くそじじい 7


 慌てふためいた若先生が家に駆け戻ったときにはすでに門の前、俊之が車を出して待ち構えていた。
「兄貴! とにかく早く乗ってくれ! 詳しいこたぁ道々話すから!」
「おう、わかった! …で、一体爺さんどうしたんだ!」
 怒鳴り合うような会話を交わしつつリアシートに飛び込めば、すかさず俊之も運転席に乗り込んでエンジンをかける。もちろんその間も怒鳴り合いは止まらない。
「何でも風呂入ってる最中に突然、眩暈がするって言い出したまま動けなくなっちまったそうだ! だが多少朦朧としているものの意識あり、吐き気、頭痛、視野障害その他は特になし! ただ、麻痺や痺れみてぇな運動・感覚障害についちゃよくわからねぇって…」
「おし、それが第一報なんだな!」
「ああ、隆やんからの電話、今から十分ちょい前! 容態が変わったらすぐケータイに電話するよう言っといたんだが、今んトコ続報はねぇ」
 そのときにはもう走り出していた車の中、あらかじめ俊之が診療鞄ともに積み込んでおいてくれた白衣に手を通しながら、若先生はほんの少しだけほっとしたような表情になった。少なくとも今の話を聞く限り、今回の発作もおそらくはラクナ梗塞である可能性が高い。ならば多分、一分一秒を争うような緊急事態というわけではないのだろうけれど。
(やっぱ、こればっかりは実際に診察してみないと判断がつかないし、それにラクナ梗塞だったとしても、何らかの後遺症が残っちまう可能性は大いにあるし…)
「ところで兄貴、酒の方は大丈夫か? まさかへべれけになんざなってねぇだろな!」
 運転席から振り向きもせず聞いてきた俊之の声が、若先生の物思いを断ち切った。
「心配すんな。そりゃま、まるっきし飲んでないとは言わねぇが、せいぜいお猪口に三、四杯だ。頭も手足もしっかりしてるぜ」
「へへ…さすが兄貴だな。『治にいて乱を忘れず』ってヤツかぁ?」
 …どちらかというと今夜の酒があまり進まなかったのは当の爺さんの肘鉄のせいと言うべきなのだが若先生、その点についてはあえてそれ以上ツッコまず。
「それより親父とお袋はどーしてんだよ。俺が今夜出ちまってたからにはどっちかかわりに駆けつけてくれたってよかったじゃんか」
「それが、兄貴が出かけてからガキの急患が三件入っちまって、そっちにつきっきりなんだ。小児喘息の発作起こした幼稚園児と、急に高熱出した同じく幼稚園児、それから赤んぼ。おまけに赤んぼの方はひきつけまで起こしちまっててよ…もっともどれも大したこたねぇとは思うが、今はまだとてもじゃないが目ェ離すわけには…って着いたぜ、兄貴!」
 石原医院から富岡家まではゆっくり歩いても十五分はかからぬ道のり、車ならばあっと言う間である。
「若先生!」
 例の遣り戸を開けるやいなや、蒼ざめた顔の隆志が転がるように奥から走り出てきた。
「こんな時刻にすんません、せっかくお出かけだったのに…すんません」
「ンなこと言ってる場合じゃねぇだろこのバカ! とにもかくにもまず爺ちゃんトコ行くぞ!」
 かなり動転しているらしい隆志をわざと荒っぽく叱り飛ばしたあとは爺さんの部屋目指してまっしぐら、なじみの襖をばん! と音を立てて引き開ければ、爺さんに付き添っていたのであろう勝っちゃんおじさんとスミ子おばさんがはっとして腰を浮かせる。
「若先生!」
 そのまま悲鳴のような声を上げた二人には目もくれず、爺さんの枕元に腰を下ろした若先生はすぐさま診察の準備にかかった。
「隆志君からの電話の内容は俊之に聞きました! その後、様子に変化は?」
「あ…いえ、特にありません」
 部屋中央に敷かれた布団に横たわった爺さんは軽く目を閉じ、ただ普通に眠っているだけのように見える。少なくとも肉眼で判断する限りでは、顔色にも呼吸の様子にも特に異常があるとは思えないが、もちろんそれだけで安心するわけにはいかない。
