小夜時雨 2
「…ト。…レート!」
遠くから、自分を呼ぶ声。…かおり? いや…違う。もっと頻繁に…そう、毎日聞いている声だ…。
「ねぇグレート、起きて。お茶の時間よ!」
軽く肩を叩かれ、はっと目を覚ます。どうやらリビングのソファでうたた寝をしてしまったらしい。顔を上げれば、可愛らしい亜麻色の髪の少女が微笑んでいた。
「せっかく気持ちよく寝ていたのにごめんなさいね。でも今日は張大人が取って置きの中華風胡麻団子を作ってくれたから…」
言いつつ、フランソワーズは手にしたお盆から茶壷(チャフー=中国茶用の急須)を二つ、テーブルに置いた。ほんのりとした芳香がゆっくりと周囲に漂っていく。
「お茶もね、ジャスミンティーと烏龍茶にしてみたの。どちらでもお好きな方を…」
「ホーイ、できたアルよ〜。みんな、熱いうちにたくさん食べるヨロシネ」
その言葉が終わらぬうちに、ほかほかと湯気の立つ胡麻団子を山盛りにした大皿を持って賑やかに登場したのは張々湖。その後ろにはギルモア博士とジョーの姿も見える。
「ほぉ…こりゃ豪勢だなァ」
たちまち相好を崩したグレートがテーブルの上を片づけ始めた途端、何かがばさりと床に落ちた。
「あら大変。これ、グレートの大事な本なんじゃないの?」
何気なく拾い上げたフランソワーズの瞳がほんの少し見開かれる。そう、それはあの雨の夜以来グレートが片時も離さず持ち歩いている「たまゆら」新春公演の脚本だった。
「ねぇ、これ…『たまゆら』って確か、この前グレートが客演したところよね。もしかして、またここの舞台に出るの?」
「あ、いや…。別にそういうわけじゃないんだが…」
歯切れの悪い返事に、他の三人も怪訝そうな表情でグレートを見る。
「いやほれ、あれ以来ここの主宰者…松本かおりさんとは妙にウマが合ってさ。役者としてのタイプも似てるようだし、我輩も脚本はよく書くし。だから今回はちょいと作品の批評を頼まれたんだ。何でも随分と若い頃に書いたのを慌てて手直ししたらしくてな…」
いかにも説明的な言い訳に皆はますます不審に思ったようだが、だからといって一体どう話せばいいのか。正直、グレート自身にもまだ何が何だかわからないのである。
あの夜のかおりの依頼は確かに不可解だったが、劇団内の人間関係に自分の知らぬ「裏」があると思えば何とか納得できなくもない。しかしこの脚本を読み終えたと同時に感じた奇妙な違和感の方は、いまだどのような理屈をつけても説明がつかないのだ。
悩みに悩んだ挙句、ついにグレートはかおりの依頼を引き受けた。このまま放っておくわけにも行かないし、何とかするならするでまず、かおりの演技を見てみないことにはどうしようもないと考えたからである。
だが―。
久しぶりに訪れた高円寺の稽古場でかおりはたった一人、待っていた。
「グレートさん、引き受けてくれてありがとう! 遠慮なんかしないで、びしばし稽古をつけてね!」
グレートに抱きつかんばかりに喜んで礼を述べたかおりは満面の笑みを浮かべている。屈託のない、心底から嬉しそうな表情。…そうだ。これこそが普段のかおりだ。
(しかしこのあと、俺は彼女の「普段の演技」を目にすることができるのだろうか?)
手にした脚本にちら、と視線を落としたグレートに、かおりは稽古場正面に置かれた一脚の椅子を指し示した。
「じゃぁ、そこから見ていてくれる? 何かあったらすぐに言ってちょうだい」
「わかった。それじゃ、第三幕第二場からやってみようか。…問題のシーンは次の第三場だろ? その前に、問題ないシーンってやつも見ておきたい」
椅子に座ったグレートの指示にかおりはうなづき、稽古場中央に歩み出る。グレートも、脚本を膝の上に広げた。今日は他に誰もいないので、かおり以外の出演者の台詞は全てグレートが引き受けることになっているのだ。
「よし、それじゃ始め!」
グレートが手を打ち鳴らすと同時に稽古は始まった。
「クリムゾン・ローズ」はナチス占領下のフランス、レジスタンス運動をモデルにした架空の物語である。舞台は第二次世界大戦下のヨーロッパの小国。開戦と同時に敵味方となった隣国に攻められ、あっと言う間に占領されてしまったその国の人々は敵軍の監視の下、自由のない苦しい生活を余儀なくされていた。そんな祖国に何とか独立を取り戻そうとする女性地下活動家が物語のヒロインであり、かおりの役である。
目的のためなら手段を選ばず、自らの美貌で占領軍の要人を次々と虜にし―あるときは敵の機密情報を盗み、あるときは微笑んで愛の言葉を語りながら相手を暗殺する、冷酷で非情な女闘士。しかしその裏に隠れているのは、切ないまでの―祖国独立の願いと、胸に秘めたたった一人の恋人への想い。
冷酷と情熱、非情と純情といった二つの貌を併せ持つヒロインを、かおりは完璧なまでに演じきっていた。これならば自分はもちろんのこと、神崎や久世が見ていたとしても文句のつけようがあるまい。
しかしグレートは厳しい顔のまま脚本のページをめくる。新しいページには一枚の付箋紙が貼られ、終わり近くの二行には真っ赤な傍線が引かれてあった。グレートに脚本を渡す前、かおり自身がつけた目印である。問題のシーンがいよいよ目前に迫ってきたのだ。
相手役の台詞を読み上げようとした舌が一瞬、口の中で固まった。
(―莫迦。こっちがが緊張してどうする)
自分で自分を叱りつけた次の瞬間には、稽古場中に朗々とした台詞が響いていた。目の前のかおりがきっとした表情で振り返る。…そう、ここは相手の無神経な言葉にヒロインが激怒する場面。
(よし、いい表情だ!)
