小夜時雨 10


「とにもかくにも、まずはあんたに謝らなくちゃな、かおりさん。…あんな騙し討ちのような真似をして、本当に申し訳なかった。許してくれ」
 稽古場に隣接した休憩コーナーに場所を移すやいなや、グレートは深々と頭を下げた。かおりもかすかにうなづき返してきたものの、その顔にはまだどこか放心したような表情が残っている。
 この休憩コーナーは廊下の一部を鉢植えやら何やらで囲っただけの、文字通り「一隅」にしか過ぎないが、それでも小さな丸テーブルと椅子四つのセットが二組、缶入り飲料の自販機が一台備えつけられていた。うち一つのテーブルを囲んで腰を下ろした三人の目の前には、さっき上城が自販機で買ってきてくれたコーヒーが一本ずつ置いてある。
「けれどなぁ…正直言って他にどうしようもなかったんだよ。あんたの不調の原因が上城さんとの一件にあると突き止めたまではよかったが、それから先…詳しい経緯を知れば知るほど、手も足も出なくなっちまってね。それでも一時は苦し紛れに、あんたを説得して脚本を書き直させよう…なんて考えたりもしたんだが」
 ブレンダの手紙の件がふと脳裏をよぎる。だが、そこまで話す必要はない。グレートは自分の缶を開け、上城に軽く頭を下げてから中のコーヒーをごくりと一口飲んだ。
「しかしそれが一番の解決策だとはどうしても思えず、俺はその後もぐずぐず迷ってムダに日を送るばかりだった。ところがそこへ、な」
 グレートにとってはまさしく天の助けたるあのチビ犬がやってきたのだった。
(ボクがどんなに嬉ちくて喜んでるか、直接会ってお話ちなくちゃ絶対にわかんないもの!)
 口の端一杯に泡を溜めたチビ犬が、舌っ足らずの甲高い声で叫んだ瞬間の衝撃は今でもはっきりと覚えている。あの一言があったからこそ、グレートは全ての迷いをふっきることができたのだ。
「偶然やってきた来客の―もちろん、あんたたちとは全く無関係の相手だ―何気ない一言のおかげでやっと気づいたのさ。脚本の書き直しなんざ安易な逃げに過ぎない、あんたが抱えている問題を根本から解決するためにはどうしてももう一度、この…上城敬氏に会ってもらわなきゃならんとね」
 かくてグレートはすぐさま藤蔭医師に上城の連絡先を尋ね、「それなら煕子の方が」という返事をもらうやいなや部屋中を引っ掻き回して煕子の名刺を探し出したのである。
 現在の煕子は、父・俊明と共同で事務所を構えているそうな。若い頃は親の七光を嫌って家も事務所も別にしていたのが、やがて自分自身の力で少しずつ業界内での実績と信用とを積み重ねていくうちに、妙な意地も気負いも消えたようだ―とは藤蔭医師の弁だが、このことがまた、グレートに思いも寄らぬ幸運をもたらすこととなった。
 もっとも、いざ電話をかけてみれば煕子は翌週末まで出張で留守との返事、この無情な現実にはさすがのグレートもがっくり肩を落としてしまったのだが。名刺には一応携帯番号も記されているとはいえ、所詮煕子にとっての上城は父やかおりを介したただの知人、そんな相手の連絡先を旅先にまで携えていくとはまず思えない。
 すっかり意気消沈して電話を切ろうとしたグレート。ところがその寸前、応対してくれていた年配の男に問われて深く考えることもなく名前を告げてみれば…!
 何とその相手こそ誰あろう煕子の父、後三条俊明その人だった。しかも俊明はグレートのことを聞き及んでいたらしく、事情を聞くやいなや「だったら私が代わりに」と協力を申し出てくれたのである。
 これこそまさに地獄に仏。早速事務所を訪ねたグレートを俊明は快く迎え、上城の事務所の住所と電話番号を教えてくれたばかりか、すぐさま紹介の電話まで入れてくれた。
 聞けば俊明も風の噂にかおりの不調を聞きつけ、たいそう心配していたらしい。しかしかおりと上城、双方の師匠という立場を考えると迂闊には動けなかったようで―。
「松本君にせよ上城君にせよ、私が出て何か言えば必ずその言葉に―たといどんなに不本意であろうとも―従ってくれるでしょう。…そんな二人の律儀さがかえって困るんです」
 そう言って、少し淋しげに笑った俊明にとっても、グレートの出現は渡りに船だったのかもしれない。
 だがそれにしても、初対面の自分をどうしてここまで信用してくれるのか、グレートとしては少々腑に落ちぬところである。すると―。
「この前、煕子から貴方のお話を聞きましてね。いい年をしてまだまだ極楽とんぼのやんちゃ娘ですが、人を見る目はそれなりに確かなものを持っております。その煕子が、貴方なら信頼できると申しました。私には、それで充分です」
 こともなげな返答に、後三条俊明という人間の器の大きさが垣間見えた気がした。こうなったら、その好意に報いるためにも一刻も早く上城を訪ね、話し合ってみなければ―と立ち上がったグレートは丁寧な挨拶とともに深々と一礼し、俊明のもとを辞したのだが。
「この先上城君との仲がどうなるにせよ、松本君…いえ、かおりちゃんには幸福になってほしいんですよ。何と言っても娘の同級生で、制服の頃から知っておりますのでねぇ…」
 帰り際、背を向けて事務所のドアに手をかけたそのとき、「業界の大御所」と呼ばれるベテラン脚本家の独り言のようなつぶやきがひっそりと追いかけてきた。

