前略、道の上より 6
だがそんな車中でのやり取りを別にしても、ヤスたちの話はジョーとジェットを深く考え込ませるには充分であった。ヤスが言うように、今のやり方が最良だとはとても思えない。しかし、だからと言って全てを表沙汰にし、親や学校に通報するというのも―本来ならそれが「常識的な大人」の対処であるにせよ―根本的な解決策にはならないと思う。
仲間たちの意見も聞いてみたものの、はっきりとした決断を下せなかったのは皆同じで。しばらくの間、ギルモア邸内ではメンバー全員ばかりか当主たるギルモア博士までも加わって侃々諤々たる議論が交わされたのだが、とうとう結論は出ずに終わってしまった。
そして結局、ジョーとジェットは何一つできるでもなく、相変わらず深夜のコンビニに通い続けている(ちなみに、パピのことはさすがの仲間たちにも打ち明けられなかった。現在の生物学的常識に後足で砂をひっかけるような、あんなとんでもないワン公の話などしたら、こちらの方は全員一致で徹底的な「頭の」メンテナンスを言い渡されてしまうに違いない)。
幸いその後もあの子供たちが事件に巻き込まれたり、深刻な問題を起こしたりといったことはなかったから、それでもまぁ一応は平穏と言っていい日々が続いていたわけなのだけれど。
その平穏が破られたのは、そろそろ冬将軍がやってきたかと思われる頃だった。
「ふぃ〜っ、寒い寒いっ。今夜の冷え込みはマジ、キツイぜぇ。何はともあれ、温ったかい缶コーヒー一本っ! あとはまた、あらためて追加すっからよ!」
「あ…あ、リンクさん、島村さん!」
いつものごとく自動ドアをくぐったジョーとジェットを迎えたのはヤスではなく村田―二人が初めてここに来たときに出会ったバイト学生であった。
「あれ? 村田さん一人? 今夜はちょっと遅くなっちゃったから、もうヤスの休憩時間は終わってると思ってたんだけど。ヤスはまだ控え室?」
言いつつ、勝手知ったる他人の家…じゃなかった店とばかりにレジの脇を通って控え室に入っていこうとした二人だったが。
「あっ…! 待って下さいっ! 今…ちょっとヤバいんスよ。だからほんの少し…店の方で待っててもらえませんか?」
慌てて引き止める村田をジェットが怪訝な目で振り返る。
「何だよ、入るのがヤバいって…。もしかして今日はヤス、いねぇのか?」
「あ、いえ…チーフはいつもどおり店に来てるっス。でも、ちょっと…」
おろおろと歯切れの悪いその言葉に、今度はジョーが眉をひそめた。
「どうしたんだい? いつもの村田さんらしくないよ。もしかして、何か…あったとか?」
「あ、いえ…別に…。でも、そのぅ…」
たちまち口ごもってうつむいてしまった村田。と、そのとき不意に控え室のドアが開いた。そして…。
「…とにかくその件については俺たちの方でもう一度、裏取ってみるから。もしかしたら通報者の思い過ごしかもしれないんだから、あまり深刻にならないでくれよな、チーフ」
背後に向かって語りかけながら出てきたのは、何とあの制服警官―今井。その後ろには、心なしか気落ちした様子のヤスが続いている。
「今井さん!」
「ヤス…? どうしたんだい、顔色がよくないよ」
思わぬ組み合わせに驚いたジョーとジェットの声に、今井とヤスもはっとこちらを振り向く。
「あ…やあ、島村君、リンク君。今夜も買い物かい? 二人とも、すっかりここの常連になっちまったなぁ」
たちまち、今井の顔にはあの人好きのする笑顔が浮かぶ。だが、今夜のその表情は少しばかりわざとらしく見えた。
「それじゃチーフ、俺はこれで。村田君、荷物預かってくれてありがとうな」
そればかりかどこかそそくさと、逃げるように出て行く制服警官。…どうも、変だ。
あの夜以来、ジョーとジェットは今井とも何度か顔を合わせ、現在では先ほどのようにちょっとした挨拶や世間話なども交わす仲になっている。そしてもちろん、今井は彼らよりずっと古いこの店の常連だから、ヤスや他の店員たちとも仲がいい。
だが、それはあくまでも「店の客」としての話。ヤスにとってのジョーのような、店員の個人的知り合いではない今井がここの控え室に入ったりすることなど、これまで一度もなかったはずである。
首をかしげつつ、ぼんやりと今井を見送るジョーたちの背後で、村田がそっとヤスに近づき、その耳に唇を寄せた。
(チーフ…。で、どうだったんです? あの話。まさか、ヤバいことになったりしませんよね? だってチーフは全然悪くねぇんですから…むしろ、表彰されたっていいくらいなんスよ?)
