天使の罠 5
荒々しいノックの音に、たった一人調理場に残っていた店長の身体がびくりと震えた。弾かれたように勝手口に駆け寄り、あたふたとドアを開ければ、押し入らんばかりの乱暴さで中に入ってきた男たちが数人。サングラスで顔を隠してはいるが、服装や体つきから察するに、全員まだ二十歳前後の若者であろう。そのうちの一人、リーダー格らしい奴がずい、と一歩前に進み出た。
「てめぇ、何で俺のケータイに電話なんざかけてくるんだよ。足がつくような真似は決してするなって、あれほど言ったじゃねぇか。…この、クズが!」
どう考えても、年上の相手に対する態度ではない。だが店長は、ひたすら平伏してぺこぺこと頭を下げるばかり。
「す、すまない…。本当に、悪かったよ…だが今日は、思いがけないことが起きちまって…酔っ払った客が二人、店の前でぐだぐだ居座ってるんだ。おまけにその連れが七人も、二階の宴会場に…だからもしも、あんたたちがそいつらに見られたらヤバイと思って…」
「けっ!」
リーダーが、吐き捨てるように言う。
「俺らがそんなドジ踏むわけがねぇじゃんか。それよりてめぇ、そんな酔っ払いの五人や十人丸め込んで追っ払うこともできねぇのかよ。てめぇの取り得は客あしらいだけなんだろ!? それすらもできねぇようじゃ、もう生きてる資格なんてねぇな」
そこまで言われても、まだ店長は頭を下げ、震えているばかり。リーダーが、軽蔑しきったような表情を浮かべた。
「…まぁ、いいや。それより、荷物はどこ置きゃいいんだ? 大して重かないとはいえ、いつまでも担いでるのはしんどいんだよ」
見れば、背後の仲間たちは皆、段ボール箱を一個ずつ担いでいる。引越しなどに使われる、ごくありふれたそれらはリーダーの言葉どおり、さしたる重さではないらしい。店長がおずおずと冷蔵庫の脇のささやかな隙間を指し示すと、担いでいた連中はぽんぽんと放り投げるように荷物をそこに積み上げていく。それを眺めながら、リーダーが再び店長に向き直った。
「手はずはいつも通りだ。明日の朝、市場やマーケットからの配達に交じって俺らの仲間がこいつを取りに来る。いいか、死んでも間違えるんじゃねぇぞ!」
すごまれて、がくがくとうなづく店長。
「わ…わかった。決して、間違えたりなんかしねぇよ…だが…」
怯えた目がリーダーを見る。決死の表情。
「…もう、いい加減に勘弁してくれ。この間の件以来、うちはどうやら警察に目をつけられたらしい。いつまでもこんなところで『商売』なんざしてたら、あんたたちだって…危なくなっちまうだろうし…」
「てめぇみたいなクズに指図されるいわれはねぇ!」
リーダーの一喝。店長が、びくりと縮こまる。
だが、次の瞬間リーダーは、何とも言えない邪悪な微笑を浮かべた。
「…そんな、ビビるなよ。俺らだって、ちゃんと考えてるさ。確かにこの店はそろそろヤバくなってきたしな。明日の引渡しが終れば、それで最後にしてやるよ」
「本当か!?」
「ああ、本当だ。…だから、最後の『おつとめ』だけはきちんとやってくれや。もし何か面倒でも起こしてみろ。そのときは…わかってるな?」
またまた、がくがくと繰り返しうなづく店長。だが、その表情には先ほどよりいくぶんほっとしたような気配がうかがえる。それを見たリーダーは再び蔑みきった表情を浮かべ、残りの連中に顎をしゃくった。
「用は済んだ。引き上げるぞ!」
命令一下、残りの連中は無言のまま勝手口に向かう。そしてリーダーもまた、前に立つ店長を押しのけて仲間のあとに続こうとしたそのとき。
「…?」
突然店の表の方からガラスを叩き割るような音が響き、その場にいた全員が動きを止めた。店長が、慌てて店の方に出て行く。が、次の瞬間。
「お、お前ら一体…うわあああぁぁぁっ!!」
店長の悲鳴に続いて、大人数でどやどやとなだれ込んでくる足音、テーブルや椅子を蹴倒す音に交じって荒々しい怒号が聞こえてきた。
「ヤバいっ! ズラかれ!」
色を失ったリーダーがとっさに叫び、若者たちは団子状態になって勝手口から転がり出た。が、一歩外に出てみれば、そこには。
「…貴様らが、『エンジェルキッス』とやらの元締めか? うちの大事な若頭兼専務取締役と、可愛い社員をよくもあんな目に遭わせやがったな!」
