終章


「…で? どうじゃな、調子は」
 やわらかな風の中、ラドフ爺さんはゆっくりと振り向いた。その後ろ、静かについてきた女が心もち顔をあお向け、弱いけれども暖かな日差しに目を細めて微笑む。
「上々よ。…さすがにまだ元通りとはいかないけど、だいぶ声も安定してきたわ。四か月以上も歌ってなかったにしちゃ早い回復だと思ってるんだけどな」
「ほっほ。そりゃあええ、そりゃあええ。…じゃが、あんまりのんびりもせんでくれよ。あんたの歌を待っとる奴の中にはの、わしのように明日をも知れぬ老いぼれもいるんじゃからの」
 今度は、セレインは声を立てて笑った。
 ラヴォールの、短い春。あの冬の嵐の夜から四か月近くが過ぎていた。セレインは少し足を速めて爺さんを追い越し、目の前に広がる草原に足を伸ばして座り込んだ。
 遠くに鳥のさえずりが聞こえる。今は爺さんに背を向ける形で腰を下ろしたまま、セレインはそれに聞き入るふうに首をかしげ、しばらくの間じっとしていた。爺さんも並んで立ったまま、黙って同じように風に吹かれている。
 ひときわ高いさえずりが、長く尾をひいて二人の耳を行き過ぎていった。
「…ねえ、お爺さん」
 老人の方を見ないまま、セレインがつぶやく。
「何じゃい」
「あのときは、ごめんなさい」
「…ん?」
「あの…夜のこと。お爺さんがあんなに止めてくれたのに、あたしたち飛び出していっちゃって。…それに、お爺さんのトラックまで借りていっちゃって」
「ああ、あのことかい」
 爺さんはわざとらしいしかめっ面でセレインを睨んだ。
「全く、とんでもない奴らじゃて。あれほど、この年寄りがやめろと言うたに…ついでに言えば、トラックの件、な。…ありゃ、『借りていった』んじゃない、『かっぱらっていった』んじゃろが」
 申し訳なさそうにセレインが縮こまる。それを見て、爺さんはとうとう噴き出した。
「まあ、ええさ。元はといえばわしがあの男に教えてしまったのがいけないんじゃからの。ほんの照れ隠しのつもりだったんじゃが。…それにしても、あの広い森の中でよくあの坊主を見つけ出したものだのう。まさに、奇跡というやつさね」
 微笑みながら話す爺さんの言葉にセレインはほっと肩の力を抜き―あらためて訊ねる。少し震えた声で、躊躇うように。
「…あの子、何て言ってた?…最後に」
「ん…? ああ、そうか…お前さんには、まだ詳しくは話しておらなんだのじゃな。あの男も、あれから何も言わなかったのかね」
「ええ。あたしの方も…聞きたくなかったの。あたしがツェネルーンから帰ってきたとき、出迎えてくれたのはお爺さんと彼だけだった。でも、あたしもそれは半分覚悟してたわ。だから、二人の『あの子は元気になって、またラヴォールから旅立って行った』って言葉を聞いて安心して、納得するつもりだったの。でも…ごめんなさいね。あたし、疑いを捨て切れなかった。あの子は本当に、助かったのか。あれは、二人があたしを悲しませまいとした嘘で…本当は、あの子…死んじゃったんじゃ、ないかって」
「お前さんがそう思うのも、もっともじゃ」
 爺さんはあくまでも優しく、うなづいた。
「お前さんがツェネルーンへ発ったとき、あれはまだ眠り続けたまま…助かるのか、それとも今度こそだめなのか、まるでわからん状態じゃッたからの。しかし、時間がなくて…わしらにせきたてられるように、お前さんは…」
「いいの。それはいいのよ。…ツェネルーンの医者にも、来るのがあと一日遅かったら手遅れになってたって叱られたもの。あたし、感謝してるのよ。でも…だから、思ってしまう。あたしのこと、こんなに気遣ってくれる人たちだからこそ、あたしのために嘘をつくかもしれないって」
「なら、あの男に確かめてみりゃよかったに」
「…だめよ」
 穏やかだがきっぱりとセレインは言った。爺さんが面白そうに首をかしげる。
「何で、だめなんじゃい」
「彼、あたしのこと愛して…くれてるもの。たとえそれが真実でも、あたしを悲しませるようなことだったら、教えてくれっこないわ」
 爺さんは笑い出した。
「ほっほ…大した惚気じゃの。じゃ、何か? わしなら、お前さんに真実を教えられるというのかね」
「ええ」
 爺さんの方を振り向いたとき、セレインの目はもう躊躇ってはいなかった。
「お爺さんは、あたしを必要以上に甘やかしたりしないもの。帰ったばかりで疲れきっていたあたしには嘘をついても、今のあたしになら本当のこと…教えてくれるでしょう?」
 真摯な眼差し。だが、爺さんの表情は変わらない。
