くそじじい 8


 数日後の昼下がり、若先生は商店街へと続く道を一人ぶらぶら歩いていた。今日は休診日の上、午後の予定も特になかったので、散歩がてら馴染みの本屋でも覗いてみようと思ったのである。
 石原医院から商店街まではのんびり歩いても十分程度の道のり、その真ん中あたりまでさしかかるとかの「町の名刹」、浄心寺が見えてくる。その威風堂々としたたたずまいは今でも充分立派なものだが、昔はさらにこの二倍、三倍の地所を持つ大寺院だったそうな。実際、その二、三十メートル手前にある小さな稲荷神社も元はこの寺の境内社だったと聞く。しかし明治時代の廃仏毀釈運動で寺の力が衰えたところへもってきて、続く富国強兵政策による急激な人口増加、果ては関東大震災や東京大空襲、そして戦後の大規模再開発等といった激動の時代が過ぎ行くうちにいつしかお互い完全に分離されてしまったらしい。ただ、かつての名残といえばもう一つ―境内に点在していた池の中でも結構大きめだったと伝わる「鏡ヶ池」というのが未だ寺の本堂及び神社の神殿の裏手に接する形で残っているから、両者は現在でも「地続き」ならぬ「池続き」で繋がっている…とまぁ、言って言えないこともない。
 さて、今しもちょうど件の稲荷神社の前を通り過ぎようとした若先生が何の気なしに鳥居の中を覗いてみれば、賽銭箱の手前で一心不乱に祈りを捧げているどこかで見たような和服の後姿。
(あれ? もしかして…)
 つと立ち止まったと同時に、深々と神前に一礼した人影もくるりとこちらを振り向いた。途端、若先生の口から歓声が上がる。
「ああ、やっぱりみっちゃんおばさん―じゃなかった、女将さん!」
「あらまァヒデちゃん、往診時間でもないのに今頃外に出てるなんて珍しい…って、あァそうか、今日は診察お休みだったっけ」
 一方こちらも負けず劣らず嬉しげな声を上げて小走りに駆け寄ってきてくれたのは、言わずと知れた『たぬきばやし』の女将ことみっちゃんおばさんだった。聞けばすぐ近くの銀行まで両替に行ってきた、その帰りだという。
「で、せっかく浄心寺さんやこちらの前を通るんなら、魚辰のおじさんのことを神様仏様にお願いしていこうかと思ってね。何しろウチは商売が商売だけに、おじさんには母の代からいろいろお世話になってるし…それにあたしも子供の頃には散々おじさんにどやされてお尻をひっぱたかれてたクチだからさ、せめてもの罪滅ぼしってヤツよ」
「え…っ!?」
 思いがけないことをさらりと言われて、若先生の笑顔がひきつった。しかし一方のおばさんはかえってきょとんとした様子で。
「あらヒデちゃん、知らなかった? あたしゃこれでも昔は『たぬきばやしの火の玉娘』なんぞと言われたりして、しょっちゅうヒロちゃんや大ちゃん、勝っちゃんみたいな男の子連中とつるんでとんでもない悪戯をやらかしちゃァ、おじさんを手こずらせてたのよ。みんなだってこの前言ってたでしょうに。ほら、ヒデちゃんやゲンちゃんとウチの店で一緒になったとき」
 それは多分爺さんの担当になったばかりの若先生が、のっけからぶちかまされた「昔話攻撃」に悲鳴を上げて松井警部に泣きついた夜のことだろう。そしてたまたま隣に座っていたヒロおじさんや大ちゃんおじさんと四人、気がつけば盛大な愚痴大会になって…。
(この町の人間…特に男連中ときたら、あの爺さんのゲンコツ喰らわねぇで大人になったなんてヤツぁ一人もいねぇからな)
 確かにあのときのおじさんたちは、爺さんのゲンコツを喰らったのが男の子だけだとは一言も言わなかった、それは認める。加えて下町っ子の鼻っ柱の強さと気風のよさは男女共通、女の子たちとて所謂「お転婆」「男勝り」と呼ばれるタイプの方が圧倒的多数派と言っていい。しかし少なくとも若先生の経験上、バカな悪戯といえば大抵男の子の専売特許であって女の子はそれを止めようとするのがお約束、結果「やめろ」「やめない」の言い争いが高じて男の子と取っ組み合いの大ゲンカをする女の子なら山ほどいたが、自分たちと一緒になって悪戯に参加するようなじゃじゃ馬…もとい女傑となると、自分たちの世代はもちろん後にも先にもさっぱり心当たりがない。
