旧家の風格 2


 世界広しといえども、玄関から奥座敷への廊下を通ってくるだけでホラー映画数百本分の恐怖を味わえる家などこの藤蔭家以外にあるまい。しかし、どんなに辛く苦しいイバラの道、いや違った廊下にも必ず終点というものはあるはずで。
「ミンナ、遅カッタジャナイ!」
「待ちくたびれちゃったでちよぉ」
 今回の終点―一足先にやってきていたイワンとパピの声に迎えられつつ皆が足を踏み入れたその部屋は、これまでとはうって変わった別世界であった。
 開け放たれた南側の障子の向こう、縁側のガラス戸越しに冬の柔らかい陽射しがさんさんと降り注ぐ明るくも暖かな純和風の座敷。床の間には橙や海老、昆布、うらじろ、ゆずり葉、そして紅白の紙垂(しで)に飾られた大きな鏡餅がでんと据えられ、床脇の地袋(床の間の脇、床に接して設けられた小さな戸棚)の上では色とりどりの飾り羽子板と凧がいっそう正月らしい雰囲気を盛り上げている。中央に置かれた座卓は十人で囲んでもなお数人分の余裕があるほどに広く大きく、その周囲にはすでに皆のための座布団がきちんと用意されていることは言うまでもない。
「あんまりみんなが遅いから、今イワンくんとお正月のお歌を歌ってたんでちよ」
「ウン! 『モウ、イークツ寝ールートー、オー正ー月ー』ッテネ」
 きゃぁきゃぁじゃれあいながら声(…とテレパシー)を揃えて歌う赤子とチビ犬の微笑ましい姿に、恐怖と衝撃にささくれ立った心がゆっくりと癒されていく。しまいには誰かがくすんと鼻をすする音さえ聞こえて振り向けば、何とジェットが目頭を押さえ、かすかに肩を震わせていた。
「ど…どうしたんだい、ジェット!」
 驚いて訊ねたピュンマに答える声にすら、気のせいか涙が混じっているようで。
「…だってよぉ…まさかあの赤んぼとワン公に癒されるなんて日がくるたぁ…俺、そんなの地球が破滅したってあり得ねぇと思ってたんだぜぇ…」
 そりゃぁ確かにごもっとも。知らず、他の全員の目にも同じ透明の滴がにじむ。
 と、そこへ。
「あら皆さんどうなさったの? どうぞご遠慮なくお座り下さいな」
 茶菓を用意してくれた藤蔭医師が、大きな塗りの盆を手に入ってきた。
「もう少しすれば母も戻ってまいります。今日こそは皆さんにご挨拶するんだって、それはもう朝から張り切っておりましたのよ」
 言いつつ、座卓の上に並べてくれたのは香ばしい煎茶と松竹梅をかたどった干菓子。そこではっと正気に返った客たちもそれぞれ座布団の上に腰を下ろし、熱い茶とほの甘い菓子で人心地を取り戻す。
「おお、それはそれは。我々も是非一度ご挨拶せねばと思っていたところじゃ。しかしその…わしらのことはどの程度、お母上に…?」
「ご安心下さい。私の恩師とその助手の方々ということにしてありますから」
「ああ、それなら…。お気遣いありがとうございます。だけどまだ三が日が明けたばかりだというのにお出かけなんて、お忙しい方なんですね」
「いえ、実は二、三年前から頼まれて近所の区民センター主催の生涯学習教室で書道講師をしておりましてね。今日はそのお稽古始めなんです。…もっとも実際は皆様との新年のご挨拶とちょっとしたお茶会だけらしいんですけれど」
 などなど、たちまち話に花を咲かせる大人たち。ところがどっこい、先程から皆を待ちくたびれて退屈していた赤子とチビ犬コンビはそうもいかない。いつしか揃って縁側のガラス戸にへばりつき、しばらくじっと外を眺めていたかと思えば。
「ねぇママ〜。ボク、イワンくんとおんもで遊びたいでち。お庭に出ちゃダメ?」