「けれど正直私は最初、後三条先生に騙されたと思いましたよ。何しろ貴方のご用件に関しては何もおっしゃらなかったんですからね、グレートさん」
 少々恨みがましい言葉とは裏腹に、上城は静かな微笑を浮かべている。グレートもまた、穏やかな笑みでそれに答えた。
「はは…あれは先生の作戦ですよ。あまり余計なことを言って貴方に警戒されたら元も子もない、とね。全ては貴方にお目にかかってからの勝負…そうそう、貴方はかなりの頑固者だから生半可な覚悟では説得できない、とも言われましたな」
「いや、参ったな」
 そう言って上城は頭をかいたが、確かにこの男を説得するのは並大抵のことではなかった。俊明の紹介のおかげで、初めのうちこそ至極友好的に歓迎してくれたものの、それも本題に入るまでのこと。かおりの名前が出るやいなや上城の表情は険しく強張り、あとは何をどう言っても「彼女との仲はすでに終わりました」の一点張り。先の見えぬ不毛な会話が延々と続く中、さすがのグレートも一瞬は説得を諦めかけたくらいである。
 しかしそれでも、「クリムゾン・ローズ」というタイトルを聞いたとき上城の頬がぴくりと動き、かすかに唇をかんだのをグレートは確かに見た。そして、かおりの不調を詳しく述べれば述べるほど、その視線が落ち着きをなくし、わずか一、二度ではあるが唇が何かを言いかけたことも―。
(ふ…む…。この様子ならごくわずかとはいえ脈が…ないわけでもない、か…)
 そこでついにグレートは勝負に出た。
「…わかりました、上城さん。貴方にとって、かおりさんがすでに過去の女性だとおっしゃるなら、それはそれでよしとしましょう。ですが、それならば何故―家を出るときにあのようなものを残して行かれたのですかな?」
 瞬間、上城の体がびくりと震えた。
「すでに終わった仲、過去の女だというのなら、その後のかおりさんが貴方をどう思おうと知ったことではないはずだ。だったらいっそさっさと忘れてくれた方がこっちもかえって気が楽だと―我輩ならば思いますがね。なのにわざわざ、それまで共同執筆していた脚本に朱を入れていくなんて全くの逆効果じゃありませんか。そんなことをされたらかおりさんは、貴方を忘れたくても忘れられなくなってしまう」
「単なる…嫌がらせですよ。劇団の設立も運営も、全て自分一人の力で成し遂げたような顔で平然としていたあの女に、最後に思い知らせてやりたかっただけです。私という人間がいたからこそ、お前はここまでやってこられたんだと―ね」
「そうですか? 我輩にはどうも、貴方がそんな陰険な人間には見えないんですけれどね。第一貴方、かおりさんがそんな恩知らずな女だと―本気で思っていらっしゃるんですか?」
 次から次へと畳みかけられ、明らかに動揺したらしい上城の頬がぱっと朱に染まった。
「わ…私や彼女がどんな人間か、貴方に論評していただく義理はない! それに、少なくとも彼女が私への関心をほとんど失っていたことは確かですよ。私どもの結婚生活の後半がどのようなものだったかは多分貴方もご存知でしょうが…連日連夜の言い争いや諍いの中でも、彼女はどこか醒めていた。…どんなに怒鳴り合っていても必ず途中でぴたりと口をつぐんでしまい、しばらくこちらの言い分を聞いていたかと思うと次にはひどく冷静な、説教臭い正論で反撃してくる。そのたびに…私は、惨めでしたよ。家族だから―夫婦だからこそと、こっちは恥も外聞もかなぐり捨てて全てをさらけ出しているというのに、どうしてあっちはそんな、他人行儀な反応しか返してくれないのかと…。何だか虚しくなって今度は私が黙り込むと、そのままさっさと劇団の仕事に出て行くんです。すでに、彼女にとっては私などより劇団の方がずっと大事な存在になっていたんですよ。だったら…いつまでも一緒に暮らしている意味なんかないでしょう!」
「成程…ね。それはさぞかしお辛かったことでしょう。ですが上城さん、貴方はそれを直接かおりさんに確かめたことがあるんですか?」
「…!」
 今度こそ、一瞬上城は絶句した。
「い…いや、それは…。だけどそんなこと…わざわざ確かめなくても、あの態度を見れば…」
 かろうじてしぼり出した声にもそれまでの迫力はなく、やがて小さくなって消えた。つとその脇に立って行ったグレートが、そっとその肩に手をかける。
「ねぇ、上城さん…。実は私にも愛していた―いや、今でも愛している女がおりましてね」
 唐突な台詞にはっと顔を上げた上城を、青灰色の穏やかな瞳が見つめていた。
「遠い昔にたった一度だけ共演したイギリスの女優です。もっとも、私の方はすっかり忘れていたんですがね。なのに彼女はそんな私―俳優グレート・ブリテン―をずっと慕い、探し続けていてくれたんですなぁ。その一途さに私もまた強く惹かれて…。一生、愛し続けていこうと思いました。そして彼女もまた、私の全てを受け入れてくれるだろうと信じました。たといこの先互いの姿形や境遇がどんなに変わり果てようと、この想いだけは決して変わらないと―ね。ただ、私どもの恋愛には一つだけ、大きな障害がありまして」
「障…害?」
 聞き返してきた上城に、グレートはかすかにうなづく。
「はい。それは彼女の愛した男が『俳優』グレート・ブリテンだったという事実です。いや実は、当時の私はとある事情によってイギリスで芝居を続けることができなくなっていましてね。―たといこの身が人外の怪物に成り果てようとも―そこまで信じていたくせに『芝居を捨てた自分』を受け入れてもらえる自信だけはどうしても持てなかった…情ない、話です。そして散々悩んだ挙句、私は彼女の前から逃げ出しました。何もかも正直に打ち明けていれば全く別の答えが返ってきたかもしれないのに、一人で勝手に彼女の気持ちを決めつけて―貴方と同じですよ、上城さん」
 上城の肩が、今度こそがくりと落ちた。深い深いため息をついたその背中を、グレートが静かになでる。
「…お互い、もう逃げるのはやめにしましょうや。我々が心底惚れ込んだ女たちのためにも、そして何より我々自身のためにも、ね」
 力なくうつむいた上城の頭がかすかに、しかしはっきりとうなづいた。

