何日君再来 11


「御法…」
 まさか初音も、ここまできっぱりした返事が返ってくるとは思っていなかったのだろう。大きく目を見開いて、目の前の妹を見つめる。そこで御法がふと顔を上げ、二人の視線が真っ向からぶつかった。
「聖ちゃんが自分の出生について悩んでいるのは私も知ってる。…だけど、今さらどう頑張ったってその過去を変えることなんかできやしないでしょうに。だったら、納得できるできない、受け入れられるられないは別として、それを客観的事実として認識することだけはしてもらわなくちゃ困る。いつまでも逃げてばかりじゃあの子、この先どこかで必ずつまづくわ。…まして藤蔭の『能力者』ともなれば、どんなにあがこうが喚こうが一生その能力とともに生きていくしかないんだから」
 そこでまたふと目を伏せて。さらに新しい酒を、自分の猪口に注ぎながら。
「『能力者』にすがってくる人たちはこちらの都合なんか考えてくれない。聖ちゃんはもしかしたらこれからも、同じように―自分の心の傷をえぐるような事件に否応なく巻き込まれてしまうかもしれない。そんな時、いちいち自分の過去に怯えて尻込みしててどうするの。痛い目を見て血を流すなら若いうちの方がいいわ。年を取れば取るほど傷の治りが遅くなるのは、身体も心も同じことですもの」
「だけどもし、それであの子が壊れちゃったら…? どうすればいいってのよ?」
 それは、つい今しがたまで初音が自分自身に問いかけ続けていた質問。自分にはどうしても答えを出せなかったこの問いに、一体妹はどう、答えるのだろう?
 さすがの御法も、すぐには言葉を返してこなかった。
 だが。
 しばらくののちにゆっくりと顔を上げた御法の声には、不安やためらいは一切なかった。
「そのときはそのときよ。もしこの件の所為で聖ちゃんがどうにかなってしまっても、あの子には雪江義姉さんやお母さん、それに初音姉さんとあたしもいるじゃない。もしあの子が壊れたら、みんなで世話してその傷を治してあげればいいだけのことよ。…あまりに時間がかかりすぎて、私たちの一生だけでは足りないなんてことになってもせいるがいる。あの子だって聖お姉ちゃんが大好きですもの。最後の最後まで、ずっと聖ちゃんのそばにいてくれるはずよ」
 そこであの婉然とした微笑を浮かべた妹が、姉の手をしっかりと握る。
「第一、聖ちゃんが必ず壊れると決まったわけじゃないでしょ? 『十中八九』なんて言葉は『絶対』って意味じゃない。一でも二でも、そうならない可能性は確かにある。姉さん、ここは信じてみようよ。この世でたった一人の、あたしたちの大事な姪っ子を」
 微笑みつつも半分泣いているような表情で懸命に訴えかける妹の姿に、しばし言葉を失った初音が、やがて小さく肩をすくめた。
「やれやれ。あんたってば、いつのまにかお母さんみたいな口聞くようになっちゃって。…そう言われるのが怖かったから、わざわざお母さん抜きで、こんな居酒屋まであんたを呼び出したってのに」
「姉さん…」
 初音がいつしか覚悟を決めたような晴れ晴れとした表情になったのに引きかえ、跡形もなく消えた微笑のかわりに一筋の涙を頬にこぼした御法。
「でもまぁ、あんたのおかげであたしも覚悟決めたよ。やだ、どうしたの? バカだねぇ。そんな、泣いたりしないで…ほら、涙拭きなさい。あんたは私たち兄妹の中で、一番強い人間のはずでしょ」
「やだ、『一番強い』だなんて…。どうしてそんなこと言うのよ」
 そっとハンカチを手渡された御法が、泣き笑いの表情になる。そんな妹に、こちらもほんの少し、泣きそうになった初音が。
「…だって、あんただけだもん。自分の子供をあんなに真っ直ぐに、のびのび育てることができたのは」
