浜辺にて 4
問いかけられてなお、チビ犬はじっとこちらを見つめたまま微動だにしない。しかしやがて、無表情だったその顔にかすかな笑みが浮かんだかと思うや、つぶらな瞳が青白い異様な光を放ち始めた。
「ああ…やっぱり見破られてしまいましたか。イワンくんの目をごまかせるとは最初から思っていませんでしたが、その上『霊能者』まで一緒となったら完全にお手上げだ。貴女は藤蔭先生…ですね? 初めまして。パピさんの体を拝借してしまってすみません。だけど、どうしても一つだけ―かなえたい望みがあったものだから」
姿形は確かに…パピ。しかしその声と口調は普段聞き慣れたチビ犬のものとはまるで違う。何よりも、鬼火のごとく青白く光る双眸の不気味さが皆の背筋を凍りつかせ、何人かが知らず知らずのうちに一歩、二歩と後じさる。さすがの藤蔭医師とイワンですら、今はただ睨み合う以外になす術もない。
と―。
「それじゃお前は本当に…パピちゃんじゃないんだな!? だったら一体誰だ! 何故、パピちゃんに乗り移ったりなんか…っ!」
いまだ藤蔭医師に押し止められたままのジョーがそれでも懸命に叫んだ刹那、一対の鬼火は再び元のつぶらな瞳に戻った。
「誰…? 君がそんなことを訊くの、ジョー。もう…僕を忘れてしまったのかい?」
そしてゆっくりと立ち上がったチビ犬は傍らの十字架にそっと頬を摺り寄せ、懐かしげに目を細め―。
「そんなことないでしょ? だって君は今でも、僕のお墓をこんなに大事にしてくれているんだもの。毎日のようにお参りに来てくれて、綺麗な花をたくさん供えてくれて…この前は、僕が大好きだったハムまで供えてくれたよね。久しぶりで、とっても美味しかったよ…」
「え…?」
途端、ジョーの瞳がこぼれ落ちんばかりに見開かれ、その頬からは見る見るうちに血の気が引いていく。
「それじゃ…あ…まさか…。まさか…っ」
その続きは、言葉にならない。何度か空しく唇を開きかけ、ようやっと絞り出した声は、普段のジョーからは想像もつかないほどに掠れ、そして震えていた。
「ク…ビ…クロ…。お前は…クビク…ロ…なの…か?」
「そうだよ! ああ、やっと思い出してくれた! 嬉しいよ!」
たちまち歓喜に躍り上がり、千切れんばかりに尻尾を振りながら駆け寄ってくるチビ犬。しかしジョーはいまだ蒼白な頬で立ちすくむばかり、それどころかやがてその全身が震え出し、その場に崩れ落ちるようにがくりと膝をついてしまったではないか。チビ犬の足が、ふと止まった。
「…どうしたの、ジョー。せっかく久しぶりに会えたっていうのに…喜んでくれないの? もしかして、僕がパピさんの体を借りちゃったこと…怒ってる? こんなことする僕は嫌い…? それとも…怖い?」
つい今しがたの喜びもどこへやら、困ったふうに首をかしげて問いかけるパピ―いやクビクロに、ジョーは激しく首を横に振る。
「違う! そうじゃない…そんなんじゃ…ない、けど…」
とうとう両手さえも地面についてうずくまった栗色の頭は、がっくりとうなだれていた。
「でも僕は…あのとき…お前をあんな目に…っ! そう…僕は…この手で…お前の、命を…!」
「ジョー…」
「ごめん…ごめんよ、クビクロ…。あの時…僕がもっとしっかりしていれば…もっと、お前の様子に注意していれば…お前があんな事件を起こすこともなかったのに…っ! いや、たとい事件が起こったとしても! もっと早くに手を打っていれば、お前を助けてやれたはずなんだ! 全ては僕が…っ! 僕がもっと…!」
言いつつ硬く握り締めた拳を地面に叩きつけ、絶叫したジョーの目から透明な滴がぽとりと落ちる。だが、チビ犬は黙って首を横に振っただけだった。
