何日君再来 2
「…そりゃ、朝っぱらからムカつく話だわなァ」
昼休み。焼きそばパンに思いっきりかじりついた瞳子が何度も大きくうなづく。
「でしょでしょでしょー!?」
激しく叫んだ煕子は、口の中に小さな玉子焼のかけらが残っていたことに気づき、「失礼」といったん言葉を切ったものの、ごくりと飲み込んだ次の瞬間にはさらにけたたましく、たまっていた鬱憤を一気に吐き出す。
「大体、あの中ノ坊寧子(なかのぼう やすこ)って女、ヘンだよ! 他の子にはバリバリのタメ口きくのに、あたしにだけいっつも敬語使ってさ。それも中一のときからだよぉ。つきあってらんねーや」
「だって煕子んちって、もともとあの子んちの主筋に当たるんでしょ? だったらそれもしゃあないよ。あの子はあの子なりに気ィ遣ってんじゃないのぉ?」
三角パックのコーヒー牛乳に差し込んだストローをくわえた聖の言葉はあくまで冷静だが、それがかえって火に油を注いだらしい。
「そんなの、何百年前の話だってんだよ! 第一うちってばさ、一応『後三条』は名乗ってるけどパパがじーちゃんに勘当されてるから、もうあっちとは何の関係もないはずだしぃ」
「だけど煕子のパパ…『後三条俊明』っつーたら今や演劇界でも五本の指に入る一流脚本家なのにね。普通の親なら喜んで自慢する立派な息子なんじゃない?」
「元公家にそんな常識は通用しないって。だってあのじーちゃん、いまだに芸能人とか文筆家とか、『下賤の輩』とか何とか言ってケーベツしてるもん。時代錯誤、職業差別もいーとこだよ」
「…昔は確かにそうだったらしいもんね。現代じゃ人間国宝になったり勲章もらったりしてる歌舞伎役者や能楽師とかも、差別されてたんでしょう?」
「そーそー。だからさ、パパが大学中退して劇団立ち上げたとき、『下々の者に交じって芝居なんぞをやるなんて後三条家の面汚しだ』って家から叩き出しちゃったんよ。だからうちは、あっちの一族からはハブ(村八分)にされてんだー」
「でも、煕子のママや煕子のことは気に入ってるんでしょ? おじーちゃん」
「そこがわからんのよね。うちのママは正真正銘の下々、先祖代々の庶民なのにさ。何か、死んだおばーちゃんにそっくりなんだって。それにあたしもどっちかっつーとママ似だからね。パパがいないとき、じーちゃんこっそり『たまには遊びにおいで』って電話かけてくんの。でもって、遊びに行くとすごく歓迎してくれてさ、パパがやらかしたただ一つまともなことは、ばーちゃん似のママと結婚したことだけだ、なんて言うんだよ。でもって、女の子は普通男親に似るのにあのバカ息子に似てない娘を産んだのはママが偉かったからで、そのまま素直にママ似の子に育ったのはあたしが偉いんだって」
「…でもそれって、おじーちゃんもパパも、亡くなったおばーちゃんをすごく大事にしてるってことなんじゃない? いい親子だと思うけどな」
「そーだよね。だからママとあたしはこっそり『変な親子』って言ってるし、あっちの伯父さんや伯母さんも陰じゃ大笑いしてるみたい。―だけどとにかく、表面上うちはあそことは関係ないの! だから、中ノ坊寧子にお姫様呼ばわりされる筋合いも、気ぃ遣われる理由もないの! そこがどーしてわからんかね、あいつには」
そこで煕子は、弁当箱の中に最後まで残っていたブロッコリーに思い切り箸を突き立て、一息に口の中に放り込んだ。そして、空になった弁当箱のふたを荒々しく閉じて、可愛らしい模様のハンカチで包むのもそこそこに鞄の中につっこむ。どう見ても完璧な八つ当たり、ブロッコリーや弁当箱もいい迷惑であろう。
「だけどねっ! もっとムカつくのは聖に対するあの態度よ! なーにが、『得体の知れない外法使い』だぁ? そっちこそ何様のつもりじゃいっ」
だが、そう言われた聖の方はあくまでも冷静で―。
「…それこそ、仕方ないよ。うちは、そーゆー家系だからね。先祖代々、陰口叩かれるのには慣れてんの」