「ま、そこまでのすったもんだはどうあれ、とにかく上城さんはあんたに会うことを承諾してくれた。だからと言っていきなり彼の名前を出したりしたら、今度はあんたが必要以上に身構え、緊張しちまうような気がしてな。…それじゃ困る、と考えついたのがあの『二人一役』トリックだったってわけだ」
 あれほど悩んでいた最中ですら、自分からは決して上城の名前を出さなかったかおり。それはそのまま、彼への想いの深さの証明なのだろうが、そんな相手に対して「本心を伝える、確かめる」ことがどれだけ難しいかは察するに余りある。ちなみにそれは上城とて同様で―かおりとの再会を承諾したとはいえ、その前で素直に己が心情全てを告白してくれる保証などこれっぽっちもないことを、グレートは重々承知していた。
 そこで、自分自身の存在を二人の間の緩衝材にすることを思いついたのである。
 「本物の」上城に対してついつい緊張し、身構えてしまうかおりも、相手が「上城の扮装をしたグレート」ならばさほど固くなることもあるまい。だったらまずは「全てをわきまえたグレート・ブリテン」を上城だと思って何もかもぶちまけてみるよう誘いかけてみればいい。ついでにちょっと上城を非難するような台詞を交ぜて、彼女の反応を確かめつつ本音の一部でも引き出せれば万々歳だと思ったのだが―。果たしてその筋書きに、かおりは見事に引っかかってくれた。
 大いに満足したグレートはそこでいったん更衣室に引っ込み、前もって待機していた上城と入れ替わる(実は上城もまた、グレート同様かおりより早く稽古場に到着し、ずっと男性更衣室の中に潜んでいたのだ)。かおりと自分の会話は更衣室にも充分聞こえていたはずだし、おそらく上城の誤解も大分解けていることだろう。
 しかし、それから後はただ黙って見守っているだけ。いかに名優グレート・ブリテン、いやサイボーグ007といえどもこれ以上は手も足も出せず、不安に押しつぶされそうになりながらひたすら待っているしかなかった数十分。
(いやはや、あんな気分になるなんざ戦闘中でさえ滅多にないこった。精神衛生上、まったくもってよろしくない)
 先程のことを思い出し、グレートが心の中でこっそり一人ごちたそのとき。
「あたし…貴方にとんでもないところ見せちゃったわね…」
 突然聞こえてきたか細い声に顔を上げれば、これまで一言も喋らなかったかおりが、いまだぼんやりとした目つきをしたまま、かすかに口を動かしていた。
「貴方が私と劇団のために必死に働いてくれていたのがよくわかってたから…我慢してたのに。働いて、働いて…心も体もくたくたに疲れていたのがわかってたから…たとい喧嘩になっても、子供じみた癇癪や我儘で貴方を困らせることだけはしないって…決めてたのに。だけどとうとう…やっちゃった。こんなヒステリー女、貴方に嫌われても仕方ないわね…」
 瞬間、上城が飛びつくようにしてその細い肩を抱きしめる。
「何を言うんだ、かおり! 癇癪や我儘なら俺だって、散々君にぶつけてきたじゃないか! 俺はむしろ、君にもそうしてほしかったんだ! 君が俺のことを思って我慢してくれていたのはありがたいけれど…それでも俺はずっと…自分一人が聞き分けのない駄々っ子のような気がして…惨めだったんだよ…」
 腕の中、いつしか両手で顔を覆ってすすり泣き始めたかおりの耳元で、上城はなおも慰めの言葉をささやき続ける。それを見届けたグレートは、無言のまま静かに席を立った。
「グレートさん!」
 慌てて呼び止める上城に、上半身だけ振り向いて片手を上げ、軽いウインクを送る。
「我輩の出番はここまでですからな。あとはさっさと退散するばかりですよ。しかしまだ稽古が始まるまでには時間がある。…貴方方は今しばらくゆっくり話していかれるといい」
 そして今回の名脇役グレート・ブリテンは退場した。これに続くラストシーンはあくまでも、主役の二人だけのものなのだ。



