あどけない話 2
それから一時間ほどもたった頃だろうか。
人間どもが完全に寝静まったのを見計らい、ようやくソファの下からのそのそ這い出してきたパピ。何はともあれまずはその身をぶるぶるっ…と震わせて体についた埃を振り落とし、やれやれとばかりに大きくため息をつく。
(はぁ…ましゃか、家中総出で追っかけまわされるとは思ってもいなかったでち。特にジェットしゃんなんか、完全に形相が変わってまちたもんねぇ…ああ、びっくりちた)
ふと傍らを見れば、先ほどジョーが持ってきてくれた毛布が。そこで初めて、チビ犬はほんの少し申し訳なさそうな表情になった。
(皆がボクのことを心配ちてくれるのはありがたいんでちけど…でも、ボクにだって譲れないことの一つや二つはあるちなぁ…)
それでも、どうせ寝るなら床のカーペットより毛布の上の方がいい。一瞬目を閉じ、心の中でジョーに感謝したパピはそのまま毛布の上に丸まろうとした。が―そのとき!
「誰っ!?」
突如出現した何者かの気配にぱっと飛びのいて身構えれば、それまで誰もいなかったはずの空間にふよふよと漂っているクーファン、その中からにこにこと自分を見つめている赤子。
「―何だ、イワンくんでちたか。あんまり、おどかさないでちょうだいな」
(ゴメンゴメン。別ニ、オドカスツモリハナカッタンダケド…。ソレニぱぴチャン、口デ言ウホド驚イテハイナイジャナイカ。モシカシテ…感ヅイテタ?)
「まぁ…ね。皆がとうに寝静まったこんな時刻にやってくる人は他にいまちぇんよ。ね、イワンくん? しょれとも、サイボーグ…001?」
(察シガイイネェ…。ウフ。ダカラ僕ハ君ガ好キナンダ、ぱぴチャン…ソレトモ、BG直営企業五百社ノ陰ノ経営者ト呼ンダ方ガイイノカナ…?)
「そちらこそ、察しがいい…と言いたいところでちけど、ちょっとしょのお言葉はいただけまちぇんねぇ。BG直営企業? 陰の経営者? 一体何を言ってるんでちか? ボクはただ、吹けば飛ぶよなチビわんこにちか過ぎまちぇんでちよ」
いつしかふんわりと床に降り立ったクーファンからもみじの手を伸ばし、懸命にパピの頭をなでているイワン、そしてその小さな手を優しくなめるパピ。傍から見れば涙が出るほど可愛らしい光景だろうが、当の両者の間に交わされる会話は陰険そのもの、互いに一物も二物も持った腹を探り合う、容赦ない言葉の応酬に他ならなかった。
(オヤマァ、コレハ大シタゴ謙遜ダ。…デモ君ノコトダカラ、チットヤソットジャ本当ノコトヲ話シテクレタリハシナイダロウネ)
「本当のことも何も…ね、イワンくん。どうちてしょんな…BG直営企業だの陰の経営者だのなんてことを思いついたんでちか? できればしょのあたりからお伺いちたいんでちけど」
言いつつ、イワンのふっくらとした頬をぺろりとなめたパピ。イワンもたちまち、嬉しそうな笑い声を上げる。だが、次の瞬間、赤子のつぶらな瞳がしっかりとチビ犬の―同じ、つぶらな瞳を真正面から見つめて。
「残念ナガラ、今ノ僕ガ提示デキルノハ、ドレモ状況証拠バカリダ。物的証拠ハ一ツモナイ。ダカラ―君ニシラバックレラレタラソレマデナンダケド」
「いえいえ、しょんなことはないでちよ。できれば是非、しょの『状況証拠』とやらをお聞かせ願いたく存じまち」
少々挑戦的なパピの言葉に、イワンの瞳がきらりと光る。小さな指の先がチビ犬の真っ黒な鼻先を、いたずらっぽくちょん、とつついた。
(証拠ソノ一ハ、新聞ダ。知ッテノトオリ、ウチハ多国籍ノ大家族ダカラ、結構色々ナ種類ノ新聞ヲ取ッテイル。…デモッテ、読ミ終ワッタ新聞ハ毎日きっちんノ隅ニ積ミ上ゲラレテ、資源ごみノ日ニ回収サレルワケダガ…実ハ最近、何者カガソノ古新聞ノ一部ヲ、夜中ニコッソリ抜キ出シテイル痕跡ガ認メラレルンダヨ。シカモ、朝ガ来ル前ニハ再ビ元ノ場所ニ戻シテル)
そこでイワンはちら、とパピを見る。しかしチビ犬は表情一つ変えず、この人間の赤子を見つめているばかり。
(具体的ニ言エバコノトコロ毎朝、古新聞ノ山ノテッペンニ乗ッテイルノガ日○経済新聞バカリナンダ。読ミ終ワッタ新聞ハ皆好キ勝手ナ時刻ニ古新聞置場ニ持ッテ行クカラ、毎日必ズ日○新聞ガ一番上ニクル確率ハソウソウ高イモノジャナイ。中ニハキッパリ、夜ノ十一時頃、別ノ新聞ヲ○経新聞ノ上ニ置イタト証言スル者サエイル。…モチロン、人間タチノ誰カガ読ミ忘レタ記事ヲ読モウト抜キ出シタ可能性モ否定デキナイケド、「毎日」トイウノハネェ…。シカモ面白イコトニ、ソレラニハドレモコレモ小サナ一対ノ穴ガ開イテルンダ。モシカシテソレ、君ノ小サナ可愛イ牙ノ歯形ト一致シタリ…シナイカイ?)