 その言葉に、ハンカチで目頭を押さえていた御法の手もふと止まる。
「光一郎兄さんは、『藤蔭』の血を引く二人の娘―自分にはない能力を持つ光や聖と真っ向から向き合う勇気がなくて、ずっと逃げ続けていた。その結果、光は全てを自分一人で抱えこんで死を選び、聖もいまだに人知れぬ深い傷を癒せないままに生きている。だけど…ま、あたしにゃ子供がいないから置いといて、せいるはあの二人とは違うでしょ? あんたや貞輝さんの愛情を一身に受けて、真っ直ぐに、元気で屈託なく育ってるじゃないの。あたしゃ、生まれて初めて見たよ。藤蔭の家に生まれながら、あんなにものびのびと育った子供ってやつをね。それは光や聖だけじゃない、あたしら兄妹を含めての話だよ」
 再びハンカチを目に押し当てた御法がかすかにうなづいた。藤蔭の人間にとって、子供とは「何よりも愛しい、大切な存在」であると同時に「何よりも恐ろしい、不可解な存在」。能力を持った親のもとに生まれた能力のない子供でも、能力を持たぬ親のもとに生まれた能力のある子供でも同じことだ。
 ごく普通の家に生まれた当たり前の子供でさえ、親が思いもかけないものをその瞳に映し、親の夢にも思わぬものを子守唄にして育つ。まして能力者とそうでない者とは、見るもの聞くもの感じるものの全てがあまりにも違うのだ。
 能力を持つ親、能力を持たぬ子。能力を持たぬ親、能力を持つ子。どちらの組み合わせにしても同じこと。血を分けた我が子、我が親が自分とは全く違うものを見、想像もつかないものの声を聞き―でなければ、自分の見るものを全く理解できず、絶え間なくささやきかけてくる森羅万象の声をまるっきり、感じることができないと悟ったとき。
 この世で一番近しいはずの「家族」に対して絶望せずに過ごせるものがどれだけいるというのだろう―。
 事実、藤蔭家にはそんな葛藤、衝撃を恐れるあまり、一生独身で過ごす者もかなりいる。正直、現代までこの不可思議な家の血が連綿と受け継がれてきたのは半ば奇跡と言ってもいいほどなのだ。
 そんな、自分たちの家系の重さをあらためてかみしめたのだろうか。初音と御法の間にほんのわずかな、沈黙が落ちた。
「…もしかして、姉さんが子供を持たなかったのは…やっぱり、『それ』が怖かったから…?」
 やがて、思い切ったように尋ねた御法に、初音は苦い微笑を返す。
「そんなことないわよ。あたしたち夫婦だって、これでも随分頑張ったんだから。…ただ、子供は授かりものって言うしねぇ…。人工的、医学的な処置をすればもしかしたら…って迷った時期はあった。だけどそんなふうに、自然の摂理を無理矢理ねじ曲げてまでも産む気にならなかったのは…やっぱり、怖かったのかな」
 苦い笑みにいつのまにか哀しみを交え、遠い目をして猪口の酒を空けた姉に、同じく知らず知らずのうちに唇をかんでいた妹の口から、ほとばしるように流れ出た言葉。
「それは…私も同じことだったわ。私と貞輝さんも、結婚して十年近く子宝には恵まれなかった。でも私、それでかえって安心していた部分もあるのよ。『もしかしたら私は、お母さんのような苦しみを知らずに済むかもしれない、自分と全く別の世界に住む子供の気持ちを理解しようとしてできない生き地獄を体験せずに、平穏無事な一生を過ごせるかもしれない』って」
「御法…?」
 聞き返した初音から、御法はわざと視線をそらして。
