桜の花満開を過ぎても 1


 きゃああああっ、と店中に歓声が上がった。それは、閉店間際のこんな時間までただ一人居残っている客のテーブルに群がったホステスたちから湧き上がったものであるらしい。
 となればその客はさぞ女扱いに長け、遊び慣れた二枚目…と考えるのが人情というものだろうが、さてその本人はといえばそんな想像とは正反対、ころころと丸まっちい体躯に人好きのする笑顔を絶やさないものの、決して二枚目とはいえないであろう―団子っ鼻にどじょうひげと中国服だけが個性的な、ただの中年男に過ぎなかった。
 しかし。
「ああもう、メイリンちゃんはどこでそんなやり方を覚えたアル!? さては国にいたとき、お母はんのお手伝いなんかほとんどしたことないアルやろ。…困った娘アルネェ…」
 ため息をついた中年男に軽く頭を小突かれ、小さく舌を出したホステス。と、次の瞬間にはまた別の娘がちょんちょん、と男の中国服の袖を引く。
「ねぇ大〜人。それじゃさ、ペペロンチーノのコツも教えてよぉ。あたしが作るといつもニンニクが焦げちゃって、すっごく臭くなっちゃうのぉ。…あ、でももしかして大人は中華料理専門…?」
「何言うアル! わては中華に限らず、世界各国の料理を研究し、日々精進してるのコトね。そうでなくてもそんなの、炒める火が強すぎるからに決まってるアルやろ。…あのナ、ニンニク…特に薄切りやみじん切りにしたやつはとんでもなく焦げやすいんアルよ。だからナ、炒めるときにはできるだけ火を弱くして、じっくりゆっくり、気長に香りを出して行くんアル。でもって、他の具を入れてから火を強くして一気に仕上げる。これは中華もイタリアンもないネ。世界の常識ヨ!」
「きゃああっ! さすが大人! 素敵〜っ」
 またも上がった大歓声に、店の中の空気がびりびりと揺れる。…とそこへ、かすかな笑いを込めた、しかしきっぱりとした声が響いた。
「ほらほらほら! あんたたち、いつまで大人を質問攻めにすれば気が済むんだい? あたしらはお客様をおもてなしするのが仕事なんだよ。なのにちゃっかり張々湖お料理教室の生徒になって、あれこれ料理のコツを伝授してもらおうなんてセコイ真似、するんじゃないよ!」
「ええ〜」
「だってぇ〜」
 周囲のホステスが途端に口を尖らせ、そして。
「まぁまぁ、ママ…。わてもこうして、みんなと料理の話をするのは楽しいし、充分もてなしてもろてるアル。そんな心配するほどのコト、ないアルね」
 中年男―張々湖も慌てて彼女たちの弁護に回ったのだが…。
「そう言うあんたもあんただよ、大人。店中のホステスはべらして完璧なハーレム状態だってぇのに話題といえば料理のことばかり。…そりゃうちの店じゃあんまり露骨なお色気サービスは厳禁だけどさ、そうやって色気もクソもない話ばかりにうつつを抜かして、並み居る美女には手も触れないってぇのも、男としちゃあまりに情けない話じゃないのかねぇ」
 あっさりかつ手厳しく言い返されて、さすがの張々湖も―ほんの少し―声を荒げた。
「何言うてるアル! いくらママとはいえ、そこまでわてを見くびってもらっちゃ困るのコトよ! わてだって、さっきからこの綺麗なお姉ちゃんたちの手や腕、一杯触ってるアルネ。シャオレンちゃんのぽっちゃりした手だって、リーフォアちゃんの柔らかい腕だって触り放題、まさにハーレムアルよ!」
「何言ってんの。あんたが女の子たちに触るのは、饅頭とか餃子のタネの包み方を手ェ取って教えてるときだけでしょうが。ああもう、いい加減に店のおしぼりを春巻の皮に見立ててお料理教室するのはやめとくれ! ボロボロになっちまうよ!」
 図星を指されて張々湖はあっさり降参、照れたように頭をかく。
「はぁ…。やっぱママには敵わないのコトね。ま、確かにわてにはあんまりプレイボーイじみた真似は似合わないアルし…」
「ええ〜、そんなこと、ないわよぉ」
「あたしたちみんな、大人のこと大好きよぉ。愛してるぅ!」
 途端に周囲から巻き起こった声援(?)にもとまどったような笑みだけを返して。
「おお、それよりそろそろここも閉店時間アルね。言い負かされたところでとっとと退散するヨロシ。ママ! お勘定!」
 言うやいなやあっさり席を立ってしまったものだから、ホステスたちのブーイングはますます激しくなった。
「やだぁ、大人、もう帰っちゃうのぉ!?」
「そーよそーよ! あたしたち、もっともっとお話してたいのにぃ…」
 そんな若い娘たちに張々湖は丁寧に頭を下げ、ふと思い出したようにポケットから取り出した小さな紙片の束を一番年長の、みんなのまとめ役らしい娘に握らせ、そっとささやく。
(あのナ…これ、うちの店の特別優待券アルネ。ランチ、ディナー共通の、一律五百円割り引きアル。もちろん飲茶もOKヨ。今夜はみんなによくしてもろたアルし、ほんのお礼の気持ちアルから…。ケンカしないよう、仲良く分けてナ)
 ひっそりこっそりやったはずなのに、レジで勘定をしてもらえばしっかり今夜の飲み代が三千円ほど割り引かれていて。
「え…?」
 きょとんとして顔を上げれば、レジの向こうのママが意味ありげにウインクしてきた。
「いつもいつもうちの娘たちにありがとうね。こっちも気持ちだから、遠慮しないでおくれ。…そのかわり、また来てくれるんだろ? 今度はグレートさんや、あんたの店でよく見かける『お友達』も一緒に連れてきてくれると嬉しいねぇ」
 やはりママの方が張々湖より、一枚も二枚も上手のようである。