思わせぶりな口調、意味ありげな視線を向けられてもチビ犬はどこ吹く風、後脚でほりほりと耳のあたりをかいているだけだったりする。
「ああ…しょういえば確かにボク、何度か新聞を失敬致ちまちた。ボクたちわんこは時々、何かをかじりたくてかじりたくて仕方がなくなるときがあるんでち。読み終わったあとの古新聞ならいくらかじっても皆しゃんのご迷惑にはならないと思ったんでちけど…いけなかったでちか? だとしたら、ごめんちゃいでち」
しれっとして頭を下げられ、小さな赤子はどこか大人びた様子で肩をすくめた。
(ソウ…? ソノ割ニハ、ドレモコレモ皆キレイナママデ、「カジルタメ」ジャナクテ「読ムタメ」ニ持ッテイッタトシカ思エナインダケドナ。…マァイイヤ、話ヲ変エヨウ)
再び、赤子のつぶらな瞳がきらりと光る。
(証拠ソノ二ハコノ前、皆デりびんぐノTVヲ観テイタトキダ。君ハ確カ、そふぁニ座ッタふらんそわーずノ膝ノ上デ居眠リシテイタネェ)
「フランソワーズしゃんのお膝はとっても居心地がいいでちから…あったかくて柔らかくて、ついつい眠くなっちゃうんでちよ」
(ソレハ僕モヨク知ッテルヨ…ッテソンナコトハトモカク、アノトキハTVノぼりゅーむガカナリ大キクテ、居眠リスルニハサゾウルサカッタダロウ。デモ完全ニ熟睡シテイタ君ハ、TVノ音ドコロカ皆ガ大キナ笑イ声ヲ上ゲテモ全然目ヲ覚マサナカッタ。ナノニ、タッタ一度ダケ―ソノ耳ガピクリト動キ、君ガ目ヲ開ケタ瞬間ガアル。覚エテイルカイ?)
パピの返事は、「あ〜うぉ〜ん」という大きなあくびだけだった。
(確カ、ばらえてぃガ終ワッテにゅーすガ始マッタアト…南米ノ小サナ国ノ航空会社ガ会社更生法ノ適用ヲ申請シタ、ツマリ倒産シタトイウにゅーすガ流レタ途端、ソレマデグッスリ眠ッテイタ君ガ、不意ニパット目ヲ覚マシタンダ。…ハッキリ言ッテカナリ地味ナ、ホトンドノ者ニハドウデモイイトサエ思エルにゅーすノ一体何ガソンナニ君ノ興味ヲヒイタンダイ?)
「…ただの偶然でちよ」
(ダッテアノトキハ誰モ笑ッタリ、声ヲ上ゲタリハシナカッタンダヨ? シカモソノ直前、大キ過ギルぼりゅーむニ辟易シタぴゅんまガ音量ヲ下ゲテ、周囲ハカナリ静カニナッテイタンダ。ソレマデノウルササニモ平気デ寝テイタ君ヲ起コスヨウナ原因ハ、残念ナガラ僕ノ記憶ニハナイナァ)
「何もないのにふと目が覚める…人間しゃんたちにだってしょういうときはあるでしょうに。まちてボクはわんこでちよ。お耳もお鼻も人間しゃんよりはずっと敏感でち。…もちかちたら、サイボーグの皆しゃんたちよりもね」
このしぶといワン公に、とうとうイワンの最後の切り札が出た。
(ソウ…? ジャ君ハ、ソノ航空会社ガBGノ直営企業ダッタトシテモマダ、偶然ダト言イハルンダネ?)