「正直、せいるがお腹に宿ったことを初めて知ったとき、私は怖くて怖くて仕方がなかった。能力を持たない私に『能力者』の子供が生まれてしまったらどうしよう、って。生まれてくる子が能力を持たなくたって同じことよ。少なくともその子が藤蔭の血筋であることだけは間違いないんだから、その子が大きくなって、またその子供を持つようになったら絶対私は同じことで悩むに決まっている。…所詮、この胸に、そして脳裏に巣食う恐怖に今すぐ対面するか、それとも二十年、あるいは三十年後まで先延ばしにして、その長い年月をびくびくおどおどおびえながら暮らすか、それだけの違いにしか過ぎないんだって。それでも精一杯何でもないふりをして、普通の母親のように、自分に宿った命をただただ喜んでいるふりをしてたんだけど…一度だけ、錯乱しちゃったことが…あったわよね?」
「…古い話を」
 苦笑とともに、姉の瞳が「言うな」と妹を制する。その視線を真っ直ぐに受け止めた妹は、少しばかりの甘えの混じった、しかし確固たる眼差しに「言わせてほしい」という思いを込めて―ひたと姉を見据えた。
 それでもなお、姉は一瞬拒絶するように目をそらした。だが、やがてすぐに思い直す。どうせ今夜の自分たちは酔っている。何を言っても何を聞いても、明日の朝になれば全て「酒の所為」と、胸の中の記憶を笑って破り捨てることができるだろう。
「…確かあれは、あんたがそろそろ臨月にさしかかろうって頃だったねぇ」
 言いつつ、再び自分を真っ直ぐに見つめてくれた姉に、御法はほっと安堵の息をついて。
「そうそう。どんなに悩んでも迷っても、この子が生まれてくるまでにはあと一月足らず…だから私も、覚悟を決めたつもりだった。ただひたすら、生まれてくる命を待って、心穏やかに暮らすつもりだった…」
 忙しげに店のあちこちを飛び回っている店主を呼び止め、御法は水を一杯頼んだ。…あれほど自分に言い聞かせていたつもりだったのに、どうやら飲みすぎてしまった気がする。少し酔いを醒ましておかなければ、家に帰って貞輝に合わせる顔がない。それより何より、酔いすぎた自分がこれからの話で必要以上に取り乱してしまう、それが怖かった。
「正直、今でも私、わからないのよ。どうして自分が突然、あんなになってしまったのか。…というより、あのときのことはいまだに切れ切れにしか覚えてないの。だから、怖かったわ。自分が何をしでかしたのか、お母さんや貞輝さんや忠志義兄さん、そして姉さんにどんなことを言ったのかわからないまま、今まで過ごしてくるのはね…あとで訊いてもみんな、『何でもないから忘れてしまえ』って言うばかりだったし」
「…そうだったかしらねぇ」
 とぼけたふりをしても、初音の方はいまだにあの夜の全てを覚えている。…そう、あれは確か今日と同じ土曜日、同じ深夜。ちょうど、今夜の御法と貞輝のように夫婦水入らずのひとときを存分に楽しんだ初音夫婦がそろそろ休もうかと居間から寝室に引き上げた頃だった。
 突然、鳴り出した電話。寝間着に着替えようとしていた初音は、慌てて受話器を取った。聞こえてきたのは貞輝の声―いつも温和で優しい義弟の、悲鳴にも似た絶叫。
(ね、義姉さんっ! すみません、今すぐうちに…うちに来て下さいっ! できれば義兄さんも一緒にっ! 大変なんです! 御法が…御法がぁぁぁっ!)
 涙交じりの叫びに混じるのは、何か器のようなものが割れる耳障りな音と、鼓膜に突き刺さるような若い女の金切り声、そしておろおろとそれをなだめる、年老いた女の声。
(な…に? もしかしてあの声は…御法? そんな…そんな莫迦な!)
 昔から、おとなしい妹だった。それでも中学高校時代は陸上部に入り、主将まで務めたのだから決して「気が弱い」というわけではなく、むしろ「芯が強い」といったタイプなのだろうと、初音は子供の頃から思い込んできたのだが。
(そうよ…あの子は多分、私より何倍も強い女のはず。たとえ何があろうとも、あんなに取り乱すなんて…絶対にない…はず!)