「だってさぁ!」
さらに何か言いかけた煕子を、聖がそっと押しとめて。
「あたしんちはあの子んちにとっちゃ仇の片割れだもん。とてもじゃないけど、許す気にはなれないんじゃないの?」
さらりと言いのけつつも、どことなく淋しそうな聖の表情に、さすがの煕子も言葉を失う。残る瞳子は、ただじっとそんな二人を見比べているばかりであった。
「中ノ坊家って、大伴氏の子孫でしょ。大伴氏が没落したきっかけって応天門の変じゃん。元は政界の大立者だったのに、あれがきっかけで完全に息の根止められちゃってさー。ま、実際に伴善男を断罪したのは藤原良房だって言われてるけど、そんときうちの先祖はもう藤原氏に仕えてて…『能力』使って犯人言い当てたのはうちの先祖だったって言い伝えもあるんだよ。それからも、藤原氏のためにいろんな貴族を陥れて、蹴落として…それも、正々堂々とやるんならまだしも、一般人から見れば『得体の知れない』能力使って闇から闇。…汚れ役を一手に引き受けてきた一族だからねぇ。ま、恨み買ってもしゃーないわな」
「だってそんなの! それこそ何百年…ううん、千年以上前の話じゃん。第一、そんな大昔のことで聖恨むんならさ、あたしだって恨まれて当然のはずなのに。うちだって、元をただせば藤原氏だもん」
なおも唇を尖らせる煕子に対し、聖の言葉はあくまで冷静である。
「そりゃ、公家系の元華族なんて、ご先祖たどれば藤原か源平が大部分だもんね。だけど煕子のご先祖様は、その後貧乏して困ってた大伴氏の子孫を召し抱えて、随分優遇してあげてたんでしょ」
「だって…うちは藤原っつったって元が傍流だわ、いろんな家の血も混じってるわで比較的そーゆー争いからは自由だったからさ…」
「だけどうちはずっと藤原家の主流に仕えて、裏であーだこーだやってきたんだから…言い逃れなんか、できないよ」
さすがの煕子も、もう言い返すことができない。瞳子が小さく肩をすくめ、ため息混じりにつぶやいた。
「旧家のお嬢様ってのも大変だねぇ。それじゃまるで『歩く裏日本史』じゃん。あたしみたいな成り上がりなんてのは、かえって気楽でいいのかもしんないなー」
「成り上がりなんて!」
たちまち、見事な二重唱で聖と煕子が叫ぶ。
「あたしたち、そんなこと全っ然思ってないよぉ。第一…こんなこと言うのはやだけど、今こん中で一番のお金持ち、お嬢様なのは瞳子なんよ? 何てったって、M物産取締役のご令嬢だもんねー」
少しばかりむきになった煕子に、瞳子は小さく笑って見せた。
「…あんがと。でもうちはホントに、煕子や聖んちみたいに由緒正しい家柄じゃなくて…うちのオヤジなんか、元をただせば農家の息子だもん。それに、取締役っつったってただのサラリーマン、ヒラ取にしか過ぎないからね。定年までに常務か専務になれりゃ上出来だって、本人が言ってるし」
「農家の息子のどこが悪いんよ? この学校だって、世間様にはお嬢様学校ヅラしてるけど、昔はともかく今じゃ由緒正しい庶民のうちの子が圧倒的多数なんだから。むしろあたしらの方が絶対的少数派だし、あたしんちだって、ただ古いってだけで煕子んちみたいな元華族じゃないし…」
「そうだよ。それなのにあんな、何百年だか何千年前だかの話持ち出してケンカ売ってくる中ノ坊の方が変なんだってば。も、やめよ、こんな話。うちらはうちらで仲良くしてりゃいいんだもん」
「そーそー。大体、そんな『過去のしがらみ』なんて大したこっちゃないよ。それよりもっと面倒臭いのは…おっと、そろそろだ。いつも悪いけど、またまた頼むわ、お二人さん」
ちらりと腕時計を見た聖が慌てて食事の後始末をして―教室後方にかけてある白衣を取りに行ったかと見るや、今まで自分が座っていた机と窓の間のわずかな隙間にぱっと広げた。そしていきなり、その上にごろりと横になり、小さく身体を丸めて一言。
