落とし穴 2


 真冬の海に、漆黒の身体が跳ね上がった。その周囲に飛び散る水飛沫が、緩やかな昼下がりの日差しを浴びて七色にきらめく。さながら祝福に輝くダイヤモンドのような水の粒を従えて、ピュンマのしなやかな肢体が水面に踊り、飛び跳ね、そして一気に水の中へと潜る。
 生命の、色。命の輝き。神が作り給うた種々の造形、その中の「ひと」という姿を与えられた目の前の存在の美しさに、力強さに。
 浜辺に立ち、微笑んでピュンマを見守っていたジョーが、一瞬―眩しそうにその茶色の瞳を細めた。

 ピュンマのメンテナンスから、すでに十日―

 全ての処置が終ったのち、ピュンマはおよそ一週間、昏睡状態のままだった。
(意識が戻ったとしても、新しい皮膚が身体に馴染むまでは絶対安静で動くことはできんし、多少の痛みもあるかもしれんから―いや、せいぜいがひどい日焼けをしたとき程度のものだとは思うんじゃが―不愉快なことには違いあるまい。だったらいっそ、それまでの間は眠っていた方がいいかと思ってな…)
 というのはメンテナンス終了のその日に、心づくしのご馳走を作って祝賀会の準備を進めていた張々湖とフランソワーズに対する、ギルモア博士のしどろもどろの弁明である。一度は不満げに口を尖らせた二人もそれを聞いて思いなおし、取りあえずその日はギルモア博士と張々湖、グレート、フランソワーズ、そしてイワンとジョーの六人で盛大に前祝いの宴を張ったこともまだ、記憶に新しい。
 そしていざ一週間後、目覚めたピュンマは―。
「…気分はどうじゃな?」
 枕元、恐る恐る声をかけたギルモア博士に、微笑んでしっかりとうなづいた―そこまではよかったのだが。
「お、おいピュンマ! 何をするっ!」
 意識を取り戻してからまだ数分もたっていないといないというのにいきなり起き上がろうとして、ギルモア博士に悲鳴を上げさせてしまったのだった。そして、飛びつくように抱きとめる博士を丁寧に、しかし断固たる力で振りほどいたあとは、一週間も昏睡状態が続いていた人間とは思えない、しっかりとした足取りで床に下り―。
 真っ直ぐに向かった先は、クローゼットの前面にはめ込まれている等身大の鏡の前。
 そこに立った瞬間、ピュンマの瞳は固く閉じられていたという。しかしやがて、そのまぶたがゆっくりと開かれ―。
 そして、見た。鏡に写る自分の姿を。黒檀色の、艶やかでなめらかな肌に覆われた、本来の自分を。
 博士の悲鳴に慌てて駆けつけてきた仲間たちが、部屋に飛び込んだ瞬間目にしたものは―その中の自分を確かめるようにぴったりと冷たい鏡面に頬をすり寄せ、声もなく感動の涙を流し続けるピュンマと、その背をしっかりと抱き、同じく無言のままかすかに肩を震わせているギルモア博士の姿だった。