 愕然とその場に硬直してしまった初音の肩が激しく揺さぶられた。ぼんやりと振り向けば夫―忠志がいつの間にか自分の手から受話器をひったくって耳に当てながら、今まで見たこともないような厳しい形相で初音を叱りつける。
「莫迦っ! 何を呆けてるんだ! 貞輝君、俺たち今すぐ行くから! …初音! 仕度なんかいい! 何でもいいからそのへんのモン羽織って、すぐ出るぞ!」
 目の前の妻と受話器の向こうの義弟、二人にかわるがわる話しかけながら―というより怒鳴りつけながら脱ぎ捨てた服を身につけ、電話を切ったあとは箪笥に首を突っ込んで、一番最初に手が触れた自分と初音のジャケットを引っ張り出してきた忠志。
 それを羽織るどころかただひっかけるだけの状態で夫に引きずり出され、当時は歩いても十数分の距離にある実家に駆けつけた初音。
 
 玄関を入った瞬間、凄まじい叫びと小物の割れる音、家具の倒れる音などが先の電話の数倍、いや数十倍の激しさで響いてきた。一瞬、呆然と顔を見合わせた初音と忠志は、次の瞬間靴を脱ぐ間ももどかしく、奥に駆け込む。そして―。
二人が目にしたのは、信じられない光景だった。
「あ…あ! 義姉さん! 義兄さん!」
 台所。自分たちの足音に気づいた貞輝が泣き出しそうな顔で振り返る。その腕の中、獣の咆哮にも似た声で喚き散らしながら、その夫さえ撥ね飛ばしかねない勢いで暴れ、もがいていたのは。
「御法!」
 息を呑んだ初音が、反射的に二、三歩前に出る。
「おやめ初音! 素足で入るんじゃない!」
 足元から不意に聞こえてきたのは母、鎮女の声。見れば床は、一面に散乱した食器―陶器やガラスの破片で足の踏み場もないほどだった。
 そんな床に鎮女は膝をつき、先ほどから必死に御法の足元を押さえつけようとしていたのだ。しかし妹はそれを母と認識することもできないのか、老いたその細い腕を容赦なく足蹴にし、踏みつけるばかり。鎮女の手は無数の切り傷で覆われ、そのうちのいくつかからはまだ血が滴り落ちている。見れば貞輝のこめかみにもどこかにぶつけたような傷があり、血がにじんでいた。
「御法! やめなさいっ!」
 初音の絶叫にも、もちろん御法がおとなしくなるわけなどない。
(一体、どうして…どうして…御法…)
「おい初音! しっかりしろ!」
 軽く頬を叩かれてはっと正気に返ってみれば、忠志が恐れ気もなく台所に踏み入っていくところだった。いつの間にかその足はしっかりとスリッパを履いている。そして、初音の傍らにももう一足のスリッパがきちんと揃えられていて。
「貴方…」
 おそらく自分が呆けて立ち尽くしている間に夫が玄関から持ってきてくれたのだろう。…そうだ。それでこそが正しい対処。狼狽している場合じゃない。冷静に、ならなくては。
 きっと唇をかみ、傍らのスリッパにつま先をねじ込んだ初音は迷うことなく夫のあとに続いた。
「御法! 御法っ!」
「御法さんっ! しっかりするんだ!」
 暴れまわり、もがきまわる御法を押さえ込むのは貞輝と忠志、大の男二人がかりでもかなり困難だった。半ば団子状態になって揉み合う三人の脇をかいくぐり、初音はまっしぐらに母の―鎮女のもとに駆け寄る。
「お母さん! 大丈夫!? あ…あ、手がこんなになっちゃって…さぞ痛いでしょうに…」
 が、そこに膝まづこうとした途端、母の厳しい声が飛ぶ。
「莫迦、初音! 膝なんかついちゃいけない! あんたが怪我するでしょう!」