「ボクモオ庭ニ行キタイ! ネェ、藤蔭先生、イイデショウ?」
 可愛らしさ大爆発でおねだりをする小悪魔二匹の本性は嫌と言うほど知りつつも、ついつい振り向いてしまった一同の目が大きく見開かれる。それもそのはず、ガラスの向こうには見事な日本庭園が広がっていた。
 家が家なら庭も庭。広さといい趣といい、とても個人の家の庭とは思えない。真冬のこととてすっかり葉を落としてしまっている木々も多いが、松や柊、そして椿や山茶花などの常緑樹もかなり植えられているのでさほど寒々しい感じもしない。まして今日は雲一つないのどかな冬晴れ、遊びたがりのチビどもが出て行きたくなるのも当然であろう。
「もう…仕方がないわねぇ。あんまり危ないところにイワンくんを連れてっちゃだめよ」
「はいでち〜!」
 肩をすくめた「ママ」がガラス戸を開けてやるやいなや、弾丸のごとく飛び出したチビ犬。同じく飛び出そうとしたイワンはタッチの差でフランソワーズに捕まえられ、コートとマフラーをきっちり着せられた上での出陣である。
「本当に、いつまでたってもやんちゃが直らないんだから」
 小さくぼやきながらガラス戸を閉めようとした藤蔭医師の隣に、いつの間にかギルモア博士が佇んでいて。
「はは…まったくじゃな。しかしあれが、子供と犬の自然な姿じゃよ。イワンがあんなにはしゃぐのを見るのは久しぶりじゃわい。…ありがとう、藤蔭君」
「先生…」
 最後にそっと声を潜め、大きく鼻をすすり上げた老博士の瞳がかすかに潤んでいるのに気づき、さしもの藤蔭医師も言葉を失う。しかし次の瞬間、博士はさらに大きく、明るい声で。
「それにしても、本当に見事な庭じゃのう。子供たちでなくとも外に出て、もっとじっくり拝見したくなるわい」
 今度の声は座敷にも筒抜けだったらしく、たちまち他の連中も席を立って縁側へと出てきた。そうとなればもちろん藤蔭医師に止める理由などない。かくて来客たちは全員庭に下り、思い思いにあちこちを散策し始たのであった。その様子を、縁側に座った藤蔭医師が微笑んで見つめている。
「ホウ…この松の枝ぶりは大したモンじゃ。うちの近所―海岸の松林も立派じゃが、こうしてたった一本、威風堂々と生えているのもまたいいものじゃのう」
「同じ種類の木でも、場所や大きさによって全然違う表情を見せる…まるで、わてら人間みたいアルネェ」
「言うなれば、『人に歴史あり、木々もまた然り』か…ふむ、我ながら中々の名文句」
「…この庭の草木は皆、優しい。こうして歩いているだけでいろいろなことを語りかけてくれる」
「葉がみんな落ちてしまった木っていうのも意外と風情があるものだね。ジャングルじゃ、こんな光景は中々見られないからなぁ」
「…そうかもしれんな。ま、これがドイツなら落ち葉や冬木立も珍しくはないが、日本の風景というのはどこか…ヨーロッパのそれよりも柔らかい雰囲気を持っているような気がする。…やはり、年間湿度が高いせいだろうか」
「あら? 綺麗な赤い色の実がなってるわ。何の木かしら」
「南天じゃないかな。雪が降るとね、雪兎を作ってその目にこの実を使うんだよ」
「おい、フランソワーズ、ジョー! こっちにも来てみろよ。椿が満開だぜ!」
 …などなど、それぞれ冬の日本庭園を満喫していたメンバー及びギルモア博士は、このときすっかり忘れていたのだった。そう、一番先に飛び出して庭中駆けずり回って遊んでいたあのちびギャングどもの存在を、である。

 そしていつも―「天災は忘れた頃にやってくる」ものだったりして。

