一流の条件 2


 開店間際にあんな話を聞いちまった所為か、その日の俺はどうも調子がよくなかった。いつものように玄関ホールでのお出迎えに立っていても、やってきたお客様のためにドアを開けるタイミングが微妙にずれたり、コートを脱がせてさしあげようとして、うっかりネックレスまで引っ張っちまって危うくお客様を絞め殺しそうになったり…極めつけはついさっき、閉めようとしたドアに思いっきり指を挟んじまったことだな。あーあ。まだじんじんしてやがるぜ、畜生。
(大丈夫? ジェット)
 あまりのドジのオンパレードにジョーも呆れ果てたのか、お客様の波が途切れた隙にそっと俺にささやきかけてくる。
(確かに、ショッキングな話だったものね…。でも、気にすることないよ。いくら何でも僕たちにはまだそんな…刃物持ち出して喧嘩するほど入れ込んでくれるお客様はついてないもの。もし何かあってもそれはきっと先輩たち絡みだよ。巻き添えにさえならなければ、平気平気)
 お説ごもっとも。―しかしお前ってばホント、可愛い顔してさらりときついこと言うよなー。手前ぇよければ全てよし、ってか? いい性格してるぜ。
 小さくため息をついたとき、再びドアの向こうに現れたお客様らしき影。よし、今度はドジ踏んだりなんかしねぇぞ。
 さっと飛び出した俺がドアを開け、ジョーとともに「いらっしゃいませ」と丁寧に頭を下げる。そしてジョーが、コートを受け取るために一歩前に出た、その瞬間。
「お…お客様…?」
 ジョーの茶色い、ガラスのような目が極限まで見開かれた。何か言いかけようとして半開きになった唇からも頬からも、一瞬にして血の気がひいていく。
 もちろんそれは俺も同じことで―っつーか、こっちはもっとヤバイ状況に…陥って…たりして…。
 そのお客様は三十代半ばくらいの年恰好で、艶やかな黒髪が腰まで伸びた中々の美人だった。身につけている服やアクセサリー、そしてバッグなんかのセンスもよくて、かなりの高級品。しかも、ちょっと見にはそうは思えないよう、さり気なく計算されたコーディネイト。…只者じゃ、ねぇ。
 だがその目は赤く血走り、何かに憑かれたような不吉な光を浮かべていた。そればかりか、店に一歩入るやいなや、手にしたバッグからいきなり何かを取り出し、脇でドアを押さえていた俺の首根っこにぐい、とその柔らかな腕を巻きつけ―。
「…アルベルトは、どこ…?」
 一瞬の早業で俺を押さえつけたお客様の口から、不気味な低い声がもれた。ついで、首筋に突きつけられたのは―ナイフ!
「今すぐあの男をここに呼ぶのよ! …でなければこの子ののどを掻っ切るからね!」
「は…はいっ!」
 我に返ったジョーが、慌ててフロアに飛び込んでいく。おい、お前っ! まさかこのままトンズラしたり、しねぇだろなっ!!
 正直、俺が本気を出せば、いくら刃物を持っているとはいえたかが女の一人や二人、あっという間に取り押さえられる。だが―
 仮にもホストのこの俺が、お客様に手荒な真似をすることなんざ死んでもできねぇ。それがホストの心意気ってもんよ。
(…でも、本当に死んじまったら心意気もクソもねぇよなぁ…)
 絶体絶命の状況に、さしもの俺も弱気になったそのとき。
「ジェット!」
 フロアからジョーが戻ってきた。その後ろには…アルベルト…先輩…っ。
「いらっしゃいませ」
 こんなとんでもない光景を目の当たりにしながら、アルベルト先輩の挨拶はこれ以上ないというくらい優雅で…そして、平然としていた。
「…」
 俺を押さえつけているお客様、いや、女の手がかすかに緩む。どうやら、彼女は彼女なりに動揺したらしい。そこへすかさず、アルベルト先輩のぞくっとするようなテノールが斬り込んだ。
「ようこそおいで下さいました。…奥に、個室を用意してあります。よろしければそちらへご案内致しますが…」
 薄氷色の瞳で見つめられ、女の手は完全に俺から離れた。床にへたり込んで荒い息をつく俺に、ジョーが駆け寄る。こいつも、精一杯平静を装ってはいるらしいが、先輩に比べたらまだまだだ。顔は今も蒼ざめたままだし、俺を助け起こす手も震えてる。
「二人とも、悪いな…ヘルプに入ってくれ」
 ただそれだけを言い残し、アルベルト先輩は女の肩を抱いてフロアへと歩み去っていった。

 アルベルト先輩が女の肩を抱いて―それも、彼女の持っているナイフを隠すためにぴったりと寄り添って―フロアを横切り、奥の個室へ消えるやいなや、店中にざわめきとブーイングの嵐が沸き起こった。もちろん、一番激しかったのは今まで先輩がついていた、そしてこれから俺たち二人がヘルプにつくテーブルであることは言うまでもない。
(うえ…)
 これを一体どーやってなだめろってんだよぉ…頭を抱えた俺の脇で、ジョーはたまたま通りがかったグレート先輩を捉まえ、何か耳打ちしている。軽くうなづいたグレート先輩が二言三言言い返し、再びテーブルの方へ立ち去っていくと、ジョーは今度は俺に向き直った。
「大丈夫だよ、ジェット。先輩たちも、みんな事情はわかってるって。だから今は、とにかく他のお客様に気づかれないようにすることだけを考えよう」
 言いながら、カウンターのバーテンにグラスと氷、それからミョーに高そうなボトルを用意してもらって…って、おいジョーっ! それ、もしかしてミシェル・カミュ・ロイヤル・バカラじゃねーかよっ! どどどどーすんだ、そんな超高級品…。
だがジョーは平然とした顔でそれら全部をトレイに乗せ、目だけで俺を促した。
「さ、行こう」
 行くのはいいが、頼むからソレ、落っことさねぇでくれよ…その酒一本で、俺らの一ヶ月分の給料なんざ軽〜く吹っ飛んじまうんだからな!