(あのときのピュンマは、本当に嬉しかったんだろうなぁ…)
 その気持ちはジョーにも痛いほどよくわかる。だから、今日もこんな「掟破り」の片棒を担いでしまった。
 実はまだ、ピュンマには海を泳いでいいという許可は出ていないのだった。いかに感動にうち震え、涙もろくなったとはいえ、そこはそれ、冷静で厳格な科学者、ギルモア博士には変わりない。新しい皮膚が完全に接合したことが確認されるまでは毎日一回必ず検査を受けること、そして、日常の基本動作程度の軽い運動以外は絶対禁止―これが、博士からピュンマに言い渡された厳命である。
「ま、せいぜいもう一週間程度のことじゃろうから、今しばらく…今しばらくはな、家の中でおとなしくしておるんじゃよ」
 最後に一応、優しくそうつけ加えたものの、博士の目はそのときも、「もし言いつけを破ったりしたらただではおかん」とばかりの無言の威圧を込めて、ひたとピュンマを見つめていたのであった。
 いつものピュンマなら、しっかりとその言いつけを守ったことだろう。だが、今の彼は再び元の肌―しかも表面だけとはいえ、それは持って生まれた自分自身のものなのだ―を取り戻せた喜びと感動にすっかり興奮していた。しかも、その一方ではかすかな不安に襲われてもいたのである。それはつまり、「果たしてこの肌でも今まで同様、水中を自由に泳ぎまわれるのだろうか?」という大問題。外見上どのような不具合があろうとも、あのウロコのおかげで水中における移動速度や旋回性、敏捷性が格段に向上し、それまでよりもいっそう快適に活動できるようになった事実は変わらない。一度それに慣れてしまった身にとって、いかに待ち望んでいた本来の肌に戻れたとはいえ、そのかわりにあの快い泳ぎを二度と体験することができなくなってしまったら、それはそれでやはり悲しいことには違いなかった。
 いかに日頃、沈着冷静な知将ピュンマとはいえ、まだたった二十二歳の若者である。あれやこれやですっかり興奮し、混乱さえしてしまった今となっては聞き分けのない駄々っ子、悪戯坊主も同然で。
 できることなら今すぐにでも泳いでみたい―そんな気持ちを必死に抑え、我慢に我慢を重ねて三日間。たまたま今日、ギルモア博士がよんどころない事情でコズミ博士を訪ねることになったと聞いた途端、チャンスとばかりに脱走を企て、その片棒を担がされてしまったのがジョーというわけだ。
 ギルモア博士に知られたら、さぞかし怒られるに違いない。しかし、ピュンマのあんな溌剌とした姿を見られたんだからそれでもいいとジョーは思う。
 ただ、そんな気持ちにもやはり限度というものがあるのはどうしようもなく。
(ピュンマ! そろそろ戻ろう。博士が帰ってきちゃうよ!)
 遥かな沖合いに向かって脳波通信を送っても、返事すら返ってこない。本当に子供みたいだと苦笑しつつ、少し調子をきつくしてもう一度。
(ピュンマ! これ以上は本当にまずいよ! 今すぐ戻ってこないなら、僕一人で先に帰っちゃうからねッ!)
(…ちぇっ。仕方ないなぁ)
 思いっきり「しぶしぶ」といった体の返事が、ようやく返ってきた…とほっとするよりも早く、ほとんど水平線のあたりから一直線にこちらに向かって、凄まじい速さで突進してくる白い波。
(え…?)
 はっと顔を上げたそのときにはもう、膝くらいの浅瀬に泳ぎ着いたピュンマが立ち上がり、笑顔で手を振っていた。
「すごいね、ピュンマ。スピードが全然落ちてないや…むしろ、前より早くなったんじゃない?」
 感嘆の声を上げつつ、手にしたタオルをピュンマに渡す。
「うん。正直、運動性能までこれほど上がっているとは思ってもいなかったよ。僕自身も何かまだ、信じられない気持ちさ…」
 身体を拭きながら、半ばうっとりとした声でピュンマが言う。久しぶりの海を新しい身体で思うままに泳ぎまわれたのが余程気持ちよかったのだろう。
「今回のメンテナンスでは、皮膚以外の部分もいろいろ整備したからね。水中活動用の補助エンジンとか、人工筋肉とか」
「そうか…だからこんなに…」
「だけど、メインがその肌なのにはかわりがないよ。いきなりあんなに泳ぎ回って大丈夫だったかい? 塩水がしみたとか、海中の浮遊物にぶつかって傷になったとかなんてことはない?」
 二人揃ってギルモア邸に戻りながら、ジョーがふと、不安そうに尋ねた。しかし、ピュンマは笑顔で首を横に振る。
「おかげさまで、全く異常なしさ。だけど…」
 最後に軽く首をかしげたピュンマに、ジョーの表情が変わる。
「ちょっと…肌がつっぱる感じかな。そう…顔を洗ったあとのような。水から上がった直後だから仕方ないのかもしれないけど」
「あ…あ、それね」
 露骨にほっとした様子のジョーに、今度はピュンマがさらに、首をかしげた。
「僕たちもそうだったんだよ。ほら、今回の皮膚表面は生身の細胞…しかも、このメンテナンスにあわせて培養された、言わば『生まれたて』の肌だろう? だから、皮脂分泌なんかも一から始めることになるわけで…今までの蓄積がない分、初めのうちはどうしてもつっぱったり、乾燥した感じがするんだってさ。でも、それもすぐになくなるよ」
「へぇ…そうなんだ。…考えてみれば、肌がつっぱる感じなんていうのも久しぶりだなあ」
 どこか嬉しそうに、ピュンマが自分の頬をさする。しかしジョーは、いくぶん足を速めて。
「僕もうっかりしてたよ…少し急ごう、ピュンマ。何しろ君の肌はまだ、生まれたての赤ん坊と同じなんだから。早くシャワーを浴びて海水の塩分を落とした方がいい」
「うん、わかった」
 そして二人はそのまま小走りにギルモア邸へと戻り、ギルモア博士の帰宅前には、手分けして脱走の痕跡をすっかり隠しておいたのだけれど。