 皆より少し離れた、木々のまばらな場所で追いかけっこに興じていた赤子とチビ犬はいつしかすっかり夢中になり、興奮して―今やどこに出しても問題大ありのナチュラルハイ、チョモランマ登頂成功バンザイ状態に陥っていた。当然、自分たち以外の動植物、その他生物の存在などアウトオブ眼中で。
 きゃぁきゃぁわんわん、甲高い声が聞こえた気がして大人たちがふとそちらに目をやったその瞬間には、全速力で疾走するパピとその後を追うホバークラフト…じゃなかったイワンのクーファンがすぐ目の前に迫っていた。そしてそのまま皆の間をぬって加速装置顔負けの速度と迫力で駆け抜けていく。しかもその体高と浮揚高度がちょうど他の人々の足元から膝の高さに当たっていたからたまらない。
「うわっ!」
「ぎゃっ!」
「ひえっ!」
「きゃぁっ!」
 まさしく十人十色(…いや、正確には一人足りないけど)の悲鳴が上がる中、皆が被った災難といえば。
 足をすくわれバランスを崩したギルモア博士を、同じくかなり不安定な状態でとっさに支えようとしたグレートと張々湖、努力及ばず三段重ねの人間鏡餅状態で転倒(しかしどーゆー弾みか生身のギルモア博士が一番上になっていたおかげで怪我一つしなかったことだけはラッキー♪)。たまたま一番近くにいたアルベルトとピュンマが三人を助け起こそうとしゃがみこんだ途端、Uターンしてきたパピがアルベルトの背中と頭をちょうどいいロイター板代わりとばかりに思い切りよく踏んづけて金メダル級のジャンプ二回転捻り、さらにその後を追って鋭角急上昇したイワンのクーファンが柿の木の枯れ枝に接触、見事にへし折れた枝は狙い過たずピュンマの頭上に落下。突進してくる小さなものたちが、己の巨体にぶつかって怪我などしないようにとすかさず飛びのいたジェロニモは勢い余ってこの庭最長老のケヤキの木に熱烈な抱擁&KISS、そして膝頭すれすれの距離を走り抜けた犬とクーファンの風圧にスカートが舞い上がって「オー、モーレツ!」(←古)状態になってしまったのはフランソワーズ、そんな彼女をついつい見つめてしまったせいで非の打ち所のない回し蹴りを後頭部に喰らう羽目になったのはジョーとジェット…。

「イワン!!」
「パピ!!」
 わずか一瞬にしてこれだけの大惨事を引き起こしたちびギャング(…つーよりすでにほとんどテロリスト)どもが被害者九人と藤蔭医師、合計十人分の大目玉を食らったのは言うまでもない。しかしながらこの最凶コンビがしょんぼり反省ばかりしているわけもなく―最初のうちこそ素直に「ゴメンナサイ」しておとなしくお説教を聞いていたものの。
「もう、こんな危ない追いかけっこはしちゃいけません! 遊ぶんだったらおうちに入って、お部屋の中で遊びなさい!」
 藤蔭医師に厳しく言い渡された途端、イワンの頬がぷぅっと膨らんだ。
「ヤダ! マダボクオ外デ遊ビタイ! 危ナイ遊ビガダメナラ、危ナクナケレバイインデショ!」
 そんなテレパシーが響いたかと思うや、再びクーファンがふんわりと浮き上がった。それも今度はかなりの高さ、そう、地上二.五メートルほどまでも上昇したであろうか。
「コレナラモウ誰ニモブツカッタリシナイシ、大丈夫ダヨ〜、ダ」
 かたや置いてきぼりを食わされたパピは泣きべそをかいて。
「イワンくん、ひどいでち〜。しょれじゃボクはどうなるの? しょんなに高いところに行っちゃったらもう遊べないじゃないでちかぁ」
「ソンナコトナイヨ。…ホラ!」
 何と次の瞬間、ふかふかの毛玉―チビ犬の体までもが宙に浮き、あれよあれよと言う間に赤子のクーファンと同じ高さでぴったりと静止したではないか。
