそ仕留めてやる…そんな思いにわくわくしたよ。君は賢い子供だった。逃げのびたとはいえ、既に死は望めないこと、あとはもう、生きて、生きて、生き続けるしかないということにすぐ気づくだろう。そのとき君がどんな手際を見せてくれるか、私は楽しみで仕方がなかったのだ。なのに…」
雨が降ってきたようだ。セイの後ろに大きく切られた窓、そのガラスを叩く水音に、一瞬、准将もセイも耳を傾けた。
静かな夜が、ゆっくりと更けていく。そして准将は、再び口を開いた。
「失望したよ。捜査を開始し、君の足跡をたどって行けば行くほど…ね」
「何で」
少年は、もう准将を睨んではいない。いつのまにかその視線はそらされ、長いまつげが瞳の上に深い影を落としていた。
「君が、あまりにも変わってしまったからだ。捜査を進めていく私の耳に入る情報はどれも、君の無気力と自暴自棄、退廃と虚無をしか告げてこなかった。ただ危険と無謀だけを求め、とことん自分を痛めつけた挙句、なおも生きている自分に唾を吐くような、虚ろな抜け殻。…私が知っていた頃の君は、死を覚悟していたとはいえ、いや、それだからこそ命への激しい執念を持ち、そのときまでは何としてでも生き抜こうという凄まじい意思の力が鮮やかな火花を散らしていたというのに。その君が、何故…失望のあとで私は強い疑問を抱いた。その理由をどうしても知りたくて…考えてみれば、その為だけに私は君を追っていたのかもしれないな」
准将の顔に浮かんだかすかな笑み。それを見て、セイもまた微笑み返した。冷たく、そして暗くほころんだ端正な顔。
「…本気でそんなこと言ってるのかい? だとしたら、あんたは莫迦だ」
准将の表情は変わらない。
「あのときの僕の気持ち…わかりゃしないだろうね。よく気が狂わなかったものだと今でも思うよ。絶望ってのはこんなもんなのかな…なんて、ぼんやり思った。…今もね。ねえ、わかるかい? 時の流れの中、ただ一人十六のままずっと取り残される気持ちってやつをさ。おまけに、帰る場所すらも失くしてね。…何もない。誰もいない。それが、今の僕。あんたが僕にどんな幻想を抱いていたかなんて知ったこっちゃないけど、本当はこれだけさ。それ以上でも、それ以下でもない」
雨はいよいよ激しくなってきたようだ。ときおり、遠い雷鳴さえも聞こえてくる。准将の視線が少年から窓の外へと移る。闇を切り裂く青い稲妻が、彼方の森の木々の黒い影を浮かび上がらせた。
「私は、確かに莫迦だった…若すぎたのかもしれないな。私は、物事を私自身の視点、立場からしか見ることができなかった。君の…君自身の本当の気持ちに思い至ったのは何年か過ぎてからだった。…何人もの部下を君の捜索に送り出して、そして、失って…初めて、気づいた。少々遅すぎたがね」
「でも、あんたはまだ僕を追うことを諦めなかった」
「ああ。どうしても君に会いたいと…それまでよりいっそう強く思うようになった。理由は全く違っていたが…な」
「…どんな?」
「君を、呪縛から解き放つためだ」
ぴくりと、セイの眉が上がる。少年は、明らかな興味を示して准将を見つめた。
「気づかないのか? 君は今、がんじがらめになっている。…いや、そんな手錠のことを言ってるんじゃない。目に見えない…そう、君の父上の妄執とか、リコゼッタの怨念とか、そんな形のない過去の亡霊たちに、だ」
「パパを、あんな奴と一緒にするな!」
絶叫。准将は、そんな少年を痛ましげに見る。
「辛いことを言うようだが、それらは同じだよ。どちらも君をがっちりと抱きしめ、ある一点に無理矢理連れて行こうとしている。…『死』というものに向かってね」
「黙れ!」
「君は、あの頃と同じだな。常に死を覚悟し、少しもそれを恐れず…ただ一つ困ったことは、今の君がそれに魅入られてしまっているということだ。あれから三十年…私が差し向けた追っ手のことごとくを君は倒し、逃げ続けた。多分…君の意思には関係なく。一見、不可能な事実。それはそうだとも! 彼らは君に倒されたわけじゃない。君を捕らえて放さない『死』への誘惑、死に向かってまっしぐらに走り続ける君の暗い思いの渦に巻き込まれ、滅んだだけだ。セイヤ! 目を覚ませ! このままでは君は、追っ手ばかりではない、あらゆる人々に滅びと不幸だけをまき散らす、永遠の悪魔になってしまうぞ!」
「うるさい! 何をそんな、でたらめを…一体、何の証拠があって…」
「証拠? 証拠ならたくさんあるさ。メンテス博士の兄は何故死んだ? ツェネルーンの荒れ狂う海に飛び込んだとき、君の心には何があった。ただ…我々から逃れたいと思っただけだというのか。そればかりじゃない。エルスでも、ファテルでも、アリアゾナでも…いや、このラヴォールに戻ってきたこと自体、単に故郷が恋しかっただけだと…言い切れるか! え!? 言い切れるか!」
…応えは、なかった。少年は…少年はいつしか深くうなだれ…それでもなお、二、三度引きつったように顔を上げ、何かを言おうとして口を動かしかけた。しかし言葉が見つからないのか、そのたびごとに喘ぎに似た吐息をもらすだけで…そんな姿を見下ろしつつ、准将は話し続ける。
