小夜時雨 7


「…私は旅回りの一座で生まれたの。父も母もそこの役者だったから、私も三歳になるやならずでもう、子役として舞台に立ってたわ」
 再びベッドの端に腰を下ろしたブレンダ・シンプソンは、それまでの傲慢さをすっかり失っていた。肩を落とし、力なくうなだれたその姿さえ、心なしか小さくなってしまったような気がする。
「そして私は、いつでも一座のスターだった。子役のときも、大きくなってからもよ。…両親に、よく言われたわ。『お前が出ると芝居小屋の空気が変わる』って。幸いなことに、それは親の贔屓目じゃなかったみたい。やがて、そろそろセカンダリー・スクールの卒業も間近くなってきたある日、私は父や母ともども座長さんに呼ばれたの」
 座長の用件というのは、思いがけないものだった。何と、ブレンダをとある地方都市の演劇専門学校に進学させたらどうかというのである。義務教育終了後はこの一座の女優として一生旅回りをして暮らすのだと思い定めていたブレンダには青天の霹靂とも言っていい話だった。もちろんそれは、彼女の両親にとっても同様である。
 しかし、座長もまた早くからブレンダの素質に気づき、高く評価していたらしい。
(この子には才能がある。こんな旅回りの一座で終わっていい娘じゃない)
(とはいえ、演劇の基礎をきちんと学ばなければ、どんな天才とてどうにもならん)
(本人にその気があるのなら、学費は全て私が負担してもいい)
 戸惑うブレンダ一家を懸命に説得する座長の真剣な表情を、今でも彼女は覚えている。もちろん、ブレンダ本人としては異存などあろうはずがなかった。両親の方はそれでもかなり迷っていたようだったが…。
(私も一度は目指した大舞台への夢を、いつかこの娘にかなえて欲しいんだ)
 座長のこの一言には相通じるものがあったのか、ついにはその申し出を受け入れた。かくてまだ十六歳の少女は、セカンダリー・スクール卒業と同時に両親や家族同様の座員たちと別れてたった一人旅立つこととなり―。
「発車のベルが鳴って列車が動き出すまで、私は泣かなかった。見送りに来てくれた一座の人たちはみんな涙をこぼしていたっていうのにね。…でも、動き出した列車がどんどんスピードを上げて、あとを追ってくるみんながどうしても追いつけなくなって…最後の一人の顔が窓から消えた瞬間、大声で泣き出してたわ。泣いて、泣いて、涙も声も枯れ果てるまで泣いて…そして決心したの。両親や座長さん、そして一座のみんなの夢をかなえるまでは―いつかイギリス中に名を知られる女優になって、ロンドンの大劇場の舞台で主役を演じるまでは二度と帰らないって。そのためにならどんな辛いことでも我慢する、どんな努力でもしてみせるって」
 演劇専門学校に通い出したブレンダは、そのときの決心を一日たりとも忘れなかった。毎日誰よりも早く登校し、授業が終われば誰よりも遅くまで発声や台詞、演技の稽古に没頭した。そして下宿に帰れば(何と座長は、彼女のための下宿まで用意してくれていた!)寝る間も惜しんで世界各国の戯曲や演劇論に読みふけり…夏休みやクリスマス休暇の里帰りさえ、一度もしたことがない。
 そんな血のにじむような努力の甲斐あって、彼女は二年制の学校をわずか一年で、しかも首席の成績を修めて卒業したのである。そしてその学校では、毎年首席で卒業した者に特に推薦状を出し、ロンドンにある大劇場のオーディションを受けさせるのを恒例としていた。とはいえ各劇場にも事情があることだし、どこになるかは卒業間際にならないとわからない。加えていくら学校からの推薦状をもらったところで、合格するかどうかはあくまで本人の実力次第。しかしそれでも、この制度は演劇を目指す若者たちにとっては願ってもないチャンスだった。
 その年のオーディションはプリンス・エドワード劇場、通称ロンドン・カジノ。さすがのブレンダも不安と緊張でがちがちになり、正直何をやってきたのかも覚えていない始末だった。それでも、やがて届いた結果通知は―合格! しかも三ヶ月後の公演「ハムレット」への出演が決まったから至急ロンドンに来るようにとの添え書きまでついていて。ブレンダは即刻ロンドン―劇場事務所に駆けつけた。そこでさらに詳しい説明を受け、芝居の台本を受け取ってみれば何と、自分に与えられた役には―たった一言だが―台詞までついていたではないか!
