落とし穴 4
風は、ますます強くなっていた。ひときわ大きな波が堤防にぶつかり、歩道の方にまで派手な飛沫を上げる。その向こう、真っ青な顔で今にも堤防から飛び込まんばかりに身を乗り出しているのは―。
「周ちゃん! 周一! 周一ぃぃぃぃ…ッ!!」
さっきの…子供を連れた母親。だが、今その傍らにはよちよち歩きの女の子しかいない。
(―まさか!)
顔色を変えた三人は、全速力で母親のもとに走った。
「どうしたんですかっ!?」
噛みつくような顔で叫んだジョーへの返事は、半狂乱の絶叫。
「子供が…息子がっ! 今ちょっと、転んだ下の子を助け起こしている隙に…また堤防によじ登ろうとして…波に…っ」
「何ですって!」
弾かれたように、フランソワーズが海へと目を向ける。瞬時に大きく見開かれた瞳。同じ色をしたアクアマリンのチョーカーが、その首筋でかすかに震えた。
(ジョー! ピュンマ! いたわ…沖合い、約六〇メートル! 波が速い…どんどん、流されて行くっ!)
(わかったっ!)
とっさに堤防に飛び上がろうとしたジョー。だが、それよりも一瞬早く。
(待てジョー! 海の中なら僕に任せろっ)
そのときにはもう、堤防の上で身構えていたピュンマ。そして、間髪いれずに見事な跳躍で荒れる海に飛び込んだ漆黒の弾丸。ジョーもフランソワーズも、それを見てかすかにうなづき合い、なおも堤防から離れない母親を必死に引き離しにかかった。
「周一! 坊や…坊やァァァァーッ!!」
「お母さん、落ち着いて! 今…僕らの仲間が助けに行きました! 彼は、世界的な水泳選手です! だから…必ず坊やを助けることができます!」
台詞の一部は嘘八百。だが、そのおかげでほんの少し―母親は正気を取り戻したようだった。
「世界的な水泳選手…本…当に…?」
「ええ! だからここは彼に任せて、少し…後ろに下がって! このままじゃ、みんな揃って波にさらわれてしまいますよ!」
がくりと力が抜けた母親を抱きかかえ、離れたところに避難させるジョー。一方のフランソワーズは突然のことに半べそをかいている女の子を抱き上げ、そのあとに続く。だが、その間にもピュンマに指示を送ることは忘れない。
(ピュンマ! 坊やの位置は、今の貴方から右一八度、三〇メートル! 潮の流れは…左から右! だから、少し右よりの進路を取って!)
(OK! わかった!)
頼もしい返事に、フランソワーズの唇がかすかにほころんだ。そう、彼女の瞳は今やはっきりと捉えていたのである。大きくうねる波の下、ほの暗い水中でもなお鮮やかな純白の泡を従えて、沈みかける子供めがけてまっしぐらに泳ぐピュンマの姿を。
やがて、その黒い手が小さな黄色い手をしっかりと―つかんだ!
(よし! つかまえたぞ!)
(こちらも確認したわ! ピュンマ、気をつけて!)
そこでいったん脳波通信を切り、ジョーににっこりと微笑みかけたフランソワーズ。ジョーの口元にもかすかな笑みが浮かび、腕の中、震えている母親の肩をそっと叩く。
「お母さん! つかまえましたよ。もう、大丈夫です! すぐに坊やは、こちらへ戻ってきますよ!」
「あ…」
なおも信じられないといったふうの母親が、おどおどとした瞳でジョーとフランソワーズを交互に見つめたとき。
(次の高波に乗って堤防まで飛ぶ! ジョー、スタンバイしてて!)
(わかった!)
突然堤防に向かって走り出したジョーを必死に追おうとする母親。が、フランソワーズのほっそりとした手が、静かにそれを遮った。
「彼らに任せておけば、大丈夫です。だから…もう少し、ここで待っていて…」
そのときまた、堤防を揺るがせるような勢いで打ち寄せてきた巨大な波。ジョーの姿が一瞬、その飛沫の中に消える。
「キャアアアァァァッ!」
悲鳴を上げて目を覆った母親を、今度はフランソワーズがしっかりと抱きしめた。
そして―。波が引き、再び視界が開けたとき。
堤防の上に立つ、ジョーとピュンマの姿ががはっきりと見えた。ピュンマの腕には、ぐったりとした小さな男の子がしっかりと抱きかかえられている。三人とも、無事―!
