浜辺にて 3
突然悲鳴を上げて飛び上がったパピに、タッキーやバジル氏夫妻の顔色も変わる。
「どっ…どうなさったんですか!? 何かまずいことでも?」
「もしかして…私どもが何かお気に障ることでも申し上げましたかな…?」
「あ…いえ、別にさほど大したことでは…大変失礼致しました」
努めて平静を装いつつ、皆に頭を下げたパピ。しかし頭の中は真っ白…というより、完全にとっ散らかり状態である。
会議だけを考えるなら、何しろあれだけの碩学が集まったことでもあるし、中々議論の決着がつかずに予定延長…となる可能性の方がはるかに高いの…だ…が…。それでも昼時ともなれば休憩を兼ねた食事となるのは必定、研究室から戻ってきた人間たちが、もし自分がいないことに気づいたら…。
もっとも自分の正当な飼い主たる女医と大親友の赤子なら、あくまで沈着冷静かつ常識的な対応をしてくれるだろうが、問題はその他の人々だ。特にあの少年少女…ギルモア家の中でもとりわけ自分を可愛がってくれている上、サイボーグでもあるあの二人が驚きと心配のあまりパニックにでも陥ったら、正直何をやらかすかわかったものではない。
それぞれの能力を使って家の周囲を透視したり、マッハのスピードであちこち探し回るくらいならまだマシだが、万が一ドルフィン号まで引っ張り出して空からの探索などおっ始められてしまったら…それでなくともギルモア研究所には、極めて大規模かつ高性能な、ついでにかなり物騒な機械・装置・システムがゴマンとあるのだ。
考えれば考えるほど不吉な想像ばかりが思い浮かび、全身の血が音を立ててざぁぁっ…と引いていくような気さえする。…もはや、一刻の猶予もない!
とうとう覚悟を決めたパピ、なおも心配そうにこちらを見つめている三匹の前にきちんと座り直して。
「いきなり大きな声を出して皆様を驚かせてしまい、申し訳ございませんでした。実は私、飼い主たちに黙って出てきてしまいましたもので…そろそろ帰らないと皆が心配致します。大変お名残惜しくは存じますが、そろそろ失礼しても…よろしいでしょうか」
ぺこりと頭を下げれば、三匹もようやく納得した様子である。
「おお、それでは無理にお引止めすることもできませんな…じゃがパピさん、貴犬(あなた)とのお喋りは実に楽しゅうございました。わしらは毎年、春の終わりから秋の終わりにかけてちょくちょくこの浜辺に遊びにまいります。今年は多分これが最後じゃろうが…できれば来年もまた、お顔を見せて下されや」
「本当に…楽しみにしておりますよ…」
いかにも残念そうなバジル氏夫妻と、最後にもう一度くんくんくん…。鼻の匂いを嗅ぎ合い、パピは深々と頭を下げて。
「それでは、岬の上までお送り致しましょう」
そう申し出てくれたタッキーともども、静かに老犬夫妻の前から引き下がった。後はもちろん、例のあの道目指して猛ダッシュである。
(どうか…どうか皆の昼食が、五分でも十分でもいいから…遅れてくれますように…)
タッキーの案内のもと、ひたすら神仏に祈りつつ必死に走るパピ。しかしあいにくその祈りは少しばかり…いや、完全に手遅れだったのであった…。
確かに、ギルモア研究室での白熱した議論は到底二時間やそこらで終わるものではなかった。しかし、いかな碩学・天才・サイボーグとはいえ「腹が減っては戦ができぬ」、昼時ともなればやはり何か食べないことには身がもたない。
ただ今日はフランソワーズも会議に出席することとて、予め宅配ピザなど頼んでおいたものだから昼食の支度もごくごく簡単、皆で手分けして食器を並べ、飲み物の用意さえ整えれば全て完了、あとは熱々のピザが届くのを待つばかりである。
時計を見ればまだ十一時五十分、「正午きっかり」と頼んだからにはおそらくあと十分程度はかかるだろう…って、そんなことは別にどーでもいいのだが。
「じゃ、ちょっと早いけど僕、パピちゃんを呼んでくるね。きっと、一人で退屈してるよ」
そう言ってにこやかに庭に出ていったジョーが、まさかそれから数分もしないうちに真っ青な顔であたふたと駆け戻ってくるとは。
「た…っ! 大変だ!! パピちゃんが…いないっっっ!」
その瞬間、ギルモア邸は大混乱に陥ったのだった(ちなみにパピがタイム・オーバーに気づいて飛び上がったのはその十五分ほど後だったりする…)。
「何ですって!? ねぇジョー、貴方どこか見落としていない!? そう…庭木の茂みの奥とかっ! 庭石の陰とかっ!」
「あ…ああ、そうだねフランソワーズ…。じゃぁ僕、もう一度徹底的に探してみるっ!」
「僕も手伝うよ、島村クンっ!」