「そのときはもう、天にも昇る心地だった。急な話だったから芸名を考えるヒマもなくて、本名の『アリス・テイラー』で出演するしかなかったけど、それもどうでもよかったわ。だって、学校推薦でオーディションに受かった卒業生は何人もいたけれど、合格と同時に初舞台が決まって、しかも台詞までもらえた人間なんて一人もいなかったんだもの。でもその反面、これくらいは当然だとも思った。これまで自分は誰よりも努力してきたって自負もあったし、それくらいの実力は充分あるって…自惚れてたのよ。共演者はみんな、私なんて足元にも及ばないベテランや人気俳優ばかりだったけど、全然物怖じなんかしなかった。…そりゃぁ一応はしおらしく控えめにしてたけど、心の中では『あんたたちなんかすぐに追い抜いてやる』って嘲笑ってたわ。…もちろん、貴方に会ったときもね」
 そこでかすかに、女優は不敵な笑みを浮かべた。
「あのときの貴方は三十そこそこ、ロンドンではそれなりに認められていたけれど、全国的に見ればまだまだ無名の役者だったわよね。当然、地方から出てきたばかりの私は貴方のことなんてまるっきり知らなくて…正直初めはがっかりしたわ。だって素顔の貴方ときたら、特に人目を惹く容姿をしているわけじゃなし、強烈な個性を持っているでもなし…どこからどう見ても平々凡々なただの男にしか見えなかったんだもの」
 かなり率直―というより辛辣なその言葉にも、グレートは何も言わなかった。ここでヘタに抗議などして、またぶちキレられたらこっちが困る。
「だけどそんなの、所詮田舎娘の思い上がりだって気づかされたのは本読みの初日、貴方が最初の台詞を口にしたときだった…。衣装も着ていない、メイクもしていない、もちろん大道具や小道具なんてあるわけもない、ただ稽古場で台本を読んでいるだけだったのに、貴方の周囲にはエルシノアの古い石造りの城壁が見えたわ。貴方の視線の先に、恨みの形相も凄まじい父王の亡霊が見えた。舞踏会で笑いさざめく貴族たちの声が聞こえた…私はすっかり茫然としてしまい、ようやく自分の番がきたときには―たった一言の台詞だっていうのに―声は震えるし何度もつっかえるし、惨憺たるものだったわ。…惨めだった。それまで自惚れていた分、余計…死んでしまいたいほど情けなかった!」
 その日、自分の下宿に帰ったブレンダは夕食もとらず丸一晩泣き明かした。誰にも負けないと信じていた自分の実力が、まだまだ駆け出しのその他大勢レベルだったことを思い知らされ、恥ずかしさのあまりその場で消えてしまいたいくらいだった。…どうして、あんな男と一緒の舞台に立たなければならないんだろう。そんなのまるで、自分の未熟さをロンドン中に宣伝するようなものではないか!
「でもね…夜が明けてみればやっぱり劇場に…稽古場に行くしかなくて…結局、それからは学生時代と同じ。朝一番から夜更けの最後の一人になるまで稽古場に詰めっきりで、共演者の演技を食い入るように観察し、自分の台詞を繰り返し練習し続けたわ。…田舎から出てきたばかりの不器用な小娘には、それ以外にどうしていいかわからなかったのよ」
 ブレンダの役どころはエルシノアの貴族令嬢。そして台詞は、父王の仇を討つため狂気を装ったハムレットとすれ違い、そのあまりの変わりように驚く「あれ、おいたわしやハムレット様、すっかりおやつれあそばして…」の一言だけ。それでも、努力すればいつかその一言の向こうに青白く憔悴した狂える王子―ハムレットの姿が見えると信じて、十七歳の田舎娘は来る日も来る日もたった一人で特訓に励んでいたのだった。
 しかしいつまでたってもハムレットは現れず、初日はどんどん近づいてくる。明日からいよいよ舞台稽古というその夜も、ブレンダはいつもどおり稽古場の隅っこで居残り練習に熱中していた。すると―。
「突然…。本当に突然、誰かがぽん、と私の頭に手を置いたの。他のみんなはとっくに帰ったはずなのにって、心臓が止まりそうなくらいびっくりしたわ。だけど…」
 恐る恐る振り向けば、何とそこにはハムレット―今回の主役であるグレート・ブリテンが悪戯っぽい表情を浮かべて立っていた!
 そして、驚きと緊張のあまりその場に固まってしまった端役の小娘に―。
(よう、お嬢さん。随分頑張ってるな。毎日朝一から夜中までずっと稽古してるんだろ。見てたぜ)
 まさか、と思った。まさか主役ともあろう人間が自分のような新入りのその他大勢に気づいてくれてたなんて、とてもじゃないけど信じられない。
(あんた、今回が初舞台なんだって? だったらその張り切りようもわからんではないが…)
 そこで主役は茶目っ気たっぷりのウインクを少女によこして。
(正直、すぐに音を上げると思ってた。何てったって、正規の稽古をこなすだけでもかなりキツイしな。なのにここまで続けてるなんて大したモンだ。その根性がありゃ、あんたは絶対いい女優になれる。俺が保証してやるよ。…頑張れ!)
 どんなに努力しても、死ぬ気で頑張っても決して…決してかなうわけがないと思ってたグレート・ブリテンからの賛辞。それはまさに思いがけない、夢のようなできごとだった。
 なのにそれを聞いた途端、少女の目からは何故か涙があふれ出して。