(ああ…とにかくその件は、警察の方で詳しく確認してくれるとよ。何かわかったらすぐに連絡してくれるっつーから、それまではいつもどおりに…)
おそらく彼らは、ジョーやジェットに聞こえないよう、極限まで声を落としていたつもりだったろう。確かにそれは、普通の人間相手ならきっと気づかれずにすんでいたに違いない、ごく小さなささやき声にしか過ぎなかった。
だが、サイボーグの耳にはその会話がしっかりと届いてしまって。
「え…? どういうこと? やっぱり何かあったんだね、ヤス!」
「ヤバいって…まさかあのガキどものことじゃねぇだろうな?」
内緒話の真っ最中にいきなり振り向かれたヤスと村田が、びくりと身をすくめる。
「な…何だよお前ら、今の聞こえちまったのかぁ!? えれー地獄耳だな、オイ…」
「地獄耳でも何でもいいだろう!? ねぇ、何かあったんなら僕らにも教えてくれよ! もし僕らにできることがあったら何でも力になるから!」
「そーだそーだ! 自分たちだけで悩んでるなんて水くせぇぞ!」
「チーフ…」
ジョーとジェットの真剣な瞳、そして村田の泣きそうな瞳で見つめられたヤスは、やがて観念したように目を閉じた。
「…わかった。ありがとうな、二人とも。でもこれは、本当に何でもないことかもしれねぇんだよ。俺がちょっと神経質になりすぎてるだけかもしれねぇ。…それでも、いいか?」
目を開けて、真っ直ぐに二人の「ダチ」を見返したヤスに、ジョーとジェットがしっかりとうなづいた。
「…じゃ村田、俺ゃまた控え室に逆戻りだ。お前にゃいつも仕事押しつけてばかりで…悪いな」
「そんなこと言わないで下さいよ! 俺、全然気にしてないっスから…本当っスよ!」
三人の後ろから追いかけてきた村田の声には、ほんの少し―涙が混じっていたようだった。
そしていつものごとく、控え室のテーブルを挟んで向き合った三人。だがやはりヤスの動きはのろのろとして覇気がなく―椅子に座ってからもただうつむいて、目の前のテーブルを見つめているだけである。しばらくののち、ようやくその重い口が開いたかと思えば。
「…今回の件はタケシたち―あのガキどもとは何の関係もねぇ。それだけは命かけて保証するよ。だから、安心してくれな」
飛び出してきたのはあの子供たちを気遣う台詞。そして多分、さっきのジェットの言葉への返事でもあるのだろう。ジョーとジェットの顔が、安心したように―そして、嬉しそうにほころぶ。
しかし、次の言葉を聞いた途端、二人の顔からはそんな安心や嬉しさなどかけらも残さず吹っ飛んでしまっていた。
「原因は俺だ。…実はこの前話した例のコンビニ強盗、な。奴らがさ、どうやらこのところ相次いで刑務所出てきたらしくて…でもって、俺のこと酷く恨んで…復讐する気でいやがるらしいんだ」
「え…?」
「何だと…っ?」
たちまち顔面蒼白になってヤスに詰め寄るジョーとジェット。だがヤスはそんな二人に泣き笑いの表情を見せて。
「一週間ほど前…タケさん…今井さんの上司の竹内巡査部長のトコへ、タレコミ電話があったんだとよ。電話の主は昔、タケさんが挙げた殺人…犯。でもさ、そいつにゃ殺意なんかこれっぽっちもなくてよ。女絡みのいざこざで、相手に襲われて…過剰防衛だったんだ。だからタケさんもそいつに同情して、逮捕した後も何かと世話焼いて…。だからこそ、あえて連絡してくれたんだろうな…」