「うっわぁ〜い、しゅごい! しゅごいでち!」
「追イカケッコニモ飽キチャッタカラサ、今度ハ一緒ニ空中散歩シヨウヨぱぴチャン」
「うん!!」
 たちまちご機嫌を直したパピが犬かきの要領で手足を動かせば、ほんの少しだけその体が前進する。
「ソウソウ、上手ダヨぱぴチャン♪」
「これで誰にも迷惑をかけないで遊べまちね。めでたちめでたちでち♪」
 しかし地上の大人たちにとっては「めでたしめでたし」どころであるわけがない。
「オイコラこのクソガキとバカ犬、さっさと降りて来い! そんなトコふらふら飛び回りやがって、外から誰かに見られたらどーすんだっ!」
「お前たち、いい加減にしないとマシンガンで撃ち落すぞ!」
 叱りつけるというより慌てふためいて絶叫したジェットとアルベルトに、イワンのしれっとした返事が飛ぶ。
「ましんがんナンテ怖クナイモーン。ぼくノさいこばりやーノ強サ、知ラナイワケジャナイダロウ、二人トモ?」
「こ…のっ!」
 このクソ生意気かつ挑発的極まりない言い草に、ついにアルベルトが右手の手袋を外してマシンガンを構えたそのとき。
「まぁまぁ皆様、今日はようこそおいで下さいました」
 突如縁側から響いたおっとりと穏やかな、しかしかなり年老いた声。
「!」
 瞬間、凍りついた大人たちがやがて恐る恐るそちらを振り返ってみれば。
 藤蔭医師の後ろにもう一人、同じ和服姿の気品と威厳に満ちた老女がすっくと佇んでいたのであった。
「初めまして。藤蔭聖の母でございます。いつも娘がお世話になっております上、ご丁寧にお年始のご挨拶まで賜りましては何とお礼を申し上げればよろしいのか…。どうぞごゆっくり…そして今後もよしなにお願い致します」
 そう言って深々と白銀色の頭を下げたそのひとの顔立ち、そして言葉と物腰の美しさときたら、誰もがその場にひれ伏し、土下座したいくらいである。
(オイオイ、バーサンとはいえこりゃまたすげぇ美人だな! くっそー、できれば六十年前、いやせめて五十年前に出会ってりゃぁ…)
(○藤治子さんに似てはるちゅう噂は嘘じゃなかったアルね)
(いや我輩は八千草○さんの方に一票! 姿形も立ち居振る舞いもこれぞまさしく大和撫子、気高き日本女性の極地というべきものであるぞよ)
(…ちょっと待ってよ! みんな、今はそんなことを言ってる場合じゃないだろうっ!?)
 たちまち飛び交う煩悩丸出しお気楽脳波通信に決死の覚悟で割り込んだジョーの不安はやはり、いまだ宙に浮いたままの赤子とチビ犬。しかしそのときにはすでに仲間内で一番背の高いジェロニモが、かなわぬながらも気は心と、二人―じゃなかった一人と一匹の前に立ちふさがってくれていた。
(今お母さんが立っているのは藤蔭先生の後ろ、その位置からならイワンもパピちゃんもまず見えない。しかもジェロニモが体をはって目隠ししてくれているとなればっ…!)
 的確な状況判断とかなりの希望的観測、それでもとにかく皆の(一応←極太&超特大フォント)リーダーたる青少年が大きく長く、ほっと安堵の息をついたまさにその刹那。
 そんな涙ぐましい努力とささやかな心の平穏を台無しにするとんでもない事態が起こったのだった。
「わぁい、おばあちゃま〜vv お帰りなさいでち〜♪」
 何とパピがジェロニモの肩越しにふわふわふらふら、もう一人の飼い主目指してあの頼りない空中犬かきで突進(ちゅーより徐行あるいはクリープ走行)してきたではないか!
(うわあああああーっ!!)