(そんな…っ! あたしなんか…あたしなんか、いくら頑張ったってダメです。だって、いくら練習しても貴方みたいな演技ができないんだもの。どんなに努力しても、貴方みたいに…台詞だけで…周囲の情景を浮かび上がらせるなんて、絶対、絶対できっこないもの!)
 せっかく褒めてくれた「憧れの人」の前でいきなり泣き出すなど、いかにみっともなくて無作法かはよくわかっている。わかっているのに、どうしても涙が止まらない。
 恥ずかしさのあまり身を縮めたブレンダ、しかしグレートはそんな彼女の頭に再び手を置いて。赤みがかったそのブロンドを、くしゃくしゃくしゃっとかき回した。
(はっはぁ! こりゃまた随分スケールの大きいレディだなぁ! …でもさ、いきなりそんなに高い目標を目指さんでくれよ。俺だって、今回の舞台に抜擢されるまでにゃ十年かかったんだぜ。なのに初舞台のレディにあっさり抜かされちまったんじゃ、こっちの立場ってモンがなくなっちまう。おお、麗しの姫君よ、願わくばそのような事情をもどうぞお察し下さいますように…)
 と、少々ふざけた騎士の礼を取り、その場に膝まづいた男の目がふと真面目になって。
(…いいか、十年だ。いっぱしのプロとして通用する実力をつけるには、どんな役者でも最低それくらいはかかる。もちろん、生半可なこっちゃないぞ。才能がないヤツは容赦なく切り捨てられるし、仮に才能があったって仕事に恵まれず、来る役来る役みんな「その他大勢」だったりなんかしたひにゃ、大抵のヤツはヤケを起こしてこの世界から足を洗っちまうモンさ。もちろん、ごくごくまれにゃ…デビューと同時に大スター、なんて幸運もないこたぁない。しかしそうなったらなったで、よっぽど気をしっかり持ってないと人気と実力のギャップに押し潰されてこれまたあっと言う間に消えちまう。ま、どう転んだところで十年この世界にしがみついてるなんざ、人並み外れた才能と根性、それから運がなけりゃ無理だってことだ。…わかるな、姫君)
 口調こそ目一杯軽薄だったものの、グレートの語る現実の厳しさは、ちっぽけな田舎娘を縮み上がらせるには充分だった。いつしか棒立ちになったブレンダの頬からは血の気が引き、止まりかけた涙がまたあふれ出てくる。
 だが、小娘はそれでもしっかりうなづいた。涙ににじんでその輪郭すらもよく見えなくなってしまった憧れの「ハムレット」を真っ直ぐに見つめ、大きく、はっきり―。
 途端、グレートが破顔一笑する。
(おーし姫君、それでいい。…いろいろ脅かしちまって悪かったが、逆に言やぁ十年この世界で頑張れたら、どんな形にせよその先もやっていけるってこった。少なくともあんた、根性だけなら合格だよ。才能と運の方は…まぁ自分で自分を信じるしかないが、それでもやる気があるんなら、いっちょ死に物狂いでやってみな。幸運を祈ってるぜ)
 そしてそのままくるりときびすを返し、振り向きもせず軽く手を振って稽古場から出て行こうとした男の背中に、小娘は精一杯叫んだ。
(待って下さい、ミスター・ブリテン! あの…あのっ!)
(へ…?)
(あの…もしも…もしも私が十年頑張り続けることができて…そして、もしも貴方みたいな立派な役者になれたとしたら、そのときは…貴方のハムレットで、あたしを…オフィーリアに指名して下さいますか!?)
 まだ駆け出しの小娘の、身の程知らずともいうべき申し出に一瞬きょとんとしたものの、グレート・ブリテンはすぐに笑顔を取り戻した。が…。
(おお、そりゃもちろん! …と言いたいところだが姫君、十年後の俺は多分、立派なオジサンだぜ? ま、役者としちゃぁそれからが勝負なんだろうが、ハムレットを演るのはちょっと…いやかなり苦しくなってるわな)
 苦笑と共にそう言われても、小娘はなおも食い下がる。
(あたし、そんなの構いません! オジサンでもお爺さんでも、あたしは貴方の「ハムレット」でオフィーリアが演りたいんです。そのためになら、これからだって今まで以上に努力します! …ですから、どうか…お願いします!)
 言い切って、ブレンダは床につくほど深く頭を下げた。しかしいつまで待っても、それに応える声はない。…もしかして…怒らせてしまったのだろうか。それとも、呆れられてしまったのだろうか。―何て図々しい小娘だろう―って…。
 全身の皮膚に突き刺さるような沈黙に耐えかねて、やがてブレンダはおずおずと顔を上げた。…と、その目の前には。
(わかったよ。あんたみたいなレディとなら最高の芝居ができそうだ。いつか必ず、二人でハムレットとオフィーリアを演ろう。約束だ)
 再び戻ってきてくれたグレート・ブリテンが差し出してくれた右手―!
 慌てて差し出した小さな手をしっかりと握ってくれたその手のひらは、大きくて、力強くて、とても温かかった…。

