前略、道の上より 2
「何だってえええっ!!」
二人分の絶叫に、ヤスはびくりとして後ろに飛びのく。ところが狭い室内のこと、背後の壁に思いっきりぶつかって盛大にすっ転んでしまった。
「お…お前らなぁっ! いきなりそんな大声出すなよっ! 危ねぇじゃねぇかっ」
「だってヤス! コンビニ強盗なんて、大事件じゃないか!」
「そーだそーだ! 一歩間違えば殺されてたぞ! 最近は日本も物騒だしよ」
「縁起でもねぇこと言うなよっ」
ぶつけた腰をさすりながら、泣きそうな顔で起き上がったヤスが、威勢良く自分の足を叩いて見せた。
「ほれ! この足見ろ! ちゃんと身体にくっついてらぁ。あん時の強盗はすぐに警察に逮捕されたし、俺らもかすり傷一つ負っちゃいねぇさ。…ま、運がよかったといえばよかったんだけどもよ」
再び椅子に座りなおそうとして腰の痛みに顔をしかめたヤスが、苦笑しつつ話を続ける。
「あん時もちょうどこんな深夜番でさ、相方と二人、レジに入っていたわけよ。そこに…押し込まれちまったんだな。相手も二人、ナイフ持って目出し帽かぶった典型的なゴートーさんスタイルでさぁ」
今度は、ジョーもジェットも何も言わない。ただ、食い入るようにヤスの顔を見つめているばかりである。
「慌てなかったって言やあ嘘になる。何せそんときの相方はクソ真面目なエリート大学生、殴り合いの喧嘩なんざ生まれてこの方一度もやったことがねぇってお坊ちゃまでよ。しかもちょっくら風邪気味でふらついてたとくりゃ、いざって時にゃ俺一人で相手しなきゃならねぇかとかなり、びびったぜ」
以下、ヤスの話をかいつまんで説明すれば。
ナイフで脅されたヤスたちは、強盗犯の言うがままにレジを開け、有り金全部を差し出した。これもまたオーナーの仕込である。「人間、命あっての物種だ。万が一何か事件に巻き込まれたときは、金でも何でも全部渡しちまえ。いいか、どんなことがあっても決して相手に逆らうんじゃないぞ!」…これが、オーナーの絶対命令であった。
しかしあいにくその夜は客の入りが少なく、レジの中には二、三万ちょっとの金しか入っていなかった。それに怒った強盗犯たちは、金庫の中身まで要求してきたのである。
さすがのヤスたちもそのときばかりは顔を見合わせた。
レジの金だけなら、いい。交代のたびに精算して、たまった金はこまめに銀行に振り込んであるのだから、損害はせいぜい十万以下、最悪の場合でも十数万で済む。
だが、金庫の中身までとなると…。
正直な話、金庫の中には現金などほとんど入っていない。ただ、この店の貯金通帳やカード、そして実印がしっかりとしまいこまれている、それが困るのだ。
そんなものを盗まれたりしたら、一体被害はどれだけになることか。普段どれだけ「命あっての物種」と叩き込まれていようが、やはりためらってしまうのは仕方のないことであった。
だが、そんな彼らの躊躇など強盗が気にかけてくれるはずもない。ぐずぐずと煮え切らない二人に激昂した犯人どもは、ヤスの相方―風邪気味で調子の悪いエリート大学生―に襲いかかり、ナイフを振り上げたのだった。
「俺、それ見て頭ン中が真っ白になっちまってよぉ…気がついたら犯人突き飛ばして二人の間に割り込んでたんだ。当然、奴らはキレたさ。ナイフ突きつけられて、ぎらぎらする目で睨まれて…あんときばかりは『殺られる!』って腹くくったよ。でもな、俺…相方だけは何としてでも助けてやりたかった。…ホント、純粋なヤツだったからさぁ…エリートだからってそれを鼻にかけることもなくて、真面目に勉強して一生懸命バイトして。俺に対してもな―ビビってるこたぁビビってんだよ。それはこっちにもよくわかった。だけどそれでも精一杯気ィ遣ってくれて、おっかなびっくりでもぎこちなくてもいろんなこと話しかけてくれてさぁ…そんなふうにしてくれたの、あの当時はヤツ一人だったからよ…」
