あどけない話 1
午後九時半。
すでに夕食も終わり、いつもなら各々就寝前のひと時をゆったりと過ごしているはずのギルモア邸にただならぬ物音が響く。
―どたどたどたどたっ!
ついでに老若男女入り混じった悲鳴のような叫び声も。
「あーっ! ジョー、そっち行ったわ、そっち!」
「よぅし、任せて…って、うわっ!」
―どっしーん…がらがらがらっ!
「バカ! てめーはいつも反応が鈍いんだってぇの! …待てコノヤロ!」
―どかっ。…ばしっ! がこっ。
「…バカはどっちだジェット。何で俺がお前なんぞに抱きつかれなきゃならん!」
「ああん、もうっ! ケンカなんてしないでよぉっ。それより…ほらそこっ」
フランソワーズの指差した先をさっと横切る黒い影、瞬時に飛びかかる男たち。しかしまたしても結果は空振り、人間の頭や体がぶつかる鈍い音が空しく響き、皆の生傷が増えるだけ…だったりする。
「おいみんな、こっちだ! リビングの…ソファの下に逃げ込んだぞっ!」
グレートの叫びにたちまちリビングに殺到したのは七人。…少し遅れて、イワンを抱いたギルモア博士がえっちらおっちらと駆けつけてきた。
「さ〜て、とうとう追い詰めたぞぉ〜。覚悟を決めて神妙にお縄を頂戴しろってんだ!」
満面の笑み…というには少々凄絶な、鬼気迫る表情で言い放ったのはジェット。みればその右目の縁にはくっきりとした青アザが…。おそらくさっき心ならずもアルベルトに抱きつく格好になってしまい、激昂した独逸人にすかさず教育的指導を一発喰らったせいだと思われる。
一方ソファの下からは、ただ低い獣の唸り声が聞こえてくるだけ。
「へん! どんなに唸ろうが吠えようがもうてめぇの逃げ場はねぇんだよっ。さ…おとなしく出て来いっ」
勝ち誇ったように宣言するよりも早く、思い切りソファの下に頭と両手を突っ込んだアメリカンが次の瞬間たまぎる悲鳴を上げて飛び上がる。
「ぎゃあぁぁぁぁっ!」
「ジェット!」
慌てた仲間たちが目にしたものは、その指先と高い鼻にくっきりとついた鋭い歯形。幸い流血の惨事とまでは行かなかったが、どちらにもしっかりと穴が開き、周囲が赤く腫れあがっている。
「…まぁまぁ、無闇に突っ込んでいくばかりが能ではないぞ、若人よ。こういうときはちょいと知恵を働かせてだなぁ」
すかさず己が能力を発揮し、「自由意志と運動能力を持った虫取り網」に変身した第二陣―グレートも、一瞬のちには同じく悲鳴を上げて飛び退った。こちらはこちらで虫取り網の枠の部分に形を変えていた唇を思いっきりかじられたらしい。
「ええい、こうなったらもうソファをどけるしかねぇ! ジェロニモ、頼む」
「…ムゥ…」
だがその返事はどこか戸惑ったような、乗り気でないような。それもそのはず、すでにこの褐色の巨人の両肩には、これまで撤去してきた家中のサイドボードだのキャビネットだのパソコンラックだのが山積みになっていたのだった。もちろん、五百人力、千人力を誇るジェロニモならこの程度の重量などさほどの苦ではない。だが、手当たり次第に積み上げた家具の山のバランスを取るのはいかに彼とて中々難しい作業のようで…この上ソファなど持ち上げたらご家庭内土砂崩れは必至、サイボーグである住人たちはともかく、家具とこのリビングが無事では済まないだろう。…こうなっては完全にお手上げである。
