石原医院の診療室にある僕の机の上には一枚の写真が飾ってある。それは家族―両親や弟、あるいは今は亡き祖父母―のものではなく、かといって僕が人知れず想いを寄せている「あの女(ひと)」のものでもない。
 だけどそれを不思議に思う者は誰一人いなくて。
 家族はもちろん、看護師さんも事務員さんも患者さんも―みんな、いかにも懐かしげな瞳でその写真を見つめ、時には二言三言話しかけたりする人もいるくらいだ。

 何故なら…。










くそじじい 1


「あちゃぁ〜。手首から肘にかけて、こりゃまた見事に炎症起こしてますねー、富岡さん。もしかしたら長年の疲れが出たのかな…何はともあれ一週間、いや大事を取って二週間、お仕事休んで安静になさって下さい。そうすればかなり楽になりますよ」
 東京下町にある吹けば飛ぶよな小さな医院の診療室、「若先生」こと石原秀之医師がそう告げた途端、向かいに座っていた患者は何とも情けない表情になり、次の瞬間青筋立てて血相を変えた。
「ええっ!? いくら何でもそりゃねぇよぉ、若先生…。一日二日ならともかく、二週間もおいらが休んじまったらウチの店はどうなるんでぃっ!」
 今にもつかみかかりそうな剣幕でまくしたてる患者に、「若先生」はあくまで穏やかなのほほんとした笑みを返す。
「大丈夫ですよ。お店にはおかみさんや隆志君だっているじゃありませんか。大黒柱のご主人がちょっとの間休みを取っても、きっと二人でしっかり店を守ってくれますよ」
「冗談じゃねぇっ! カカァはまだしも隆志になんざ、まだまだ任せられるけぇ!」
「だってこの間の初鰹の刺身盛なんか見事でしたよ。もう、ほとんどご主人の包丁捌きと変わらないって、うちでもみんな感心してたくらいなんですから」
「けっ、包丁捌きなんざ魚屋のイロハだぁな。二枚おろしや三枚おろし、ついでに大名おろしなんぞがいくら上手にできたところで、それだけで看板張れるほどこの商売は甘かねえ! 大体、河岸での仕入れはどうすんでいっ。おい若先生、いやさヒデ坊お前、ウチのヒヨッコにいっぱしの魚の目利きができるなんて、まさか本気で思ってんじゃねぇだろなっ! 畏れ多くも入ったばっかの小学校でションベンなんざ漏らしやがって、三年生のお前にさんざ世話ァかけた情ねぇ一年坊主によ!」
「はぁ!? ちょちょちょ、ちょっと、富岡さん…それって一体いつの話…」
「大体アイツは小っちゃい頃から甘ったれの泣き虫でなァ、自転車乗れるようになったんだって近所のガキどもの中でいっちゃん最後だったし、魚屋の倅のくせに魚の目が怖いとか何とかヌカしゃぁがって、小学校四年になるまで尾頭付きはおろか切り身にも触れなかった根性なしだぞ! そんな野郎に大事な店を、たとい一日たりとも預けるなんざとんでもねぇこった!」
「…いや、だからっ! いくら父親でもそこまで言うのはあんまりですってば! あーもう、だったらこっちも言わせてもらいます…じゃなかった言わせてもらうけどねっ、勝っちゃんおじさん! そんなのもう二十年以上も昔の話だってぇの! 隆志だって高校卒業してからこっち、十年以上もおじさんの下で修行してるんじゃないか。そりゃまぁ、おじさんみたいなベテランにはまだまだ及ばないかもしれないけどさ、少なくとも立派に一本立ちできるくらいの腕は持ってるよ!」
「にゃにおうっ!?」
「と…富岡さんっ!!」
 今度こそ本当に若先生の襟首を吊るし上げた患者に、居合わせた若い女性看護師が慌てて飛びつく。しかし当の若先生はかすかな目配せで彼女を抑え―。
「…それにさ、おじさん。今はまだ筋肉の炎症だけで済んでるけど、もしここで無理して骨や関節まで傷めちゃったらどうすんだよっ。薬で治せるうちはともかく、万が一手術なんてことになったらもうウチの手には負えないんだからね!」
「へ…へん! だったらちゃぁんとヒデ坊先生に手術していただくさ。聞きゃァお前、隣町の池田病院でも週一で診察してて、手術の腕も超一流てな評判とってるそうじゃねぇか。そんな名医がまさか、ガキの頃からよぉ〜く見知ってるこのおっちゃんを見捨てるなんて不人情な真似なんざしねぇよなっ」
「ん〜…そりゃまぁね〜。手術だけならいくらでもするけどぉ〜…」
 いまだ吊るし上げられたまま、わざとらしくそっぽを向いた若先生の意味ありげな口調に、患者―富岡の勝っちゃんおじさん―の手がほんの少し緩む。
「な…何でぇ! はっきりしねぇな!」
