まあじゃんほうかいき 10
参謀役を失っては、全て自分の判断で進めていくしかない。石原医師やピュンマの言葉を思い出しながら、たった一人、「絶対に和がれない」手を求めて少年は試行錯誤する。
(え…と…とにかく役を作っちゃいけないんだから、まずこの五索と六索は捨てなきゃ。あ、こっちの三筒二枚も。でもそうなると字牌ばかりが残るしなぁ…確か、字牌ばかりの役もあるってピュンマから聞いたような気がする。じゃ、こっちの一萬は取っておこう)
あれこれ悩みつつ、懸命に「勝てない」手作りに励むジョー。
(要は牌の種類がどれもバラバラになればいいんだから、数字がつながりそうなのや同じのが揃いそうなのを捨てていけば間違いない。うん、こっちの南と西、それからこっちの九萬は手をつけなくてもいいよな。どれもみんな一枚ずつで、役なんてできっこないだろうし。あ、九索がきた。これも一枚だけだよね。だったら…)
たどたどしい打ち回しながらも必死に頑張ったおかげで、やがてジョーの手牌は見事にバラバラになった。あとはもうこのまま最後まで行けばいいと、ツモってきた牌をどんどん機械的に捨てていく。そんなジョーの様子に気づいた松井警視が、かすかに唇の端をつり上げた。
「おや、島村のボーヤはテンパイかい? さっきからどうも、ツモ切り(ツモってきた牌を一度も手牌に加えず、そのまま捨ててしまうこと)ばかりが続いてるなぁ」
「え、本当? うわぁ、だったら初めてのテンパイじゃない。さすが私のマゴね、よくやったわジョー! どれどれ、初めての作品、おばーちゃんに見せてごらん♪」
たちまち、小さな赤ん坊が初めて立ち上がったのを目にした祖母(ってーか母親ってーか、姉…?)のような笑みを浮かべた周が嬉しげに立ち上がりかける。
「ちちち、違いますよ、松井さんも周も! これはただ、待ってる牌が全然こないだけで…。決してテンパイなんかじゃないんですっ!」
慌てて否定するジョーの叫びに、松井警視の声が重なった。
「ちょっと待て跳ねっ返り! いくらマゴでも今は対戦相手だろーがっ! 手牌見物なんざ完全な反則だ、反則!」
「わかってるわよそんなこと! 今のはただの冗談に決まってるでしょ! 冗談と本気の区別もつかないなんて、さすが騒音ゴリラね。…やっぱり野獣には人間の持つユーモアってものがわからないのかしら」
「そっちこそ冗談言うなら時と場所を考えろってんだ! そんなん、ユーモアにも何にもなってねーよっ」
「はん! 自分の頭の悪さを棚に上げてよく言うわ。文句があるならベルサイユ…いえ、腕ずくでいらっしゃい!」
「おう、望むところよ!」
またもや険悪な雰囲気になってきた周と松井警視に、ジョーがびくりと身を縮めたとき。
「ジョー、ごめんね。一人じゃまだ実戦は大変だったろう。皆さんも、すみませんでした」
穏やかな笑みを浮かべてその場に現れた救いの神―じゃなくて、戻ってきたピュンマ。たちまち全員の関心が彼に向かい、周と松井警視のにらみ合いも自然消滅。
「まぁピュンマさん、ずいぶんと早く終ったのね」
「で、データ復元はできるようになったの? 八番目」
「ご苦労さんだったな、ピュンマ氏」
口々に声をかける三人に、ピュンマが軽くうなづきかける。
「ええ、実際には思ったより大したことはありませんでした。どうやら最後のディスクの参照ファイル名が復元プログラムから消えてしまっただけだったようです。多分このあとの作業は問題なく進むでしょう」
そして、一人その場で硬直している少年の肩をぽん、と叩いて。
「…そっちはどうだった? ジョー」
にこやかな口調とは裏腹の、不安げな視線への返事は脳波通信。
(うん、何とか頑張ったよ、ピュンマ。さっきやっと、手牌がバラバラになったんだ。これならもう絶対に和がれっこない。大丈夫だよ)
(へぇ…どれどれ)
こちらも脳波通信で返しつつ、何気ないふうにジョーの背後にまわりこみ、その手牌を覗き込んだピュンマ。と、その瞬間。
ひくっ…!