 そう叱りつけた自分は先ほどから膝をつき、傷ついて―着物の生地を通してまで、血をにじませているというのに。
「お母さん…!」
「御法は…何かタチの悪いものに憑かれたんだ。お腹に子供がいるときの女はただでさえ、心が不安定になるからね。ましてあの子は藤蔭の女…その手のモノには人一倍影響を受けやすいくせに、能力を持たないから自分で自分の身を守ることができない…そこにつけこまれたんだよ。ああもう、一体どこのどいつだい! あたしの大事な娘に取り憑いたのはっ!」
「お母さんっ」
 こんな状況で母にまで錯乱されたら、自分たちは完全に手も足も出なくなってしまう。初音は無我夢中で、必死に母にかじりついた。
 しかし。
「大丈夫だよ、初音。安心おし。貞輝さん一人ならともかく、忠志さんまで来てくれたとなれば―大の男二人がかりともなれば、いずれ取り押さえることができる。そうなったら…」
 鎮女の言葉に嘘はなかった。さすがの御法も、貞輝と忠志の二人に押さえ込まれてはなす術もないとみえる。いつしかその抵抗も少しずつ弱くなり、ただ肩で荒い息をついているばかりになっていた。しかし―。
「あとはあたしが、命に代えてもあの子に取り憑いた悪霊を祓う!」
 低く叫んだ鎮女が火を噴く視線で御法を―自分の娘を見据えたとき、聞くに堪えない下卑た哄笑が御法の口からほとばしり出た。
「ぐぇひひひひひっ…! お前ら、何をそんなにいきり立ってるんだよ。この女を守るためか? それとも大事なのは腹の中のガキか? ひひひ…そんなに死に物狂いになって、いざこのガキがこの女の腹から出てきたら、お前ら全員後悔するぞ…」
 つり上がって血走った目。泡を噴きつつ、下品な言葉を吐き散らす唇。御法の形相は、今や完全に人外の化け物と化していた。
「いいか? このガキはお前らが束になってもかなわないほどの能力を持って生まれてくる。そしてお前らみたいなクズどもを見下し、憎んで…挙句の果てにはお前ら全員ののど笛をかっ切るぞ! 自分より力の弱い父や母、伯父、伯母、祖母など頼まれたって要らんとよ! ふぇへへへへ…なあおい。そうなったら困るだろう? そんなガキが生まれてくるのは怖いだろう…? だから俺がさっさと始末してやろうってんだ。邪魔するなっ!!」
 刹那、御法の身体が弾かれたように反り返り、ようやくおとなしくなりかけた妻、そして義妹に油断していた貞輝と忠志を撥ね飛ばす。そして…。
「こんなガキは、今の内に息の根止めとくのが、お前ら全員のためなんだよ!」
 狂笑とともに、御法がぐらりと前のめりに倒れこんだ。新しい命の宿る腹をかばうこともせず、硬く鋭い破片が散乱する床に向かって、己が身を叩きつけるように。
「だめぇぇぇぇぇっ! 御法、いけないーッ!」
 気がつけば初音はその下に身を投げ、倒れこんでくる妹の身体を全身で受け止めていた。
「初音ぇぇぇっ!!」
「御法っ!!」
 忠志と貞輝の絶叫とともに、その場にいた全員の動きが止まる。ただその瞬間、鎮女だけが悲鳴の一つも上げず、二人が倒れこんでいく床に思い切り何かを投げつけるような形で腕を振り下ろしていた。
 かなりの勢いで倒れこんできた妹を受け止めた衝撃に、初音の意識が一瞬途切れかける。こんな状況で気絶するわけにはいかないと死に物狂いで気を取り直したのはいいが、どうやら腰のあたりをしたたかに打ちつけたらしく、体はほとんど動かない。
(御法…そうだ、御法は…?)
