小夜時雨 6
あれはもう三、四年も前のことになるだろうか―。
地下帝国ヨミ、そしてはるか成層圏での死闘の末宿敵BGを倒したとはいえ、それで00ナンバーたちの戦いが全て終わったわけではなかった。
確かに、血と泥と硝煙にまみれ、己が生き延びるために敵の命を屠り続ける哀しい日々は終わったかもしれない。しかし緋色の戦闘服を脱ぎ、銃を置き。サイボーグ―人の形をした兵器―から一個の人間存在に戻ったところで、今度は市井の中の一般人としてなおも生き続けなければならぬという事実にはこれっぽっちも変わりはない。それも、新たな生活の足がかりとなるものなど何一つないままに。
元々世間の荒波の中、自分の居場所を失いかけていたがためにBGに目をつけられた者たちである。彼らのことなど、故郷の人々はとっくの昔に忘れ去っているだろう。
もちろん、家族と共に暮らしていた003や008のような例外もあるし、他の者たちにだって心底その身を案じてくれた人間が全くいないとは断言できない。だがそんな近しい人々と再会すればしたで、失踪中のことを何と説明する? 「悪の組織BGに捕われてサイボーグにされた」など、口が裂けても言えるものではない。事実、血を分けた兄にそんな悲しい真実を打ち明けるなどとてもできないと、あえて異国―日本で暮らすことを選んだ003のような者もいる。
どちらにせよ、これから先は自分一人で新たな居場所を見つけ、平凡で当たり前の生活というモノを一から築き上げていくより他はない。しかしそれはある意味BGとの戦闘以上に過酷な戦いなのかもしれなかった。
それでも仲間たちのおよそ半数は故郷で暮らすことを選び―実はグレートもそのうちの一人だったのだが、運悪く何をやってもぱっとせず、ついにはにっちもさっちも行かなくなって日本―かつて共に戦った仲間たち数人が身を寄せ合って暮らしている、多分世界で唯一今の自分が頼れる場所―へ、尾羽打ち枯らして逆戻りする羽目になった。するとあの006、張々湖が何と立派な中華飯店の主となっていてたいそう驚かされたのだが、まだまだ開店したての借金まみれで人を雇う余裕すらないと、朝から晩まで孤軍奮闘している姿を見るに見かねて(もっとも、グレートの方とて他に何をするあてもなかったのだが)手伝ううちにいつしか共同経営者という形になり、力を合わせて必死に働いて、働いて、働き続けて。やがて店も順調に繁盛し、新たに二人の若者が従業員として加わってようやく一息ついたとき、グレートは再びイギリスに里帰りしようと決心したのである。
日本や張々湖飯店を捨て去る気など毛頭ない。しかしそれでももう一度、故国の土を踏んでみたかった。あのとき―戦いに荒みきった目、将来への不安に萎縮した心でしか眺めることのできなかった故郷の風景を、現在の満ち足りて穏やかな、そして曇りない目と心であらためて見つめ直してみたかった。そんな思いをふと口にしたところ、張々湖たちギルモア邸の人々はもちろんのこと、店の従業員たちからさえも是非にと勧められ、それから間もなくグレートはおよそ半月の予定でイギリスへと旅立ったのである。
勝手知ったる故郷とはいえ何しろ久しぶりの滞在である。最初の数日間はおのぼりさんよろしくロンドン市内の名所旧跡や思い出の場所を足が棒になるまで歩き回った。日々の変貌著しい都会のこととて、かつての面影をすっかり失ってしまった街並みにがっかりさせられることもあったがその反面、昔のままの姿をとどめている建物や店も結構多く残っていることにほっとする。
(やはり、来てよかった―)
軽い夕食を済ませ、裏町の古ぼけたパブの片隅に陣取りながら、しみじみとそう思った。ここもまたグレートにとっては「思い出の店」、まだ役者になれるかどうかもわからなかった昔、同じ夢を持つ仲間たちと毎晩のように入り浸っていた懐かしい場所。
注文したのはあの頃と同じ、店で一番安いビールが一パイントとクリスプス(ポテトチップ)の小皿。パブで飲むときにはほとんどつまみを取らないのがイギリス流だが、かつては素寒貧の若者同士でなけなしの金を出し合い、ビールと共にクリスプスの大皿を頼んで夕食の代わりにしたものだ。…もちろん、今ならどんなに高いビールだって好き放題頼めるのだが、グレートにとっての最高級の味といえばやはりこの安ビールとクリスプスなのだった。
目を閉じれば、何年たっても変わらぬ酒場の喧騒の中から、当時の芝居仲間たちの声が響いてくるような気がする。たとい一人であろうとも、こうしてあのときと同じメニューを味わいながら追憶にふければ、いつでも自分は皆に会うことができる。
(明日からはちょいと市外へも足を伸ばしてみるか―)
満足げな微笑を浮かべつつ、ふとそんなことを考えたグレートがジョッキを取り上げ、中のビールをごくりと一口飲み込んだとき。
耳に馴染んだ酔客たちのそれとは明らかに違う、ある種の驚愕と戸惑いに満ちたざわめきが店全体から湧き上がった。
(―?)