 なのにまさかそんな「女傑」が本当に存在したばかりか、よりにもよってこの「町内一の和服美人」、「ちょいと年増たぁいえまだまだ小股の切れ上がったいい女」との誉れも高い「たぬきばやし」の女将、みっちゃんおばさんだったと聞いたひにゃ、これはもうぶったまげるなと言う方が無理である。我知らずあんぐりと口を開けた若先生の頬には、いつしか一筋の汗が流れていた。が…。
「ま、あの頃のあたしはとにもかくにもおじさんが大っ嫌いだったから…今にして思えばホント、バチ当たりもいいとこだったけど」
 これまでとは打って変わって申し訳なさそうに目を伏せたおばさん、だがその気持ちはよくわかる。大人に叱られるありがたみに当の子供が気づくのは大抵自分自身が大人になってからであって、それまではただ「うるさい」「鬱陶しい」と煙たがるばかり。まして魚辰の爺さんのように怒鳴り飛ばすわぶん殴るわとかなり荒っぽい叱り方をしていた手合いなぞ、町中の悪ガキどもから蛇蝎のごとく忌み嫌われて当然ではなかろうか…とまぁ、至極もっともかつ率直な意見を述べた若先生だったのだが。
「え…え、そりゃま確かにそうなんだけどさ…」
 何故だかますます縮こまってしまったおばさんが、苦笑交じりに語ったことには。
「あたしゃ元々この町で生まれた人間じゃなくてねェ…母親とあちこち流れ歩いた末にようやくここに落ち着いたのは三つか四つの頃だったかしら。…というのもウチの父親ってのが日がな一日呑んだくれちゃァ女房子供に手ェ上げるしか能のないろくでなし、しまいにゃ身の危険を感じた母親がまだ乳飲み子だったあたしを抱えて命からがら逃げ出してきたってわけ。とはいえこれといって頼る当てもなし、この町にたどり着いたときには行き倒れも同然だった。それを助けてくれたのが魚辰のおじさんで、その後も母に働き口を世話してくれたり、やがて小金を貯めた母がようやく今の店を持ったときにはいい魚を安く卸してくれたり…えぇもう、あたしたち母娘にとっちゃ二重、三重の大恩人よ。『大っ嫌い』なんて、本来ならば口が裂けたって言えた義理じゃない。ただねェ…」
 苦い微笑み。
「あの頃はまだまだ『女は辛抱して当り前』てな時代だった上に水商売への風当りも結構キツかったから、子供の耳にもいろんな陰口が入ってきたのよ。やれ『子連れで家飛び出すなんて我慢が足りない』だの『どのみち飲み屋開いて男に媚売って暮らしていくしかないくせに』だの、挙句の果てには『亭主の乱暴は女房子供のせい』なんて言うヤツまで…! そんなのを聞く度、あたしゃ悔しくて悔しくて…あのまま辛抱なんざしてたら母もあたしも殴り殺されてたかもしれないってのに、どうして女子供ばかりが悪く言われるんだ、男ってのはそんなに偉いのかって、はらわたが煮えくり返る思いだった。だから…口も荒けりゃ手も早い、おまけに何かってェと町の子供連中をものすごい剣幕で叱り飛ばすおじさんがまるで自分の父親、ひいては女子供の上にふんぞり返ってる男どもの見本のように思えて、どうしても好きになれなかったの。…学校でだっていつも、男なんかにゃ負けるもんかって―えぇ、勉強でも運動でもね―突っ張らかってばかりいてさァ。もしかしたら、男の子とばかり遊んでたのもそのせいかもしれない。遊びの世界でも張り合ってたんだよォ、きっと…」
 小さくすくめられた和服の肩が、何故だかひどく薄く―淋しげに見えた。
「とはいえそれがまた気に障るって輩も結構いてね―あんな子供のうちから周囲に男はべらせて手玉に取ってるって―みんなと遊んでる最中、聞こえよがしに言われることもしょっちゅうだった。もちろんこっちは何聞いたって無視してたんだけど、あるときたまたま通りかかったどっかのおかみさんが漏らしたそんな嫌味に、一緒にいた男の子たちの方が腹立てて『みっちゃんはそんな子じゃない!!』って、一斉に食ってかかっちまったのよ。これにはあたしもびっくり仰天、慌てて止めに入ったんだけど、みんなよっぽど虫の居所が悪かったのか何言ったって聞く耳なんざ持ちゃしない。で、しまいにゃ相手のおかみさんも金切り声でみんなを怒鳴りつけるわ、怒鳴られたみんなは余計いきり立ってぎゃぁぎゃぁ喚き散らすわの大ゲンカ、それをたった一人で止めようと躍起になってるうちに、あたしゃ次第にいたたまれなくなってきちまって…」
 だって、元はといえばあたしが悪いのに―そう、おばさんは思ってしまったのだそうだ。