 いろんな意味で生きた心地がしなかったものの、ふと周囲を見回せば、グレート先輩を始めとするみんなの手際はさすが見事なものだった。すでにもう、店内はすっかり落ち着きを取り戻している。ただ、俺たちが向かったそこだけは、そういうわけにもいかなくて。
「ちょっと、どういうことよっ!」
 近づいただけで、いきなり怒鳴りつけられた。
「何でアルベルトがいきなり消えちゃうの!? どういうことだか、説明しなさいっ!」
 そのテーブルにいたのは三人。俺も何となく見知っているアルベルト先輩の取り巻きだ。今までは落ち着いて洗練された「大人の女性」としてこっそり憧れてたりも…しなくはなかったが、場合が場合だけに普段の優雅さも貫禄もどこへやら、ただきいきいわめきたてるだけの女の本性がむき出しになっている。
「大変、申し訳ございません」
 こんな中へ、いつもの穏やかな笑顔で乗り込んだジョーの勇気にだけは、さすがの俺も感服するしかなかった。
「あちらのお客様とハインリヒは少々ワケありでございまして…あ、いえもちろん、恋愛沙汰なんかじゃありません。詳しい事情はこれからお話し致します。でも、その前にこちらを一杯。ハインリヒからの、心ばかりのお詫びのボトルです」
「あら…」
 むっつりした表情で黙り込んでいた最後の一人が、驚いたように目を見開く。
「それ、ロイヤル・バカラじゃない。いいの? いくらアルベルトからでも、そんな高いお酒…」
「当然ですよ!」
 わお。出た。天使の笑顔!
「どんな事情があるにせよ、せっかくの楽しいひとときを中座するなんて、ホストとしては許されないご無礼です。だから―せめて美味しいお酒でも召し上がって頂くしかお詫びの方法がないと―これくらいしか思いつかない自分をどうか許して下さいますように、という気持ちのこもったボトルです。どうか、ご遠慮なくご賞味下さいませ」
 お…何だかわからないけど一瞬にしてブーイングが消えたじゃん。大したもんだぜ、ジョー!
「…ふぅん。で、それを作ってくれるのは誰? まさか、手酌でやれなんて無粋なことを言う気じゃないでしょうね」
「もちろんです! ハインリヒには及びもつきませんが、彼が外している間は僕たちが心を込めておもてなしさせていただきます。…あ、申し遅れました。僕はジョー。そして彼は、ジェットといいます」
「へぇ…」
 顔を見合わせる三人。
「貴方たち、新人? 確か今までは玄関でのお出迎え専門だったわよね。…でも、可愛いじゃない。アルベルトとは違った初々しさが新鮮だわ」
 そう言ってくれたリーダー格らしい女に、ジョーが満面の笑みとともに頭を下げる。
「ありがとうございます!」
 よし…これならどうやら大丈夫そうだな…。
「それでは今すぐに、お作り致します!」
 ほっと胸をなでおろした俺は早速ボトルを取り上げ、人数分用意されたグラスにけたはずれの高級酒を注ぎ、水割りを作り始めた。
 だが、その合間合間につい―もちろん、お客様には気づかれないように―アルベルト先輩とあの女が消えた個室のドアをちらちら見てしまうのだけはどうしようもない。二人が入ってから五分ほどたって、ピュンマ先輩がマティーニのグラスを二つ、持って行ったけど―そんでもって出てきたとき、じっとドアを見つめていた俺に、「大丈夫だよ」って目配せしてくれたけど―。
 一体中では何が起こってるんスか? アルベルト先輩…。まさか、さっきの話のグレート先輩みたいにいきなりグサリ、なんてやられちまったんじゃないでしょうねっ!