さすがのパピが、はっと顔を上げてイワンを見た。おそらくイワンには、それだけで充分だったに違いない。一瞬、「しまった」という表情になったパピが、やがて大きなため息とともに毛布の上に寝そべった。
「参りまちたねぇ…直営企業の情報なんて、どーせこちらの皆しゃんにはある程度リークちてるとは思っておりまちたが、もちかちて皆しゃん、あの五百社のリストを全部暗記ちてたりするんでちか?」
大真面目に聞き返してきたパピに、イワンが笑う。
(マサカ。ソリャ、直営企業ノ存在ハ皆知ッテルシ、りすとモ入手済ミダケド…ソノ中身ヲ丸暗記ナンカシテルノハ、僕トぴゅんま…ソレニあるべるとクライナモノダロウネ。シカモアノ会社ハソノ中デモカナリ小サイ方ダッタカラ、サスガノ二人モソノトキニハ気ヅカナカッタミタイダヨ。アトニナッテ「モシカシテ、アレ…」トハ訊カレタケドネ)
その言葉を聞いたパピの口元が、ほんの少しほころんだ。人間の感覚からいけば「微笑んだ」とでも言うべき表情なのだろうが、いかんせん相手が犬ともなると、さしものイワンもその本心をうかがい知ることは難しい。
でも、やがて。
「あの会社はね…ボクにとってはある種の『実験場』だったんでちよ」
ぽつりとつぶやいたパピは、どことなく淋しそうだった。
「さっきイワンくんが言ったとおり、あの会社の規模は現代日本の…いえ、先進国の基準に照らし合わせれば中小、零細企業もいいとこでち。第一その経営基盤となる国そのものがほんのささやかな小国…。ちかもつい最近の軍事クーデターによる突然の政権交代、しょれに伴う貨幣価値及び株価の大暴落のおかげで、しょれまでは小さいながらも中々の実績を上げていた優良企業が、わずか一夜にちて直営企業全体のお荷物とも言うべき赤字企業に転落ちてちまいまちた…。正直、ボクも慌てまちたでち。でもしょの一方、これはあの会社に限ったことじゃないんじゃないかと…。他にも、政情あるいは経済が不安定な国に設立された会社はたくさんあるち、しょれでなくても昨今の原油価格暴騰や自然災害発生率の増加から考えるに、いつまた同じような事態が起こるかわからないとね。だったらいっそあの会社を会社再建プログラムの実験場にちようと思ったんでち。ありとあらゆる再建策を試ちてしょれじょれのメリット、デメリットを詳しく分析ち、データベース化、マニュアル化ちておけば、もちまた同じことが起こっても迅速に対応できるんじゃないかと思いまちてね。…でもボクがいなくなって…BGは多分、実験を続けられなくなったんでしょう。だから、切り捨てる―倒産させるちかなかった。あともう少ちで自力再建の目処が立ち、社員二百数十人の雇用と生活を保障できるところまで行ってたんでちけどねぇ…。しょれを思うと残念…というより申ち訳なくて…。でもましゃかしょれをイワンくんに見られていたとは迂闊でちた」
再び淋しそうに微笑んだチビ犬の頭を、精一杯伸ばされた赤子の手が慰めるようになでる。
(アリガトウ、ぱぴチャン。オカゲデヨウヤクスッキリシタヨ。実ハズット気ニナッテイタンダ。昨年度ノ初メ頃カラBG直営企業ガ、全社揃ッテ思イ切ッタ経営改革ニ乗リ出シタコトガネ。財務部門ノ簡素化、効率化ニ始マッテ営業部門ノ見直シ、不採算事業カラノ一斉撤退及ビ組織再編…挙句ノ果テニハ社内ニオケル意思決定手順ノ徹底的ナ合理化マデ…シカモソレホドノ大鉈ヲ振ルッテオキナガラ、人員削減ヤりすとらハ一切ナシダ。…当然、ソノ後ノ業績ハウナギ上リダヨネ。上半期決算ノ際一般公開サレタ財務諸表、及ビ僕ラガはっきんぐソノ他ノ手段デカキ集メタ内部資料ヲ目ニシタトキ、僕ハ正直背筋ガ寒クナッタヨ。一体ドンナ経営ノ天才ガBGニ加ワッタノカ、ソシテモシコノママ直営企業ガ業績ヲ伸バシ続ケ、有リ余ル資金ガ流レ込ンダラ…BGハ一体何ヲヤラカスノカ、トネ)
そのときのことを思い出したのか、イワンの小さな体がぶるっと震えた。
(マ、幸イソノ不安ハ杞憂ニ終ワッタミタイダケド…。ドウヤラココ数週間程ハマタ、経営体質モ元ニ戻ッチャッタミタイダシ)
「…ま、あちらは元々『戦争の専門家』の集団でちからね。組織としての財務管理はともかく、企業経営に関しては全くド素人のパッパラパーばかりでちよ。でも、だからと言ってどうちてボクがしょの経営改革の張本人なんて話になるんでちか? 先にも言いまちたがボクはただのチビわんこ―犬にちか過ぎないのに」
(ソンナノ、BG内ノ幹部人事情報ガ手ニ入レバスグニワカルサ。自慢ジャナイガ僕ラダッテ、BGノ情報ヲ得ルタメナラバ時ニハ非合法手段ニ出ルコトモアルンダヨ。BG本部ノめいんこんぴゅーたーヘノあくせすヤでーたはっきんぐダッテ、ヤロウト思エバデキナイ相談ジャナイ。…ナンテ本当ニ自慢ニハナラナイガ、直営企業ノ経営ヲ任サレルトモナレバオソラク幹部くらす以上ノ人材ダロウト推測シタコト自体ハ間違ッテナイヨネ?)