 口にこそ出さね、心の中で絶叫したのはイワン以外の00ナンバーもギルモア博士も同じであったろう。何といっても藤蔭医師の母親は皆の秘密などまるで知らぬ普通人―それも『気高き日本女性の極致というべき』貴婦人である。となればきっと、娘時代からこの方蝶よ花よと風にも当てられぬよう大切に守られてきたに違いない。そんな人間が自分の飼い犬と異国の赤子の空中散歩などという非現実的、非科学的、そしてこの上なく非常識な光景を目にしたら一体どうなるか、考えただけで背筋が凍りつく。
 …が。
「はいパピちゃん、ただ今帰りましたよ。お出迎えありがとうねぇ。あら、そちらの赤ちゃんは何方? え? パピちゃんの親友? まぁまぁ、なんて可愛い坊やなんでしょう。パピのおばあちゃんですよ〜。よろしくね♪」
 何と、嬉しげに笑み崩れた老貴婦人はふんわりとパピを抱きとめ、そればかりか後を追ってきたクーファンの中から手を伸ばすイワンの頭までいかにもいとおしげになでているではないか!
 この想像を絶した光景にしばし茫然、完全に白目をむいたままその場に硬直してしまった00ナンバーとギルモア博士。しかしやはり若さゆえの回復力か―それとも気合か根性か―いち早く正気を取り戻したジョーが、同じく嬉しげに微笑みつつ母と赤子と犬とを見つめている「娘」の袂にすがりつく。
「せっ…先生! 先生はさっき、僕たちのことはお母様には話していないっておっしゃいましたよね!? なのにどうして…どうしてお母様はあんなに平然としていらっしゃるんです? それとも、あのときの言葉は嘘だったんですかぁぁぁっ!?」
 いつしかその目に涙さえ浮かべて必死の形相で問い詰める少年の頬を、振り返った藤蔭医師がなだめるようにそっと両手で挟みこんだ。
「ううん、もちろん貴方たちに嘘なんてついていないわ。母には何も言っていないから安心して」
 ゆっくり、優しく言い聞かせる姿はまぎれもなく慈母観音そのもの、しかしその後に続いた言葉はというと、これがまた…。
「ただねぇ、うちの母も嫁いできてからもう五十年近くになるし…」
(はぁ!?)
 途端、頭上に不可視の巨大なクエスチョンマークを点滅させたのは決してジョーだけではなかろう。…なってない。そんなの全然、答えになってない!
「父が亡くなってからだってもう随分たつけれど、その後も冠婚葬祭その他の親戚づきあいはきちんとやってきた人だし…」
(いや先生、それってもっと答えになってませんからっ!!)
 さすがのジョーも(そしてもちろん他の人々も)我慢の限界に達し、ついついそう怒鳴ってしまいそうになった刹那。
「一昨年の祖母の法事の折には本家の屋根が半分吹っ飛んだし」
 とんでもないことをさらりと言われて再び凍りつく一同。いかに外国籍の者がほとんどとはいえ、揃って日本語が堪能なギルモア家の人々は、もちろん「法事」の意味も知っている。―亡くなった人間の家族や親しい友人たちが集まり、故人を偲びその冥福を祈って祈りをささげる儀式―キリスト教でいうならミサに当たるだろうか。…一体全体、どーしてそんな静かな祈りの場で屋根が半分吹っ飛ばなけりゃならんのだ。
「いえね、そのとき私の従妹が五歳になる娘を連れてきたんだけど、その子を見た大叔父―もっとも、厳密に言えば祖母の従弟で、もう九十過ぎのお爺さん―が感極まって泣き出しちゃったのよ。何しろ大叔父は今や一族の最長老、祖母の世代の唯一の生き残りの上、そのときにはかなりお酒を飲んでいたから。またその女の子が祖母の小さな頃にそっくりだったらしくて『まさしく鎮女さんに生き写し、こんな可愛いひ孫をを一目でいい、見せてやりたかった』とか、『あの小さかったせいるちゃんがこんなに立派なおっ母様になって…』とか。で、それを見たうちの母や叔父叔母の子供世代は全員涙ぐんじゃうし、私たち孫世代も何となくしんみりしちゃって…。だからみんな、ついうっかり忘れちゃってたんだけど」