 営業スマイル全開で水割りだのオンザロックを作り続る俺は、ともすれば指先が震えだしそうになるのを死に物狂いで抑えていた。





 部屋のドアが閉じられたと同時に、女はぱっとアルベルトの隣から飛びのき、手にしたナイフを構えた。
「アルベルト! 私…今日は覚悟を決めてきたのよ! この店を辞めて、ずっと私のそばにいて! でなければ…今この場で、私と一緒に死んでちょうだいっ!」
 真っ赤に充血した目、震える指。加えてその口調にありありと交じる狂気の翳り。彼女が今、まともな状態ではないことははっきりと見て取れた。しかしアルベルトは微動だにせず、かすかに眉をひそめ、唇の端をほんの少し、つり上げただけで―
「ふ…ん。…困ったな。お前さんらしくもない。俺の知ってるお前さんは、そんなわけのわからないことを言う駄々っ子じゃなかったはずだが」
「…それは…昨日までのあたしよ! 今日の…いえ、今夜のあたしは駄々っ子なの! 貴方を手に入れるためにならどんなことでもする、ただのわからずやなのよ! でも、そんなことどうだっていいでしょう!? 問題なのは貴方の答えよ! YesかNoか、はっきり言ってちょうだい!」
 アルベルトはふと首をかしげ―そのまま恐れ気もなくずい、とナイフを構えた女の方へ一歩、踏み出した。
「お前と一緒にここで死ぬ―それも、悪くはないかもしれん。だがその前に、末期の水―ならぬ末期の酒くらいは、酌み交わしてもいいんじゃないか?」
 薄暗い照明の中でもぎらりと不気味に光る刃。それが狙いを定めているのは己れの喉元、あるいは心臓であることはわかりすぎるくらいわかっているだろうに、常日頃の冷静さをまるで失っておらぬアルベルトに、女は半ば呑み込まれかけていた。今なら、男は隙だらけ―その気になれば簡単にその命を奪うことができる。だが、女にはどうしてもそれができない。いつしか指だけではなく、その身体さえもが激しく震え始め―狂った赤い目には涙さえ浮かんでいるというのに、どうしても構えた刃を繰り出すことができない。
 そこでアルベルトがつと、全くの無防備に彼女に背を向け―壁に設置された内線電話の受話器を取った。
「―ああ、俺だ。悪いがマティーニを二つ、持ってきてくれないか。…できれば、ジョーやジェットではない方がいい。奴らには今、俺のヘルプを頼んであるからな」
 電話を切り、自分を殺そうとしている女を振り返った銀髪のホストは、これ以上ないというくらい丁寧に、深い尊敬と愛情を込めてその肩を抱き寄せ、静かにソファに導くと、そのまま並んで腰を下ろした。
「お待たせ致しました」
 間髪いれず、入ってきたのはすらりとした長身の黒人青年。ピュンマだ。
「すまんな、ピュンマ」
 微笑を浮かべたアルベルトにピュンマも口元をほころばせ、そのまま軽く一礼して出て行く。その後姿には、一片の動揺も、不安もない。
「さて…この世の名残の酒が届いたぞ。乾杯と行くか」
 相変わらずアルベルトを狙っていても、女の手からはほとんど力が抜けていた。おそらくアルベルトなら、今ここで彼女を取り押さえることなど赤子の手を捻るよりも簡単だったろう。だが彼は敢えてそうせず、運ばれてきたグラスを穏やかに勧めただけだった。
「お前さんのお気に入りだ。…この店のマティーニは今まで飲んだ中で一番美味しい…そう言って笑ってくれたその顔が、俺は好きだったんだがな」
 女の目が、丸くなる。
「貴方…いつの話をしてるの…? それって確か、あたしが初めてこの店に来たときの…」
「好きな女のことなら、何年たっても覚えているさ」
「…やめて!」
 女の手に再び力がこもり、ナイフの切っ先がアルベルトの胸に向けられた。
「確かに…貴方はあたしの恋人。あたしは貴方を誰よりも愛し、貴方もあたしをこの世で一番大切に思ってくれた。…でもそんなの、ほんの一瞬のことじゃない。あたしがこの店に来て、金で…貴方の時間を買って、ほんのひととき見せてもらっていた幻―わずか二時間か三時間の、たったそれだけの―ちゃちな夢だったじゃない!」
「…だが、それが俺の商売だからな」