「藤蔭聖は死にましたぁっ! でなきゃ、素行不良で退学になった…つーてもだめかな?」
「いや、いくら何でもそーゆー見え透いた嘘は通用しないっしょー?」
言いながら、さっと聖の席に移動し、聖を隠すようにスカートの裾を広げ直した瞳子。一瞬遅れた煕子が地団太を踏む。
「あー、瞳子ずるいっ! 今日もまたあたしが出るわけ? たまには瞳子、行ってよぉっ!」
だが、瞳子は平然としたものである。
「…小柄なあんたじゃ聖の体全部は隠せないよ。…そういってる間にほら、お出ましだ。頼むね、渉外係」
煕子がぷぅっと頬を膨らませるよりも早く、がらりと開いた教室の扉。そして、何やら思いつめた表情で外の廊下に立っていたのは…中等部の生徒の集団だ。
その中の一人が扉の近くに座っていたクラスメイトにおずおずと声をかける。たちまち教室中に響く、呼び出しの声。
「ちょっと聖! またまたご面会だよっ! 正面玄関まで、出ておいで!」
ちぇっ、と小さく舌打ちをした煕子がしぶしぶ立ち上がる。だが、扉の方を振り向いたときにはいかにも優しげな微笑を浮かべているのが怖い。不安そうな顔でこちらを見つめている下級生たちに歩み寄れば、その中の一人が思い切ったように口を開いた。
「あ…あの…藤蔭さんは、いらっしゃいますか?」
消え入りそうなその声に、煕子はほんの少し、申し訳なさそうに眉をひそめる。
「まぁ…ごめんなさいね。藤蔭さん、たった今ご飯食べ終わって出て行っちゃったの。どこへ行ったかは私にもわからないわ。…もしかしたら図書室かどこかだと思うけど」
口調も声音も、今まで聖たちと話していたときとはがらりと変わり、優しくてしとやかな上級生そのものだ。だが、その言葉を聞いた中学生たちは途端にがっくりと肩を落とす。
「そう…ですか…。すみません。お邪魔しました」
そのまましおしおと立ち去っていく姿は確かに気の毒だったが―ほんの十数秒の間をおいて、煕子がこっそり、教室から首だけ出して覗いてみれば。
「あーあ…今日も藤蔭先輩、いなかったね…」
「やっぱ、忙しいのかなー。高二ともなると」
「でもそのかわり、後三条先輩に会えたんだからいいよぉ。煕子ちゃん、今日も可愛かったぁ」
「小っちゃくてほっそりしてて、ホント、お人形さんみたいだよね。大好き!」
「でも、たまには松宮先輩が出てきてくれてもいいのになぁ」
「えー、そしたらあたし、舞い上がって気絶しちゃうよぉ」
「それよりやっぱ藤蔭先輩! あの中性的な魅力がたまらないっ」
今しがたの打ちしおれた様子はどこへやら、口々に好き勝手なことを言い合ってきゃあきゃあ騒いでいる。煕子は顔をしかめ、勢いよく扉を閉めるとぷりぷり口を尖らせながら聖たちの方へ戻ってきた。
「ったくもう…深刻ぶってんのは上っ面だけなんだからっ! なーにがお人形さんでいっ! あたしらは中学生どものおもちゃじゃねぇってんだよ!」
「まぁまぁお姐さん、お気を静めて。…でもこれで、そろそろ二週間くらいになるんじゃない? 結構深刻なのかね、あの騒ぎ」
苦笑交じりに煕子をなだめた瞳子が、いまだ白衣の上に寝っ転がっている聖に視線を移す。一方の聖は仰向けに横たわって両手を頭の後ろで組み、ついでに足まで組んだかなり行儀の悪い格好で、見るともなしに天井を見上げているばかりである。
「そーいや今日は中三や中二に交じって中一の連中もちらほらいたような…人数そのものもかなり増えてたしねぇ…ま、あいつらも本心じゃ面白がってんのかもしれないけど、どうやらただの噂だけじゃないかもよ」
瞳子の言葉に何やら考え込んだ煕子も言葉を添えたが、聖はまだ黙ったままである。だがやがて、その形の良い唇がぼそりとつぶやいた。
「そりゃ、ただの噂ならこんなにしつこく中等部の連中が陳情に来るわけもないさ…だけど、学校内の幽霊騒ぎになんざ、いちいち構っていられっかい」