前略、道の上より 11
それは、ジョーがいつものごとく空き時間にパピと遊んでいたときのこと。
ふと、チビ犬の鼻がぴくぴくと動いた。
「? どうしたの、パピちゃん」
だがパピはすぐには答えず、一心不乱に空気の匂いをかいでいる。しばらくののち、その黒いつぶらな瞳でじっと空を見つめながらぽつりと一言。
「雨が―降りそうでちね」
「え? 雨?」
言われて顔を上げてみれば、確かに今夜の空は少し曇っていた。だが別に空全体に雲がかかっているわけではなく、天空に輝く月も、ちらほらとではあるが星の光さえも見える。首をかしげたジョーに、パピはまだ空を見つめたまま―。
「空気に水の匂いが混じり始めまちたでち。今夜は多分大丈夫でしょうけど、明日の夜には雨が―それも、かなり激ちく降るかもちれまちぇん」
「え…そうなの? 大丈夫かなぁ、この見張所」
ジョーが慌ててダンボールの山、その奥にしつらえられた「見張所」を点検する。一応その本体を防水シートでくるんでおいたとはいえ、何しろもとがダンボール―ただの紙だし、あまりに激しい雨が降ったりしたらどうなるかわからない。
いつしかダンボールの中に頭を突っ込んで継ぎ目や補強箇所を確認し始めたジョーに、パピが苦笑する。
「いつもそうやって気にちてくれてあんがとでち、ジョーしゃん。でもボクの心配は全然別のことなんでちよ」
今度は鼻ばかりでなく、そのデカ耳までもがぴくぴくと動く。
「激ちい雨はあらゆるニオイを流しちゃう上、大きすぎる雨音は他の物音をかき消ちてちまうでち。しょんな中ではボクのお鼻やお耳もいつもほどには役に立ちまちぇん。まぁ、しょれは人間しゃんたちも同じでしょうから、やっぱりわんこであるボクの方が敏感なことには変わりないと自負ちてはおりまちが…万が一強盗しゃんたちがやってきたとちても、多分…かなり近くに来るまでわからないでしょう。でちからジョーしゃん。明日はかなり要注意の危険日でちよ。気をつけてちょうだいでち」
つぶらな瞳で見つめられ、ジョーの表情も引き締まる。
「確かに…そうだね。ありがとうパピちゃん。じゃ、早速ヤスやジェットにも知らせてくるよ。もちろん、アルベルトにもね」
「しょれがいいでち」
軽くうなづいて、パピはそのまま見張所に引っ込む。ジョーもすぐさま店内に戻り、仲間たちに今の警告を伝えたのだが。
途端、ジェットが何とも不思議そうな表情になった。
「へー、アイツ、天気予報までやるのかよ。芸域の広いワン公だなー」
「そうバカにしたもんでもねぇぜ、ジェット…パピの天気予報は結構当たるんだ。やっぱ、『動物のカン』ってヤツなのかもしれねぇ」
こちらはかなり真剣な面持ちでとりなすヤスに、ジョーもさらに言葉を継ぐ。
「この際、『芸』でも『動物のカン』でもどっちでもいいけど…もし雨が降ったりしたら、確かにこっちはかなり不利になるよ。ニオイはともかく、僕たちだって雨音に気を取られて不審者に気づくのが遅れるかもしれないし、あんまり激しい雨だと外の様子もよく見えなくなるしね」
そう言われては、さすがのアメリカンも腕組みをした難しい顔で考え込むしかない。いかに聴覚、視覚を強化されたサイボーグといえども、あまりに激しすぎる雨の中ともなれば敵の足音や姿を察知するのが難しくなるのは生身の人間と同じだ。絶え間ない雨音や地面を叩く水煙をものともせずに目指す音を捉え、その形を認識できるのはフランソワーズ以外にいない。だが、ただでさえイワンの世話やギルモア邸の雑事に手一杯の彼女をこんな深夜の見張番に引きずり出すなど、到底できる話ではなくて。