「それは違うよ、ジョー。悪かったのは全て僕の方だ。自分の憎しみばかりに囚われて、それがどんな結果を引き起こすのか―大好きだった君をどれほど悲しませるかなんて、まるで考えもしなかった。…『畜生の浅知恵』って言われても仕方ないよね」
立ち止まっていたクビクロが、再びジョーの方へと歩み寄ってくる。…もう、藤蔭医師もイワンも、それを遮るような真似はしなかった。
「ね、ジョー…。あの後君は一晩中僕についててくれたよね。とうに事切れてしまった僕の体に毛布をかけて、涙声で『寒くないかい、クビクロ?』って、ずっと背中をなでていてくれたよね。そして次の朝には…新しい真っ白なタオルで僕を包んで、僕の大好きだった海がよく見えるこの場所にお墓を作ってくれたよね…。他の人たちも一緒だった。みんな、泣いてた…。僕は今も君が―君たちが大好きで、心の底から感謝しているんだよ。ありがとう…そして、ごめんね。あんな莫迦な真似をしでかして、君に―死ぬより辛い、哀しい思いをさせてしまった…」
「クビ…クロ…!」
はっと顔を上げたジョーの動きが止まる。すっかり泥だらけになってしまった拳を、チビ犬の小さな舌がぺろん、と舐めた。
「ただ、ね…」
ぺたんとそこに座り込んだチビ犬が、つとジョーの顔を見上げた。
「ねぇ、君が僕を初めて家に連れて帰ってくれた日のこと、覚えてる?」
あの時僕は、両親と飼い主のお爺ちゃんを亡くしたばかりだった。
世界で一番大好きな、そして大切な存在をいっぺんに失って…悲しくて心細くて、胸が張り裂けそうで…涙すら、一滴だって出てこなかった。
でもね…君に、大事に―そう、まるで小さな宝物みたいに大事に抱っこされているうちに少しだけ―ほんの少しだけだけど、何だか安心したような気持ちになって…。
君の温もりが全身に伝わって…もう大丈夫だって…何も心配しないで、思い切り泣いていいんだって…そんな気がした。
それからも、君が抱っこしてくれるたびに僕はすごく安心できたんだよ。
…でも僕、すぐに大きくなっちゃっただろう?
いつの間にか、僕の体は君の腕には収まりきれなくなって…君は僕をあまり抱っこしてくれなくなった。
もちろん、君が僕を嫌いになっちゃったわけじゃないのはわかってる。
むしろ、大きくなった僕を無理矢理抱っこ―ううん、抱え上げたりしたら、僕が怖がったり嫌がったりするんじゃないかって…気にしてくれてたんだよね。
だけどやっぱり、僕は淋しかったんだよ。
同じ犬仲間には、成犬になってもずっと飼い主に抱っこしてもらえる―そう、このパピさんみたいな―者もいるのにって、体の小さな仲間が羨ましくて妬ましくて仕方なかった。
もっとも、この体格のおかげで僕は、君と一緒にジョギングだの追いかけっこだのプロレスごっこだの…楽しい遊びも一杯できたんだけど。
特にプロレスごっこなんて、小さな仲間には絶対にできないんだからお互い様だって、納得していたつもりだったんだ。
それでも心の奥底では、ちっとも納得なんかできてなかったんだね…。
あの…最後の日もそうだった。
涙に頬を濡らした君が、僕をこの岬まで運んでくれたそのときも…僕の頭と尻尾は君の腕からはみ出して、ただゆらゆらと揺れているばかりだった。
―君に撃たれたことは本望だ。
―決して、怒ったり恨んだりなんかしていない。
―ただ。
―君の温かい腕からはみ出して、冷たい朝の風にゆらゆら揺れているだけだった僕の頭、そして尻尾…。
―それだけが、僕には何故だか無性に哀しかったんだよ―
「クビクロ…」
大好きだった犬―友達の独白に、新たな涙がジョーの瞳からあふれ出る。…と、その足元にそっと何かが触れた。
(…?)