「あのとき私は、もう一つの目標を見つけたと思った…。初舞台以来中々芽がでなくて、『その他大勢』専門の下っ端女優のままずっと頑張ってこられたのも、あの夜の約束があったからよ。なのにようやく十年たって、初めて主役に抜擢された舞台が成功して、有名女優の仲間入りができて! やっと貴方に追いついたと思ったら、肝心の貴方はお酒で身を持ち崩して演劇界はおろかこの国からも姿を消していた…。ねぇ、私がどんなに悲しくて、絶望したかわかる!? どんなに、貴方を探したかわかる!? なのに、よりにもよって『見ず知らず』ですって? そんなのないわ! あんまりよ!」
「ブレンダ!」
 今やグレートも完全に思い出していた。二十年前、いつも居残り練習を続けていたさえない田舎娘にちょっと興味を持って、からかい半分で言葉をかけたことを。…自分は稽古場を出ると同時に忘れ去ってしまったというのに、あの娘は―目の前にいるこの女はずっとそれを覚えていて、必死に自分を追いかけて―ここまで来たというのか。
「知ってる? これまでいろいろな役を演ってきたけど私、オフィーリアだけは演ったことがないのよ。いつか貴方と共演するまではって、依頼が入っても全部断ってきたの。ふふ…そうしたら今度はこっちがオバサンになっちゃった。…もう、さすがにオフィーリアは無理よねぇ…」
 泣き笑いの顔で自分を見上げた大女優を、次の瞬間グレートはしっかりと抱きしめ、身を切るような謝罪と後悔の叫びを上げていた。
「ブレンダ…! ブレンダ、すまん…。申し訳なかった!! あの約束を君がそれほど大切にしてくれていたなんて夢にも思わず、俺は…俺という男は…っ!」
「私の夢が叶わないまま消えてしまったのは貴方のせいよ、グレート・ブリテン。ならせめて、もう一つの夢くらいは叶えてくれたって…いいじゃないの…」
 吐息のようなつぶやきと同時に、女の柔らかい唇がグレートのそれを塞ぎ―。