同僚をかばい、強盗の前に仁王立ちになったヤス。だがそれが、一発逆転のきっかけとなった。
「完全にキレまくってたあいつらは、そのまま俺を刺し殺そうとした。だけど俺も『ハナキズのヤス』よ。何とか反撃の一つもしてやりてぇって、も、こっちも完璧に頭に血が昇っちまってたんだな。必死こいて、全力でヤツらを睨み返してやったんだ。…我ながら、すげぇ形相だったらしいぜ。あとでしみじみ相方に言われたもんな。『鬼ってものが本当にいるってこと、あのときばかりは心の底から納得しました』ってよ」
だがその『相方』も、ヤスの背後で黙って震えていただけではなかった。全身全霊を込めた気迫で睨みつけられた犯人どもがわずかに怯んだその隙に、ヤスの陰に隠れて店の緊急警報スイッチを押してくれたのだ。
「その瞬間に、形勢逆転よ。いきなり鳴り出した警報ベルにもう、奴ら完全にアワ食っちまってさぁ。何てったって、ウチのベルの音量はものすげぇんだ。マジ、俺も一瞬心臓麻痺起こすかと思ったもんな」
そして慌てて逃げ出そうとした犯人ども。とっさに、ヤスの身体が動いていた。
「レジに置いてあった小型クーラー、ほれ、缶コーヒーやら缶ジュースやら冷やすヤツな。そん中から無我夢中で一本取り出して思いっきり投げつけたら、それが見事片っぽの頭に命中して、のびちまったのよ。今度はこっちがびっくりして、生きてるかどうかあたふた確かめてる間に、警備会社の人とか近所の交番のお巡りさんとかが駆けつけてくれたんさ。でもって、ぶっ倒れた方はその場で逮捕、逃げたもう片っぽについても即刻捜査開始。…で、数日後にはそいつも無事捕まって、めでたしめでたしってやつさ」
話し終えたヤスはけろりとして、再び手の中のペットボトルに口をつけたばかりだったけれど。
「無茶なことをする…」
苦虫を噛み潰したような顔でようやくそれだけつぶやいたジェット。傍らのジョーにはもはや、言葉もない。幾分蒼ざめた顔で、ただただうなづくばかりである。
「いやそんな…二人とも、あんまし深刻にならねぇでくれよ。その事件のおかげで、この店での俺の株はぐーんと上がったんだから」
「え…?」
首をかしげた二人に、ヤスはまた、にやりと笑う。
「そん時の相方がな…ほれ、風邪っぴきだったところにもってきて、生まれて初めて命がけの切った張ったやったわけだろ。次の日からすげぇ高熱出しちまって、二、三日バイトも休んでたんだけどよ」
そこで、いかにも照れくさそうに頭をかいて。
「元気になって出てきた途端、店中に吹聴してくれたんさ。俺の…その…活躍ってやつをな。もともとがガキみてぇに純粋な奴だったろ? あんときかばったってだけでもう、俺のこと神様みてぇにソンケーしてくれやがってよ。『前科がなんだ、花岡さんは絶対悪い人じゃない。命がけで僕をかばってくれたんだ』って…いやもう、聞いてるこっちの方がこっ恥ずかしくなっちまうくらいだったけど、そのおかげで他のみんなも俺のこと、心底から受け入れてくれるようになってな…」
再び赤くなり、わざとそっぽを向きつつも、ヤスの頬にはいかにも満ち足りた笑みが浮かんでいる。確かにそういう事情なら、コンビニ強盗などと言う物騒な事件も瓢箪から駒、ヤスにとってはかえって幸運だったのかもしれないが―。
「そ…う…だったんだ。その『相方』って、本当にいい人だったんだね。もしかして、それがさっきの…村田さん?」