言うなり、今度は応援を買って出てくれた石原医師ともども庭に飛び出したジョー、一方「もしかして家の中に上がり込んだのかもしれないから」とキッチン、そしてリビングを這い回るように徹底捜査するフランソワーズ、ならば自分たちはそれ以外の場所…とばかりに廊下だの階段だの風呂場だの、果てはトイレの中までも手分けしてひっくり返すギルモア博士とコズミ博士…。もはや、碩学も天才もサイボーグもあったもんではない。
そんな様子を、あくまで冷静に見守っていた女医と赤子―藤蔭医師とイワンコンビが大きなため息をついた。
「あーあ…。島村クンも石原君も何やってんのよ…庭木の茂みや庭石の陰って…根っこ掘り返したり、石持ち上げて裏側調べてどーすんだってーの。ウチの子はダンゴムシでもなけりゃミミズでもない、犬なんだけどなー」
(…ソレ、ふらんそわーずヤぎるもあ博士、こずみ博士モ同ジダト思ウヨ、藤蔭先生…。イクラぱぴチャンダッテごきぶりやねずみジャアルマイシ、ごみ箱ヤ冷蔵庫、洗濯機ノ中ニナンカ入リコムワケナイノニ…マシテといれノ便器ヤオ風呂場ノ湯船ノ中ニナンテ、イルワケナイジャン…。トコロデ先生、オ家ヘノ連絡ハ入ッテタ?)
ぼやきつつも携帯電話を取り出した藤蔭医師が、転送サービスを利用して自宅の留守電チェックをしていたのを見逃すイワンではない。しかし、美貌の女医は黙って肩をすくめただけだった。
「残念ながら、どこからも連絡は入ってないみたい。ということは、いまだ好き勝手にどこかほっつき歩いてるのか、それとも…」
(今ぱぴチャント一緒ニイル人間ガ、飼イ主ニ連絡ヲ取ル意思ヲ持ッテナイカ…ダネ。ソウナルト「誘拐」トイウ可能性モ出テクル…マズイナ)
「一匹でふらふらうろついているところを保護して、そのまま自分で飼いたくなっちゃった…って線もあるわよ、イワンくん。まぁ、それなら別に心配することもないんだろうけど。たといどんな犬好きだろうが、生半可な人間にあの子の飼い主が務まるはずもなし、いずれパピの方で愛想尽かして家出してくるに決まってるし。…ただ、誘拐というのもちょっとねぇ…。人間攫って身代金取ろうなんて根性持ちならまだしも、より小さくてか弱い動物盗んで、どこかに売り飛ばして金儲けしようなんてセコい連中相手に、おとなしく攫われるような犬じゃないと思うんだけどなー、うちの子」
(マァ、ソレハソウダケド…)
イワンが何か言いかけた瞬間、庭を捜索していた石原医師の悲鳴にも似た絶叫が響いた。
「ああっ! 島村クン、皆さん、ちょっと来て下さい!! 庭外れの勝手口の下にほら、こんな大穴がっ!」
「ええっ!?」
「何ですって!?」
たちまち、庭にいたジョーばかりか邸内のフランソワーズや老博士たちもその場にすっ飛んで行くのを横目に見つつ。
「あ、やっぱり」
(ぱぴチャン、自分デ勝手ニ出テイッチャッタンダネェ…)
顔を見合わせた女医と赤子が大きなため息をついたと同時に、インターフォンの音が盛大に響いた。
一方―。
「ほら、急いでっ! まだ半分も来ていませんよっ!」
「あ…ああ…。それは…わかって…でも…ちょっと…待って…」
先程のけもの道を今度は全速力で駆け上がるタッキーとパピ。が、中型犬と超小型犬とではやはり体格の―ひいては足の長さの差がありすぎて。おまけに傾斜の緩い九十九折とくれば、上り下りの難儀さはともかく上りきるまでの距離はかなりのもの、スタミナ面からいってもいい年こいた中年犬が青春真っ只中の若犬にかなうわけがない。結果、走れば走るほど二匹の間はどんどん離れて行くばかり、もはやパピははるか先を行くタッキーの後をぜいぜいはぁはぁ息を切らせながら追いかけていくだけで精一杯だった。
「ああもう…っ! 仕方ないなぁ」
とうとう痺れをきらしたらしいタッキーが、何を思ったかパピのもとへと引き返してくる。そして…。
「ちょっと脇を通りますよ…足を踏み外さないように気をつけて下さい」
狭い道の上で押し合いへし合い、パピの後ろへ回りこんだかと思えばいきなり自分の鼻先をパピの後脚の間に突っ込み、額を尻にぐい、と押しつけた。
「ひぇっ! 貴犬、一体何を…!」
「だってこれしかないでしょう! 我々犬は人間みたいに相手を背負ったり抱いたりなんてできないし…これが仔犬なら襟首くわえて運ぶって手もありますが、立派な成犬の貴犬にそんなことをしたら首筋に大怪我をしてしまう。だから僕がこうして後ろから押して行きます。さぁ、走って!」
かくてその後は二匹縦隊で何だ坂こんな坂、急げや急げのえっさほいさ状態。…しかしまだまだ先は長いぞ、頑張れわんわんコンビ!