「ぶわっかもぉぉぉぉん!!」
 ギルモア博士の怒号が、家中にこだまする。
「どうしてあと一週間…いや、たった四日が待てんのじゃいっ! この、聞き分けなしのドラ息子どもがあああぁぁぁっ!!」
 …そう。「天網恢恢、疎にして漏らさず」「悪事千里を走る」「悪銭身につかず」(最後のは微妙に違うぞ→自分)。ピュンマとジョーの大脱出劇は、その日のうちにあっさりと博士に見抜かれてしまったのであった。
 しかもそのあと、怒りのあまり頭に血が昇りきった博士が泡吹いてぶっ倒れてしまったとくれば、それこそたまったものではない。
「…ったくもう、何考えてるアルねっ! 年寄り興奮させてどこが面白いちゅうねん! ただでさえ博士はこの頃血圧が高くて、フランソワーズとわてが毎日の食事にも気を遣ってるいうアルのに…。今回ばかりは同情の余地なしネ! 二人とも、さっさと自分の部屋に帰ってじっくり反省するヨロシッ!」
「…大人の言う通りだな。今回ばかりは我輩も弁護してやる気にはなれん。博士のことも心配だが、何よりピュンマッ! 許可も出てないのにとっとこ脱走しやがって、のんびり真冬の海で海水浴だぁ? そんなバカな真似して、せっかく移植した皮膚に異常が出ちまったらどうするんだっ! メンテナンスのやり直しなんてことになっても、我輩は二度とアシスタントになんてついてやらんぞっ!」
 張々湖とグレート、二人の年長組にまでしっかりとお説教をくらい、ピュンマとジョーは言葉もなくしおしおと自分の部屋に引き上げるしかなかった。
(それにしても、どうしてあれがバレたんだろう)
(気づかれるような証拠は全部、完全に始末しておいたはずなのに…)
 顔を見合わせ、がっくりと肩を落とした青少年ども。だが実は、「完全に」などと思っていたのは本人たちだけだったりする。
 まずはジョー。家に戻るやいなや、海岸で砂まみれになった自分たちのビーチサンダルをきれいに洗って乾かし、玄関に落ちている砂も全てきちんと掃除した…と、そこまではいい。だが、海から上がったピュンマが身体を拭いたタオルを、いつもの通りに洗濯機前、汚れ物入れの篭に放り込んでしまったのでは―いや、一応他の洗濯物の下にしのばせ、ちょっと見ただけではわからないようにはしておいたのだが―詰めが甘いと言われても仕方あるまい。
 それに比べればピュンマの方はまだ用意周到だったかもしれない。まず玄関から風呂場に直行、シャワーを浴びて海水も潮の香も全て洗い流した。不自然に洗濯物を増やして感づかれてもいけないと、その日はおっていったシャツは準備しておいたポリ袋にきっちりと詰める。こちらはいずれ、外出許可が出てからどこかの洗濯屋に持って行けばよかろうと、そこまでは見事な気配りであったのだが。
 自分同様、たっぷりと海水を含んだ水着だけはそうもいかない。ざっとでも水洗いだけはしておこうと風呂場に持ち込んだのが、彼の場合は致命的であった。
 まず水着を洗い、何の気なしに風呂場の引き戸の手すりに干した。そして今度は自分がシャワーを浴び、いざ風呂場から出る段階になって水着のことをころりと忘れてしまったのではもう、何をか言わんやである(←いや、それ以前にあのタオルをジョーから受け取っておかなかった時点ですでに終ってるし)。
 さらに間が悪かったのは、帰宅後洗濯物を出し忘れていたのに気づいたギルモア博士が、シャツやらハンカチやらを抱えてえっちらおっちら例の篭のところへやってきたこと、しかもその足で風呂場にも直行してしまったことであろう。
 博士とて、だてに大きな鼻を持っているわけではない。科学者という職業柄もあるのだろうが、匂いにはかなり敏感な方なのだ。洗濯機付近にわずかに漂う潮の香に小首をかしげながら風呂場に入っていけば、まだ湿ったピュンマの水着がしっかりと引き戸の手すりに干されていたというわけで―これで気づかなければ、正真正銘のバカである。

 かくしてそれから六日間―プラスされた二日は博士のありがたい親心によるものである―ピュンマは自室にほぼ軟禁状態となり、ジョーはその間ピュンマの部屋への立ち入りを絶対禁止されてしまったのだが、それも全て身から出た錆、自業自得というものであろう。

 


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