 程なく新しい年も明け、三が日や七草などがつつがなく過ぎて行く中、劇団「たまゆら」新春公演、「クリムゾン・ローズ」は無事開演初日を迎えた。グレートを始めとするギルモア邸の面々が―あれからすぐに「夜の時間」から目覚めたイワンも含めて―松本かおり直々の招待を受け、喜んで駆けつけたのは言うまでもない。
「それにしてもまぁ、こうしてかおりはんの芝居が観られるいうンは紛れもないグレートのお手柄やナァ。あないに切羽詰ったギリギリの状況で、ようもあんな起死回生の逆転ホームラン級の打開策を考えついたもんや」
「いやいや張大人、あれはただ単に運がよかっただけのことさね。…そう、あの日あのときあのワン殿が、我が家を訪ねてきてくれていなかったら一体どうなっていたことやら。我輩の手柄などとはとんでもないこと、全てはあのワン殿のおかげだよ」
「あらでも、あの日パピちゃんが来てくれたのはグレートが藤蔭先生にことづけた『お土産』のお礼を言うためだったんでしょう?」
(ソウダヨ。ぱぴチャン、アノぼーるニ穴ガ開イチャッタトキニハスッカリションボリシテ、泣キベソカイテタンダモン。ぐれーとノオ土産、キットスゴク嬉シカッタニ違イナイヨ。ダカラドウシテモ直接オ礼ヲ言イタカッタンジャナイノカナァ)
「大体グレートはその様子をちらりと見かけただけなのに、以後外出するたび、目についたペットショップ全部を見て回ってあのボールを探してたんだろう? パピちゃんにもきっと、そんな気持ちが伝わったんだよ」
「だったらそれはやはりグレートのお手柄というべきじゃな。イワンの前で泣いていたパピをずっと気にかけて、何とかしてやりたいと思うて…そんな優しさが結局、思いもかけないタイミングで自分に返ってきたというわけじゃ。『情は人のためならず』―いや、この場合は犬か―とはよく言うたものじゃのう。…おっと、ベルが鳴ったぞ」
 観客席の照明が落ち、人々のざわめきが期待と興奮をはらんだ沈黙へと変わっていく。そんな中、不意にグレートはきゅぅっと締めつけられるような胃の痛みを覚えた。
(おいおい、自分の舞台でもないのに何を緊張しているんだ、グレート・ブリテン? ―大丈夫、大丈夫。…かおりはきっと、大丈夫)
 我知らず客席の肘掛をきつくつかんでいたその両手に、何か温かいものがそっと触れる。はっと顔を上げれば両隣、真っ直ぐ舞台を見つめている張々湖とギルモア博士のその手だけが、しっかりと自分の手を握り締めてくれていた。
 胃の痛みが、ほんの少しだけ軽くなったような気がする。…けれどやはり、時折頭をもたげてくる不安だけはどうしようもなくて。
 やがて芝居が問題の第三幕第二場にさしかかったとき、グレートの手のひらはじっとりと汗ばんでいた。
 しかし。