そしてギルモア邸の混乱の度合いもまた、いっそう増して行くばかりだった。
「…とにかく、パピちゃんがこの勝手口から出て行ったことは間違いない。こうなったら僕が加速装置を使って探しに行きます!」
「だったら僕たちも手分けして…」
「おう、そうじゃな。こうなったら人海戦術じゃ、大勢で探せば見つけるのも早い!」
等々、一見てきぱきと対処しているようでいて、どこかピントの外れた会話を続ける碩学・天才・サイボーグたちの背後から、控えめなアルトの声が響いた。
「あの、皆さん…お取り込み中ですがちょっとよろしいでしょうか?」
振り向けば、そこには藤蔭医師とその隣にクーファンごとふよふよ浮かんだイワンの姿。
「せっ、先輩! 今さら何をそんなにのんびりしてるんですかっ!」
(ノンビリナンテ、シテナイヨ。ぴざガ届イタカラ受ケ取ッテ、てーぶるニ運ンデタンダ。…ア、ふらんそわーず、オ釣リトれしーとモ一緒ニ置イトイタカラネ)
ついつい声を荒げてしまった石原医師に不満げなテレパシーを返したイワンを、藤蔭医師の白い手がそっと制して。
「ええ…ウチのやんちゃ坊主がご心配をおかけ致しまして、皆様にはお詫びの言葉もございません。ですが…」
「ですがもへったくれもないぞい、藤蔭君! わしらのことなんぞ、この際どうでもいいんじゃ。それより君の大事な飼い犬…パピ君に何かあったらどうするつもりかね! 最近は何をやらかすかわからん連中がこの日本にもうようよいるんじゃぞ!」
今度はコズミ博士の怒号が藤蔭医師を叱り飛ばす。…普段温厚な二人がこれほどいきり立つとは、どうやら師弟揃ってすっかりあのチビ犬の可愛らしい外見にたぶらかされてしまったようである。
しかし、藤蔭医師はあくまで冷静に。
「はい、確かにコズミ先生のおっしゃるとおりですわ。…ですが、ここはまずフランソワーズの目と耳で周囲を探索してもらうのが一番手っ取り早いんじゃないでしょうか」
「あ…!」
言われた途端、はっと硬直する一同。他の人々はもちろんのこと、当のフランソワーズでさえ、今までその能力のことをきれいさっぱり忘れていたのである。…やはり皆、相当のパニックに陥っていたらしい。
「…非常時でもないのにごめんなさいね、フランソワーズ。でもここは一つ、貴女の力を貸してくれないかしら」
言いつつ深々と頭を下げた藤蔭医師に、金髪の美少女の顔がきっと引き締まる。
「いいえ先生、今は充分非常時ですわ! 早速、最高レベルで探索に入ります!」
その頃、パピとタッキーはようやく崖の上までたどり着いていた。しかしあの強行軍の後では、さすがに二匹ともしばしその場にへたり込んだまま声も出ない。それでも、やがて何とか呼吸を整えたパピが精一杯の礼を述べた。
「ありがとう…貴犬のおかげで本当に…助かりました…私一匹では…とてもこんなに早くは上ってこられなかったでしょう…。はは…やはりチビは…だめですね…足の速さも…体力も…大きな皆さん方には…かなわない…」
タッキーからの返事はなかったが、無理もない。パピの後押しをして全速力で駆け上がったとなれば、彼の方が二倍、三倍も体力を消耗しているに違いないのだ。
「それでは…私はそろそろ行きます。いつまでもへたりこんでいたら…せっかくの貴犬の手助けが無駄になってしまう…」
そこで必死の力をふりしぼって立ち上がり、大きく深呼吸をしたチビ犬が。
「でも、貴犬には本当にお世話になりました…。最後になってしまいましたが、是非…きちんとご挨拶を…」
「ええ、それはこちらも望むところです。ですが、その前に…」
「え…?」
ようやく返ってきたタッキーの声が息一つ乱していないことにパピははっとした。…ありえない。いかに自分より体力の優れた中型犬、そして若犬といえども、こんなに早く回復するなんて絶対にありえない!