こんな顔ができるなら―と期待に拳を握り締め、ついつい身を乗り出すグレート。その目の前でかおりが大きく息を吸い込む。
そして―。
…それっきりだった。
五秒たっても十秒たっても、かおりの口から迸るはずの怒りの叫びは聞こえてこない。唇だけはしっかり動いているものの、どうしても言葉が―声が出てこないのだ。
気まずい沈黙に包まれた一分が経過したとき、グレートは深いため息とともに再びぱん、と手を打ち鳴らした。
「そこまで!」
途端、崩れるように床に座り込むかおり。がっくりと力の抜けた肩を必死に支える両手の指先がゆっくりと曲がり、やがて拳となって硬い床を叩く。
「ああ…まただわ! またここで…ッ! …どうしても…どんなに努力しても次の台詞が出てこない。たった…たった二行の台詞なのに! 言葉も身振りもイメージも…みんなこの私の…頭の中に入っているというのにッ!!」
「かおりさんっ!」
真っ赤になった拳でなおも床を叩き続けるかおりにグレートは飛びついた。
「もうやめろ! しまいにゃ指を折るぞ。…あ…む…。そのぅ…。今のあんたを見て、我輩にもやっと事態の深刻さがわかったよ。でもな…でもな、かおりさん! あんたの顔に一瞬浮かんだあの表情…ありゃ、大したモンだった。台詞やト書きの上っ面だけを追ってる役者にゃ死んだってできない、鬼気迫る―いい顔だった。…大丈夫。あんたは充分ヒロインの心をつかんでるさ。あとはただ、その心を言葉に乗せて吐き出すだけだ。あんたになら絶対にできるよ。だから気を取り直してもういっぺんやってみよう、な…」
そして再び、稽古は開始されたのだが。
その日、グレートはは時間の許す限り―かなり遅い時刻になるまでかおりにつき合った。当然、問題のあのシーンだって何十回、いや何百回やり直したかわからない。
だが、それでも―だめだった。
無限にも似た長い時間の中、そして何回目かもわからなくなった繰り返しの中。
グレートはただの一度も、かおりの怒りに満ちた叫び声を聞くことができなかったのである。
結局、グレートは仲間たちに全部話してしまった。あの様子では劇団全員がかおりの不調に気づいているだろうし、別に口止めされたわけでもない。第一、そんなことなど抜きにしても、この仲間たちの口の堅さは自分自身が一番よく知っている。
とはいえ、いきなりそんな話をされては他の四人も困りきってしまったらしく…グレートが話し続けている間、口を挟む者は誰もいなかった。
「この脚本そのものはよくできてると思うよ。若い頃の作品を慌てて書き直したとか言ってたが、現代の商業演劇の舞台にかけても全然恥ずかしくない出来栄えだと思う。…ただ、な。かおり…いや、松本さんともあろう人がどうしてこんなシーンでつっかえてしまうのか…それがどうにも理解できないんだ!」
一瞬声を荒げ、そのまま頭を抱え込んでしまったグレートに、ようやくジョーが―恐る恐る問いかける。
「あ…でもあの、グレート? それって具体的にはどういうことなんだい? 『こんなシーン』って…」
「ああ…それはな、ジョー」
ゆるゆるとジョーに向き直ったグレートの目に、いつもの力強い光はなかった。
「役者の…演技の難しさはそう簡単に判別できるモンじゃない。何てったって、人それぞれ得意不得意ってモンがあるからよ。役者Aにはとんでもなく難しい演技でも、役者Bなら平然とこなしちまうかもしれないし、逆にBがどう頑張ってもできない役柄を、Aならすんなりと自分の物にしちまうかもしれない。…でもよ、それでも世界中の役者の大多数が『簡単だ』とか『難しい』とか思う演技ってなァ…やっぱ、あると思うんだよな…」
周囲を見回せば、皆どこか納得できるところがあったのだろう、揃ってうなづいてくれた。ほんの少しだけ気をよくしたグレートの言葉が、わずかに力を取り戻す。
「例えば、人間感情の基本といわれる喜怒哀楽をストレートに表現するのはそう難しいこっちゃない。極端な話、演劇に関しちゃ完全シロートのみんなにだって、ただ単純に喜んだり怒ったりしてみせるだけなら、まるっきりできないなんてこたないはずだぜ」
そう言われて、ついつい顔を見合わせてしまった四人だったが。