「とにかく、こちらとしてはたとえ明日がどんな天気になろうがこの体勢で迎え撃つしかないし…。ヤス、ジェット。もしかしたら明日こそ、正真正銘の勝負になるかもしれない。少なくともその覚悟だけはしておいた方がいいと思う」
この少年にしては珍しく、険しく眉を寄せながらの言葉に、ヤスもジェットも真剣な面持ちで大きく―そしてはっきりとうなづいたのであった。
そしていざ一夜明けてみれば。パピの言葉どおりに朝からどんよりと曇った一日、そればかりか、まるで彼らの出勤時間に合わせたかのようにぽつりぽつりと空からの水滴が落ちてきたりして。
「畜生…やっぱ当たりやがったな。あのワン公の『天気予報』」
ぼやいたジェットに、ジョーはただ無言でうなづいただけ。と、二人の後ろからアルベルトの冷静極まりない声が飛ぶ。
「だからどうした。俺たちはただ、自分の『仕事』をしっかりやり遂げるだけだろう。うまくすりゃ今夜一晩で全てが終わるんだ。あれこれ考えてないで、行くぞ、ガキども」
もちろん彼とて、全ての情報は把握している。そしてまさしく今一番の正論は、このアルベルトの言葉そのものだったりするのだ。ジョーとジェットが、大きくうなづく。
「よし。ならさっさと『出勤』しようぜ。手筈はいつもどおりだ。わかってるな」
そして彼らはいつものごとく「仕事場」へと向かったわけだが―。
降り出した雨は、時間がたつにつれてひどくなる一方だった。閉め切った店内にさえ、屋根や地面を叩く雨の音がうるさく響き、道路側のガラス張りの壁は水蒸気にすっかり曇ってしまって外の景色などまるで見えない。
こんな天気では当然客足も鈍る。いかに深夜とはいえ、いつもなら日付が変わる時刻くらいまでは夜食その他を買いに来るサラリーマンや学生などがちらほらやってくるはずなのだが、今夜ばかりはそんな連中の姿も見えず、店は完全な開店休業状態である。
「あーあ、こんなヒマなの初めてだぜぇ。まだ十一時だってのに全然客が来ねぇじゃんかよ」
レジにもたれて大あくびをしたジェットの肩を、ヤスが慰めるようにぽん、と叩く。
「仕方ねぇよ、ジェット。何せこの雨だかんなぁ…。あ、そーいやパピは大丈夫かな。一応、庇は出しといたんだけど」
「さっき見てきたけど大丈夫そうだったよ。それより、雨のせいで周囲の気配がよくわからないらしくて、パピちゃんもぴりぴりしてるみたいだ」
そして、何の気なしにつけ加えた一言。
「…ただ、ね。『この雨のせいで一つだけ助かったことがある』ってさ」
思いがけない言葉にヤスとジェットの眉がぴくりとはね上がる。ジョーは、少し慌てた。
「あの…例の子供たちの気配がさ、今夜ばかりはまるで感じられないんだって。確かに、こんな天気のしかも夜遅くに外に出てくる小中学生なんてまずいるわけないしね。だから、もし、今日なら―今夜なら、あの子たちを巻き込まずに全てのカタがつけられるかもしれないって、そう…パピちゃん、言ってた」
「あ…ああ、そういう意味か…」
瞬時にヤスの表情がゆるみ、ほっとしたように大きく息をつく。それはもちろんジェットも同様だ。
「ま、あのガキどもの気持ちはありがてぇが、正直足手まといだってのも事実だからな。あのワン公の言うとおり、今夜…あいつらがいねぇうちに一件落着すりゃぁこれ以上のこたぁねぇ。となりゃぁジョー、ヤス! やたら不安がってぴりぴりするだけが能じゃねぇぜ。もしかしたらこりゃ、俺たちにとっても千載一遇のチャンスかもしれねぇんだからよ」