イワンの言葉に、パピはこっくりとうなづいた(←あ、意外と素直)。それを見たイワンの頬にも、いかにも無邪気で愛らしい、嬉しげな笑みが浮かぶ。
(ナラバ当然ノ帰結トシテ、直営企業ノ経営方針転換ガ行ワレタ昨年度初メ、ソシテマタ元ニ戻ッテシマッタ数週間前ニハBG幹部連ノ顔ブレニ何ラカノ変化ガアッテシカルベキダ。ダガ、僕ラノ調ベタ限リデハ、ソノ該当時期ニオケルBG内ノ幹部異動ハ一切行ワレテイナインダヨ。新タニ加ワッタ者モイナケレバ、戦死・病死、アルイハ脱走、粛清サレテ姿ヲ消シタ者モイナイ。タダ一人―イヤ一匹―君ヲ除イテハネ、ぱぴチャン)
そこでまたもみじの手が伸び、チビ犬のデカ耳をそうっとなでた。
(君ガBGデドンナ位置ニイタノカ、僕ハ知ラナイ。ダケド、犬ニダッテ人間ニ匹敵スルクライノ知能ヲ持ッタ者ガイルトイウコトダケハヨク知ッテイルツモリダヨ)
「イワンくん…」
そこでふと、言葉が途切れた。だが、その沈黙は決して気まずいものではなく―もしかしたら言葉を超えた何かが、この人間の赤子とチビ犬との間に通い合った瞬間だったのかもしれなかった。
そして、しばらくの後。
「ところでイワンくん、ボクの正体をめでたく暴いた君はこれからどうしゅるつもりでちか? もっと詳ちいBGの情報を吐かせるために尋問、あるいは拷問でもしてみまちか?」
けろりとした顔の犬に物騒なことを言われ、赤子は慌てて首を横に振る。
(ヤダナァ、ヤメテヨぱぴチャン。君ニ暴力ヲ振ルッタリナンカシタラ―ソレガ肉体的ナモノデアレ精神的ナモノデアレ―僕ノ方ガじょーヤふらんそわーずニウント叱ラレテ、オ尻ヲ叩カレチャウヨ。ソレニ君ダッテ、ドンナ目ニ遭ワサレヨウガ、モウコレ以上ノ情報ヲ話シテクレル気ハナインダロウ?)
今度はチビ犬が、そのふさふさ尻尾をゆっくりと振った。
「おっしゃるとおりでち。ボクはあしょこに約一年半、お世話になりまちたからね。ま、よんどころない事情があって勝手に飛び出ちたのは事実でちが、しょれでも『三日飼ったら三年恩を忘れない』のがわんこの心意気、これ以上あちらを裏切るような真似はたとえ殺しゃれたってちたくないでち」
この言葉に、イワンはさも嬉しそうに両手を叩いた。
(サスガダネ、ぱぴチャン。君ハ立派ダヨ。…安心シテ。僕ハ今聞イタコトハ誰ニモ言ワナイ。モチロン、コレ以上ノ情報ヲ要求スル気モナイ。君ハコレカラモ僕ラノ友達、「オ利口デ可愛イ、小サナワンコ」ノママデイレバイインダ)
一方のパピは少々拍子抜けしたような顔で首をかしげる。
「…? しょれじゃイワンくん、どうちてわざわざこんな時間にたった一人でやってきたんでちか? ボクの正体も秘密のまんま、これ以上の情報も要らないなんて…しょれじゃ完全なムダ足じゃありまちぇんか」
(ダッテ、今夜僕ガココニ来タノハソレガ目的ジャナイモノ)
「え…?」
(僕ハネェ、純粋ニ君トオ喋リシタクテ来タンダヨ。オソラク、経済及ビ経営学ニハカナリノ見識ヲモッテイルダロウ貴重ナ相手トネ)