「隆志! 爺ちゃん、風呂で倒れたっつってたな。こっちへ連れてくるときはどうだった? ぐったりだらんとしてただけか? それとも、少しでも自分で動こうとしてたか?」
 まず聴診器を当てた後は血圧測定と、いつもどおりの診察をてきぱき進めていく若先生は相変わらず他の家族たちには見向きもしないが、それでも隆志が自分に続いて部屋に戻ってきたことは気配でわかったのだろう、すかさず鋭い質問の声を飛ばす。一方隆志の答えも、先程の一喝が効いたのか、これまでよりはよほど冷静ではっきりしていた。
「自分で…って意志はあったと思います。親父と俺が風呂から引き上げたとき、『余計な真似すんな』みたいなこと言って俺たちを払いのけるような仕草をしましたから」
 それを聞いた若先生が大きくうなづく。…思ったとおり、今回もおそらくはラクナ梗塞、それももうかなり落ち着いているとみて間違いなかろう。呼吸や心音はほぼ正常に戻っているし、血圧も…確かにいつもより高めだが、降圧剤を使って無理矢理下げるほどの数値ではない。
(ただ、倒れたのが入浴中だし…脱水症状予防にブドウ糖輸液だけはやっとくか)
 だがその前に最後の確認と、若先生は自分の口をそっと爺さんの耳へと寄せた。
「爺ちゃ〜ん。俺だよ〜。石原医院の秀之だよ〜。わかるかぁ〜」
 大きくはっきり、そしてゆっくり問いかけてみれば、爺さんの目がうっすらと開く。
「…ぁ…んあ…? あ…お…」
 続いてかすかに動いた唇に、今度は自分の耳を近づけてみれば。
「あ…んら…ま…あ…きあぁがった…か…こお…いよ…っこ…い…や…。こんら…ようお…よあか…い…めいえも…たあい…い…きあっれ…か…」
 か細く切れ切れな声が、それでも若先生の耳に確かに届いた。

 富岡家の玄関、遣り戸の開く音に俊之はふと顔を上げた。自分は医者ではないからと、兄の診察が終わるまでずっと車の中で待機していたのである。程なく隆志に送られて外へ出てきた兄の姿に、早速窓を開けて声をかければ。
「兄貴、こっちこっち! お疲れさんだったな」
「おう! トシ、待っててくれたのか? ありがとよ」
 振り向いた兄が素直に笑ってくれたことにほっと安堵の息をつく。…この調子なら爺さん、どうやら大したことはなかったらしい。
「え…? もしかして、トシまで来てくれてたのか? だったらどうして若先生と一緒に入ってこなかったんだよ! こんな車の中じゃさぞ寒かったろうに…」
 続いておろおろと駆け寄ってきた隆志には半開きのウィンドウ越し、笑って手を振って。
「いやぁ、俺ゃあくまで事務屋の裏方だし、ついてっても邪魔にしかならねぇからさ。…それより隆やんこそ大変だったな。爺ちゃん、大丈夫か?」
「ああ、若先生のおかげで今はもう落ち着いて眠ってる。若先生、今夜は本当にどうもありがとうございました。それにトシも…ありがとう…ありがとうな…」
 言いながら深々と頭を下げた隆志の声が詰まる。その背中を、若先生がぽんと叩いた。
「そんな水臭いコト言うなよ隆志。何てったって、こっちは商売なんだから気にすんな。…爺ちゃんも多分今回はこれで大丈夫だろうし、父ちゃん母ちゃんにもゆっくり休むよう伝えてくれ…って、もちろんお前もだぞ。明日、また早いんだろ?」
 隆志や俊之と三人きりとて、またしてもその口調は気安いタメ口に戻っていたが、それでも最後にこう念を押すことだけは忘れない。
「ただし油断は禁物だ、万が一容態が変わるようなことがあったら夜中でも何でもいい、すぐに知らせろよ、わかったな!」
 大きくうなづいた隆志が、再び深々と頭を下げる。そしてその見送りを受けつつ、兄弟もまた家路に着いたのだが。
「…んじゃ兄貴よ、とりあえず今日のところは一安心…って思っていいんだな?」