ジョーの言葉に、ヤスは笑顔のまま大きく首を横に振った。
「うんにゃ、そいつはもうとっくの昔に大学卒業して、この店ともおさらばしちまったさ。実はここの正社員って、俺以外にはオーナーと、昼間のチーフで井沢さんって人の三人だけなのよ。あとはみんな大学生のバイト。当然、ガッコ卒業すればバイバイさ。そいつも今は超一流企業の営業職よ。でもま、今でもごくたまに…年に一、二回かな、一緒に飲んだりするんだぜ。何か同窓会みたいなノリでさぁ、昔の仲間がみんな集まるんだ。でもって、こっちも現役の連中連れてったりする。そんなこんなで何となく、代々の連中には店のことも俺のこともしっかり申し送りされてたりするんだよ。…だから、今の奴らもみんな俺のことは知ってる。だけど、そのことでどうこう言う奴なんか一人もいない。仕事上でも、プライベートでもな」
そう言い切って、ヤスがもう一度、明るい笑い声を立てたとき。
電話が鳴った。
「あ、悪い」
軽く手を上げ、拝むような仕草をしたヤスが受話器に飛びつく。と―。
「はい、ホーソン××西町店…って、何だ、広瀬か。…何ィ! 車が事故っただぁ!? え? お前のじゃない? あ、そーか。お前、車じゃなくてバイクだもんな」
何やら真剣な顔で、受話器に耳を傾けるヤス。
「うん…うん、わかった。じゃ、その事故車が塞いでる道迂回すりゃ、こっちにゃこられるんだな。…ああ、遅刻なんざ気にすんな。事故なんだからよ。おう、村田も定時にゃ帰すから心配すんなって。…それよりお前こそ、焦って事故ったりしねぇように気ィつけろ! 店の方は俺がしっかり守ってっから、ゆっくりでいい、とにかく安全な道選んで来い! ん、じゃぁな!」
電話を切ってこちらを振り向いたその顔は、ひどく申し訳なさそうな表情になっていた。
「…悪い。俺、すぐレジに出なきゃなんなくなっちまった。村田と交代でこっちにくるはずだった野郎がよ、交通事故にぶち当たっちまって…何だかえらく遠回りしなきゃなんなくて、遅れるらしいんだ…ホントに、悪い! カンベンな…」
「いいよいいよ、そんなこと! 僕たちだって、今夜は他の仲間に黙って出てきちゃったし、買い物済ませてこれで失礼するよ。…でもヤス、偶然でも何でも、会えてよかった。本当に、嬉しかったよ」
「そりゃ、こっちこそだ。なぁおいジョー、それからジェットさんも、またいつでも来てくれよ。俺、この時間なら毎日必ず店にいるから! 絶対来てくれな!」
控え室から出てきたヤスが村田に事情を説明している間に慌しくビールを選び、レジへ持って行って。支払を済ませたあとは邪魔にならないようにそそくさと退散したジョーとジェット。だが、ヤスと村田はそんな二人を店の外まで見送り、笑顔で手を振ってくれた。
そんな彼らを、まだ居残っていたさっきの子供たちまでもがじっと見つめている。相変わらず無機質な、透明なガラス玉の瞳。彼らのこともまた、気にならないといえば嘘になるのだけれど。
とにもかくにもジョーとジェットは再び車に乗り込み、ギルモア邸へと引き返したのであった。
夜道も何のその、軽快にハンドルを操っていたジェットが突然声をかけてきた。
「いい奴だったじゃないか、あの、ヤスっての。もししたらまた行ってみようぜ、あの店。…ん? ジョー、どうした?」
助手席でぼんやりと窓の外を見ていたジョーが、はっと振り向く。
「あ…ごめん、ジェット。え…と、何だっけ?」
「おいおいおい」
苦笑したジェットが、前方の赤信号に合わせて車を停める。そして、顔はあくまでも真正面に向けたまま。