 自由になる眼球だけを懸命に動かして、自分に覆いかぶさっている妹を見上げた初音。
 が―。
「このアマァァァァッ! 余計なことをしやがって!」
 あの悪鬼の形相もそのまま、凄まじい憎悪とともに初音を睨みつけた御法の細い指が、一気に姉ののどもとを締め上げた。
「やめろ、御法っ!」
「御法さんッ!」
 叫ぶより早く、御法を初音から引き離そうとする貞輝と忠志。だが、それよりも鎮女の方が早かった。
「あんたの相手はあたしだよ! これ以上、大事な娘や息子たちをおもちゃにされてたまるもんかね!」
 婿たちの間をすり抜けるようにして御法に飛びつき、真っ直ぐに伸ばした右手の人差し指の先でその額をとん、と突く。途端、御法の全身が硬直し、全ての動きを止めた。
「貞輝さん! 御法をこのまま『御神前』へ! 忠志さん! 初音を…頼みましたよ!」
 毅然とした姑の言葉に婿たちはうなづき、直ちにそれに従う。いまだぴくりとも動かない御法を抱き上げて鎮女とともに台所を飛び出した貞輝、そして残された初音をゆっくりと抱き起こした忠志。
「あ…貴方…貴方…」
「大丈夫か、初音! …よし、そのままじっとしてろ! ガラスか何かで怪我でもしたら大変だ。今俺が起こして、欠片を払ってやるから」
 しかし。
「あ…れ…?」
 どこか拍子抜けしたような夫の声に、初音もそうっと首をめぐらして今倒れこんだ床を覗き込んでみれば。
 初音たちの下敷きになった破片のみが、他のそれよりもさらに細かく―砂よりも小さな粒になるほどに、完璧に粉砕されていた。
「お母さん…」
「もしかしてさっき、お義母さんが何かを投げるようなそぶりをしたのは…そうか…これが…。藤蔭宗家…『長』の…ちか…ら…」
 あらためて鎮女の能力の強大さを見せつけられた若夫婦は、ただ呆然と互いに顔を見合わせることしかできなかった。

 貞輝が戻ってきたのは、めちゃめちゃになった台所の片付けも一通り終った頃であった。
「義姉さん、義兄さん…今夜は本当に、申し訳ありませんでした。…そして、ありがとうございました。おかげさまで全ては終り―除霊は完全に成功しました―御法もようやく落ち着いて、休んでいます。…で、お義母さんがお二人を呼んでいらっしゃるのですが、『御神前』まで来ていただけないでしょうか」
 「御神前」というのは藤蔭家の一番奥、遠い昔から一族が守り続けてきた「神」―この国に宿る全ての神霊たちを祀る部屋である。神聖かつ強力な結界に守られたその空間には、一族の長―現在は鎮女―が許した者以外、一切の立ち入りを禁じられていたのだが。
 今、その鎮女がその場所に自分たちを呼んでいるという。初音と忠志は衿を正し、大きく深呼吸をして貞輝の後に従った。
 初音でさえ、それまで数えるほどしか入ったことのない―忠志にいたっては初めて足を踏み入れたそこは八畳ほどの広さ、正面の一段高くなったところに榊の枝と古い鏡を祀ってある以外には何の調度もない、板敷きの殺風景極まりない一室であった。
 その中央に、何故か今は一組の布団が敷かれている。その中では、先ほどまでの悪鬼の形相から幼子そのままの無垢な表情に戻った御法が、安らかな寝息を立てていた。その枕元、そっと娘の髪をなでていた鎮女が、初音たちの気配にふと顔を上げる。
「あ…あ、初音…お前、大丈夫だったかい? どこも…怪我なんかしなかったかい?」
 自分の顔を見た途端、おろおろとにじり寄ってきた母の手を初音はしっかりと握りしめた。
「ん、大丈夫よお母さん。お母さんの『力』のおかげで私、どこも怪我なんかしてないわ。ありがとう」
 頭を下げた途端、鎮女の顔がくしゃくしゃと歪んで。
「礼なんか言わないでおくれ! 礼を言うのは…いや、謝るのは私の方だよ!」
 袂でそっと涙を拭い、冷たい板の間にきっちりと姿勢を正した母。
「初音…そして貞輝さん、忠志さん。今夜は本当に申し訳ありませんでした。どうか…どうか許して下さい…」
「おかあさん!」
 白髪頭を深々と下げられ、たちまち異口同音に声を上げた三人。が、鎮女はそのまま、額を板の間にこすりつけんばかりにただただ、頭を下げ続けるだけ。
「この家に生まれてしまったばかりに…私が産んでしまったばかりに、初音や御法にはこれまでどんなに辛い思いをさせてきたことか。まして今夜は、貞輝さんや忠志さんにまで…。ああでも、これは決して御法や初音の所為ではないんです! だからどうか、貞輝さん、忠志さん…! これからもどうかこの娘たちを何卒…何卒…」