「ンなこたどーでもいーんだよっ! で、そのタレコミってなぁどんな内容だったんだ!?」
真っ赤になって言いつのるジェットに向けたヤスの笑みはあまりにも力なく、悲しげだった。
「そいつさぁ…あの犯人たちと同じムショに収監されてたんだと。昔…俺がいたところにさ」
そこで大きくため息をついたヤスには、さすがのジョーもジェットも、かける言葉一つ見つけることができなかった。
「…ムショってトコにはいろんな連中がいる。俺みたいにほんの一、二年で出てきちまう奴もいりゃぁ、ナガムシ(長期刑)喰らって十年、二十年も居座ってる奴、セコイ犯罪何度も繰り返して、出てったと同時に舞い戻ってきちまう奴…。だから、今のあそこに俺を知ってる奴の一人や二人いたところで何の不思議もねぇ」
再度のため息。
「いくらムショでも仲間と雑談する時間くらいはあらぁな。でもって、その何でもない世間話の最中、あの強盗犯どもは聞いちまったんだ。自分たちをとっ捕まえた俺が、かつて自分たちと同じくここでクサいメシ食ってた前科者だったってことをよ。出所後の俺のことまで知ってるムショ仲間はさすがにいないはずだが、ほれ、俺にはこいつがあるからさぁ。詳しい人相風体訊いてみりゃ、誰でも俺だとわかるわな…」
言いつつ、ヤスが指差したのは自分の鼻―にくっきりとついた傷痕。「ハナキズのヤス」の二つ名の元になった、まごうかたなきヤスのトレードマーク。
「前科持ちの俺にとっ捕まってムショ送りにされたなんて、強盗犯どもにしてみりゃこれほど腹の立つこたねぇだろうさ。ま、それを聞いたときのあいつらはごく平然としていたらしいが、出所間際になった夜中、並んだ布団の中でこっそり、俺への恨み言を言い合って…『テメェの昔棚に上げて正義の味方ぶりやがって』とか『一生この恨みは忘れねぇ』とか…挙句の果てには『シャバに出たら必ず目にもの見せてやる』なんてことまでヌカしてたんだと。で、その隣でふと目を覚まし、奴らの話を聞いちまったのが…」
「その…電話の主…だったってことかい?」
恐る恐る口を挟んだジョーに、ヤスが大きくうなづく。
「そのときはそいつも、奴らが本気なのかどうかわからなかったし、そんな夜中の内緒話をいちいち看守にチクる気にはならなかったんだろうさ。何といっても、一応は同じムショ仲間同士だ。てめぇの憶測や密告が原因で、仲間の出所が延期にでもなっちまったら寝覚めが悪いだろ? だからそいつは何も言わずにまず片っぽ―俺に缶コーヒーぶつけられてのびちまった奴―を見送り、そのあと自分も出所した。もう片っぽは主犯格とみなされた上、現場からも逃走しちまったりしたからあと半年ばかり刑期が残ってて、そんときはまだ『塀の中』よ。だがその主犯格の出所が近づくにつれて、そいつはだんだん不安になってきた。あのときはてっきり冗談だと思ったから放っておいたが、もしあれが本気だったとしたら…? ってな。それでとうとう我慢できなくなって、昔から世話になってるタケさんに電話してきたってわけだ。主犯格が…出所した日の夜にな」
ヤスの目が、ジョーとジェットをかわるがわる見つめる。