ぎらりと抜き放たれた白鞘の日本刀、着流しに襷がけの尻はしょりという時代錯誤ないでたちの禿頭白髯の老爺が、十数人の屈強な男どもを従えて立ちはだかっていた。
「崎田とジャダの仇! 覚悟しやがれ!」
大音声とともに日本刀を振りかぶった老爺が、躊躇うことなくリーダーめがけて刃を振り下ろす。
「兄貴の仇!」
同時に、周囲の男どもも手に手に包丁だのナイフだの、金属バットだのを振りかざして残りの連中に襲いかかった。対する若者たちは丸腰、応戦のしようがない。情けない悲鳴を上げながら必死に避けるのが精一杯である。
「う…わぁっ!」
リーダーが、足をもつらせて転んだ。すかさず、老爺が日本刀を大上段に振りかぶる。月の光に青く光る刃が、地面に這いつくばった若者の脳天を、狙い違わず叩き割ろうとしたまさにその瞬間。
鋭い金属音とともに、必殺の刃はあっけなく弾かれた。はっとして顔を上げた老爺の目に映ったものは―。
「爺さん。気持ちはわかるが殺すのはやめとけ」
目にも留まらぬ滑らかな動きで刃の下に入り込み、素手でその一撃を弾き飛ばした、銀色の髪、薄氷色の瞳を持つ男―。
アルベルトだった。
話は、少し前に遡る。
「―誰か、来る!」
フランソワーズの押し殺した声に、いっせいに戦闘態勢に入った四人。それから間もなく、闇をうかがう彼らの目の前に現れたものは―。
「…? お前さん方、一体どうしたんじゃ…?」
背後に三十人ほどの屈強な男たちを従えた、禿頭白髯、着流し姿の―老人。
「あ…あの、僕らの仲間がそこの店で、酔っ払っちゃって…介抱していたところなんですけど…」
とっさに言いつくろったジョーに、老人は穏やかな視線を向けた。
「そうか。じゃが、できることならここからすぐに離れなさい。これからちょいと、一騒ぎあるでな。悪いが、お前さんたちのことまで構ってやっちゃおれんのじゃよ」
言いながら、懐から取り出した紐を慣れた手つきで襷に結び、着流しの裾を思い切りまくり上げて腰の角帯に挟み込んだそののどから、老人とは思えない力強い、ドスの効いた声がほとばしる。
「野郎ども! 遠慮はいらねぇ、行くぞっ!!」
すかさず、背後から「応!」という威勢のいい返事が返されたかと思う間もなく、男たちはいっせいに「たこ八」の入り口に殺到した。
あっという間に叩き壊される引き戸、店の中になだれ込む男たち。何が何だかわからないが、とにかく放っておくわけには行かない―ジョーは反射的に、加速装置のスイッチを入れた。
状況把握は二の次とばかりに店に飛び込めば、さっきの店長がプロレスラー並の体格をした大男に襟首をつかまれ、吊るし上げられている。
「だめだ、やめろっ」
生身の人間相手とて、軽く払いのけただけで大男は吹っ飛び、テーブルや椅子を巻き添えに店の片隅に撃沈する。それを見た周囲の連中は一瞬目を丸くしたものの、すぐさま今度はジョーに向かって襲いかかってきた。
「このガキ…っ!」
「てめぇも仲間かっ」
背後に店長をかばった形になってしまっては、加速装置も使えない。振り下ろされる金属バットをとっさに右腕で受け止めた。かなりの衝撃。…こいつら、相当喧嘩慣れしてる―!
だが、何しろ相手は普通人である。本気を出すわけには行かない。一瞬躊躇した隙に、繰り出されてきたナイフがジョーの着ているジャケットの袖口を切り裂く。さらにもう一人が、抱え上げた椅子を思い切りその栗色の頭に叩きつけようとした刹那。
「やめろっつーてんだろっ! この店ぶっ壊したところで何になるんだよ!」
鮮やかな跳び蹴りが、一撃で椅子を粉砕した。
「ジェット!」
ジョーより一瞬遅れて同じく加速装置を作動させたジェットが加勢に入ってくれたのだ。見れば、ピュンマやフランソワーズも店内に踊りこみ、男たちを懸命になって取り押さえようとしている。
「親分! ここは早く、裏口へ!」
誰かの叫びとともに、先ほどの老人がその年齢からは想像もつかない身のこなしで飛び出していく。その後を追ったのは、手下の半分ほど。
「うわ…駄目だ、行かせちゃ!」
「落ち着け、ジョー! 二階にはアルベルトたちがいる! 裏口はそっちに任すんだ!」
(心配するな! こっちは任せろ!)