 張々湖飯店から歩いて五分ほどのところにある中国風パブ、「西王母」は、ママの気風のよさとよく躾けられたホステスたちの気持ちいい接客が売りの店である。先ほどママも言っていたが、行き過ぎたお色気サービスもなしに客を充分楽しませていい気分にしてくれる、張々湖のような男にとってはまさに願ったりかなったりの場所であった。
 とはいえ、たった一人で飲みにくるなど張々湖にしては珍しいことではあったのだが。

 ―今夜の張々湖は、少々手持ち無沙汰だったのである。

 共同経営者のグレートは、少し前から近所の市民劇団の演技指導を引き受け、今日もその稽古日だからと閉店後の後始末が終わるやいなや店を飛び出して行ってしまった。おまけに今夜は従業員の若者二人、陳と羅にも何やら用事があったらしく、グレートの後を追うように早々と帰ってしまい―。
 もちろん三人とも、店内の片づけやら今日一日分の帳簿の整理やら厨房の掃除などはきちんと済ませていってくれたのだが、かえってそのおかげで張々湖はたった一人、ぽつねんと店に取り残される羽目になってしまったわけで―。
 いつもなら翌日の仕込みでもして気を紛らわせることもできる。だがあいにく明日は定休日。これ以上店にいてもやることは何もない。かといっていつもよりずっと早いこんな時刻にギルモア邸に帰るのも何だかつまらない気がする。
 さて、それではどうするかと腕組みをして考え込んだとき。
(あ…そういえば最近「西王母」のママにも会ってないアルネェ)
 ふとそんなことを思い出した張々湖は、そのままいそいそと「西王母」に向かったというわけなのである。
 そして結局そのまま閉店時間まで居座り、最後はママにぴしゃりと言い負かされてすごすごと退場というのは、確かに少々情けない結末だったかもしれない。気がつけば夜もかなり更けてしまった。まだ終電には充分間に合うだろうけれども、こんな時間に帰ったらフランソワーズにさぞ叱られることだろう。もっとも、仲間内では最年長組の張々湖相手となればさすがのフランソワーズもジョーやジェットのときのようにぽんぽん文句は言えないはずだが…。「どうして連絡の一つもしてくれなかったの? すごく心配したのよ!」などと、潤んだ水色の瞳でにらみつけられるくらいは覚悟しなければならないだろう。
(はぁ…考えてみれば今日は随分と時間を無駄に使こちまったもんアル…)
 あと三本で最終という、客もまばらな電車の中でついため息をついてしまった張々湖。
 しかし、「西王母」でのひとときが楽しかったことには間違いないし、ママやホステス、バーテンやウェイターたちの変わらぬ元気な姿に安心したのも事実である。

(…ま、たまにはこういう夜があってもいいかもしれんネ。人間の人生なんて意外と長いもんアルし…特にわてらは…ナ)

 ほんの少し苦いものも交じってしまったが、それでも今の気分はそう悪くないと思う。
(今度はママのご希望通り、グレートや他のみんなと一緒に行ってみようかネ…)
 そんなことを考えつつ、ときにまどろみつつ。電車が目的地に着くまでには、まだもう少し、時間がかかりそうである。
 


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