何事かと振り向いてみれば、ただ入り口のドアが開いて一組のカップルが入ってきただけ。別に、どうということでもない。どうという…ことでも、ない、が。
そのカップルの身なりというのが、どうもこの手の店に来るには不似合いというか、あまりに高級すぎるような。女のまとった黒いワンピースはフリル一つ、リボン一つついていない極めてシンプルなものであったが、その材質がおそらく最上級のシルクであることは一瞬にして見て取れた。男の方もごく普通のスーツ姿であるものの、その生地といい縫製といい、おそらく名のある職人が手作業で仕上げた一流品だろうことはまず間違いない。その上こんな時刻だというのにどうして二人揃って濃色のサングラスなんか…?
だが一番グレートの心に引っかかったのは、そのサングラスにもかかわらず、女の方にどことなく見覚えがあるような気がすることで。
ついつい小首をかしげたグレートの耳に、隣のテーブルの客が密かに囁き交わす声が聞こえた。
(…おい。あの女、もしかしてブレンダ・シンプソンじゃねぇか?)
(まさか…! いくら何でも彼女がこんな店になんざ来るもんか。…だが…言われてみりゃァ確かに、似てるなァ)
瞬間、グレートの疑念も氷解する。
ブレンダ・シンプソンといえば今をときめくイギリス演劇界屈指の大女優だ。何でも長い下積み生活の末、三十近くになって初めて主役に抜擢された舞台が大成功、一躍スターダムに駆け上がった後は他の追随を許さず、以後十年近くにわたってトップの座を守り続ける斯界の女帝―そればかりか、確か最近ではハリウッドからも出演依頼が持ち込まれたとかで新聞の芸能欄を賑わせてもいたっけ―。
(成程ね。そんな有名人なら見覚えがあるのも当たり前、ってわけだ)
大いに納得しつつもグレートは目の前の皿の中身を慌てて片づけ、ついでにジョッキに残っていたビールをも一気に胃の腑に流し込む。彼女が脚光を浴びたのは自分がイギリスから姿を消した後だとは記憶しているが、如何せん下積み生活もかなり長かった女だし、思いがけないところで関わりを持っていないとも限らない。それに―。
(仮に無関係だったところで、やはりあの手の「成功者」と同席するのはちょっと切ないモノがあるからな)
苦い微笑と共に席を立ち、件のカップルが腰を落ち着けたテーブルをわざと避けるようにして外へ出た。この手の店は前払いが常識だから、見咎めるものは誰もいない。…と、店のすぐ脇のパーキング・スペースに堂々と鎮座ましましているロールス・ロイス。
(ホホゥ! このような高級車に乗っているからにはあながち他人の空似というわけでもなさそうだ。…だとすりゃ余計、今夜はあまり長居をしないのが正解というもの、さっさと退散させていただくとするか)
一人ごちたその割にはのんびり、ゆっくりと。わずか三ブロックの道のりに二十分近い時間をかけてグレートは宿に戻った。先ほどのパブ同様、場末の裏町で細々と生きながらえてきた、吹けば飛ぶよな安ホテル。当然サービスだって必要最低限、お世辞にも「行き届いている」などとは言えないが、その分客の方もある程度好き勝手に振舞えるのがかえって気楽でいい。
ホテルに入ったグレートを迎えてくれたフロント係は、普段着に色褪せたショールを引っ掛けただけの老婆。部屋番号を告げれば、愛想笑いはおろか返事もろくにないままに、古ぼけた木の札をぶら下げたキーが差し出された。グレートもまた軽い会釈だけでそれを受け取り、フロント脇の階段に向かって二、三歩歩き出したのだが。
(ん―?)
何か今、キーを受け取るときに老婆がにんまりと意味ありげな笑いを浮かべたような。しかし、振り返ったところですでに老婆はこちらの方など見向きもせず、苦虫を噛み潰したような仏頂面で何かの帳簿をつけているばかりである。
(気のせいか)
軽く肩をすくめたグレートは、そのまま二階の客室へと向かった。
そして―。
部屋の前、先程のキーを取り出して鍵穴に差し込もうとした瞬間、グレートの表情が変わった。
(誰かいる!)