どこまでも前向き、そして頭の切り替えも早いアメリカン(←脳天気とも言う)の言葉は、ジョーやヤスの心をもほんの少し軽くした。そう…確かに、自分たちにとって不利な要素だけを考えていても仕方がない。たとえほんの些細なことであっても、この雨のおかげで助かったこともあるのだと思い直した三人はその後―もちろん警戒を怠りはしないし、ついでに店の方はいつまでたってもヒマであったが―それなりに和気藹々と楽しく、深夜のコンビニ勤務に励んだのであった。
だがやはり、いつくるかわからない「敵」を待ちながら過ごす時間は長く、張り詰めた神経には徐々に疲労がたまっていく。午前二時ごろともなるとさすがの青少年たちの間からも会話が消え、黒、茶、青の瞳がかわるがわる壁の時計を見つめるばかりとなってしまっていた。
「…にしても、ずいぶんと待たせやがるぜ。これじゃ夜が明けちまうじゃねーかよ」
例によってヤスがセットしたBGM、「前略、道の上より」だけがやたらにぎやかに響く中、レジ内の丸椅子にでれっと腰を下ろしたジェットがあくびをかみ殺しつつ毒づく。雑誌の整理をするふりをして外の様子を窺っていたジョーが困ったように振り向いた。
「そう…だね。車道も静かになったし、来るならとっくに来ててもいいはずなのに」
店に来る客や路上の通行人の姿が消えても、店の前の車道には結構夜遅くまで車が行き交う。それは、こんな天気の夜でも同じことだ。だが、そんな車の影すらもほとんど見えなくなってからすでに三十分弱―おまけに、あれだけひどかった雨も今はほんの少しずつではあるが、その勢いを弱めているような気がする。
ため息をつきつつレジに戻ったジョー、そして丸椅子に腰かけたまま小さく肩をすくめたジェットに、店の奥で清涼飲料水の棚を整理していたヤスがおずおずと声をかけてきた。
「あ、あのよ、ジョー、ジェット。もしかしたら奴ら…最初っからこの店や俺に仕返しする気なんてなかったんじゃ…ないか? あいつらもさぁ…きちんと…やり直す気になって…だから…こんなおあつらえ向きの夜に…いつまでたっても…やってこねぇんじゃ…」
「バカ言うなよ! じゃ、どーしてヤサフケるとき、大家に嘘なんかついたんだ? 真面目にやり直す気があるんなら、引越し先でも何でも正直に話しゃいーじゃねぇか」
「でも…それにもほら、よ…もっと何か別の理由があったとかさぁ…」
「じゃその別の理由ってなぁ何なんだ? おいヤス、てめぇマジでンなこと言ってんのかよ!?」
すかさずえらい剣幕で噛みついたジェット。だが、確かにヤスの言うことにも一理ある。
(もし報復する気なら何故来ない?)
一瞬。
その疑問が、ジェットとジョーの脳裏一杯に広がった。
そして。
(もしかしたら…あいつらもきちんとやり直す気になって…)
甘っちょろい考えだとはわかっていても、そうであってほしい、そうかもしれないという願望と期待が、ゆっくりとその上に重なっていく。
そこに、隙ができた。
ほんのわずかな時間、三人は全く無防備に―目と目を見交わし、脳裏に渦巻く疑問と願望と期待に完全に気を取られ―それぞれの場所でただぼんやりと、つっ立って―。
そのとき。
「がうっ! がうがうがうがうっ!! ぐるるるる…うがぁぁぁっ!」
突如響いてきた凶暴極まりない犬の吠え声。
…何だ? 一体、どこの犬だ? こんな時刻に、あんな大きな声で吠え立てるなんて…。
だが、それに続いて聞こえてきたのは。
「何だこのクソ犬! チビのくせにぎゃんぎゃんうるせぇ! 生意気なんだよ!」
いかにも憎々しげな罵声と何かを蹴飛ばす鈍い音。そして、「きゃいいいぃぃ…んっ!」という悲痛な犬の悲鳴。