そのまま二人は軽やかに堤防を飛び降り、こちらへ向かって走ってくる。呆然と固まっていた母親が、転がるようにしてピュンマの腕の中のわが子に飛びついた。
「ああ…周ちゃん! 周ちゃん! …周一ぃぃぃ…」
ピュンマから子供を受け取った母親は、ただ動転して繰り返しその名を叫ぶばかり。ピュンマがそれに負けじと声を張り上げる。
「子供は無事だ! 意識はないが、脈も呼吸もしっかりしてる! でも、すぐに病院に連れてかなきゃ…フランソワーズ、誰か呼んできて!」
「わかったわ!」
抱いていた女の子を母親の手に戻し、ぱっと走り出すフランソワーズ。やや先の船着場で、その目が漁師らしい数人の男たちを捉える。
「誰か…っ! 誰か来て下さい! 子供が海に落ちたんですっ!」
「何だって!?」
すぐさま、こちらに向かってくる漁師たち。フランソワーズは彼らに方向を指し示しながら、自分も大急ぎで駆け戻る。
(ジョー、ピュンマ! 漁師さんたちが、今こっちに駆けつけてくれるわ。…だから…)
最後まで言わせずジョーがうなづき、二人の子供をかき抱いたままいまだ震え続ける母親に、やや厳しい―叱りつけるような声で言い聞かせた。
「今、助けがきます! だから…その人たちに頼んで、一刻も早く坊やを病院に。いいですねッ!!」
それまで他の何も目に入らなかったらしい母親の瞳に、ようやく理性が戻りかけてきた。気が動転して放心状態になっている人間は、下手に甘やかしてもどうしようもないときがある。今こそが、まさにそれだった。
「わかりましたかッ!」
再度怒鳴りつけるように念を押せば、しっかりとした視線を返してはっきりとうなづく。そのときには、駆けつけてくる漁師たちの姿もくっきりと見えてきた。
「あの人たちが、助けてくれますよ! とにかく、少しでも早く病院に…!」
それだけ言い置いて、三人はくるりときびすを返した。今度は、自分たちの車に向かって全力疾走。母親は、漁師たちの方に気を取られてそれにも気づいていないふうだ。彼女が完全に落ち着きを取り戻さないうちに、自分たちは消えなければ―。追いかけられて名前を訊いたりされても困る。
車に戻り、ジョーはまっしぐらに運転席に飛び込む。フランソワーズの、鋭い声が飛んだ。
「ピュンマ、今度は貴方が前に座って! そちらの方がエアコンが効くから…」
うなづいたピュンマが助手席に、そしてフランソワーズがリアシートに乗り込み、ドアが閉まったと同時に、ジョーは車を急発進させた。
「はぁ…それにしても、みんな無事でよかった…」
ため息交じりのジョーのつぶやきに、ピュンマとフランソワーズもほっとした面持ちでうなづく。
「さっきピュンマが言ったことはまさにこれね。もし私たちがサイボーグでなかったら、あの子を助けるなんて、まずできなかった…。あの過去を肯定することなんて、私にもいまだにできないままだけど…それでも今は、あの坊やを助けてあげられたことが嬉しいわ」
と、赤信号で車が止まった。信号待ちをしているわずかな間に、ジョーが自分のジャケットを脱いでピュンマに渡す。
「あのさ、ピュンマ…もしよかったら上半身だけでもその濡れた服を脱いで、これはおってて。僕もさっき盛大に波飛沫を浴びちゃったけど、中までは濡れてないから」
「ありがとう」
礼を言って、素直にその言葉に従うピュンマ。エアコンはすでに最強度にしてある。そして、ギルモア邸まではおそらくあと十五分足らず。
「それにしても、さっきはジョーのおかげで助かったよ。君が堤防の上から引き上げてくれなかったら、僕はあの子と一緒に再び海に落っこちるところだった」
さっき、高波に乗って一気に堤防まで飛び上がろうとしたピュンマ。だが、子供を抱えての跳躍にはやはり少し、無理があって。前もって堤防の上に待機していたジョーがその腕をつかみ、引っ張り上げてくれなかったらどうなっていたことか。
「そんなことないってば。むしろ、君が前もって脳波通信で連絡してくれたからこそみんなうまくいったんだよ。…それより、寒くない?」
「ああ。暖かい風が確かによく当たるね、助手席は。おかげで全然、寒くなんてないよ」
