桜の花満開を過ぎても 4
「ママ…? 家に着いたアルよ。大丈夫か? 一人で…歩けるアルか?」
ママの部屋の前で、精一杯優しく―それでいて、酔い潰れた耳にちゃんと届くよう、できるだけ大きな声で張々湖は声をかける。だが、返ってきた返事はといえば。
「何よぉ…。あんた、うちに入りたいの…? じゃあほら、鍵!」
相変わらず半分寝ぼけた、無愛想かつ苛立たしげな声とともに乱暴に―目の前の床に投げつけられた小さな金属片。
ほっそりとした華奢な女とはいえ、大の大人一人を背負ってそれを拾い上げるのは、普通ならかなり大変な作業だっただろう。しかし張々湖には何でもないことである。ほんのちょっとだけ―彼は自分がサイボーグであることを神に感謝した。
きちんと片づいた、瀟洒な住まい―それが、第一印象だった。
「…それじゃ、お邪魔するアルよ」
背中ですやすや寝息を立てている女にそっと告げ、張々湖はその部屋に上がりこんだ。
正直、まずいのではという気持ちはある。一人暮らしの女の部屋に、男の自分がずかずか上がりこむというのはどう考えてもマナー違反だ。だが今は非常時ということで無理矢理自分を納得させる。
寝室を探し当て、ベッドの上にママを横たえた。真っ黒な喪服に包まれている所為かその肌からは完全に血の気が失せ、どこか不吉なほどに青白い。苦しげな息遣いにそっと目をやれば、胸元の留め金がかなり強くその胸を締めつけているようだ。
(えーっと…こういう場合は、やっぱり…)
しばしためらったあと、思い切って留め金を外す。全部はさすがに憚られるので一応、一番上と二番目だけ。それだけでもかなり違うのか、ママの呼吸音が大分落ち着いたものになってきた。
(とりあえず、これで一安心アルな)
薄手の毛布をそっとかけてやったところでほっと胸をなでおろす間もなく、張々湖は台所へ向かう。案の定、冷蔵庫にはちゃんとミネラルウォーターが用意されていた。そして製氷室にはできたての氷。
食器棚から探し出してきたガラスのデカンタにミネラルウォーターを注ぎ、いくつかの氷をその中に落とし込む。と、そこで張々湖は思い出したようにポケットの携帯電話を取り出した。
(またフランソワーズに泣かれたらたまったもんじゃないアルからね)
呼び出したのはもちろんギルモア邸の番号。願わくばギルモア博士かグレートに出てほしいものだが―。
(はい。ギルモアでございます)
残念ながら、聞こえてきたのはフランソワーズの声。張々湖の眉が、困ったようにひそめられた。
「あ、わてアル。張々湖アル。…あのナ、実は今日もちょいと、遅くなりそうでナ…」
(大人? まぁ、今夜も飲んでくるの?)
屈託なく、どこかからかうようなフランソワーズの声に、張々湖はますます困惑した表情になり―。
「いや…今日は違うんアルけど…実は今、『西王母』のママん家なんアルヨ」
(え…? 何、こんな時間に…? 大人、どうしたの? 何か、あったの?)
電話の向こう、「娘」の戸惑いがありありと―痛いほどによくわかったから。
ほんのちょっと、ためらって。だがやがて、思い切ったように。
「実はママがちょいと飲みすぎたみたいでナ…介抱して大丈夫ならよし、もし、そうでなければ…」
一瞬、フランソワーズが息を呑んだ。張々湖はそこでかすかに唇をかみ―一つ、大きな深呼吸をして。
「そのまま、ここに泊まるアル。だから今夜わてが帰らんでもどうか、心配せんといてナ」
それだけを一気に言い切り、返事も待たずに電話を切った。
それからかなり長い間、張々湖はママの枕元に付き添っていた。だが、いつまでたってもベッドの上の女は目覚める気配がない。気がつけば、デカンタの中の氷もすっかり溶けてしまっていた。冷えたガラスにはびっしりと露がつき、その下の小さなお盆、そしてデカンタに添えたグラスの底をびしょ濡れにしてしまっている。
(おお、いかんいかん)
慌てて台所に戻り、濡れた食器やお盆の水気を拭い取っているうちに、もう一つの重大なことに気づく。
(そうや…。もしこれからママが目を覚ましたとして…明日の朝飯、どうするつもりなんアルやろ)
あんなに酔っ払ったあとでは食欲も出ないだろうが、何も食べないというのも身体に毒である。張々湖はもう一度、冷蔵庫の中を覗き込んでみた。