 結局、その夜が白々と明け染めるまで、イギリス演劇界の「女帝」がこの安ホテルの一室を出て行くことはなかった。



 以来、グレートはちょくちょく「里帰り」するようになった。もちろん生活拠点は日本に置いたままだし、張々湖飯店やギルモア邸の人々の迷惑にならぬよう最大限の注意を払ってのことではあったが。ほんの一週間、いや数日といえども体が空けばすぐさま飛行機に飛び乗る。極端なときにはわずか半日のイギリス滞在でとんぼ返りをすることすらあった。いかなサイボーグといえども、あまりに無茶な強行軍の繰り返し。だが二十年の歳月を経て燃え上がった想いは、もはやどんな無茶や無理さえものともしなかった。
 一方のブレンダも同じこと、グレートからの連絡を受ければ必ずその宿泊先に駆けつけてくる。イギリス演劇界きっての大女優の超過密スケジュールを思えば、それがいかに至難の技であるかは想像に難くない。
 二人きりで一晩、過ごせる夜もある。けれどそれより安宿の一室で慌しく共にルームサービスの食事をするだけ、あるいは午後のお茶を楽しむだけで別れなければならない日の方がずっと多くて。それでも、そんな危うく脆い綱渡りのような逢瀬の中で、二人は失われた過去を取り戻すかのように互いの全てを―触れ合う肌はもちろんのこと、姿や声、そして何気ない仕草まで―狂ったように貪り合っていたのだった。
 とはいえグレートの心の奥底には、この目くるめく日々がほんの一時の仮寝の夢に過ぎないという、諦めにも似たかすかな予感もあって。
 自分がサイボーグだからというわけではない。ブレンダの気持ちは本物だ。たとい真実を打ち明けたとしても、おそらく彼女は全てを受け入れてくれるだろう。もちろん、自分自身の嘘偽りない想いもまた、この先何があろうとも一生変わるまい―と、思う。
 しかし。
 すでに立派な一人前の男と女として愛し合っているはずの今でさえ、ブレンダの心の中にはアリス・テイラー―あのちっぽけな田舎娘が花形役者グレート・ブリテンに抱いた憧れが残っている。…無理もない。子供から大人になるほんの一歩手前の瑞々しく純粋な心に刻まれた憧れや恋心、それは人がどんなに年を取っても忘れることのできない、何より大切な宝物なのだから。
 ただ…。そんな彼女が現在のグレートの、もはや役者として―少なくとも、大舞台で喝采を浴びる花形としては―生きる気はないという本心を知ったらどうするだろうか。
 サイボーグである自分を、彼女に受け入れてもらえる自信はある。
 だが、役者の道を捨てた自分を受け入れてもらえる自信は…ない。
 ひっそりと、人目を避けて。けれど互いにとっては何より満たされた濃密な時間を過ごしつつ、グレートはやがてくる別れへの覚悟をしっかりと固めていたのだった。

 その日は、意外と早くやってきた。
 二人がつき合いだして半年が過ぎようとしている頃、いつものようにグレートが旅装を解いた安ホテルに、サングラスとスカーフで顔を隠したブレンダが忍んできたその日。
 お約束の熱烈な抱擁とキスもそこそこに、わずかに興奮した様子のブレンダが堰を切ったように話し始めた。
「ねぇグレート、大ニュースよ! エリック・ウッドマンがね、新作の『ハムレット』を私たちに演ってくれないかって言うの!」
 エリック・ウッドマンとは、ブレンダと仲のいい劇作家だった。彼女よりさらに七つ八つ年下の若手だが、その実力はすでにイギリス全土に広く知られている。
「彼、以前からシェイクスピアの新解釈に挑んでみたかったらしいの。だから今回の主役はクローディアスとガートルードなんですって。突然の病でこの世を去った先王の弟であり、妻である二人は残された国を守るために夫婦となり、生涯かけて先王の遺志を継ぐことを誓い合う。けれど、年若く純粋な王子ハムレットにはその真意が理解できず、あれこれ悩んでいるうちに『本物の』狂気に陥って…つまり、オリジナルとは善悪が完全に逆転しているわけ。面白そうだと思わない? エリックも貴方の話をしたら大喜びで、クローディアスは是非グレート・ブリテン氏に…って、張り切ってるのよ!」
 頬を高潮させ、うきうきと語るブレンダ。だがそれは、グレートにとっては密かに覚悟していた別れの到来を告げるファンファーレにしか過ぎなかった。
 そして…。

(あんたがずっと憧れて、目標にしてたあの男は…もうこの世のどこにもいないのさ)

 以来グレートは一度もイギリスへは帰っていない。



(貴方が日本で芝居を演ったという話を聞きました。私もエリックも、まだあの話を諦めてはおりません。…ご連絡、お待ちしております。
ブレンダ)


「畜生ッ!」
 愛する女からの手紙、真っ白な紙に躍る流麗な文字をグレートは一気に握りつぶした。しかしその瞬間、彼自身もまた全ての行動を封じられてしまったのである。
 


前ページへ   次ページへ   二次創作3に戻る   玉櫛笥に戻る