一同が言葉を失ったところへ、ジョーのためらいがちな声が飛んだ。
「ね、ねぇみんな…。もうこんな『力ずく』はやめようよ。こんなふうに家中総出で追っかけまわしたりしたら誰だって―素直になれるものもなれなくなっちゃうじゃないか。だから…だからもう一度…よぉく、話し合ってみたらどうかな?」
「何言ってんだよオマエ! もとはと言えばその話し合いの最中こいつが逃げ出して…」
途端、カッとなって言い返したジェットの肩にぽんと置かれたアルベルトの手。
「…ま、そういきり立つな、鳥頭。正直、今回ばかりは俺もお前と同じ気持ちだが―アイツが話の途中でいきなり、何も言わずに逃げ出したのは確かなんだ。ここは一つ、その気持ちとやらを聞いてやるべきなのかもしれん」
その言葉に安堵の笑みを浮かべたジョーが、すかさずソファの前に這いつくばった。
「…ね、今のアルベルトの言葉、聞こえただろう? 僕たち、もうこれ以上君を追っかけまわしたりしないよ。だから、ほんのちょっとだけ…顔を見せてもらうわけにはいかないかな?」
だが―。
「嫌でち! ぜぇぇぇぇったいに嫌! さっきのお話…『ご挨拶』を延期ちてくれない限り、ボクは決ちてここから出て行きまちぇんからねっ!」
小さな子供のような甲高い声、舌っ足らずの台詞。こんな物言いをするのは現在のギルモア邸には一人―いや、一匹しかいない。
そう、先ほどからの大捕物の標的はまぎれもなくパピ―つい先日ひょんなことから00ナンバーたちと出会い、今はちゃっかりこのギルモア邸の居候を決め込んでいるチビ犬だったのである。
半月ほど前、太平洋上で起こったささやかな異変に不吉な予感を覚え、調査に乗り出した00ナンバーたちが思いもかけず発見したのはBGの秘密基地。そこで早速潜入してみれば、何故か無人の基地内をたった一匹うろついていたのがこのチビ犬というわけ。生憎そのすぐあとに「不幸な事故」が起こり、結局彼らは何もしないまま敵基地は大崩壊、ついには大爆発して四散したのだが―。
このチビ犬―パピを「BGから逃げ出してきた実験動物」と判断した00ナンバーたちは、そのままギルモア邸に連れて帰り、しばらく面倒を見ることにした。本当はメンバー全員(特にジョー←お約束)、かつてのクビクロのようにこの家の正式な飼い犬にしたいと思っていたのだが、パピがギルモア邸の一員になるには、ちょっとばかり―深刻な問題があったのだった。
それはずばり、パピの大きさ。がっしりと精悍な中型犬だったクビクロにひきかえ、パピは超小型犬である。こんなチビを家において、万が一BGの奇襲でもかけられたら―?
クビクロなら、いい。いざとなったら緊急避難、襟首つかんでドルフィン号に放っぽりこんでも、ある程度体格がしっかりした中型犬なら大した怪我もしないだろう。だが、こんなチビ犬に同じことをしたらよくて大怪我、悪くすれば一発で天国行きになってしまう。それでなくても、どさくさにまぎれてもしも誰かがこのチビを踏んづけでもしたら―?