「…そこまで信用してもらったことには礼を言わにゃならんな。…じゃが、わしの台詞も変わらんよ。あれは、確かに助かった。初めてお前さんに会うたとき、いや、それ以上に元気になった。これは、真実じゃよ。だから、安心するがええ」
「でも…それなら何故…どうしてあの子、この惑星から行ってしまったの? ここは、あの子の故郷なんでしょう?」
 一瞬、黙り込んだ爺さんが次に何を言うか、セレインにもとうにわかっていた。…それでも、言いたかったこと。…何もかも、わかっていても―それでも、なお。
「ま、故郷には違いないが…今のこの惑星は、あれが静かに、平和に暮らせる場所じゃない。あんたも知っとるじゃろ。例の統治体の奴ら…あれから躍起になってあの坊主を捜し回っとるそうじゃよ。いつまでもここに留まっていたらまたお前さんたちやわしに迷惑をかけてしまう…あれはきっと、そう思ったんじゃろうて」
「それだって、いいじゃない!」
 つい、怒鳴ってしまった。セレインは、慌てて口を押さえる。
「…ごめんなさい。でも、ほんとに…いいじゃない、それだって。あいつらがあの子を捕まえにきたら、あたしたちがあの子を守るわ。そうよ…あのときあの子が、命がけであたしたちを助けてくれたように。お爺さんが、あたしのために旅券を作ってくれたように。その次には、あたしたちがあの子を助けたわ。そんなふうにみんなで助け合って、一緒に生きていけばいいのよ。なのに…ねえ! どうして!? 何であの子、行っちゃったの? あたし…あたし、ずっとみんなで一緒にいたかったのよ!」
 途切れた言葉の、哀しいはかなさ。いくら口に出しても実現しようのない、夢物語。
「…そうさのう」
 セレインを見つめる爺さんの表情は何の感情の乱れも表してはいなかったけれど。
「それができたら、どんなにいいかのう。わしも正直なところ、全く同じ気持ちじゃよ。…じゃがな」
 ぽん、とセレインの肩に置かれた、皺だらけの手のひら。
「わしはそう長い間、一緒にはおれんじゃろうて」
「お爺さん!」
「まあ、聞きなされ。…わしだけじゃあ、ないんじゃから。わしの次にはすぐ、お前さんたちの番が来る。…ぴんとこんかもしれんが、長いように見えても人の命なんぞ、須臾の間じゃ。あっという間に年を取り、ほれ」
 指差した、空の遠く。
「あそこに、還っていく。じゃが…」
 一息の、間。
「わしらの最後の一人がいなくなっても、あの坊主はあのままじゃ。そりゃ、あれもいつかはあそこへ還るには違いないが…この前、どこかの誰かが言うた通りにな。ただ、それまでの時間が長すぎるだけだ…そう、そいつは言うたそうじゃよ。確かにその通りじゃと、わしも思う。しかし、な…」
「…」
「その長すぎる時間とやらを、一つところでじっと見据え続けていけるほど、人は…強くはないよ。これからあれが、どんなに長い命を生きていかにゃならんのか、わしにはわからん。じゃが…それでもあれは、まぎれもない人間じゃ。あんたやわしと、同じくな。…なのに何故、あんな重すぎる業を背負ってしまわねばならなかったのか…それが、あれの運命じゃったと言うてしまえばそれまでの話じゃがのう」
「そうね…その、通りよね」
 静かな応え。
「わかってた。何もかも。お爺さんの言ったこと、あたしもずっと考えていたのよ。…でも、きっと誰かに同じことを言ってほしかったんだわ」
「全く、運命なんぞというものはどうしようもない代物じゃて。じゃが、そんなものでも、気の持ち方一つで味方につけることができる…かもしれん。この世の人間どものほとんどが、そいつを敵に回しているとしてもじゃ。そう言ってやったらの、あれは笑いおったよ。声を立てて、じゃなく、そう…ほんの少し、唇の端で…嬉しそうにな…」
「あたしも、自分の運命なんてわからないけど」
 セレインが爺さんに笑いかける。あの少年にどこか似ている、寛い、深い想いを秘めた笑み。
「でも、できるならまた、あの子に会いたいわ。あたしが、あの子を好きだったこと。そして、今でも好きでいること。それを、伝えてあげたいわ…」
 爺さんの応えはない。やがて、その手がそっとセレインの背に触れた。うなづきかけながら、セレインは歩き出す。
 …帰ろう。あたしたちの街へ。あの人のところへ。…そしてまた、あたしは生きていく。歌いながら、あの人を愛しながら…
 そしていつか、必ず伝えよう。あの、長い髪と紫の瞳の美しい少年に。





あたしは、あんたが好きだった。そして、今でも、好きだよ、と…。

〈了〉




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