自分が一人で泊まっているはずの、現在は無人のはずの部屋の中に何者かが潜んでいる気配が確かに漂ってくる。まさか―敵? グレートは音もなく一歩脇へと飛び退いた。中にいるのが敵だとしたら、ぼんやりドアの前につっ立っているなど「殺して下さい」と言っているも同然だ。だが…。
(…待てよ)
廊下の壁にぴたりと背をつけ、慎重にドアの向こうの気配を探るその眉がかすかにひそめられる。どうやらこいつは「プロ」じゃない―ふと、そんな気がしたからだ。そう、仮にBGの残党やその他の組織が送り込んできたプロの殺し屋なら、ドア越しに己が気配を察知されるようなドジは踏むまい。
(だが、そうなると一体…?)
日本で何か事件が起こり、仲間の誰かが救援要請に来たという可能性もないではないが、限りなくゼロに近い。何しろ今は携帯電話という文明の利器がある。わざわざ迎えになんて来なくても、「至急帰れ」というメールを打てば簡単に事足りるではないか。
しばしの逡巡の後、グレートは再度鍵穴にキーを差し込んだ。中にいるのが誰であれ、その危険性はかなり低いと判断したからである。最悪の場合でも、物取り目当ての侵入者にピストルで撃たれるくらいがせいぜいであろう。その程度ならサイボーグである自分の体にはかすり傷一つつかないに違いない。何より、相手の正体を確かめなければこちらとしても打つ手がないというものだ。
だが―。
(鍵が…開いてる?)
ますますわけがわからなくなった。出がけにきちんとかけたはずの鍵が開いていたりしたら、たちまち標的―グレートに余計な警戒心を抱かせてしまうことくらい、「プロ」どころか駆け出しのコソ泥にだってわかるだろうに。それとも動揺と困惑を誘い、そこから生まれる隙を突いて襲いかかってくるつもりなのか。
キーをポケットにしまったグレートは息を潜め、今度はドアノブを捻ってゆっくりと押してみた。…と、室内から漂ってきたえもいわれぬ芳香。自分がつけているコロンとは明らかに違う、女性用の―香水の香り。
やがて。
ドアが完全に開ききったとき、ベッドの端に腰を下ろしていた華奢な人影がゆっくりと立ち上がるのが確かに―見えた。
部屋の明かりは消えていたが、廊下から射し込む光のおかげでその人影が黒いシルクのシンプルワンピースをまとい、濃色のサングラスで眼差しを覆っていることははっきりと見て取れる。
「お帰りなさい。ずいぶん遅かったのね」
艶かしい声と共にほっそりとした指が静かに上がり、サングラスを外した。そして現れ出た白く美しい顔は間違いなく―。
「…ブレンダ・シンプソンか」
侵入者の正体に気づいたグレートはいかにも不機嫌そうに顔をしかめ、吐き捨てるようにつぶやいた。…イギリス演劇界屈指の大女優、「女帝」とさえも仇名される彼女が何故自分の部屋に? という疑念や戸惑いは大いにある。だがそれ以前に、留守中無断で縁もゆかりもない自分の宿泊先に入り込んで平然としているその態度が、何故か無性に不愉快だったのだ。
「…一体、どうやって入ってきた? 俺の記憶に間違いがなければ、あんたはまだあの店で美味いビールを存分に堪能してるはずなんだがな」
しかし当の女優の方はあくまでもいけしゃぁしゃぁとして。
「ああ…。結局あのお店には何も注文しないまま出てきちゃったわ。だって、肝心要の貴方がさっさといなくなっちゃったんですもの。それから後は車でのんびり優雅に追跡よ。…にしても時間がかかったわねぇ。夜のロンドンをそぞろ歩くのもいいけど、少しは程度ってモンをわきまえるべきなんじゃなくて? ただでさえ、このあたりは市内でもあんまり治安のいい方じゃないんだから」
「大きなお世話だ。…って、あんたの追跡に気づかなかったこっちの油断は認めるがな。…で? 首尾よく俺の宿泊先をつきとめた後はどうやってもぐり込んだ。最近流行のハリー・ポッターばりの魔術でも使ったか」
不機嫌極まりないグレートの表情に、「女帝」は少女のような笑い声を上げた。
「あははははっ。あいにく私は魔女でも妖女でもないわ。事はずっと簡単よ。貴方に呼ばれたって言ったらフロントのお婆さん、余計な詮索も何もなしに黙ってスペアキーを渡してくれたの。こういうホテルって本当に楽でいいわよねぇ。サヴォイやリッツじゃとてもこうはいかないもの」
グレートの仏頂面がますます険しくなった。…畜生。さっきのはやはり見間違いじゃなかったんだな。あの婆さん、この女が俺の部屋に入り込んでることをちゃんと知ってやがったんだ。