「もしそうなったらやっぱ最低でも二、三日は入院してもらわなきゃならないってのはおじさんだって承知だよね。だけどご存知のとおり、ウチには入院設備なんてないから当然入院するのは池田病院、術後の手当て一切はあちらの先生方にお願いすることになる」
「そんなバカなっ! 俺はお前―ヒデ坊の患者だぞっ! 手術だろうが何だろうが、お前が最後の最後まで面倒見てくれるんじゃねえのかよっ」
「だって俺の勤務先はあくまでこの石原医院だも〜ん。そりゃぁ確かにウチとあそこは診療協力体制取ってて、親父と俺が一応非常勤として籍も置いてるけどさ、あっちに行くのは週に一度、それも親父と交代交代なんだよ? いくら勝っちゃんおじさんのためでも、こっち休んであっちにつきっきりなんて絶対無理だかんねっ! …って、大丈夫だよ。池田病院にも優秀な外科医の先生はたくさんいるんだから」
「てやんでぇ! おいらァ金輪際、この石原医院以外の医者になんざ世話になる気はねぇんだよっ! 大体ウチぁ親父もお袋もここの先生方に死に水取ってもらってんだ、おいらもカカァもいざってぇときにゃ必ず世話になるって、しっかりきっぱり決めてンだからな…っ!」
 威勢のいい啖呵とは裏腹に、勝っちゃんおじさんの腕からは次第に力が抜けていく。おかげでようやく自由になり、ワイシャツの襟元をつまんでぱたぱたぱた、と空気を入れて一息ついた若先生の両手が優しくその肩にかかった。
「あはは…今度は突然、何縁起でもないこと言い出すの。おじさんはまだまだ大丈夫だって。でもさ、この先ずっと元気で働くためにも今はほんのちょっとだけ休憩取ろうよ。この段階ならまだ湿布薬と塗り薬で充分治せる。しばらく養生に励んでさ、元気になったらこれまで以上に隆志シゴいてばりばり仕事すればいいじゃないか。…そうだ、爺ちゃんの法事ももうすぐなんだろう? そんな大事な仕事控えて肝心の利き腕が痛いだの何だの言ってたら、また爺ちゃんの雷が落っこちるぜぇ」
 親しげな懐っこい口調で諭され、ついでに肩など揉んでもらっているうちに、勝っちゃんおじさんも大分落ち着いてきたようで。
「爺ィの法事か…。そういやそろそろそんな時期だったっけかなァ…」
「確か、七回忌だよね?」
「ああ。早えモンだ。…ったく、ついこの前までぎゃぁぎゃぁ怒鳴り散らしてたような気がすンのによ。ヒデ坊…いや若先生も、ガキの頃ァ悪戯めっかるたびにさんざん叱られて張っ倒されてたクチだってぇのに、あんときゃ本当によくしてくれてなぁ…おっちゃん、一生忘れねぇよ。ありがとう…ありがとうな…」
「そっ、そんな、とんでもない!」
 いつの間にかすっかりしんみりしてしまったおじさんに頭を下げられ、これまたすっかりうろたえてしまった若先生。―と、そこでどちらからともなく傍らの診療机の上、散乱するカルテや筆記具の奥にちんまりと鎮座ましましている小さなフォトフレームに視線を向けた二人の会話がふと途切れる。しかしそのうち、若先生の顔には何とも懐かしげな微笑が浮かんできて。
「…それよりおじさん、ご命日が近づいたら俺も線香上げに行っていい? もちろんお店の邪魔にならないよう、時間見計らって行くからさ」
「何でぇ、そんな気なんか遣うない。若先生にお参りしていただけるなんてウチの爺ィにとっても光栄の行ったり来たり、草葉の陰で祝杯上げてかっぽれ踊り出すぜ」
 同じく懐かしそうに目を細めていた勝っちゃんおじさんの笑い声が豪快に響く。どうやらご機嫌の方も完全に元に戻ってくれたらしい。が…。
「それじゃおじさん…じゃなかった富岡さん、くれぐれもお大事に。ちゃんと二週間お休み取って下さいね」
 帰り際の最後の念押しには返事をするどころか振り向きもせず、すたすたと診療室を出て行ってしまった。残された若先生は軽く肩をすくめてため息をつき、先程のフォトフレームをそっと手に取る。その中には大分まばらになってきた白髪をきっちり角刈りにしたいかつい顔の老人―それも口をへの字に曲げて眼光鋭くこちらを睨みつけている仏頂面―の写真が収められていた。
 しかし、今にも何やら小言が飛んできそうなそのご面相を見つめる若先生は再びあの―ただし今度は少々困ったような、途方にくれたような笑顔になって。
(やれやれ…。ねぇ爺ちゃん…勝っちゃんおじさんってば、最近ますます爺ちゃんに似てきちゃったみたいだよ…)
 心の中で語りかけながら静かにフレームのガラスをなでれば、睨みつけるようなその視線が、ほんの少しだけ優しくなったような気がした。