しゃっくりとも痙攣ともつかぬ音が、その場にいた全員の耳を打った。
「ピュンマ?」
「ピュンマさん?」
呼びかけても、ピュンマはただ呆然とその場に立ちすくんでいるだけ。その瞳は今にもこぼれ落ちんばかりに大きく見開かれている。
「ちょっと、八番目!?」
「ピュンマ氏、どうした!」
松井警視がその長い腕を伸ばし、ピュンマの肩を軽く揺さぶったところでようやく彼は正気に戻ったらしい。
「あ…すみません。ちょ…ちょっと今急に胸が苦しくなって…えと…あの…。実はこの間、小規模な戦闘があって…そのとき、敵の一撃が胸に…。以来時々、こんなふうに…だから今回の作業が終わったら、僕、もう一度メンテナンスを受ける予定になっていて…」
「ピュンマ…?」
しどろもどろなその説明に眉をひそめたのはジョー。確かに彼らはこの二ヶ月ほど前、暗雲たなびく中近東地域での某テロリスト一派を操るBG組織の存在を突き止め、その根拠地を殲滅したばかりであった。だがそれはほんの局地的な小競り合いに過ぎず、残念ながらあの不幸な戦争を終結させるためのきっかけにすらならなくて。そのかわり戦闘そのものはごく短時間で終わり―メンバー全員、完全に無傷のままで無事勝利を収めることができたのである。当然ピュンマも負傷などしていないし、このあとで彼のメンテナンスが予定されているという話なども全然聞いていない。
(どうしたの、ピュンマ! 君はあのとき、どこにも怪我なんてしてなかったじゃないか! どうしてそんな嘘をつくんだい!?)
困惑と不審、そして狼狽が混ざり合った脳波通信への返事は。
(どうしてって…ジョー…それはこっちが聞きたいよ…。あ…あ、僕の手落ちだ! 僕がもっと詳しく君にルールの、そして役の説明さえしてればこんなことには…。どうしよう…全ては僕の…僕の所為だあああぁぁぁっっっ!)
「ちょっと、ピュンマ!?」
あまりに支離滅裂、意味不明の内容についつい声を出して叫んでしまったジョーが背後を振り返れば、がっくりとうなだれて頭を抱え、いまだ極限まで見開かれた瞳で足元の床を見るともなしに見つめつつ、小刻みに全身を震わせているピュンマの姿。
「え…? 何?」
「どうしたの?」
「ピュンマ氏? まだ…気分が悪いのか?」
どうやら他の連中もピュンマの異常に気づいたらしい。怪訝そうな三対の視線からピュンマをかばいつつ、ジョーはとっさに言いつくろう。
「あ…すみません、皆さん…。ちょっとピュンマを休ませてきていいですか? あの…決して大したことはないと思いますから…もし何かあったらすぐ、周や藤蔭先生を呼びますから!」
そしてそのまま返事も待たずに加速装置のスイッチを噛み、ピュンマを抱きかかえて研究室の一番隅―麻雀卓からもっとも離れた地点に避難させ、あらためて問い質してみる。
「ね、ピュンマ。ここならめったなことを言ったってそう簡単には聞こえない。だから教えてよ! 何があったの!?」
それでもなお、すっかり放心状態になってしまったピュンマの意識はそう簡単に戻ってはこなかったが―何度目かの哀願ののち、ようやくその黒い瞳に正気の光がさしてきた。
「あ…あ、ジョー」
「ねぇピュンマ、僕…もしかして何かおかしなことやっちゃった? 君や石原先生の説明どおりに精一杯頑張って、手牌バラバラにしたんだけど…もしかして、いけなかったのかい?」
なおも必死に問いかける茶色の瞳を静かに見返した黒色の瞳は、さながら「泣いて馬謖を切る」寸前の諸葛孔明、あるいは愛犬与四郎を今まさにその手にかけんとする犬塚信乃のそれであった。
「…あ…あのね、ジョー」