慌てて振り返れば、例の土饅頭と木の十字架―墓の隣にきっちりと姿勢を正して座ったタッキーが、じっとこちらを見つめていて。
「…ねぇ、今貴犬は『チビ犬は大きい犬にかなわない』っておっしゃいましたけど…僕ら中型犬、大型犬にだって小さな皆さんにはどう頑張ってもかなわないことがあるんですよ。…アニス夫犬(ふじん)の話、お聞きになったでしょう? 彼女だって、もっと体の小さな犬だったら…せっかくの初恋をあんなふうに諦めなくて済んだはずなんだ。僕だって、貴犬方のように体の小さな皆さんが、羨ましくて仕方のないときがあった…」
口調も声も、紛れもなくこれまでのタッキーそのもの、だが…違う。その底にある何かが確かに…違う!
そればかりか、じっとこちらを見つめているその瞳さえ、青白い燐火のようにぼうっと光り始めたではないか。
「あ…」
反射的に身構えたパピに、タッキーが困ったような笑みを浮かべた。
「いやだな…そんな、怖がらないで下さい。僕は貴犬に危害を加える気などこれっぽっちもないんですから。ただ、お願いです…。少しだけ…ほんの少しの間だけ、貴犬の体を貸して下さい。…ね、いいでしょう…?」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ! 体を貸すなんて…一体…どういう…」
そこで再びタッキーの瞳が妖しく光る。その瞬間パピの意識は鮮やかなホワイト・アウトに陥り―そしてそのまま、何もわからなくなってしまったのであった。
「…あ! いた! パピちゃんだわっ」
探索開始からわずか五分もたたないうちに、フランソワーズが叫んだ。途端、他の人々の顔もぱっと明るくなる。
「え、どこっ!? 一体パピちゃんはどこにいるんだ、フランソワーズ!」
「岬の突端の…あの場所よ、ジョー! だけど、どうしてパピちゃんがあんなところに…」
少々戸惑ったようなフランソワーズの返事に、ジョーの表情にもかすかな困惑が浮かぶ。
が―。
「パピちゃんっ!」
次の瞬間、少年はひらりと垣根を飛び越え、全速力で走り出していた。もちろん、他の人々もそれに続く。
そして、人間たち全員が一団となって岬の先端に駆けつけてみれば―。
例の土饅頭と木の十字架の脇にたった一匹、ぽつねんとお座りして海を眺めているパピの背中があった。
「パピ…!」
「パピちゃん!!」
口々に名前を呼ばれ、パピがゆっくりと振り向く。しかしそれきり、喜んで走り寄ってくるでも尻尾を振るでもない。藤蔭医師がかすかに柳眉をひそめ、慌てて走り寄ろうとしたジョーを静かに遮った。
「待って、島村クン! ちょっと…様子が変だわ」
「え? だって…!」
咄嗟に何か言い返そうとしたジョーを、その白い繊手からは想像もできない力が無理矢理一歩、押し戻す。漆黒の瞳が、厳しい視線で己が飼い犬をひた、と見つめる。
「藤蔭先生! 一体何を言ってるんですか! パピちゃんですよ! ほら、毛並みの色も模様も、ふさふさ尻尾も大きな耳も、その飾り毛も…パピちゃん以外の何物でもない!」
ジョーの懸命の抗議にも美貌の女医は何も答えず、ただ―静かに首を横に振って。
「そうね…。確かに、体はパピだわ。けれど―」
(先生! 思考ガ読メナイヨ! …完璧ナ精神波ぶろっくダ。コンナノ…何ヲドウヤッタッテ、ぱぴチャンニデキルハズナイ!)
すかさず飛んだイワンのテレパシーをしっかりと受け止めた藤蔭医師の瞳が、無限の闇をはらむ暗黒の淵に変わった。
「イワンくんのテレパシーをも撥ね返す精神波ブロック―となると、洗脳や深層催眠なんかじゃないわね―。魂が完全に入れ替わらない限り、パピがそんな超常能力を操れるはずがない! とすると…憑依…?」
次の瞬間、鋭い誰何の声がその朱唇から迸る。
「貴方は誰!? 一体、何の目的でパピの体に憑依しているの!?」