はっと視線を落とせば、すぐ前まで寄ってきたチビ犬の小さな前脚が、自分の足首をかりかりと引っかいている。
「ねぇジョー…。抱っこしてよ…。仔犬の頃と同じように。もう一度だけ…『小さな宝物』みたいに、僕を抱っこしてよ…」
もはや、ジョーには言葉が出なかった。ともすれば嗚咽で爆発しかねない自分を懸命に抑え、ただひたすらにうなずきながら手についた泥を払い、さらにはズボンやシャツにこすりつけ、精一杯きれいにして―丁寧かつ慎重にチビ犬を抱き上げ、ほんの少しだけ力を入れて、きゅっと…抱きしめる。
「クビクロ…。ああ…! お前なんだね…。本当に…お前なんだね…!」
正直、パピの体は記憶の中にあるクビクロのそれよりはるかに小さく、頼りなくて―少々勝手が違う気がしなくもなかったけれど。
(それでも、これはクビクロだ…。この温かさ、毛皮の感触…僕は今、この腕の中にもう一度…クビクロを…抱いてる…)
その頃にはもう、他の人々もジョーとクビクロの周囲に集まってきていた。
「クビクロ…本当に…貴方なのね?」
(くびくろ…! 帰ッテキタンダネ! じょーニ…会イニ…)
「そうか…お前か…お前…じゃったのか…! よう…帰ってきた…クビクロ…や…」
懐かしいフランソワーズやイワン、そしてギルモア博士の声を聞いたクビクロの瞳がうっとりと閉じられる。
(ああ…! あの時と同じだ、ジョー…。君に抱っこされて、僕を愛おしんでくれる人たちに囲まれて…)
一瞬、その顔が満足そうに輝いた。
(僕は…幸福だよ、ジョー。すごく嬉しくて、すごく満足で…そしてすごく、安らかだ…。ありがとう…。本当に…)
そして、そんな思念がジョーの、そして皆の心に届いたのを最後に。
「クビクロ…?」
ジョーが再びその名を呼んでももう二度と返事はなく―腕の中のチビ犬は、ただすやすやと心地よさそうな寝息を立てているばかりだった。
しかしそれから間もなく、小さな体がもぞもぞと動き始めたかと思うや「あ〜うぉ〜ぉぉぉ〜ん」という大きなあくびと共に再びつぶらな瞳が開く。
「…!」
クビクロ、と言いかけたジョーが慌てて言葉を飲み込む。自分が抱いているのはもう、クビクロではなくパピなのかもしれないのだ。しかしそれでも、せめてもう一度―もう一度だけ、クビクロと話がしたい―。
そんなジョーの胸の内を察したのか、チビ犬がちょっぴり申し訳なさそうに目を伏せた。
「ジョーしゃん…ごめんちゃいね。ボク…パピでち。残念だけど…彼はもう…行っちゃいまちた」
ジョーの顔に、一瞬落胆の色が浮かぶ。が、次の瞬間少年はあらためて腕の中のチビ犬をしっかりと抱きしめた。
「いいんだ、パピちゃん、いいんだよ…。よく無事に帰ってきてくれたね…おかえり」
かすかな淋しさと哀しみを秘めてはいたものの、ジョーの言葉が本心であることはパピにも充分わかったのだろう。その小さな舌が、ジョーのあごのあたりをぺろん、と舐めた。そして今度は飼い主―藤蔭医師たちに向かって。
「ママ…しょれから皆しゃんにも心配かけちゃってごめんちゃいでちた。ボク、彼と友達になって、仲間たちがいるからって浜辺につれてってもらって、ずっと遊んでたの。…で、ついついおうちに帰る時刻を忘れちゃって…」
ぺこりと頭を下げつつ事情を説明するパピに、人々は一様に怪訝そうな表情になる。
「パピちゃん…。彼…って、もしかしてクビクロのこと?」
(ソンナバカナ! ダッテぱぴチャンは生キテイルノニ、ドウシテくびくろト…?)