 ハンドルを握りながら尋ねればバックミラーの中、リアシートに座った兄が小さくうなづく。
「ああ。心音や呼吸はほぼ正常に戻ったみてぇだし、血圧も…今はまだちょいと高いが、これから徐々に落ち着いてくるだろうさ。声かけにも、ちゃんと反応してくれたしな」
「へぇ、そりゃよかった。…で、何て?」
「それがよぉ、『何だ、また来やがったかこのヒヨッコ医者、こんな夜の夜中にメシでもたかりに来たってか?』だとさ」
「ぎゃははははっ! さすが魚辰の爺ちゃん、どんなに具合が悪くても憎まれ口だけは忘れねぇんだなぁ」
 一瞬、兄弟二人の大きな笑い声が車内を包む。だがそれもすぐに収まって。
「それにさ、兄貴のことを『ヒデ坊』とか『クソガキ』とかじゃなくて『ヒヨッコ医者』呼ばわりしたんなら、時間認識もちゃんとできてるってことじゃんか。どうやら感覚障害の方も心配しなくてよさそうだな」
「ああ、多分な。けど…」
 そこで不意に口ごもってしまった兄に、俊之も軽く眉をひそめた。
「どうした兄貴。他に何か、気になることでもあんのかよ」
「うん…いや別に…ってか、昼間はあんな小春日和だったつーのに、何だか随分冷え込んできたみてぇじゃん。こんな中、車で待ってンのはかなりキツかったろ? マジでお前にゃ申し訳なかったと思ってさ」
「けっ、兄貴まで何言ってやがる。この石原俊之様をナメんなよってんだ。M大柔道部の寒稽古ときたら到底こんなモンじゃなかったぜぇ」
 そこでまた大いに沸いた車内。しかし所詮は「事務屋の裏方」の悲しさ、このときの俊之はまだ、兄の懸念の正体になどこれっぽっちも気づいていなかったのである。

 そして、若先生もまた。

 いかに小規模なラクナ梗塞といえ、今回の発作もまた爺さんの体に「後遺症」という爪痕を残していった。これまで比較的自由が利いた右半身、特に右腕の麻痺―だがそれは、かつての左半身麻痺に比べればごく軽微といっていい程度のものだったから、気長にリハビリを続ければかなりの回復が見込めるだろう。ただ、他にもう一つ―。
「…はい今日はこれで終わり、どこにも異常はありません。それから、この前の血液検査の結果も申し分なしだったんだよ。爺ちゃん、調子いいねぇ」
 その日の診察を終えてにこにこと語りかけた若先生に、布団の中の仏頂面がぎょろりと目をむいた。
「へん…! これれ…診察…しれくれんのあ…こんあひよっおでなきゃぁ…もっろ調子がよく…なんらけろな…」
「ちょっと爺ちゃん、またそんなことを! この前は一体誰のおかげで助かったと思ってるんですか!」
 すかさず飛んだ憎まれ口を、例によって同席していたスミ子おばさんが慌ててたしなめる。だが、そんなおばさんにも若先生は屈託のない笑顔を向けて。
「いいんですよ、おばさん。憎まれ口は爺ちゃんが元気な証拠、これが聞けなくなったらかえって心配になっちまう」
 だがその笑みは本心からのものではなかった。あの夜の懸念がいまや動かしがたい事実となって再び脳裏に蘇る。
(あれからもう半月以上になるのに、いまだろれつがはっきりしない…となるとやっぱ、言語―運動中枢をやられたか)
 言語中枢のうち、言葉の理解を司る感覚言語中枢が無事だったであろうことはあのときの返事からも推測できた。ただ、その発音がどうにもはっきりしなかったことが、ずっと若先生の心に引っかかっていたのである。八年前の発作の際には意識低下による一時的症状ということで済んだらしいが、どうやら今回ばかりは―。
 こうなったら少しでも会話を交わし、声を出させることで運動機能の回復を図るしかないが、何せ元々がその憎まれ口で相手をへこませるのを何よりの楽しみにしていた爺さんのこと、せっかくの話の途中、思うように動かない自分の唇や舌に癇癪を起こして不意に黙り込んでしまうこともしばしばだったりしたので―たとい憎まれ口だろうが自分の痛い過去の蒸し返しだろうが、爺さんが喋ってくれるのは若先生にとって何よりありがたいことだったのである。