言いかけた声が震え、一度きつく唇を噛んで。
「君の手牌…その、バラバラになったやつ…」
ジョーはジョーで、あまりに歯切れの悪いその言葉にただただきょとんとしているばかり。
―が。
「あれ、役満のテンパイだ。…それも、国士無双十三面待ち―」
「…!」
「国士無双」というのは数ある役満の中でもかなり特殊な形で、先にピュンマがジョーに説明した「二枚一組が一つ、三枚一組が四つ」というセオリーからは完全に外れている。すなわち、字牌全種(東南西北白發中)と数牌(筒子、索子、萬子)の一と九を全て一枚ずつ集め、そのうち一種類を二枚揃えて雀頭にするという形で完成するのだ。
そしてそのテンパイ形といえば二種類しかなくて。
その一:雀頭はできているが、必要な牌のうち一種類が足りない場合。この場合、その足りない牌が出てこなければ和がることはできない(→一面待ち)。
その二:必要な牌は全種類揃っているが、どれもみんな一枚ずつしかない場合。この場合は手元の十三種類のどれでももう一枚出てくれば雀頭が成立し、和がることができる(→十三面待ち)。
…そう。ピュンマから「役の基本」を教わったジョーは、とにかく順子や刻子を作るまいと懸命に努力し、同種の連番あるいは複数揃っている牌を目の敵にして捨てまくった挙句、知らず知らずのうちに国士無双に必要な牌を全種類一枚ずつ揃えてしまったのだった。
一方のピュンマも、まさか初戦からジョーが役満を作ってしまうなど思ってもいなかったし、もしもジョーが勝負に引きずり込まれるようなことがあったら絶対に自分がサポートにつくと決心していたから、例の麻雀教室では基本の役こそ徹底的に教え込んだものの、役満についてはさほど詳しい説明をしていなかったのである(それでなくても、ぶっ倒れた石原医師の看病に走り回っていた二人に、役満の説明に費やす時間なんざあったわけないし♪)。
だがそんな個々の事情なんざどうあれ、今のジョーが東南西北白發中、一筒九筒一索九索一萬九萬の十三種、どれが出てきても「役満で」和がってしまうという状況に陥ったことだけは今さらどうしようもない、無慈悲で冷酷な事実に他ならなかった…。
「ピュンマを休ませる」ために席を外したはずなのに、わずか数分の間に何故か自分の方が完全な虚脱状態に陥り、当のピュンマに抱えられるようにして戻ってきたジョー。それを残る三人が不審に思わなかったはずもないが、「とにかく大丈夫だから」というピュンマの強引な説明にしぶしぶ納得し、そのまま勝負を続けることとなった。
正直、このままジョーの不調を理由に勝負をやめてしまうのが一番の得策だという気もする。だが最初に放心状態に陥ってしまったのはまぎれもなくピュンマ、介抱していたのはジョー。その立場がたったの数分で逆転してしまったことに、残る三人はかなりの疑惑を抱いているはずである。もしここで勝負から抜けたりしたら、絶対にその原因を問い詰められるに違いない。そして万が一ぼろが出たら…いや、業を煮やした周にテレパシーで心を読み取られたりしようものなら完全な破滅、一〇〇%の確率で、研究室は巨大な嵐の直撃を受けるだろう。もしかしたらキノコ雲なんかの一つや二つも立ち上るかもしれない。
それに引きかえ、幸い勝負は終盤戦。ツモ番(←山から牌をツモってくる順番)もおそらくあと三、四回しかまわってこないだろうし、おまけに彼らの当たり牌(字牌及び数牌の一と九)はすでにかなり捨てられていて、残るはあと数枚程度と思われた。
(…たとえ十三面待ちだろうが何だろうが、この状況で当たり牌が出る確率はかなり低い)
どちらに転んでも行き着く先は地獄、それならば!