「まさかパピ…お前にもわかるのか? あ…む…そのぅ、この世を去った者たちの霊魂…とやらが」
あれやこれやと口々に問いかける人間たちに、パピが困ったように苦笑する。
「いえいえ、ボクは決ちてイワンくんやうちのママみたいな超能力者―じゃなかった、超能力犬じゃないでちよ。…ただ、元々犬族はしょういう気配には結構敏感なんでち。だからでちかねぇ、人間しゃんたちみたいに『あっち』と『こっち』の世界を厳密に区別ちたりちないち、しょれじょれの世界を超えて『友達づき合い』しゅるのもしょんなに珍ちいことじゃありまちぇん。事実、浜辺にいた他のわんこたちはみんなちゃんと生きてまちたけど、彼とは本当に仲良ちでちたよ。ボクだって、最初のうちはごく普通のわんこだと思って、自然に友達になっただけでちもん。もっとも、ちばらく一緒にいるうちに気づきまちたけど、しょんなのボクたち犬族にとってはどうでもいいことでちから…。とはいえ『互いの属しゅる世界の違いをきちんとわきまえる』のは最低限のマナー、だから最後にいきなり『体を貸ちてくれ』って言われたときだけはちょっぴり焦っちゃいまちたけどね…」
チビ犬の苦笑が、ふと淋しげな笑みに変わった。
「だけど今は、しょれでよかったと思ってるでち。彼がボクの中に入ったことで、全てが―わかりまちたから。彼の一生も想いも、あと―どうちて彼がしょんな…マナー違反をちてまでボクの体をほしがったのかも、全部…」
言葉を切ったチビ犬が、再び自分を抱いている少年を見上げた。
「ねぇ、ジョーしゃん…。彼はねぇ、本当に…心の底からジョーしゃんのことが大好きだった…ううん、今でも大好きなんでちよ。だからもう、彼のことで自分を責めたりちないでちょうだい。楽ちかった思い出だけを、いつまでも忘れないであげてちょうだい…。今の彼はきっと、幸福に違いないでちよ…長い間の、『たった一つの望み』がようやくかなったんでちから…」
「パピちゃん…」
そこでぐぅっと体を伸ばし、ジョーの鼻先をぺろん、と舐めたパピがふと小さなため息をついた。
「はぁ…でもボク結局、彼とご挨拶しそびれちゃったなぁ…。ね、ジョーしゃん、畏れ入りまちがちょっとボクを下ろちていただけまちか? ちぇめて最後くらいは、彼をきちんと送ってあげたいの」
言われて、ジョーが静かにパピを地面に下ろす。他の人間たちも皆脇に寄り、チビ犬のために場所を空けてくれた。
そんな人間たちに丁寧に一礼し、そのままとてとてと―岬の先端、クビクロの墓の前まで進んだパピが、はるけき海の彼方までも届けとばかりに精一杯声を張り上げた。
あおおおぉぉぉ〜ん。あおお…うおぉ…ぉぉぉおぉぉ〜ん…。
(貴犬の本当のお名前はクビクロさんとおっしゃるのですね…。とうとう、貴犬ご自身の口からお伺いすることはできませんでしたが…)
高く低く―海原に、そして大空に響き渡るその遠吠えは、死者を偲び、祈りとともに語りかける人間の声と何ら変わるところはない。祈りはやがて彼岸と此岸の境界を消し去り、今パピはまぎれもなくあの若犬―クビクロと同じ岸に立つ自分を感じていた。
うぉぉお〜ん…あおぉぉぉ…あぉお〜ん…。
(貴犬にもいろいろ思うところはあったでしょうに…それでも私に声をかけて下さってありがとう…。貴犬と過ごした時間はとても楽しかったから…最後に、貴犬のたった一つの望みをかなえるためのお役に立てて光栄でしたよ…)
わおぉぉぉぉお〜ん…うおぉぉぉ…あおぉ…おぉぉぉぉ〜ん…。
(また…来年の春になったらバジル氏ご夫妻や紅子さん、ミルクさん、そして他の皆さん方と一緒にあの浜辺で遊びましょう。…それまで…お名残惜しいですが、さようなら…!)
きっちりと三回の遠吠えを終え、遠い海原の果てを見つめるパピの耳に、かすかな返礼の遠吠えが聞こえたような気がした。チビ犬の顔に、静かな微笑が浮かぶ。いつしか岸辺は再び分かたれ、互いの世界は遠く隔てられてしまっていたけれど―自分の声は、確かにクビクロに届いたに違いない。
最後に深々と一礼し、チビ犬はゆっくりと海に背を向けた。そして再びとてとてと自分の世界―限られた命を共に精一杯生きていく、大好きな人間たちのもとへと―戻っていったのである。
〈了〉