 しかし、いつまでもぐずぐず爺さんと話し込んでいるわけにもいかない。
「それじゃ今日はこの辺で失礼します。…そうだ、おばさん、その前に…」
「はいはい、ちゃんと用意してありますよ。紀代先生に頼まれたシャケの切り身とアサリですね。今取ってきますから少々お待ち下さい」
「あ、だったら僕も…」
 ふと思い出した母からの買い物を口にした途端、打てば響くよな返事と共に店の方へと消えたおばさんを追ってつと腰を浮かした刹那。
「あ…おい…行くなら行くれ…そのめぇに…アンカ…」
 不意に呼び止められた若先生、「アンカ」という聞き慣れぬ言葉に一瞬固まってしまったのだが。
「ああ! 行火のことだね爺ちゃん! どうしたの? 熱いの?」
「ああ…ひょいほ…熱ちくて…。すまねぇあ…布団かららしれっれ…くれえぇ…か?」
「ほいきた、すぐに出してあげるよ。入ってるのはどこ? やっぱ、足元?」
 行火なんて今はほとんど使われていないだろうに、さすが爺ちゃんは昔気質なんだなぁ…。とついつい口元をほころばせつつ布団の端に目をやれば、果たして足元のあたりだけがほっこりと盛り上がっている。とはいえあまり派手に布団をめくり上げて爺さんの足を冷やしてもいけないとほんのわずか、慎ましやかにその角だけを返して思い切りよく件のふくらみめがけて手を突っ込んでみた瞬間…!
「フギャァァァァッ!!」
 行火にしてはやけに軟らかい、ふかふかすべすべの手触りに首をかしげる間もなく飛び出してきた黒い影が発した奇声と、びっくり仰天した若先生の悲鳴が見事な二重唱となって部屋中に響き渡った。
「あ…は…あ…は…。まあぁ…あ、ひっかかりゃぁあっら…こ…お…ひよっほ…医者…」
 一方布団の中、してやったりとばかりに楽しげな笑い声を上げた爺さんに、黒い影がすかさず擦り寄っていく。その正体は、背中から鼻筋にかけてはまっ黒でその他はまっ白の、一匹の日本猫だった。しかも、よくよく見ればその顔立ちといい毛皮の艶といい、中々の美猫である。
「おお…おお…よひ…よひ…お前もよう…やっあなぁ…偉れぇお…さん…らいめ…」
 かろうじて動く左手を爺さんが差し伸べれば、猫はいかにも嬉しげにその顔をこすりつける。そんな微笑ましい光景を前にしては腹を立てる気も失せるというもの、しかし「さんらいめ」―多分「三代目」のことだろうが―というのはまさか…?
「ねぇ爺ちゃん、『三代目』ってその猫の名前? 珍しいねぇ。…って言うより、爺ちゃんが猫飼ってたなんて初めて知ったよ。それとも『三代目』って言うからには『初代』や『二代目』もいたのかな?」
 何の気なしにそう言った瞬間、爺さんの顔に何とも複雑な表情が浮かんだ。
「あんら…お前ぇ…ういの猫…知らねぇ…ら…あ?」
「うん、だってこの子に会ったのは今日が初めてだもの」
 途端、その答えのどこが気に入らなかったのかぷいとそっぽを向いてしまった爺さん、そのままよっこらしょと寝返りを打って若先生に背を向けると、その後はひたすらだんまりを決め込んで三代目の相手をしているばかり。
(ありゃ…俺、何か気に障ることでも言っちまったかな?)
 しかしその瞬間、スミ子おばさんが再び部屋に戻ってきて。
「まぁまぁ、お待たせしちまってすみません、若先生。はい、シャケとアサリですよ」
 笑顔と共に差し出された袋を受け取ったり代金を支払ったりしているうちについつい今の一幕を忘れてしまい、そのままなし崩し的に爺さん宅を辞去してしまったことを、若先生は後々まで深く後悔する羽目になるのである。




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