ジェットの叫びとアルベルトからの脳波通信が、力強いハーモニーとなってジョーの頭に響いた。そればかりか、乱闘のざわめきにかき消されつつも、かすかに聞こえてきたのは、パトカーのサイレンの音。
「みんな、もうやめるんだ! 後は警察に任せて!」
再び左右から殴りかかってきた男たちの一撃をかわしながら、ジョーは絶叫した。
サイレンの音は、夜風に乗って裏口にも届いてきた。
「…むぅ」
「爺さん。もう一度だけ言う。さっさと刀をおろせ。そんなモン振り回してるのが見つかったら、あんたたちだってヤバいんだろ」
あれから微動だにせず睨み合っていた老爺に、アルベルトが穏やかな声で話しかけた。
「余計なお世話じゃ! 警察の旦那方なぞ、当てにはならん! 何も知らなかったジャダばかりに罪を着せ、肝心の悪玉は野放しじゃ。そればかりか、崎田まで…せめてわしらが裏の仁義だけでも通さにゃ、ジャダも崎田も浮かばれねぇ!」
「今度は違う!」
アルベルトの一喝に、さすがの老爺もいくぶん怯んだ。その隙にアルベルトの手が素早くその手から刀と鞘を奪い取り、きちんともとに収めて再び、老爺に返す。
「警察も、あれから東京中を駆けずり回って証拠集めをしてたんだ。それに、今夜の件では俺たちみんなが証人になる。今度こそ、悪玉連中は一網打尽だぜ」
そこでちら、とアルベルトは若者たちの方に目をやった。老爺とアルベルトのやり取りに他の男たちも気をとられていた隙に、一かたまりになって今出てきたドアの脇にへばりついた彼らは揃って顔面蒼白になり、がたがたと震えている。…だが、一人だけ―リーダー格らしい奴の、どこか人を莫迦にしたような表情は…何だ?
薄氷色の瞳がかすかに細められたとき、表の方からどやどやと大勢の人間が走りこんでくる足音が聞こえた。
「全員動くな! 暴行罪及び器物損壊、そして麻薬取締法違反の疑いで逮捕する!」
松井刑事の凛とした声が、周囲の空気をびりびりと震わせた。その後ろには制服警官の一団に交じって、ジョーやジェット、そしてピュンマとフランソワーズの姿も見える。
「ヘル・ハインリヒ、ケータイへの連絡、感謝するぜ。…しかし爺さん、何でまたのこのこしゃしゃり出てくんだよ。この間だって、頼むからおとなしくしてろって、あれほど…」
アルベルトに一礼した松井刑事が今度は老爺の方に向き直り、うんざりした様子で頭を抱えたと同時に。
「けっ…刑事さん! 助けて下さい!」
何と、例の若者たちのリーダーがいきなり松井刑事の腕にすがりついた。
「僕たち、T大の学生なんですけど…すぐそこの友達の下宿から帰る途中、いきなりこの人たちに言いがかりをつけられて、ここまで引きずり込まれて…。こんなところで怪我なんかしたら、試験が受けられなくなっちまう…いえ、僕らはもう国家公務員一種、合格済みなんですけど、こいつはまだ、司法試験の最終口頭試問残してるから…」
おどおどと怯えた声音は大した役者だ。しかも、「T大」とか「国家公務員一種」、「司法試験」という言葉だけはさり気なく強調している。国家公務員一種試験にパスしたとなればいずれはキャリアとして各省庁の幹部になることは間違いなし、警察庁にでも入庁すればここにいる警察官全員の上司になるんだと、言外に匂わせているのだろう。
が、松井刑事はふん、と鼻を鳴らしただけだった。
「ほう、国家一種に司法試験か。よく勉強してやがるぜ。…だったら、法律の裏をかくのもお茶の子さいさいってか? だからてめえら、今まで尻尾をつかませなかったんだな」
「そんなっ! 僕らは正真正銘、T大の…ほら、ここに学生証がっ」
初めて本気で動揺したらしいリーダーの差し出すそれにも、松井刑事は目もくれない。
「おい、爺さん。いや『光栄建設』会長、もしくは『光順会』の大親分さんよ。あんたらがまたしてもこんな力技に出たってこたぁ、よっぽど確かな証拠をつかんだんだろうな」
ぎろりと睨まれた老爺は少しも臆することなく、真っ直ぐに松井刑事を睨み返し、はっきりとうなづく。
「ああ。裏仲間のあらゆる伝手をたどって何度も確認したわい。間違いない。『エンジェルキッス』売買の大元締めは、こいつらじゃ!」
「我輩も確かに見ましたぞ。この若人たちが段ボール箱をかついで『たこ八』の裏口からこっそり中へ入っていくのをね。あの段ボール、まだ店の中にあるんでしょう? だったらその中身を確かめれば一発でわかるんじゃありませんか、刑事さん」