「お母さん、いいのよそんなの! お願いだから謝ったり、しないでよ!」
「そうですよ! 僕は全て承知の上で、それでも御法と一緒になりたいと思ってこの家に…」
「僕だってそうです! 何もかもわかった上で、それでも初音を妻にしたかった…この程度のことで、貞輝君や僕の気持ちは揺らぎませんよ!」
 きっぱりと言い切った忠志の言葉に貞輝が深くうなづき、初音ははじかれたように夫の顔を振り返る。
 そして、鎮女は。
「あ…ありがとう…。ありがとうね、みんな…ありがとう…」
 なおもその場に突っ伏したまま、骨ばった細い肩を震わせて、すすり泣いて。

 あんなに小さく、弱々しげな母を見たのは生まれて初めてのことだった。

「…それでね、姉さん」
 妹の声に、初音ははっと追憶から覚める。
(あ、いけない。ついつい余計なことまで思い出しちゃった)
 照れ隠しに曖昧な笑みを浮かべた初音を、御法はあくまでも真剣この上ない表情で見つめている。
「さっきも言ったように、私にはあのときの記憶はほとんどない。…でもね、あのときの自分が妙に自由な…開放された気分だったことだけは覚えてるの」
 その言葉に、初音もふと眉をひそめる。
「自由? 開放? やだあんた、何言ってんのよ」
 少しばかりきつくなった口調に、御法も少々慌てて。
「もちろん、あの頃の私が自由じゃなかったって意味じゃないのよ。…でもほら姉さん。どんなに自由で幸せな人間でも、一つや二つは必ず―家族にも言えない暗い想いを持ってるものじゃないの? 私の場合はコンプレックス―劣等感だった。藤蔭一族に、あれほどの能力を持つお母さんの子に生まれながら何の力も持てなかった自分への劣等感」
「…そんなん、光一郎兄さんやあたしだって同じだったわよ」
 ますます不機嫌そうな顔になった姉に、御法もいっそうおろおろと、しかし懸命に続ける。
「何の力もない自分なんて、もしかしてこの家にとっては要らない子供だったんじゃないかって、ずっとそう思ってたの。苦しくて哀しくて、そして…辛かったわ。でもあのときだけは、そんな鬱屈なんてみんなどこかに行ってしまったの。そして、全てが終って次の日の朝、あの『御神前』で目覚めたときの、不思議な爽快感…。だから思うのよ。もしかしたらあのときの私はそんな、死ぬまで誰にも話すまいとしていた自分の心の闇を、思い切り―姉さんや貞輝さんや忠志義兄さん…そしてお母さんの気持ちなんかこれっぽっちも考えずに―吐き出してしまったんじゃないかってね」
 言い切って深々とため息をついた妹に、初音はあらためて驚く。
(そうか…あのときの言葉は、そういう意味だったのか…)

 自分より力の弱い父や母…伯父、伯母、祖母など頼まれたって要らんとよ!

 あれこそ、「自分は要らない子供ではなかったか」という妹の心の裏返しだったのだ。
「姉さん…?」
 少しばかり不安そうに自分を見つめる妹に、初音は思い切り優しく、そして屈託のない笑顔を向ける。
「あはは…バカだねぇ、御法。あんたが要らない子だなんて、お母さんもあたしもこれっぽっちも思ってないよ。特にあたしにとってはね。あんたがいなくなったら、愚痴こぼしたり当たり散らす相手がいなくなっちゃう」
「姉さんったら…」
 苦笑した妹に、それでもこれだけは確かめてみる。
「でも御法。あんた、どーして今さらあんな昔の話を蒸し返したりしたの?」
 見つめられて、困ったように首をかしげた妹。
「うーん、どうしてかなぁ。久しぶりに姉さんに甘えたくなったのかな。それとも…例の件で万が一聖ちゃんが壊れてしまったときの用心に、一度壊れてしまった自分の体験を話しておいた方がいいと思ったのかもしれない。それにね、姉さん。私はむしろあのことのおかげで、せいるを産む決意、育てる覚悟が固まったような気がするの。だから…もしかしたらこの世には、一度壊れたからこそ得られる何かもあるんじゃないのかなって」
 その言葉に、初音は大声で笑った。そしてテーブル越しの向かい側、いまだ首をかしげたままの妹をしっかりと抱きしめて。
「ありがとう、御法。あたしも今度こそ本気の本気で腹をくくったよ。この次の週末…来週の日曜日に何もかも聖に話して、全てをあの子に賭けてみる!」
 


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