「だからあの、ヤスって奴の話だよ。もしかして、さっきのことか?」
「さっきのこと?」
「ああ。店に入るとき、あいつがガキども怒鳴りつけただろ。あんときお前の表情がわずかに変わった。俺の目はごまかせねぇぜ。何か…気にかかることでもあったのか?」
そこで信号が青に変わり、ジェットは再びぐっとアクセルを踏み込む。青白い外灯に照らされたその横顔に振り向いたジョーが、ふと小さく笑う。
「別に、大したことじゃないよ。…ただ、ヤス…変わったなぁって」
「ほーぉ。どんなふうに」
ジェットがぐっとハンドルを切る。
「あのね…昔のヤスってさ…あの、決して悪い奴じゃなくて、すごくいい奴だったってのは今と全然変わってないんだけど…その、何て言うかな。ちょっと、『虎の威を借る狐』みたいなとこがあったんだ」
ジョーの脳裏に、過去の記憶が蘇る。そうだ…あの頃のヤスは普段こそジョーの一番の友人のようにふるまい、あれこれ親切にしてくれたけれど―ひとたびことが起きれば必ずと言っていいほどジョーの後ろにこそこそと隠れているばかり、ちょっとでも危なくなると簡単にジョーを見捨てて自分だけさっさと逃げてしまう、そんな奴だった。おまけに―。
「僕が喧嘩でぶちのめした相手…そいつらのとこへしょっちゅう顔出しちゃ、あれこれたかってたこともあるらしいんだ。『俺はジョーなんかより滅茶苦茶強いんだ、もし逆らったらどうなるかわかってるな』…みたいにさ。だけどさっきのヤスは、僕を指してあの子たちにはっきり言った。『コイツは俺の何倍も強えーんだからな!』って…。ヤスが僕のことをあんなふうに言うの、初めて聞いたから…だからちょっと、びっくりしちゃったんだよ」
そう言ったあとで、ジョーは不安げにジェットを見る。
「でもジェット! それでもヤスはいい奴だったんだ! それだけは、間違いないよ! だから絶対、誤解なんかしないでよね!」
ジェットの返事は、すぐには返ってこなかった。だがそれは、少々狭くてきついカーブを曲がらなくてはならなかったから、ただそれだけのことだったらしい。
「…ンなこと、今さらお前がそんな熱弁ふるわなくてもわかってるよ。あいつはいい奴だ。ちょいと話しただけの俺でも、それはいやというほどわかったぜ。心配すんな」
「…ん」
途端にほっとした表情になったジョー。その様子をちらりと横目で見やったジェット。
「なぁおい、ジョー…。あいつ―ヤスが変わったのって、もしかしたらちゃんとした、『自分の居場所』ってのを見つけた所為かも知れないぜ?」
「居場所…?」
「ああ。あのコンビニだ。あの店でのヤスは皆に頼られ、皆を頼り…互いに助け合って毎日の仕事を精一杯こなしてる。それって、人間にとっちゃ何より幸せな、ありがてぇことじゃねぇのかな。…そりゃ、働く以上どんな仕事にだって大変な、難しいこたぁあるだろうさ。凡ミスこいてみんなに迷惑かけたり、バカな客に理不尽言いがかりつけられて悔し泣きすることだって、多分…いや、絶対あると思う。だけど、それでも―やっぱそこで働くのが楽しくて、そこにいるだけで嬉しくて、そこにいる連中全員と心の底から信頼しあっていられるところ―それこそが『自分の居場所』ってヤツなのさ、きっと。ほれ、俺たちにとってのここみてぇによ」
いつしか車は停まっていた。そして、にやりと笑ったジェットがいかにも不良めいた仕草で親指を立て、指し示した方向。
きょとんとした顔のジョーがそちらを振り返ってみれば。
どっしりとしたギルモア邸のシルエットが、深夜の闇の中にも頼もしい黒い影となって浮かび上がっていた。