小さな蛾に変身して二階を抜け出し、「たこ八」の周囲をひらひら飛び回りながら一部始終を目撃していたグレートの言葉に、松井刑事は深くうなづいた。
「ドンピシャリだな。俺たち警察の捜査結果とその筋の皆さんの裏情報が見事一致した上に、目撃者までいるんだ。もう、言い逃れはできねぇぜ!」
今や、リーダーの顔からは完全に血の気が引いていた。それでもなお、血走った目で逃げ道を探すかのように周囲をきょろきょろと見回し、半狂乱になって埒もないことを喚き続けている。
「お…おいっ! あんたたちは本当に…警察か!? 善良な市民の証言よりも、こんなヤクザや得体の知れない外人のたわごとだけを信用して…俺たちは、真面目なT大生なんだぞっ! …国家公務員試験や、司法試験にだって…」
「さっきから聞いてりゃてめぇ、T大だの試験だのって、がたがたうるせぇんだよ!」
獣の咆哮。さしものリーダーもぴたりと口をつぐみ、他の人々も―警官隊や光順会の面々、そして00ナンバーたちも含めて―はっとしてその場に硬直する。そんな中、松井刑事は一気にまくしたてた。
「T大T大って偉そうに言うけどな、だったら先輩に対して礼の一つもしてみせやがれ! 国家一種や司法試験に受かったからって、それがどうした! そんなもの、俺だって十年前に両方しっかり受かってらぁ。ついでに言えば、そんときパチンコも麻雀も一切我慢して勉強ばっかしてたおかげで、俺ゃ禁断症状起こして救急車で病院送りになったんでぇ! 以来、国家一種とか司法試験なんて言葉聞くたびに虫酸が走るんだ! これ以上俺にそのクソ忌々しい単語聞かせてみろ! てめえのその首、ムショ入り覚悟でへし折るぞ!」
…乱暴。
そうとしか言いようのない松井刑事の怒鳴り声に、さしものリーダーもへたへたとその場に崩れ落ちた。その両脇を制服警官が抱え、同じく放心状態になった仲間たちともども、パトカーに連行していく。一方の「光順会」の連中は、それを見届けると松井刑事に深々と一礼し、あの老爺―大親分を先頭に、自分たちからパトカーの方へと歩いていった。
あとに残ったのは、これまた呆然とした表情の00ナンバーたちと松井刑事、そして後始末をしている数人の警察官のみ。
「ま、松井さん…。貴方は…もしかして、T大卒の…キャリア…?」
そう言ったきり、あとの言葉が続かないジョーに、松井刑事は照れたように笑いかけ、頭をかいた。
「ん…まぁ、そんなトコ…だな」
「こりゃまたビックリネ。でも松井はん、人が悪いアルよ。どうして今まで、話してくれなかったんかネ」
「だって、こっ恥ずかしいじゃねぇかよ。俺ゃどう見てもそんなガラじゃねぇし…ガッコだってヒデみてぇな現役じゃなくさ、一浪して何とか法学部にもぐりこんだんだけどな、『お前に限って、それは法学部じゃなくてアホー学部だ』ってずっと言われっぱなしだったんだぜ。とてもじゃねぇが、人様に自分から言う気になんてなれねぇやな」
真っ赤になってそっぽを向いた松井刑事に警官隊の一人が駆け寄ってきた。直立不動、正した姿勢からの見事な敬礼。
「松井警視! 容疑者全員、身柄を確保致しました! 今、鑑識もこちらに向かっております。本庁からのご協力、ありがとうございました!」
それに対して、松井刑事はちょっと崩れた、しかしはっきりとした答礼で応えた。
「いや…俺ゃ、何もしてねぇよ。囮捜査にしゃしゃり出て、失敗して二日酔いになっただけだ。今回の件は、全てお前さんたち所轄のお手柄さ。…お疲れさん」
その様子を微笑んで見守る00ナンバーたち。しかし、突然ジョーが口を押さえ、その場に膝をついた。松井刑事が、慌ててその背中を抱きかかえる。
「お、おいっ! どうしたんだ、しっかりしろっ!」
が、腕の中の少年は顔面蒼白、今にも失神しそうな真っ白な唇からもれる、蚊の鳴くような声。
「う…え…。気が緩んだら、急にまた、酔いが…回ってきた…。気持ち…悪い…」
「げ…」
こちらも真っ青になった松井刑事が周囲を見回せば、他のメンバーたちも皆、その場に崩れおち、息も絶え絶えの状態である。
「お、おいっ! 大至急、医者っ! いや、それより救急車っ!! あ…でもこいつら、普通の病院に運び込んでも大丈夫なのか…?」
途方にくれた松井刑事が空を見上げれば、冴え渡る満月、そして夜空を彩る星々の光が妙に爽やかに、そして冷たくまたたいていた。