何度も開かれた家族会議の結果、彼らはとうとうパピを飼うことを諦めざるをえなかった。そこで今度は引き取り手を捜すために手分けして奔走することになったのである。
最後まで責任を持って面倒を見てくれることは最低条件として、できれば自分たちもしょっちゅう会いに行けるところがいい。というわけで最初に白羽の矢が立ったのはもちろんコズミ博士。だが、博士は生憎一人暮らしだし、いまだ学会やら何やらと家を空けることも多い。
(うーむ…。飼ってやりたいのは山々なんじゃがのう…留守のたびにどこかに預けることになってしまうでな、それではかえって犬が可哀想ではなかろうか…)
電話の向こう、申し訳なさそうな声を聞いては、それ以上強引に頼み込むわけにも行かない。
コズミ博士がだめとなると同じ一人暮らしの松井警視もまず無理だろう。まして彼はコズミ博士よりももっと勤務が不規則な警察官、しかもマンション暮らしである。
「ほなら石原医院はどうやろか? あそこは石原先生だけでなく、ご両親や弟さんも一緒の四人家族だったはずアルやろ」
張々湖に言われて即座に受話器を取ったジョー。しかし、残念ながら石原医師の返事もあまり色よいものではなかった。家族ぐるみで医院を経営している石原家では、平日の昼間は一家全員仕事場に詰めてしまい、居住部分が全くの無人になってしまうというのである。
(結局、毎日留守番させる羽目になっちゃうんだよねぇ…。ましてウチは小児科もやってるし、診察室や待合室が結構にぎやかなんだ。そんな騒ぎを聞きながら自分はたった一匹で留守番なんて、ワンちゃんにとってはかなり辛いんじゃないかなぁ。ほら、犬って群社会への帰属意識がすごく強い動物だから…)
これまた電話の向こうで小さくなっているだろう石原医師の言葉には、さすがの「犬バカ」も何も言い返せない。
「そう…ですか。すみません、お騒がせしました」
ところが、そこで電話を切ろうとした瞬間。
(あ…待って、島村クン! ねぇ、だったら藤蔭先輩のところはどうかな。あちらにはお母様がいらっしゃるし、先輩が仕事に出ても、ワンちゃんが一人ぽっちになるなんてことはまずないはずだよ!)
「え…本当ですか!?」
そこで最後の頼みの綱とばかりに藤蔭家へ打診してみればこれが見事に大当たり、そんな事情なら是非ウチで…と二つ返事で承知してくれたのである。
(も、ウチのバーサンが大乗り気なのよ。ほら、私の帰りが毎日結構遅いじゃない。話し相手がほしくてほしくてたまらなかったみたいなの。「何だったら明日からでもお世話します」なんて言ってるわ)
この言葉にギルモア邸全員が躍り上がって喜んだのは言うまでもない。ただ、パピは一応成犬だし、万が一藤蔭家になじめなかったりしても困る。そこで、引き取ってもらう前に「ご挨拶」という形で顔合わせをしてみようという話になり―。
いざパピに全ての事情を説明し、二日後に藤蔭家に行こうと切り出した途端、何故だかこのチビ犬は脱兎のごとく逃走し―そして冒頭の大捕物に至る、というわけなのだった。
「ねぇ、パピちゃんが知らないおうちに行くのが不安なのは充分わかるけど…。藤蔭先生はとっても優しい人だし、先生のお母さんもパピちゃんのこと聞いて会えるのを楽しみにしてるんだって。だから、何も心配することはないんだよ。とにかく一度…」
あれからずっと床に這いつくばって説得に当たっているジョーはすでに汗だくである。それでもパピは、いまだソファの下に篭城したままで…。
「違いまち! ボクは別にしょの…藤蔭しゃんちが嫌なんじゃありまちぇん!」
意外な台詞に、ついつい全員の耳がダンボになる。
「ボクがこのおうちに来てから、皆しゃんは本当によくちてくれまちた。でちから、皆しゃんが探ちてくれた飼い主しゃんなら―きっとすごく優しくて―ボクのことを心底大事にちてくれるご家族だと信じてまち。でも…でもねっっっ!」
ほんの一瞬の間のあと、ソファの下から聞こえてくる声がいっそう大きく―高くなる。