 女の手の中のナイフは、今やアルベルトの左胸にぴったりと押し当てられていた。おそらくあとほんの数センチ、女が体を前に倒しただけで、この青と銀に彩られた彫像のような男はその体を鮮やかな朱に染め、そのまま事切れるだろう。だが彼は、そんな状況などまるで意に介さぬふうに両腕をソファの背に回し、その背中をゆったりと柔らかなクッションに預けて―
「夢を売る―中々、小奇麗な言葉だよな。この世の全ての人間は、みんな『夢』をほしがってる。老若男女、いや、たとえ小さな子供だっていつでも『夢』を望み、『夢』をむさぼって生きている―」
 ふと言葉を切った薄氷の瞳が、じっと女の赤い瞳を見つめた。
「だが、それにはいつも何かしらの闇がまとわりついているもんだ。未来への夢が実現するかどうかという不安、現在の夢がいつ醒めるかわからない恐怖、過去の夢が二度とその手に戻らないと知ったときの絶望…。『夢』ってやつは―闇の中で見るからこそ、美しい―」
 トレイの上のグラスをしなやかな指が持ち上げ、女に渡す。そして、残りの一つをいかにも悠然と唇に運び、心ゆくまで味わった後で―
「闇の中で見るべき夢。闇の中でこそ、美しい夢。そんなものを売っている人間なんざ、誰もが闇の住人なのさ。自分を闇の中に沈めてこそ、売るほどの夢も手に入る―」
 女はもう、ナイフを構えてはいない。だらりと落ちた右手は完全に弛緩している。そして、左手で受け取った先ほどのグラスだけを、指が白くなるほど握りしめて―。
 そんな女の様子になどお構いなしに、アルベルトの言葉は続く。
「だが、いくら俺たちでも同じ闇に身を沈めた者に『夢』を売ることはできん。闇にうごめき、闇に消える―闇の中に生き、光を知らぬものには闇を闇と認識することすらできないからな。闇を闇として認め、そこに花開く『夢』の価値がわかるのは、光の中にいる者だけなのさ」
 そこで、アルベルトはぐい、と女の手を取り―半ばその手から離れかけていたナイフが、からん、と小さな音を立てて床に落ちた―いまだ震えるその肩をぐっと引き寄せた。
「…俺は、お前さんに『夢』を売れて楽しかったよ―。お前に売ったその夢の中で、自分もひとときの『夢』に酔うのが嬉しかった―」
 男の唇が、そっと女の唇に重なる。深くて熱い―とろけるような、長い口づけ。
「…だから、な」
 触れたとき同様そっと離れた男の唇が、静かに最後の言葉を紡ぎだす。
「これからもずっと、光の中にいろ。お前さんは光の中にいてこそ輝く女だ。こんな、闇の中に堕ちる必要はない―」
 女の体がへたへたと床に崩れ落ちた。やがて、その口元からもれてくる啜り泣きの声。
 アルベルトが、そっとその傍らに膝をつく。そして、そのまま―啜り泣きが号泣に、そして血を吐く慟哭に変わってもなお―震える女のか細い肩を抱き、静かにその髪をなで続けていた。





 個室のドアが開いた音に、俺ははっとして振り向いた。するとそこにはさっきと同じ、あの女の肩をしっかりと抱いたアルベルト先輩が立っていて―。
「せ…先輩っ!」
(ジェット!)
 慌てたジョーが小声で俺をたしなめたが、そんなこと知ったこっちゃねぇ。よかった…先輩、無事だったんスね! だけどさすがに、そのまま駆け寄ったりはしない。何てったって今は仕事中だ。それくらいは俺だってわきまえてるし、たとえ仕事を抜きにしたって…できるかよ、そんなこっ恥ずかしいこと。
 先輩の傍らにひっそりと立つあの女からは、それまでの不吉な影も狂気もあっさりと消えていた。ただ、その目だけは相変わらず真っ赤に―泣き濡れていたけれど。
 今の彼女は本当に儚く、頼りなげで、誰かが支えていてやらなけりゃ立っていることすらできない風情に見えた。そして、そんな女をしっかりと支えているアルベルト先輩はというと、さながらたおやかな姫君を命を賭して守る騎士そのものの凛々しさと威厳に満ちていて―。
 そんな先輩の姿に圧倒されてしまったからだろうか。それとも、女同士の間にも「武士の情」というものがあるんだろうか―。二人が出口へと向かってフロアを横切って行く間、先ほどのようなざわめきやブーイングはこれっぽっちも聞こえてこなかった。そう、それこそ、俺たちが今ヘルプに入っているテーブルからも、一言も…。
 


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