 そこで一瞬言葉を切り、小さく舌を出した藤蔭医師は。
「その大叔父、『鳴神遣い』だったのよね」
「ナルカミ…」
 さすがにこの手の古語には馴染みが薄いらしい誰かがふともらしたつぶやきに。
「あ、つまり現代で言う『雷』の神様。ほら、『風神・雷神』ってセットになって、屏風絵になったり彫刻になったりしてるでしょ? 何でも東海竜王から特にお許しをいただいて、その一族の中でもごくごく幼い、修行中の神霊を一体、眷族―まぁ、お手伝いさんというか手下というか―として預かってるんですって。そういう眷属にとって、主は絶対的な存在―これは神霊だろうが何だろうが同じことよ―である上に霊的次元で互いに深く結びついてるもんだから、主に何かあればすぐに駆けつけてくるのが普通なのね。…でもって、そのときの大叔父みたいに酒飲んで昔を思い出した挙句感極まって泣き出すなんて、ある意味極限の興奮状態、非常事態でしょう。当然、それを察した眷属はすぐさま主―大叔父のもとへ駆けつけてきたわ。だけど何しろモノがモノ、幼かろうが修行中だろうが『雷神』には違いなかっただけにねぇ…」
 そこで小さく肩をすくめ、「やれやれ」といったふうにため息をついた藤蔭医師。
「天空からまっしぐらに降臨してきてくれたおかげで、見事屋根にぶつかってドッカァァァ〜ン!! よ。ま、世に言う『落雷』ってヤツ? 雷神様にかかっちゃたかが民家の屋根なんてダンボールや発泡スチロールも同然だろうし、丸ごと吹っ飛ばされなかっただけでもめっけモンだわ。…身内の私が言うのも何だけど、あんなものすごい眷属を自在に操れるなんてさすが藤蔭家の最長老! まだまだ、能力は衰えていないわねぇ♪」
「ちょっと待って下さいよ、先生っ!! 屋根はともかく、それじゃその場にいた人たちはっ!? 先生のご家族やご親戚はどうなったんですかっ!?」
「…やだ、島村クン。そんな、ムキになって大声出すことないじゃないの。もちろん皆無事に決まっているでしょうに。…うちは家系が家系なもんだから、親族一同で集まるときにはこういうことがよく起きるのよ。お酒が出る席では特にね。だからいつも、一族の『能力者』全員で最初に結界を張っておくのがお約束。おかげでこれまで死傷者が出たことは一度もないわ。吹っ飛んだ屋根だって責任を感じた大叔父が全額自分持ちで修理してくれたし、本家の叔父や叔母も『タダでリフォームができた』って喜んでたしね〜vv」
「…それじゃぁ先生…もしかしてお母様…も…?」
「ええ、大叔父の元気な姿を見てそれはそれは喜んでたわ。何てったって五十年ですもの、母だって今さら落雷なんかで驚くようなヤワな神経持っちゃいないわよ♪ あっはっは〜」
 すでに顔面蒼白となり、震える声で恐る恐る尋ねた青少年への返事はまたしてもあの「鈴を蹴っ飛ばすような高笑い」。それを聞くジョーの全身からは完全に力が抜け、その頬には滂沱の涙があふれていた。
 …もう、やだ。もうこれ以上は耐えられない。
 冷酷非常な悪の組織、BGの手によって改造され、サイボーグという数奇な運命を背負わされた自分たち九人。しかしそれ故に生身の頃には思いもかけなかったものを目にし、耳にし、この世の裏に潜む邪悪なもの、奇怪なもの、そして時には悲しいものたちの存在を知り―当然、人知をを超えた異常事態、超常現象への適応力や対応力だって、日々平和に暮らす一般人よりははるかに優れていると自負していた。
 なのに―。
 どこからどう見ても「平和に暮らす一般人」そのものであるはずの藤蔭家の人々の日常が、こんな―今まで自分たちが出会ってきた事件全てに匹敵する、いやヘタすりゃそれら以上に奇妙奇天烈奇々怪々、ついでに危険極まりないものだったりしたひにゃ、サイボーグ戦士としての立場は一体どーなっちまうんだか。