刹那、ジョーの心身に全ての感覚が戻ってきた。
「パ…パピちゃんっっっ!」
とっさにレジを飛び越え、表に飛び出そうとした茶色の瞳の端に、同じくレジを飛び越えてくるジェット、手にした清涼飲料水のペットボトルを放り捨てて走るヤスの姿が、妙にゆっくりと―まるでスローモーションのように―映った。
だが、そのときはすでに遅かったのである。
「ガタガタ騒ぐな! 手を上げろっ!」
三人が目指した出入り口の自動ドアは、すでに開いていた。
そこに仁王立ちになっていたのは、フルフェイスのヘルメットで顔を隠した二人の―多分―男。そして、それぞれの手に握られている拳銃が、ぴったりと三人の胸に照準を合わせていた。しかも、奥から飛び出してきたためにジョーやジェットよりワンテンポ遅れ―彼らの後ろにかばわれるような格好になったヤスに気づくやいなや、二つのヘルメットの中からもれてきたのはくぐもった笑い声。
「おう、久しぶりだな…その団栗眼と団子っ鼻、不細工なバッテン傷は一日たりとも忘れたこたぁなかったぜ。前科者が偉そうに正義の味方ぶりやがって、俺たちをムショ送りにしてくれた恨み、きっちり晴らさせてもらうからな!」
「…にしても、しばらく会わねぇうちにてめぇも随分と腰抜けになったもんだな。バイトの後ろになんざ隠れてねぇで、堂々とツラ見せろコラァ!」
言葉の端々から黒い憎悪が滴り落ちるような罵詈讒謗にも、ヤスは拳を握り締めたまま黙っていた。しかし、やがて。
「お…お前ら…やっぱ…来ちまったのか…。畜生! 何で来やがるんだよぉっ! どうして…どうして俺みてぇにカタギになってやり直そうとしなかったんだ、バカヤロウッ!」
やっとの思いで言い返したのであろうその絶叫には、かすかな涙が混じっていた。
だが、そんなヤスの想いになど彼らが気づくはずもなく。
「ケッ! てめぇに説教される筋合いなんざねぇんだよ! さぁ、三人ともさっさとレジん中に入るんだ。もし逆らったりしたら…わかってるな?」
最初に口を開いた男―どうやらこちらが主犯格らしい―が手にした拳銃を見せつけるように前に突き出し、二、三度振った。ジョーとジェットが、顔を見合わせる。
(…ありゃりゃ…こりゃまたちょっくらドジ踏んじまったってやつかな? どうするよ)
(ここはとりあえず向こうの言うとおりにしよう。このままじゃちょっと距離が近すぎる。万が一拳銃でも撃たれたら、さすがの僕たちにも防ぎ切れない。レジの中ならカウンターに隠れることもできるし、こっちにとってもやりやすいかもしれないよ)
ジェットの脳波通信に答えつつ、ジョーがそっとヤスを促した。なまじ淡い期待を抱いた後のせいか、すっかりしょげきってしまってのろのろとしか動かないその体を、相手の言葉どおり一応両手を挙げながらも全身でかばいつつ、ジョーとジェットもレジの中に入る。と、ジェットが再び脳波通信を送ってよこした。
(ま、そんでもよ。敵のエモノが拳銃だけなら楽勝ってもんさ。ここは一つ、慌てず騒がずゆっくり奴らの出方を見てみようぜ。心配するこたねぇって。ほんの一瞬―一秒の半分、いや四分の一でいい。たったそれだけの隙さえありゃぁ、俺たちゃ加速装置ヌキでも充分、奴らを取り押さえることができるんだからな、ジョー!)
(ああ、わかってる。でも、できることならなるべく急いで…。さっきのパピちゃんの悲鳴が気になるんだ。もしかして大怪我でもしてたら…可哀想だよ!)
(お前なぁ…こんなんなってもまだあのワン公の心配かよっ! あんな「世界の七不思議」がそう簡単にくたばるわきゃねーだろが!)