「まぁそりゃナァ…やってみるだけならできへんことはないやろけど…」
「ただそれがどこまで観る者に伝わるかは…わからんがのう…」
張々湖とギルモア博士のつぶやきに、ジョーとフランソワーズもためらいがちにではあるが再度はっきりとうなづいた。今度はそれにグレートもうなづき返して。
「だったらさ、次はそこに全く別の感情が混じるとしたらどうだ? 具体的に言えば、本当は大声で泣き出したいのに無理して笑うとか、内心嬉しくてたまらないのにわざと仏頂面を浮かべるとかってヤツだな。そういう演技とさっきの―単純に喜ぶとか怒るとかいう演技とじゃ、どっちが簡単だと思う?」
「そりゃぁ、絶対に最初の方だよ! ただ喜んだり怒ったりするだけならともかく二つの感情を同時に表現するなんて、とてもじゃないけど素人の僕たちにはできっこないもの」
間髪いれずに答えたのはもちろんジョーである。普段の生活の中でさえ、嘘をついたり隠し事をすることが苦手なこの少年としてはごく当然の反応。だがそんな彼も戦闘時となるとかなりの大嘘つきとなり―胸の内にどんな苦悩を抱えていても、それどころか瀕死の重傷を負っていても―平然とした顔をして、虫一匹殺せないその手に敵の命を奪うための銃を握り、誰よりも先に殺し合いの中に飛び込んで行ってしまうのだが。
しかしグレートは敢えてその点にはツッコまず、話を先に進める。
「その通りだ、ジョー。…もっとも実際の芝居ともなりゃその後の展開とか他の役者との絡みとか演じる役の性格とか、いろんな要素が加わってくるから一概にはそう言えんところもあるんだけどな。しかしこの『問題のシーン』でのヒロイン―松本さんの演技こそ、まさに感情をストレートに表現すればいいだけのものなんだよ!」
少しの間を置き、グレートは再び皆の顔を見回した。誰もが真剣にグレートの口元を見つめ、次の言葉を待っている。
「登場人物はヒロインと―『一応』その恋人ということになってる男の二人。ただこいつは完全な悪役でな、ヒロイン同様占領された側の国民であるくせに敵の軍隊に取り入り、物資の横流しをして巨額の利益を得ている悪徳商人のドラ息子だ。ヒロインにとっちゃ、ある意味敵の軍隊よりも許せない相手だな。しかし彼女はその横流し取引の情報欲しさにわざとそいつに近づき、恋人になったふりをしてようやくその情報を手に入れる。…となりゃ、あとは一秒でも早くそんな男とは縁を切りたいのがヒロインの本音だ。しかし男はそんな彼女の気持ちになどまるっきり気づかず、いつまでたっても恋人気取りで―そればかりか彼女の唯一の理解者、庇護者であるのはこの世に自分一人しかいない、みたいな独りよがりの台詞を延々と繰り返す。…でもっていよいよ堪忍袋の緒が切れたヒロインが激怒する―そういうシーンなのさ」
再びの「間」はおそらく喋りすぎのせいであろう。グレートは目の前の茶碗を手に取り、中の烏龍茶を一息に飲み干した。
「たった二人きりなら他の登場人物との絡みなんざ考える必要がないし、台詞も二行程度で決して長いものじゃない。何よりもこの時点でのヒロインは完全に男を嫌っているわけだし、その上このあとは彼女と言い争いになって頭に血が昇った男が銃を取り出し、彼女を殺そうとするってな流れになるわけだから…。彼女としてはとにかく怒って…というよりぶちキレてだな、これまでの鬱憤を全部相手にぶつけりゃいいだけのシーンなのさ。むしろその前―情報欲しさに大嫌いな男に微笑みかけ、恋人のふりをしているときの方が、ヒロインの胸中ははるかに複雑だっただろうし、大きな葛藤を抱えていたとも思う。当然、演技だって難しくなるだろう。だが、そんな場面での松本さんは完璧だった。俺には―いや、どんなベテラン俳優だろうが大演出家だろうが世界的舞台監督だろうが文句のつけようのない、あんな演技をできる女優がどうしてただぶちキレればいいだけのシーンを演じることができないんだ? …それが、俺にはどうしても納得できないんだよ!」
長い話を終えて再び頭を抱えてしまったグレート。確かにそれは、皆にとっても難しい問題だった。一体何と言えばよいのかわからず、すっかり黙り込んでしまった四人。
しかしやがて、張々湖がおずおずとグレートに話しかけた。