「ボクは嫌なんじゃなくて、恥ずかちいんでちっ! お話によればしょの…藤蔭先生ってお医者さんは女の人で、ちかもとっても若くてすごく美人だっていうじゃないでちか! しょんな若くて綺麗な女性にお会いしゅるっていうのに、ボクはいまだにこんな『カッパハゲ』のままなんでちよっ! こんなみっともない格好でレディの前に出るなんてボクの…いえ、パピヨンとちての誇りが許ちまちぇんっっっ!! ホントは、フランソワーズしゃんに見られるのだって恥ずかちくて仕方ないんでちから…。少なくとも、この脳天のカッパハゲ…刈られた毛並みが元に戻るまで、ボクは絶対に、新ちい飼い主しゃんたちには会わないでちっ!」
途端、ジョーとピュンマが真っ赤になってうつむく。パピの言う「カッパハゲ」―それは例のBG基地内で起こった「不幸な事故」がそもそもの原因なのだが―実をいうとこの二人にもほんの少し―いやかなり、責任があったりするのだ。
そんな二人を見かねてか、すかさずジェットが助け舟を出す。
「で、でもよワン公。オマエの毛並み、あれから随分伸びてきたじゃねぇか。少なくとも今は決してハゲなんかじゃねぇぜ。…むしろ、日本の時代劇に出てくるサムライみてぇでカッコいいよ!」
「お侍しゃん…でちか?」
「そうそう! ほれ、TVによく出てくるじゃんか。ビンボーナガヤに住んでるカサハリローニンってやつ? 今のオマエの頭、あれそっくりだぜ!」
…多分ジェットは「サムライ」と名がつけば何でも「カッコいい」と心から思っているのだろう。だが、貧乏長屋の傘張り浪人の頭といえば大抵、金がなくて月代を剃ることができず、中途半端に毛が伸びてしまった状態で…生粋の大和民族、日本国民の目から見れば「むさ苦しい」以外の何物でもなかったり…するのだが。
ジェットよりははるかに時代劇と日本文化に詳しいグレートが、さすがにこの慰め方はまずいと思ったのか、助け舟を出し直す。
「いや、それを別にしても藤蔭先生は―言っちゃ悪いがそんなに若いわけでもないぞ。そりゃ我輩よりは年下だが、確か…張大人とどっこいどっこいくらいじゃなかったかな?」
が―。
「でもグレート、先生が美人なことには違いないよ。実際の年齢よりずっと若く見えるし」
「そうよ! 女性の魅力は年齢なんかには関係ないわ! 失礼よ、グレート!」
今度は熱烈な藤蔭医師シンパのジョーとフランソワーズの気に障ったらしく、少年少女がぷっと頬を膨らませた。
「あ、いやすまん。我輩は決してそんなつもりじゃなかったのだが…うん、確かに麗しき女性には年齢など関係ない! それは我輩も自信を持って断言するぞ。…そう言えば、藤蔭先生のご母堂もかなりお美しい方だと石原先生から聞いた覚えが…」
「芸能人だと八○草薫はんに似てはるちゅうてたアルネ」
「そうじゃったかのう…? 確かわしはコズミ君から、○藤治子さんに似ておられると聞いた気がするんじゃが…」
「うわ、それじゃどっちにしたってかなりの美人じゃんか。いっぺん会ってみてぇな!」
いつの間にか話題は完全にズレまくり、パピをなだめるどころかかえって火に油を注ぐ方向へとまっしぐらに進んでいく。
そしてとうとう、パピは完全にキレた。
「…もう、いー加減にちて下ちゃいっ! こーなったら年齢も美醜も魅力も関係ないでち! とにかくボクはこんな頭で初対面の女性の前に出るのなんて絶対に嫌っ!」
「だけどパピちゃん!」
「嫌だと言ったら嫌なんでち! も、みんな出てって下ちゃい! ボクは今、誰にも会いたくありまちぇんっっっ!!」
それっきり、誰が何を言ってもソファの下からの返事は聞こえなくなった。どうやらチビ犬、今夜はここで夜明かしする覚悟を決めたらしい。さすがの人間どもも、こうとなっては根負けするしかなく…。
「…仕方ないのう。それじゃ、明日にでも藤蔭君に電話してもう一度相談しなおすとしよう。皆も今夜はこのまま引き上げた方がよいかもしれん。明日になればまた、パピの機嫌も直ってるかもしれんでな…」
ギルモア博士にそう言われては、メンバーたちも従わないわけにはいかない。幸い季節はそろそろ春の終わり、一晩くらいソファの下で寝たところでパピが風邪をひいたりすることはまずないだろう。
それでも、と心配したジョーが毛布を一枚持ってきてソファの脇に置き、「もし寒くなったらこっちで寝るんだよ」と最後の声をかけたのだが、パピはあくまでもソファの下、沈黙を守り通していたのだった。