 石原秀之医師がこの小さな医院の「若先生」になったのはある意味当然の成り行きだった。ここの院長夫妻の長男に生まれたという偶然ももちろんある。しかしより大きな決め手となったのは幼い頃から見続けてきた両親の―地域の人々の健康を守るため、朝から晩まで懸命に働く姿にほかならない。
 だから物心ついたときにはすでに医者、それも地域医療の最前線で働く町医者になろうと決めていた。そしてその決心はやがて医学部に進学し、「頭脳も技術も大学始まって以来の天才」と教授連に舌を巻かせるようになっても、卒業後母校の付属病院で二年間の研修医生活を送るうちに、その評判が都内はおろか日本全国に広まっても少しも変わらず―結果、破格の待遇を約束する日本中の有名病院からの誘いも全て断ったばかりか、何としてでも彼を大学病院に引き止めようとする病院長・学長・医学部長トリオ以下、全病院・全医学部の医師、教授その他関係者の連合軍さえ振り切って、研修終了と同時にこの下町のちっぽけな医院に戻ってきたわけだが。
 たとい院長夫妻の長男にして医学界期待の若手天才医師といえども最初の半年間は仮採用の見習い、よってその間はただひたすら両親や看護師、あるいは弟―兄の研修中に大学の経済学部を卒業し、一足早く医療事務責任者として働き始めていた俊之―の下で診療室の掃除やら医療器具の準備、果ては保険点数計算から受付事務に至るまで、雑用ばかりに明け暮れた。
 だからその半年が終わる少し前、実父でもある石原太一院長から正規採用の決定を告げられたときにはどんなに嬉しかったか。しかしそれ以上に石原医師を奮い立たせたのは、それに続く院長のこんな台詞だった。
「知ってのとおりウチは往診―訪問診療もやってっから、正規の勤務医ともなりゃそっちの方も手伝ってもらわにゃならん。もっとも最初はとりあえず一人だけってことで…受け持ちの患者さんは俺の方で決めといてやっからよ、頼むわ」
 一般に言う往診とは、急な病や発作を起こした患者からの要請を受けた医師がその家に出向いて行う診療行為を指す。ただしこれはあくまで突発的かつ一時的な緊急対応だから、その後病状が改善して患者が通院可能になれば、外来診療に切り替わることも多い。しかし高齢や歩行困難などの理由によりどうしても通院不可能な患者を在宅で治療するとなると、医師の診療計画に基づいた定期的な往診が必要になってくる。こちらは特に訪問診療と呼ばれ、先の一般的な往診とは区別されているのだが。
 往診にせよ訪問診療にせよ、こればっかりは大病院の医者には絶対に真似のできない町医者の本領、ひいては地域医療の真髄である―というのが、石原医師のかねてからの持論だった。そんな彼がいよいよ町医者としての第一歩を踏み出し、通常の外来診療ばかりか訪問診療をも担当するとなれば、張り切らない方がどうかしている。一体誰が自分の「初めての」患者になるのだろう。それを思うと楽しみなような、身が引き締まるような。しかし、とにもかくにもまずはその患者のために全力を尽くそうとあらためて決心した石原医師だったのであった。