「君がここに戻ってきた本当の理由は、我々が…ここにいたからだろう? あの事件以来、統治体は常にこの惑星をマークし、厳重な網を張っていた。表面上はごく限られた兵士だけを置いて、ね。だがその実、ここに配属されている兵士たちは各部隊から選りすぐられた精鋭ばかりだよ。何といってもここは、君の故郷だからね。我々は皆、待っていた…君一人をずっと…
しかしそれを君が知らないはずはない。そして、知っていたら何があっても決してラヴォールに帰ってこようとはしなかっただろう。なのに君は帰ってきた。…我々なら、多分…君の命を絶つことができるだろうと期待して。違うかね」
うなだれていた少年の顔が、ゆっくりと上がる。蒼白な頬。歪んだ表情。その中でも鮮やかな紫の目がかすかに潤んで准将を見上げている。震えている唇が、仄かに紅い。
「ああ…そうだよ…みんな、あんたの言う通りだ…だけど…それに何の文句がある? あんたたちにとっちゃ、願ったりかなったりなんだろう? 僕もそれで構わない。もう…嫌だ。追いかけられて、逃げて…追いつかれるたびに誰かを殺して、また、逃げて…追われ続けることには慣れた。でも、自分が生きようとして他人を殺し続けることになんか、たとえ何百年、何千年経ったって絶対に慣れられるもんじゃない!」
「君の所為じゃないさ。さっきも言ったろう? 責められるべきは私だよ。ことの次第に薄々気づいていながら長いこと部下たちを送り出していた、私が愚かだったんだ」
「あんたの部下たちについてはそうでも」
少年の顔から、表情が消える。
「その前にもう一人僕は殺してる。誰に仕向けられたわけでもなく、ただ…自分自身の憎悪と復讐のために」
「リコゼッタ…か?」
少年はただ、准将の顔を真っ直ぐ見ているだけ。一瞬、窓の外からの光に二人の顔が青く染まる。次の刹那轟いた、ひときわ激しい雷鳴。
「そ…うか」
それきり、准将は黙り込んだ。セイもまた、何も言わない。かなりの長い間、沈黙が続いた。
「なあ…君は、父上の研究をどう思う?」
不意の、問いかけ。
「素晴らしい研究だったと誰もが言う。このまま失わせてはならぬと、みんながね。だから統治体は君を追っている。三十年経った、今でもだ。だが、私はこの頃思うのだよ。あれをもう一度蘇らせることが果たして正しいのかと。
陳腐な言い回しだが、生命というものは河に似ている。目に見えない卵子と精子が出会い、生物として生まれ、育ち…やがては老いて、死んでいく。我々は―人間だけでなく、生きているものはみな―その流れの外には出られない。ただ、流れていくだけだ。どんなに不本意な流れであっても、我々がそれを変えることはできない。いや、許されない。たとえ―それを可能にできる力があっても決して立ち入ってはならない、それは神の領域だ…。
君の父上はその禁忌を破った。科学者としては偉大な業績であっても、人間としては絶対にしてはならぬこと…宇宙に『神』と呼ばれるものがあるのかどうか、私は知らない。だが、父上が母上もろともあのような最期を遂げなければならなかったことを思うと、やはり考えてしまうのだよ。何ものかは知らないが、われわれの思考を超えた、大いなる意思があるのではないかと。人間に…いや、どんな生き物も立ち入ることのできぬ領域というのが、確かに存在するのではないかと。
…リコゼッタにしても同じことだ。父上から力づくで研究を奪い、その先になおも立ち入って行こうとしたからその報いを受けたのだ。君はただ、『それ』に代わって刃を振り下ろしただけさ。何もかも―私たちにはどうにもできないことだった。みんなが、自らああいう運命を呼び込んだのだ。君が悔やむことではない」
「『大いなる意思』…『神』ね…」
無表情だったセイの唇の両端が、静かに上がっていく。乾いた微笑み。
「そうだね。そんなものもあるかもしれないと…昔、僕も思っていたよ。信仰の対象になるような慈悲深い『神』っていうんじゃなかったけどさ。…人間は、どんどん力をつけていく。不可能といわれてきたことが、一つづつ、消えていく。でも、どんなに人間が進歩しようとも。どんな叡智を、力を持とうとも。どうしても超えられない何かがあると…昔、思ってたよ。その証しが…例えば、死。有史以来どんな人間も、いや、どんな生き物も逃れられなかった唯一、確固たる運命。生命の流れ…神の領域。あんたの言うことは、正しいよ。でも、今の僕には信じることができない」
「セイヤ!」
そして、音もなく少年は立ち上がる。その、華奢な身体を見せつけるように、准将に向かってぐっと胸をそらしてみせる。
「ねえ…見てよ、僕を。あのときと同じ十六のまま。いくら年月を重ねても、老いることもなく、死ぬこともなく…
僕は流れの外にはみ出してしまった…神だけが統べることのできる、大いなる流れの外へね。そんな僕が、どうして神を信じられる? 自分自身の存在そのもので神を否定しているっていうのにさ。信じろっていう方が無理だよ。…お笑い種だ」
軽い、空しい笑い声とともに少年は再びソファに腰を下ろした。
「でも、ね…」
そして、独り言のように言葉を続ける。
「僕は、信じたい…人間以上の存在を。大いなる超越者を。…救いなんていらない。だけど、それでもやっぱり、ね…そうでなければ、生きていくのはあまりに…辛すぎるよ」
「その為に?」
准将の、大きなため息。
「自分自身を殺そうとしたのか。自分で自分を密告することまでして」