「えと…あのな、グレート。わてには正直、芝居のことはさっぱりわからへんのやけど…今の話を料理に例えるなら、こないな胡麻団子を上手に作れる料理人が、肝心の揚げ物のやり方を全く知らん…そういうコトなんやろか」
「…ああ、そうだよ大人。それどころか、たった一人で最高級の満漢全席を作れる一流の料理人に大根の輪切りができないようなモンだ。…バレエなら、世界一のプリマドンナがトウシューズの履き方がわからないと言い出すような…レースなら、F1で全勝優勝するほどの名ドライバーが教習所の直線コースを走れないような…。そして科学者だったら、俺たちよりもはるかに優秀なサイボーグを作れるほどの天才が、人間の心臓の位置も、その働きも知らないような―絶対にありうるはずのない矛盾なんだ!」
いつにも増してグレートが饒舌なのは、不安と苛立ちの裏返しなのだろうか。その心を慮って、またしても仲間たちが沈黙してしまったところへ。
「あ…あの、グレート?」
果敢な一言を発したのはこれまでずっと黙っていたフランソワーズだった。
「あの…こんなこと、参考になるかどうかはわからないんだけど…」
消え入りそうな小さな声に、皆が一斉に振り向く。
「昔…まだパリにいた頃ね。バーレッスンの最中に足をひねって捻挫しちゃったことがあるの。怪我自体は大したこともなくてすぐ治ったんだけど、それからしばらくの間…私、バーに触るのがすごく怖かった。バーなしだったらどんなに難しい振り付けでもちゃんとできるのに、バーに手を置いた途端、体が動かなくなっちゃうのよ。『バーレッスンの方がずっと簡単なのに』って当時の先生にも友達にも随分不思議がられたけど、どうしても…その、捻挫したときのことが頭から離れなくて、また足をひねったらどうしよう、どうしようってことばっかり考えて…。だからその、松本さん? もしかしたら彼女も、そのシーンになると何か昔の嫌なことを思い出しちゃうんじゃないかしら?」
「過去にそのシーンで失敗したとか? ふむ…ありえん話ではないな。…だがこの芝居を演るのは確か、彼女にとっても初めてのはずなんだが…」
なおも考え込むグレートに、今度はギルモア博士が静かに口を開いた。
「別に芝居に限ったことではないかもしれんぞ。プライベートで似たような経験があったとしたらやはり…芝居の最中に思い出してしまうこともあるんじゃないのかね?」
そのあとから張々湖がすかさず言葉を継ぐ。
「そやねぇ…。特にそこはヒロインはんが、嫌いだろうが何だろうが『一応』恋人と別れようとする場面なんやろ? おなごはんにとっちゃ恋の思い出ちゅうモンは大きいアル。自分では忘れたつもりでも、心に傷が残ってるちゅうコトもありえるんじゃなかろかネ」
「でもそれじゃ、松本さんに何か辛い恋の思い出があるって決めつけているようじゃないの!」
「うーむ…確かに推測だけでどうこう言える問題ではないが…。しかし、もし本当にそれが原因だとしたら困ったな。何しろ恋愛といえばプライベート中のプライベートだ、まさか本人に直接訊くわけにゃいかんだろう。かといって劇団の連中に探りを入れるってのもなぁ。ヘタに勘繰られて変な噂にでもなったりしたら―確か彼女はもう結婚してるって話も聞いたし―かえってとんでもない迷惑をかけちまうことにもなりかねん」
こうとなっては完全に万事休す、とばかりに全員が難しい顔で考え込んだとき。
「…あ、そうだ! グレート、確かその松本…かおりさんって、中学高校で藤蔭先生の同級生だったんじゃなかったかな」
不意に響いた鶴ならぬジョーの一声に、グレートの顔がぱっと明るくなった。
「おう、そうだ! その手があったか!」
「同級生だったら、結婚前の松本さんについてもいろいろご存知かもしれないわよ」
「善は急げアル! グレート、早速連絡してみるヨロシ!」
「おうっ!」
かくて脱兎のごとくリビングを飛び出し、電話に飛びついたグレートは無事藤蔭医師から話を聞く約束を取りつけ―数日後の夜、指定された待ち合わせ場所へと赴いたのだが。
一足先に来ていたらしい藤蔭医師の姿を見つけた途端、今度は天地がひっくり返るような衝撃にびっくり仰天、茫然自失する羽目になるのである…。