 もしも自分がまだイワンのような赤ん坊だったら―いや、そうでなくても小学生、せめて中学生くらいまでの年齢だったらこの場で大声で泣き崩れてしまいたかった(←いやだからな、それ以前に藤蔭家の一族を「平和に暮らす一般人」なんて認識すること自体が初っ端から間違ってるんだからな…って、オイコラ聞いとるのか青少年っ!!)。
 その上ご丁寧にもさらなる追い討ち、最後のトドメ。
「早い話が、たかが自分の飼い犬とそのお友達の赤ちゃんとがふわふわ宙に浮いてるくらいでびっくりしてるようじゃ、藤蔭家の人間は務まらないのよ。覚えておいてね」
「は…い…」
 もはや思考回路も補助電子頭脳も完全停止のショート寸前、わなわなと震える唇でそれだけ答えるのが精一杯だったジョーの傍らでは、他のメンバー及びギルモア博士が同じく全身を震わせながら、首が千切れんばかりにがくがくと繰り返しうなづいていた。

 一方、そんな仲間たちの衝撃と恐怖などどこ吹く風とばかりに思う存分藤蔭医師の母―雪江に甘えていたパピとイワン。だがやがて、雪江がそっとパピを抱いていた手を離し、再びイワンのクーファンの隣にそっと押しやりながら。
「さあ、それじゃそろそろおやつ時だし、おばあちゃまとママが皆さんに美味しいお汁粉をご馳走しましょうね。用意ができたら呼んであげるから、それまでもう少し、いい子で遊んでいらっしゃい」
 にっこり優しくそう言われ、声を揃えて「はぁ〜い!」と百点満点の返事を返した常識外生物二体は再び庭での空中散歩を再開する。
 その頃にはもう他の仲間たちも何とか平静を取り戻してはいたが、こちらはさすがにこれ以上庭の散策を楽しむような気力も体力も残っていないようだ。誰も彼もがぐったりと縁側に座り込み、きゃぁきゃぁはしゃぎながら空中を漂う赤子とチビ犬を、ぼんやりとしたうつろな目で見つめているばかりである。これまでいかなる強大な敵、困難な状況に対しても決して怖気づくことなく、常にその類まれなるチームワークで乗り切ってきた00ナンバーとギルモア博士とはいえ、さすがに今回のような「日常に潜む恐怖」が相手ではなす術もないらしい。
 しかしそんな中、再びまき起こった新たなる異変。
「…あれ?」
 上空二.五メートル、イワンとともにご機嫌よく遊んでいたパピが突然そのデカ耳をそばだてたかと思うや庭の外れ―おそらくかろうじて彼らの「非常識な」お楽しみを人目から隠してくれていたはずの塀の向こうへとまたしてもふわふわふらふら、空中犬かきで向かっていくではないか。しかもそれを目に留めたイワンが「…ぱぴチャン、ソッチニ行キタイノ?」と、さりげなくサイコキネシスで援護してくれやがったりなんかして。
「…うわっ!! ちょいと目ェ離した隙に、一体何やらかす気なんだあのバカ犬!」
「塀の向こうは一般道路だぞ!? いくら三が日明けの仕事始めとはいえ誰が通るかわからん! ったく、一緒にいたくせに何故止めん、あのクソガキ!」
「ジェット、アルベルト! そんなこと言ってる間に早くパピちゃんを止めなくちゃ!」
 00ナンバー九人の中でもとりわけ戦闘能力、そして反射神経に長けた三人が気づいたときにはすでに遅し。イワンの手助けを得て一瞬にして塀の際に到達したパピは、いかにも嬉しげな「××しゃぁ〜んvv」という声とともに、そのまま藤蔭家の敷地外へと漂っていってしまったのであった。

「コラ待てバカ犬!」
「…いかん! 玄関へ回っていたらこの広さだ、間に合わん!」
「待って、二人とも! こっち!」
 広大な屋敷を囲む果て無き塀の一角に設けられたささやかな通用口を見つけたジョーが全速力で駆け出せば、すかさずジェットとアルベルトも続く。そして掛け金を外す間ももどかしく、外へと飛び出した三人が見たものは…!?
 


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