傍から見ればどう考えても絶体絶命の―そしておそらく、彼ら自身にとってもかなり不本意な―状況にもかかわらず、こんなのんびりとしたやり取りをしていられるのもサイボーグならではの余裕。だが、それがかえって犯人どもの気に障ったようだ。
「おいてめぇらっ。さっきからへらへらへらへら、何見つめ合ってんだ! え…? 貴様らホモダチか? それとも、状況認識ってモンもまともにできねぇバカなのかよっ」
主犯格の憎まれ口に、ジェットの青い瞳に一瞬、凶暴な光が浮かぶ。だが、その口から流れ出てきた台詞はあくまでものほほんと―のんびりしたもので。
「ホモダチ? バカ? …随分と言いたいこと言ってくれんなぁ。ま、口先だけでどんなにわめかれようが俺たちにゃ痛くも痒くもねぇけどよ。ただ、コイツがえれぇ気にしててなぁ。てめえらがここに押し入ってくる直前、情け容赦なく蹴っ飛ばしやがったあのチビ犬のことをよ」
「ケッ! あんなクソ犬なんかよりてめぇのことを心配しやがれ! いいか? コイツの一発で、てめぇらは三人仲良くあの世行きなんだぞ!」
構えた銃のトリガーに指がかかる。ジョーとジェットの全身にほんのわずか―おそらく生身の人間の目ではわからないほどに―力が入り、いざというときはヤスを抱えて銃弾から身をかわそうと身構える。
だが、男は再びトリガーから指を外した。
「ま、安心しろや。お前らにタマぶち込むのは最後の最後だ。その前にやりてぇことはいくらでもある。…おい、しっかり見張ってろよ!」
傍らの相棒に言い捨て、主犯格はそのままくるりと背を向けて店の奥に進む。チャンス―ではあるが、もう一人が出入り口のすぐ脇、すなわちレジの真ん前で拳銃を構え、狙いを定めているこの状態ではさすがのジョーとジェットといえども身動きが取れない。
「まずは…このあたりから行くか」
つぶやいた主犯格が立っているのはスナック菓子が山積みになった棚の前。と、その腕がさっと横に伸び、棚に沿って一直線に―商品をなぎ払った。
「うわ、てめえ何しやがる!」
ヤスの叫びになど、そいつが耳を貸すはずがない。数度の往復の後、きちんと並べられていた菓子は全て床に払い落とされ、色とりどりの袋が無残に床に散乱する。
「今度はこっちだ」
次に向かったのはカップラーメンの棚。そして、あっと言う間にこちらも同じ、惨憺たる有様となる。
「貴様の息の根止める前にこの店めちゃくちゃにしてやるんだよ! ざまぁみろ!」
高笑いとともに手当たり次第商品を払い落とし、踏みつけ、蹴飛ばしていた主犯格に、相棒がどこか媚びるような声をかけた。
「アニキ、頼むぜぇ。一人でばっか遊んでないで、あとで俺にもやらせて…」
だが、その台詞は突然途切れて。
「ひっ!」
続いて上がった悲鳴に主犯格がはじかれたように振り向く。そして、そのまま―硬直した。
「『遊び』…なぁ。それにしちゃ、ちっとおいたが過ぎるんじゃないのか? いい大人にしては」
「アルベルト!」
レジの中の三人が同時に叫ぶ。たった今まで拳銃を構え、彼らを見張っていた男を羽交い絞めにし、びくとも動けぬように押さえつけていたのはまぎれもない銀髪の死神―アルベルトだった。
「ふ…これでどうやら『切り札』としての役割は果たせたようだな。…さ、お前さんもさっさとその物騒なモノ捨てて降参しな。さもなきゃどうなっても知らんぞ。ウチのガキどもは血の気が多いんだ」
薄い唇から流れ出る、抑揚のない声。その静かさが、かえって底知れぬ凄味を感じさせる。が―。
「しゃらくせぇっ!」
残った主犯格がさっと上着を広げ、身体にくくりつけていたらしい何かを取り出した。
「ペット…ボトル?」
ぽかんと口を開けたヤスに、再びヘルメットの中からあの含み笑いがもれる。
「おうよ。でもな、ただのペットボトルじゃねぇぜ。ガソリン入りよ。…おっと動くな! 火ィつけるぞ!」
いつの間にか拳銃をズボンのベルトに挟みこんだ男が、代わりに手にしているのはライター。さすがのアルベルトも、その薄氷色の瞳をわずかに見開いた。
「さぁ、わかったらさっさとそいつ放しやがれ! でもって、てめぇもレジに入るんだ。早くしろっ」
すでに、その声には狂気の影が交じり始めていた。