 もちろん、女の子が男の子とばかり遊んでいたとて、悪いことなどこれっぽっちもない。そっちの方が楽しいのなら、誰憚ることなく好きにしていればいいのだ。けれどおばさんが男の子と遊んでいたのは「楽しいから」じゃなくて「負けたくないから」。いつも一緒の遊び仲間だって「友達」というより「競争相手」、さすがに憎いとまでは思わなかったものの、常に蹴散らし、追い落とすべき「敵」としか見ていなかった。もしかしたらあのおかみさんは、そんな自分の気持ちを見透かしたからこそ嫌味を言ったのかもしれない、だったらみんながあたしをかばってくれる筋合いなんてどこにもない―あるわけがない。
 そしてとうとうみっちゃんおばさんはその場から一目散に逃げ出した。背後に聞こえるおかみさんの金切り声ばかりか、仲間たちの声にさえちくちく胸が痛んで、少しでも早くそれから逃れたくて、全速力で突っ走った。…と、いきなり耳をつんざくような自転車の急ブレーキの音がして、以来ふっつりと静かになったのが不思議といえば不思議だったけれど振り向く気にもならぬまま、走って、走って、走り続けて…。
 次の記憶は河原の草むら。誰にも見つからないよう自分の背丈よりも高い草の陰に隠れ、両膝を抱えてたった一人、声も上げずに泣いていた。己でもどうしようもない悔しさと仲間たちへの申し訳なさが胸いっぱいに膨らんで、涙はあとからあとから溢れ出てくる。
 そうやって、一体どれくらい泣いていただろうか―。
「不意に…ね、さっきと同じ、鼓膜をぶち破りそうな自転車の急ブレーキが聞こえたかと思うや誰かがガサガサ草掻き分けながらこっちへ近づいてきて、一体何だと顔上げた瞬間、これまた何の前触れもなく目の前の草ががばっと割れて―何と魚辰のおじさんの仏頂面がぬっと出てきたじゃないの。そりゃもう、涙も何もいっぺんに吹っ飛んだどころか、心の臓が止まっちまうかと思ったわよォ」
 その見解には若先生としても大いに賛成である。たった一人で泣いている最中、よりにもよって突然あの爺さんに出くわしたりしたら、この町の子供はほぼ一〇〇%の確率でよくてひきつけ、悪くすればさらに深刻な心理的ショック症状を引き起こすだろう。そのときみっちゃんおばさんが無事だったのは医学的見地から言ってもまさに奇跡以外の何物でもない。しかし出会い頭の心停止を免れたのもつかの間、おばさんの心臓はすぐまた破裂寸前まで暴走することとなる。それというのも現れたのが魚辰の親父だと認識した途端、とある恐ろしい事実を思い出してしまったからで―。
「…何って、あのえらくやかましいブレーキよ。いえね、当時おじさんが乗ってた自転車てぇのが何と戦前からの骨董品、戦後十年たつかたたないかのあの時代ですらそうそうお目にかかれないオンボロでさァ、いくら油を差してもブレーキかけるととんでもない音を立てるって、町内でも評判になってたの。でもってほら、みんなのトコから逃げ出したときもその音を聞いたって言ったでしょ。となりゃァあのとき通りかかったのは魚辰のおじさんに違いない、あたしのせいであんな大ゲンカがおっ始まっちまったばかりか、一人だけさっさと逃げ出してこんなところで泣いてるのを見られたからには一体どれほどこっ酷く叱られるんだろうって、すっかり震え上がっちまってたんだけどね…」
 不思議なことに爺さんは何も言わず、ただ「おいお前ェ、川ァ見にきたんならもっと見晴らしのいいトコがあるぞ、ほれ」と、おばさんの手を引いて河原に連れて行ってくれただけだった。そしてそのまま腰を下ろして、ゆったりと流れる川を二人並んで眺めているうちにおばさんの心もようよう落ち着いてきた、ちょうどそのとき。
「それまで黙っていたおじさんがぽんとあたしの頭に手を置いて、『何も知らねぇ奴らの言うこたァ気にすんな、悪いのは父ちゃんだ、決してお前や母ちゃんじゃねぇ』って…。嬉しかったァ…そんなふうに言ってくれる人なんざ、それまで一人もいなかったものねェ」
 一瞬、小さな子供のようにくしゃくしゃになったおばさんの顔。慌てて押さえた目の縁に、きらりと光る滴がにじんでいるのを若先生は確かに見た。