「でもよぉ、何だかんだ言っても兄貴の専攻つーたら外科なんだろ? だったらやっぱ最初はそっち系の患者さんを受け持つことになるんじゃねぇのかなぁ」
 その日の夜中、「正規採用決定祝い」だと一升瓶をぶら下げてこっそり部屋にやってきた俊之が、つまみの柿ピーをほおばりつつ考え深げに腕を組む。
「まぁな。こんなちっぽけな医院じゃ専攻がどうこう言ってらんねぇのは俺もわかってんだけどさ、正直初めてのことだし、できるなら外科の患者さんに当たりてぇな〜…なんてよ」
 少々声を落とした兄の本音に、弟もまた深くうなづいて。
「候補としちゃぁ、まずは高森のヨネ婆ちゃんか翁蕎麦の幸助爺ちゃんあたりかな。もっともヨネ婆ちゃんの手首…捻挫はほとんど治ったみたいなんだけどさ、何せほれ、一人暮らしの上に最近足元がどうもおぼつかなくなってきてるだろ? 全快後もちょくちょく様子見に行ってやった方がいいんじゃねぇかって、親父が言ってた」
「あーそりゃ確かにそのとおりだわな。ただ、俺としちゃ幸助爺ちゃんの膝―関節炎の方もちょっくら気になっててよ」
「あ、俺も。何せあそこも商売屋だし、息子さん夫婦だって毎日爺ちゃん連れてウチに来るのはしんどかろ。…でもさ、往診が必要なのは何も爺ちゃん婆ちゃんだけじゃねぇじゃん。意表を突いて若者担当ってセンもありうるぜ。例えば、倉橋の翔太とか」
「ああ…! この前ラグビーの試合で右足思いっきりイっちまった…」
「そーそー。そりゃもうお見事な複雑骨折で…って、あんときゃ兄貴も親父の診療手伝ってたじゃねぇか」
「まぁな…あれじゃ多分、最低半月はベッドから動けねぇだろうよ。その代わり後遺症の心配もまずなさそうだし、きれいに治るたぁ思うんだけどな…アイツときたら一体何食って育ちやがったんだか、コーコーセーのくせして身長一八四、体重も九〇近くあるからさぁ…。アイツん家って父ちゃん会社員だし、平日昼間はずっと留守だろ。母ちゃん一人じゃあんなデカブツ、とてもじゃねぇが連れてこらんないぜ」
「…ごもっとも」
 それっきり、二人の間にしばしの沈黙が落ちた。しかしやがて、ふと顔を上げた俊之がぽつりとつぶやく。
「…なぁ兄貴。患者さんたちって、何だかんだ言ってみんな…大変なんだよな」
「そうだな…。でもよ、だからこそ少しでも元気になってもらえるよう、俺たちが頑張らなきゃいけないってことなんじゃねぇか?」
「おう! 頼りにしてっぜ、兄貴!」
「こっちもだ!」
 そこで手にした湯飲みをかちんと合わせて中の酒を一気に飲み干し、満足そうににやりと笑い合った兄弟。



 このときの石原医師は、間もなく自分がとんでもない「試練」にぶち当たる運命にあることなど、まるっきり知る由もなかったのである―。




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