(ふむ…基本的調味料はみんな揃てるようアルな。野菜やハムなんかの買い置きもあるようやし…)
そうとなれば自分が腕によりをかけて美味しい中華粥を作ってやりたいところだが、今作って朝まで置いておいたりしたらきっと、固まって味が落ちてしまうに違いない。さてどうしようと周囲を見回せば、冷蔵庫脇の小さな棚にレトルトの中華粥がいくつか並んでいるのを見つけた。
(おお、こりゃちょうどいいものがあったアル。でもやっぱ、これだけじゃもの足りんアルからね…)
まな板と包丁とをちょっと失敬し、適当に見繕ったハムやザーサイ、熱湯でさっと戻した干し椎茸などをみじん切りにしていく。青菜も欲しいと野菜室をあさったら、うまい具合に香菜の束が見つかった。これだけのトッピングがあれば、レトルトとはいえ本格的中華粥にかなり近づけるだろう。
(はぁ…それにしても、これじゃ冗談抜きで朝帰りになっちまうヨ…)
今頃、ギルモア邸はどうなっていることだろう。フランソワーズは他の仲間にもあの電話のことを話しただろうか。
(多分…話したやろナ)
それを聞いたジョーやジェット、そしてイワンが目を丸くして大騒ぎをしているのが目に見えるようだ。ギルモア博士とグレートだけは、「そういうこともあるだろう」と軽く笑って聞き流してくれるだろうけれど、もしかしたらあの二人とて、自分の艶聞を肴に寝酒の一杯も酌み交わしているかもしれない。
(どちらにせよ、今夜うちでまともに眠れるのはあの二人だけアルやろなぁ…)
ぎんぎんに目を光らせ、興奮してあれこれ言い合う「子供たち」のことを考えると、ちょっと悪いことをしてしまったような気になる。何もあそこまで正直に話す必要はなかったのだ。それとも自分はまだ、この前フランソワーズに言われたことを意識しているのだろうか。
(ああ、わてもまだまだ修行が足らんアル。不惑だ最年長組だとみんなの父親面してた自分がこんな未熟者だったとは、思てもみんかったネ…)
ため息をつきつつ、刻んだ食材をいくつかの小さなタッパに詰め、冷蔵庫にしまったところで。
背後の寝室の方から、小さな物音が聞こえた。
「ママ…? 目が覚めたんアルか?」
デカンタとグラスを乗せたお盆を再び手に取り、あたふたと寝室へと戻ってみれば、ベッドに横たわったママの目が、うっすらと開いたところだった。
「何…ここ…。うち…? え…? 大人が、どうして…?」
起き上がろうとしたその背にそっと手を当て、ゆっくりと起こしてやる。ママがしっかりベッドの上に座ったのを確認した張々湖はデカンタの水をグラスに注ぎ、静かにママに差し出した。
「ママはさっき酔い潰れて、うちの店の真ん前で眠り込んじまってたアルよ。だからわてがここまで…ご近所のよしみちゅうモンね。そんなことよりママ、気分悪くないか? 水…飲めるアルか?」
うなづいたママが両手でしっかりグラスを受け取り、のどを鳴らして水を飲み干したのを見て、初めて張々湖の顔にも心の底からの安堵の色が浮かぶ。
「…ありがとうね。それからごめんよ、大人。すっかり世話かけちまったねぇ…」
「ま、ええからええから。さっきも言うたやろ? ご近所のよしみヨ」
深々と頭を下げたママの肩を、慰めるように軽く叩いてやりながら。
「ただ、ナ…。アンタはんがこんなにならはるなんてよっぽどのことなんやろケド…。飲み過ぎはあかんヨ。もしわてが今夜あの時間まで残っていなかったらと思うとぞっとするアル。お願いやから、あんな思い二度とさせんといてナ…」
それだけ言って、張々湖は立ち上がった。これ以上のことは言わなくていい。ママがここまで酔い潰れた理由も喪服の意味も―自分が今、訊く必要はない。
「明日の朝、もしあのレトルト粥食べるんやったらいくつかトッピング用意しといたよってに。タッパに入れて冷蔵庫にしまっておいたアルから、好きなのかけて食べるヨロシ。素のままじゃあかんよ。栄養、偏るよってにナ…」
そう言って引き上げようとした張々湖の背中に、ママの鋭い声が飛んだ。
「待ってよ大人…! あんた、訊かないの? 怒らないの?『どうしてこんなになるまで飲んだ』とか、『いい年して何やってる』とか、『おかげでえらい迷惑した』とか…。ねぇ! あんた、訊いて…怒って…くれないの!?」
張々湖の背が、ぴたりと止まった。