 ちなみにあとで仲間たちから聞いた話によると、やはりそのときのケンカを収めてくれたのは魚辰の爺さんだったそうで。例のオンボロ自転車でたまたま現場を通りかかっただけなのにすぐさま諍いの中に割って入っていきり立つ双方をなだめたりすかしたり、互いの言い分をしかと聞き取った上で、まずは半ば張り倒さんばかりにして子供たちに頭を下げさせ、次いで件のおかみさんにも「二度と子供にそんなこた言うんじゃねぇ」ときっちり話をつけてくれたのだという。しかもそのおかみさんが立ち去った後、「…しかしまァ、日頃ロクなことしやがらねぇお前ェらだが、今回ばかりは友達かばって偉かったな」と一人残らず頭をなでてもらったとくれば、悪ガキ連中がいかに驚いたかは想像に難くない。
「も、今でもあんときのこたァ悪タレ仲間の語り草よ。…だけどあたし、あの河原でのことだけはみんなにも言ってないの。誰かに話したら、あん時の嬉しさがどっかへ行っちまう気がしてねェ…って、五十年以上もたっちまった今じゃァ、それもとっくに時効だけど」
 …などと言いつつ次の瞬間、何故かおばさんはぺろりと小さく舌を出して。
「…ま、それでさすがの『火の玉娘』も畏れ入って、おしとやかで優しい女の子にでもなったってんなら今頃は修身の教科書にでも載っかってたかもしれないけどさ、生憎その後もあたしのお転婆ぶりはこれっぽっちも変わらなくてねェ。…となると、あたしが男の子とばっかり遊んでたのはただ張り合ってただけじゃなくて、やっぱしその方が性に合ってたってことなんだろうね」
 今度こそこれっぽっちの屈託もない、ついでにかなり豪快な笑い声が響いた。もしかしたらみっちゃんおばさんは、今でも「たぬきばやしの火の玉娘」のままなのかもしれない―そう思うと若先生の口元からも、楽しげな笑い声が漏れる。と、そのとき…。
「おやおや、誰かと思えばみっちゃんとヒデ坊、こんなところで二人っきりとはお安くないのう」
 不意に響いたもう一つの声に二人がはっと振り向けば、作務衣姿の浄心寺住職、慈海和尚がこれまたにこにこと微笑みながら立っていた。
「あらまァ、嫌ですよ和尚様。そんな軽口おっしゃって、あたしゃともかくヒデちゃん―いえ、若先生がお気の毒じゃありませんか。ただの立ち話ですよ、立ち話」
 わざと怒った顔を作ったみっちゃんおばさんに、ぴしゃりと己が禿頭を叩いた和尚。
「おお、これは失礼。ではお詫びのしるしに粗茶でも進ぜましょうほどに、ちょいと寄っていきなさらんか、お二方」
 相変わらずの福々しい温顔で誘われては、元々ヒマを持て余していた若先生が否やと言うはずがない。一方のおばさんも仕込みの時刻までにはまだ少々間があるからとて、二人はそのまま浄心寺の一室に場を移し、慈海和尚をも交えて茶飲み話に花を咲かせることと相成ったわけだが―。
「ほう…そんなことがあったとはわしも全く知らなんだが…いや、善哉善哉」
 みっちゃんおばさんから事の詳細を聞いてますます笑みを深くした和尚が淹れてくれたのは自慢の玉露、しかも今しがた用足しに出たついでに買ってきたという「おぎ野」の芋羊羹つきとくれば豪勢なものである。
「しかしみっちゃん、わしに言わせりゃそうそうあんたばかりが世話をかけていたわけでもなかろうに。…ほれ、いつかの鏡ヶ池の一件なんぞを思えば爺様だって『たぬきばやし』に足を向けては寝られんはずじゃぞ。何せあのときみっちゃんがいなければ爺様、危うく裁判所に訴えられるトコだったんじゃからのう」
「え…えぇぇぇぇっ!!」
 和尚がさらりと口にした衝撃の事実に、若先生は危うく口の中の茶を噴出しそうになった。…ありえない…絶対にありえない。よりにもよってあの爺さんを訴えたりしたら、それこそ七代続けて祟られそうではないか。いかに深刻な事情があろうとも、そんな無謀をやらかす怖いもの知らずなぞこの町には一人もいない―いるわけがない!
「あらま若先生、どうなすったんですか? 固まっちゃって…あァそうか、あの頃は若先生もまだお小さかったし、ご存じなかったんですねェ」
「おお、じゃったら次はその話をして差し上げたらどうじゃな、みっちゃんや」
「はい…ですがそんな古い話ばかりじゃ若先生が退屈なさるんじゃ…って、あらそうですか、それじゃお言葉に甘えて昔話の続きでもさせていただきましょうかねェ」
 いまだ半分呆けたままの若先生がわけもわからずうなづいたのを肯定のしるしと見て取ったのか、みっちゃんおばさんが再び口を開いた。




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