「…ふん。確かにここのサービスはその手の一流ホテルとは一味違うし、俺もそこが気に入ってるんだがな。まさかそいつを利用して世紀の大女優様がこんな街娼めいた真似事をするたぁ夢にも思ってなかったよ。大体あんたみたいな女がそうそう男に不自由してるわけもなし、さっきだってえらくダンディな彼氏を連れてたじゃないか」
「彼は単なる運転手兼ボディガードよ。明日の早朝このホテルの前まで迎えに来るよう言いつけてとっくの昔に帰したから、今頃は愛する奥さんや可愛い子どもに囲まれて夜食でも食べてる頃じゃないの?」
「明日の早朝だと? 冗談じゃない! 俺はあんたをここに泊める気なんかさらさらないぞ! さっさと出てってくれ。嫌だというなら力ずくでも追い出してやる!!」
激しい勢いで詰め寄ったグレートをひらりとかわし、女はいまだ開きっ放しのドアの前に仁王立ちになった。
「やれるものならやってみなさいよ。そうしたらこの服を引き裂いて大声を上げるわ。貴方に無理矢理連れ込まれて襲われたってね!」
「よく言うぜ。そんなことして困るのはあんたの方だろうが。一大スキャンダルだぞ」
「…そうでもないわよ。私のファンはスコットランド・ヤードにもたくさんいるの。被害者の私が涙の一つも流して頼めば、うまいこと内密に処理してくれるわ。もっとも、その分『犯人』への追及はいっそう厳しくなるだろうけれど」
グレートは肩をすくめた。…大女優だか女帝だか知らんが、こいつは一筋縄ではいかない女だ。仕方ない。ちょっとやり方を変えてみるか―。
舌打ちと共にくるりと女に背を向け、部屋の奥にある窓に向かって歩み寄る。そして窓際に腰を下ろし、ポケットから取り出した煙草に火をつけた。もちろん、窓はわざと閉めたままにしておく。たちまち室内には紫煙がこもり始め、今度は女の形のよい眉がかすかにひそめられた。
思ったとおりの反応に密かにほくそえみつつ、グレートは煙草を吸い続ける。一本、二本…。三本目に火をつけたとき、とうとう女の堪忍袋の緒が切れた。
「ちょっと貴方、どういうつもりよ! こんな狭い、しかも窓も閉め切った部屋の中で…っ!」
癇癪を起こして言い募る美しい顔に、わざと盛大に煙を吹きかけてやる。さすがの「女帝」もその場に立ち止まり、片方の手で口を覆い、もう片方の手で懸命に周囲の煙を追い散らし始めた。
「…おっと失礼。お美しいレディの前で断りもなく、しかも窓も開けずに煙草をふかすなんざ、イギリス紳士としてはあるまじき御無礼だとは承知してるんだがな。ま、それでも一応部屋のドアは開けっ放しにしてあるし―」
そこでこれまた意図的に言葉を切って深々と煙を吸い込み、再度大量に吐き出したその口元をにやりと歪めて。
「何より、こんな夜更けに見ず知らずの男の部屋に忍び入るような女を『レディ』と呼ぶ気にゃさらさらなれん。だったら別に、こっちが紳士である必要もまた―」
ないわけだ、と続けようとしたグレートの言葉は、女の凄まじい絶叫によって断ち切られた。
「何ですって!? ちょっと貴方、今何て言ったの!?」
その口調のあまりの激しさに、ふと顔を上げてしまったグレートの視線の先。
つい先程までのふてぶてしい女の顔が、今にも泣きそうな子供の表情に変わっていた。
「『見ず知らず』なんてどういうこと!? …まさか貴方、忘れてしまったわけじゃないでしょうね! 二十年前、『ロンドン・カジノ』で演じられた『ハムレット』を! 貴方が主役を務め、大絶賛を博したあの華やかな舞台を! …忘れた、なんて言わせない。…もし忘れてしまったりしたら、私は貴方を許さない! …絶対に!!」
「ブレンダ…?」
そこで初めて女の名を呼んだグレートの脳裏にも鮮やかに蘇ったあの記憶。
通称「ロンドン・カジノ」―プリンス・エドワード劇場で二十年前に演じた「ハムレット」はグレートにとっても最大級の出世作だった。…しかし、何故彼女がその演目にここまでこだわる? いくら下積みが長かったとはいえ、当時の彼女はまだ駆け出し…いや、ヘタをしたらまだ女優にもなっていなかった頃だろうに。
しかし、一度自制を失った女優の独白はもはや止まるところを知らなかった。
「忘れたとは…言わせない! あの舞台は私にとってもデビュー作だったのよ! …ねぇ、本当に覚えてないの? 『エルシノア城の貴族令嬢その3』、まだ芸名を考える余裕もなくて、本名の『アリス・テイラー』のままで出ていたあのそばかすだらけの小娘を!!」