「貴方こそ、一体私の何がわかっているというの!? 私がこれまで貴方のそばで何を思い…何を悩み…そして何を望んでいたのか…それを考えたことなんて、一度もないくせに!」

 舞台上、あの怒りの表情できっと振り返ったかおりの台詞が、劇場中に響き渡った。
 肘掛の上、張々湖とギルモア博士が再び自分の手を強く握り締めてくれたのがわかる。
 その無言の祝福に、グレートはただ何度も繰り返しうなづくことしかできなかった。
 今しもあふれ出しそうになる涙を懸命にこらえながら―。

 その日の舞台は大歓声と拍手の渦の中で幕を下ろした。客席から出て行く観客たちが、いまだ興奮冷めやらずといった様子で、口々に今の芝居を褒め称えている。
 ギルモア邸の面々もまた、その例にもれなかった。
(スゴク面白カッタネ! 僕、デキルコトナラモウ一度観タイクライダヨ!)
「ええ、本当に。キャストのほとんどが新人さんだったなんて、とても信じられないわ!」
「特にあの…ベルガーはようやってたあるナ。かおりはんと堂々互角に渡り合うてたのも偉かったが、何よりあの憎たらしさちゅうたらなかったで! わて、途中で何度もぶん殴ってやりたくなったヨ!」
「ベルガーの父親役の神崎さんもすごかったよね。舞台に出てくるだけで、周りの空気が一気に冷たくなるみたいだった!」
「反対に、あの酒場の女将役…久世さんだったかの、主人公の母親代わりとして陰日向なく支えてやるさりげない優しさには涙が出たわい。ああいうベテラン勢がいるからこそ、芝居もぐんと引き締まると言うもんじゃ。まさに『重鎮』そのものじゃの」
「そう言ってもらえれば『たまゆら』の連中も役者冥利に尽きるってもんだ。特にあのベルガー演ったヤツは一昨年入団したばっかりの、そりゃぁ素直でお人よしのボンボンでさ。だからどうしても悪役の憎たらしさが出せなくて、神崎さんにえらいことシゴかれて…。とうとう劇団員全員に『芝居が終わるまで許して下さいっ』って土下座してな、普段でも役柄そのものの高慢無礼、自分勝手で通したらしいぞ」
 そんなことを話しつつ、今しも劇場を出ようとした皆の足がふと止まったのは玄関脇、壁に沿って所狭しと並べられた祝いの花々の中でも一際大きく立派な盛花の前だった。その花に添えられていた贈り主の名前は―上城敬。
「そう言えば…かおりさんと上城さんはこの先どうなるのかしら。こんな立派なお花を贈ってくれるくらいだもの、また昔のように一緒に暮らしてもいいと思うんだけど…」
 水色の瞳に心配そうな光を浮かべてつぶやいたフランソワーズの肩に、そっとグレートの手がかかる。
「ま、こればっかりは『神のみぞ知る』ってところだろうよ。確かに、あの二人がまた元の鞘に納まればそれが一番いいのかもしれんが…。男と女の『幸せのカタチ』ってのは同居や結婚以外にも星の数ほどあるもんだ。それぞれが、自分たちに一番合った幸福を見つければそれでいいじゃないか。…お前さんたちとて同じだぞ、マドモアゼル」
「え…やだ、グレート!」
 途端に真っ赤になったフランソワーズの背中をジョーの方へと押しやりながら、グレートは声を立てて笑った。そして、さりげなく背後の張々湖を振り返り―。
「ああそうだ、大人。新年会シーズンが終わったら、またちょいとイギリスへ里帰りしたいんだが…構わんか?」
「もちろんアルよ! 二月になれば店の方もちっとはヒマになるやろし…そやケドまた随分と久しぶりの里帰りあるネェ」
「…ああ。男と男の約束は、守らなきゃな」
「男と男の約束…? 何のこっちゃ?」
「いやちょいと、こっちの話」
 盛花に添えられた「上城敬」の名前に向かって、立てた親指を力強く突き出し、グレートはそのまま劇場を出る。ふと空を見上げれば、はるかロンドンへと続いているはずの夜空に、無数の星屑がきらきらと瞬いていた。

〈了〉
 


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