「だからといっていつまでも濡れたままじゃ、いくらサイボーグでも風邪をひくわ」
「そうだね…。いつだったか、ジョーも大風邪ひいたことあったし」
「やだな。あのときのことはもう言わないでよ」
楽しそうな笑い声を乗せて、車はようやくギルモア邸に着いた。迎えに出た途端、びしょ濡れのピュンマと鉢合わせして声を失う留守番組(年寄り組?…って、失礼すぎるぞ→自分)にはお構いなく、三人はどたばたと風呂場に突進し、狭い脱衣所の中でタオルを用意するやら、湯船の焚き直しをセットするやらの大騒ぎ。ややあって、まずフランソワーズが、続いてピュンマの濡れた衣服を手にしたジョーが出てきたとき、留守番組はいまだ玄関でしっかりと固まったままであった…。
だが、ピュンマがゆったりと湯に浸かって冷えた身体を温めている間に、二人の口から今日の出来事を説明されてようやく彼らも全てを納得し、やがてすっかり温まって風呂から上がったピュンマを賞賛の声で迎える。
「よう、ピュンマ。やったな! お手柄じゃないか」
「そんな荒れた海の中から無事子供を助け出すなんて、さすがアル。やっぱり海の中ではピュンマに敵うものはいないのコトよ」
「モウ、全身スッカリ元通リダネ。ヨカッタ」
「何より、みんな無事だったのが一番じゃ。…さ、早うこっちで休むがええ。さぞ疲れたじゃろう」
「…ところで、お土産の方はちゃんと買えたんアルか?」
「ああ、それがね…」
…などと、そのまま夜遅くまで今日の珍道中の話に花を咲かせたギルモア邸の面々は、やがてそれぞれの部屋に引き取り、平和で安らかな眠りについた…はずだったのだが。
深夜。
「うわああああああぁぁぁっっっ!!」
時ならぬ凄まじい悲鳴に、全員がベッドから跳ね起きた。
「何だ!?」
「誰の声だっ?」
「敵襲…か!?」
慌てて部屋の外に飛び出しても、そこには自分と同じ、寝ぼけまなこの仲間たちがおろおろと右往左往しているばかり。
「みんな、大丈夫かっ!」
叫んだジョーに、そこにいる全員がしっかりとうなづく。と…ネグリジェの上に薄手のカーディガンをはおったフランソワーズが、衿元をかき合わせながら不思議そうに首をかしげた。
「変ね…何も、異常はないわよ…? 少なくとも私の目と耳が届く範囲には、不審なものは何もないわ」
(…ボクモ、何モ感ジナイケド…)
ギルモア博士の腕の中、イワンも当惑したように眉を寄せる。
(ううううううーッ…!)
だが、そこに再び聞こえてきた息も絶え絶えの呻き声。
「じゃあ、あれは一体…」
「あっ! ピュンマが…いないアルっ」
パジャマの上に、それぞれガウンと綿入れ半纏をひっかけたグレートと張々湖が、真っ青になった顔を見合わせる。
「まさか…!?」
そのまま慌ててピュンマの部屋に駆けつける一同。
「ピュンマ! ピュンマ! 開けてくれっ! 一体…どうしたんだっ!」
思い切りドアを叩いても、返事はない。かわりに聞こえてくるのは、身の毛もよだつ絶叫と、切れ切れの呻き声ばかり。
「ジョー! ここはさっさと入っちまったほうが早い。ピュンマ! 入るぞ!」
グレートがドアのノブに手をかける。幸い、鍵はかかっていなかった。
「ピュンマ!」
一歩部屋に踏み込めば、ベッドの上で苦しげにのた打ち回り、全身をかきむしるピュンマの姿!
「だ…誰か…誰か、助けてくれっ!」
「ど、どうしたのピュンマッ! どこか…苦しいのかい!?」
ベッドに駆け寄り、肩を揺さぶったジョーの手首に、ピュンマの黒い指がすがりつくように食い込む。
「違う…どこも…苦しくも…痛くも…ないけ…ど…ひっ!」
言いかけながら、またしてもその身体がびくりとのけぞった。
「ピュンマ!」
「か…かゆいぃぃぃっ! かゆいかゆいかゆいかゆいかゆいぃーっ!」
「…はぁ?」
多分今は、のっぴきならない緊急事態には間違いない…はずではあるのだが。
あまりといえばあまりに突拍子もないその絶叫に、一同は―ギルモア博士やイワンでさえも―ぽかんと口を開けたまま、そのまましばらく、地蔵と化してしまったのであった。