「だが、いくら警察でもそんな夜中の内緒話だけじゃ動けるわけがねぇ。奴らだって今はもう立派に刑期を勤め上げて『一般人』に戻ってるわけだし、冗談だったのか本気だったのかさえわかんねぇんだから。所轄署と刑務所に連絡して奴らの住所をおさえ、他にもそんな話を耳にしたムショ仲間がいるかどうか確認してもらう。そして今井さんと協力して店及び俺のアパート周辺のパトロールを強化する…さすがのタケさんといえども、現時点でできることはここまでだ。…まぁ、それとは別に今井さんと二人、ヒマさえあれば聞き込みその他の情報収集にも走り回ってくれてるそうだが、今のところ特にヤバそうな気配はないらしい。ただ、タケさんや今井さんが心配してるのは…」
突然小さくなってしまったヤスの声。ジョーとジェットの瞳が、すい、と細くなった。
「奴らがどれほど俺を恨んでいるにせよ、出所してすぐ行動を起こすほどバカじゃねぇだろう。あの事件のことは警察だって全て承知だ、もし今この店や俺に何かあったりしたら真っ先に疑われるのは奴ら二人に間違いねぇんだからな。…しかし所轄署だって忙しい。たかがタレコミ電話一本に、いつまでもかかずらわっちゃいられねぇやな。まして管内に別の大事件でも起きたりしたら、こんなあやふやなネタなんざすぐさま忘れられちまうんじゃねぇかって…そのときが一番ヤベぇって…」
そこで突然、自分の頭を両手で抱え込み、激しく首を振ったヤス。
「なぁおい、ジョー…ジェット! 俺一人なら、いいんだよ! たとえ闇打ち喰らおうが何だろうが、俺一人ならタイマン張って…いや、一対二だっていい。死に物狂いで反撃して、返り討ちにでも相討ちにでもしてやらぁ。でも…でももしも俺の所為で、この店に何かあったらって思うと居ても立ってもいられねぇんだよ! なぁ…俺、一体どうすりゃいいんだ…? どうすりゃ…よ…」
そのままがっくりと肩を落としたヤス。…と、やがてその背中にジョーの手がそっと置かれて。
「ヤス…ヤス…。お願いだからそんなに落ち込まないでくれよ。さっき言ったじゃないか。僕だってジェットだって、できることなら何でもするって。それに、今井さんも…何かあったらすぐ連絡してくれるはずだろう? だったらさ、もしその『連絡』があったらすぐに僕たちにも知らせてよ。…決して悪いようにはしないから! 遠慮なんかしないで必ず知らせて! 絶対だよ!」
「ジョー…」
頼もしい言葉に顔を上げたヤスの瞳はかすかに潤んでいて。しばし見つめ合った二人の隣、ジェットもまた静かに―力強くうなづく。
「ジョーの言う通りだぜ、ヤス。お前だってこいつの腕は知ってるだろう。憚りながら俺だって、そっち方面じゃジョーに引けはとらねぇ。お前と合わせて三人、おまけに今井さんたちまでついててくれるとなりゃ鬼に金棒だ。…何があろうと絶対に大丈夫だから安心しろ!」
「あ…」
次いでジェットの名前を呼ぼうとしたヤスの口からは、もう言葉が出なかった。ただひたすらに頭を下げ、肩を震わせているばかりである。その足元に、透明な滴がぽとりと落ちた。
しかし、ジョーとジェットはヤスの心配が必ずしも現実になると思っていたわけではない。ヤスへの言葉に決して嘘はなかったけれど、ヤス自身が何度も言っていたように、あの強盗犯どもの会話が本気だったという確証はどこにもないのだ。
むしろ、冗談やただの鬱憤晴らしであった可能性のほうが高いのではないかと思う―いや、そうあってくれ―そんな二人の願いも虚しくギルモア邸の電話が鳴ったのは、ヤスからその話を聞いたちょうど一ヵ月後の、昼下がりのことであった。