まさに苦渋の決断であった。
だが、どんなに確率が低かろうとそれからの二人が味わった恐怖と葛藤は到底筆舌に尽くしがたい。「針のムシロ」どころか「出刃包丁のムシロ」に座らされているのも同然の状況の中、ツモ番のたびに目に見えて血の気がひいていく少年の頬を、小刻みに震える指を―喘ぎにも似た苦しげな呼吸、その胸の中で今にも爆発しそうに高鳴っている心臓の音を、ピュンマは確かに見た。そして、聞いた。
(ジョー、しっかり! あと一回ツモれば勝負終了だ!)
もはや失神寸前となっている少年の肩を抱きしめるようにして脳波通信を飛ばす。振り向いた白蝋のような顔がかすかにうなづく。
(あと一枚―! あともう一枚だけ、外れてくれれば―!)
(神よ―!)
わななく指が、ついに最後の一枚を取った。
そして善良なる青少年二人の全身全霊を込めた祈りに包まれ、静かに表に返される。
果たして。
「いいい、一筒…?」
そのとき二人は、高らかに鳴り渡る「葬送行進曲」の旋律を確かに聞いたと思った―。
黎明の薄闇に包まれ、アルベルトは一人、ギルモア邸に続く木立の中を歩いていた。
台風を避けて搭乗便を遅らせたのはいいが、出発ギリギリになっての変更だったのでこんな突拍子もない時刻に日本へ着く羽目になってしまったのである。
だが、おかげでどうやら台風には遭遇せずにすんだようだ。昨夜一晩この周辺で我が物顔に荒れ狂っていた雨も風も今はすっかりおさまり、空にかかる雲も次第に薄くなっていく。静かで平和な、朝まだきの光景―。
木立を半分ほど進んだところでつと荷物を地面に置き、ポケットから取り出した煙草に火をつける。歩き煙草など、フランソワーズに見つかったらまたお小言を喰らうに違いないが、こんな時刻ではさすがの彼女もまだ眠っているだろう。それに、もしものときの用心に、ちゃんと携帯用灰皿も持っている。
大きく煙を吸い込み、そして吐き出した唇の端がかすかにつり上がった。銀と黒の男は再び荷物を手に取り、懐かしい我が家へと向かって歩き始める。
木立越しにギルモア邸の姿が見えてくるまでには、それから五分もかからなかった。
皆はどうしているだろう。…そうだ、確かこの連休にはあのブレイン連中もコンピューターの保守作業とかにやってくるようなことをフランソワーズが言っていたっけ。だったら今回は、家についた途端に仲間ばかりでなく、石原医師や藤蔭医師にも会えるのだ。
(…そして、あの女にも)
満足げな表情にほんのわずか辟易の色が混じっているように見えたのはこの男特有の照れだったのに違いない。何故なら次の瞬間その淡い水色の瞳は、家の東側―地上部分には何もない、しかしその地下には研究室があるはず―の空間をじっと見つめていたからである。
(彼らのことだ、もしかしたら徹夜で作業しているかもしれん)
こんな朝早くにいきなり顔を出したら、一体どんな顔で迎えてくれることか。
薄い唇が再びつり上がり、今度こそまぎれもない微笑を男の頬に刻む。
その、刹那。
かすかな地鳴りが聞こえたような気がして眉をひそめるよりも早く、大音響と大地を揺るがす振動が銀髪の男を襲った。そして、たった今まで何もなかった空間にいきなり立ち上った巨大なキノコ雲。
アルベルトの手にあった荷物、そしてくわえていた煙草が静かに、地面に…落ちた。
なお、のちにこのキノコ雲の正体、そして原因を知った彼はギルモア邸にもう一つ特大のキノコ雲を立ち上らせることになるのだが、それはまた別の話である。
〈了〉