タクシードライバー


「どうもありがとう。おつりは、いらないよっ!」
 叫ぶようにそう言って車を降り、あたふたと東京駅の中に駆け込んでいく客を見送りながら、俺は小さくため息をついた。まだ若いその男は、日曜日の今日、広島の彼女の実家に結婚の挨拶に行くそうで―それはそれでめでたいことだが、しょっぱなから大寝坊して新幹線に乗り遅れそうになった挙句、タクシーの運転手に泣きついて車ぶっ飛ばさせてるようじゃ先が思いやられるぜ。…ま、でもそんなこたどうでもいいや。どーせ、俺には関係ない。タクシードライバーと客との関わりなんざ、相手が車から降りちまえばそれっきりだ。
 おっと、自己紹介が遅れたな。俺の名はジェット・リンク。この東京でタクシードライバーを始めて四年目、仕事にもすっかり慣れてきたかわりに、こんなドライな感覚もいつのまにか身についちまった。ま、だけどそれだって、どうでもいいことさ。
 気を取り直して思い切りアクセルを踏み込み、大きくハンドルを切って大通りへ向かう。東京駅中央口からは目と鼻の先、和田蔵門の交差点で信号待ちをしながら、俺はちょっと考えた。
(右へ行けば大手町、左へ行けば銀座…)
 さて、どっちへ行くか。日曜のビジネス街なんぞに行ったところでまず客なんかつかまらねえだろうし、かといって午前十時前では買い物にくたびれ果てた家族連れなんてのもまだいねえだろう。うーむ…。
 唸り声を上げて顎をぼりぼりかいたとき、不意にひらめいた。
(そうだ! もしかしたら今日は…)
 ハンドル横にぶら下げた小さなカレンダーで確かめる。六曜つきのカレンダーなんて、俺みたいなぴちぴちの若者には不似合いかもしれないが、どっこいこれは、タクシードライバーにとっちゃ重要な情報源なんだ。
(おしっ! やっぱり、大安だっ!)
 ぐっと拳を握りしめると同時に、信号が青に変わる。ナイスタイミングだぜ。
 俺は迷うことなく、車を右へ向けた。目指す先は、Pホテル。東京の一等地、ビジネス街のど真ん中に建っている超高級ホテルだ。何でそんなところへ行くかって? 決まってんじゃん。結婚式だよ、結婚式。爽やかな初夏の日曜日、しかも大安ときたひにゃ、あの手のホテルじゃウェディングドレスや角隠し、その付録のタキシードや紋付袴がごろごろしてんのさ。でもって、重い引き出物の荷物を抱えた披露宴帰りの客もどっさり。玄関脇で待ってりゃ十分もしねえうちに必ず客を拾えるって寸法よ。
 鼻歌交じりでハンドルを操っていた俺の耳に、カーラジオのニュースが流れ込む。
「先ほど、営団H線の広尾・六本木間で車両故障が起こりました。運転中の電車二本がトンネル内で立ち往生し、乗客およそ七百人が閉じ込められたまま復旧を待っています…」
 H線? 俺のダチや知り合いには、あの沿線に住んでる奴はいねぇなぁ。他に巻き込まれるような奴にも心当たりはねぇし…ま、いーや。これだって、俺にゃ関係ないことだ。
 とりとめもなくそんなことを考えているうちに、Pホテルが見えてきた。実は俺、普段からよくここで客待ちしてるから従業員の連中とも顔見知りでさ。超一流ホテルのくせに、結構気さくで話せる奴が多いんだよ、あそこは。特にドアマンのジョーとはかなり仲良しだったりして。…あいつ、今度の休みいつだって言ってたかなぁ。もしうまい具合に俺の休みと重なるようなら、久しぶりに飲みにでも誘ってみようかな。
 車がホテルのエントランスに滑り込んだと同時に、そのジョーが駆け寄ってきた。またまた絶好のタイミングだ。今日はついてるぜ。
 が―
「ジェット!」
 ジョーの奴がバカでかい声で俺のファーストネームを呼ぶのを聞いた途端、俺は眉をひそめた。…おい、ジョー。何とち狂ってんだよ。どんなに仲が良くたって、仕事中はファーストネームでなんか呼ぶなって。新入社員じゃあるまいし、一体、どうしちまったんだよ。
 不審に思った俺は、正面玄関の真ん前に車を止めて窓を開け、わざといつも以上に丁寧に挨拶してやった。
「こんにちは、島村さん。今日は何だか、えらく慌てていらっしゃるみたいですね。何か、あったんですか?」
 仕事中の応対はこうやるもんだ。覚えとけ、バカ。
 しかしジョーはそんな俺の美しい日本語になどお構いなしに、息を切らせながら車のウィンドウガラスにすがりついてきた。
「よ…よかった。ジェットが来てくれて。ねえジェット! 一生のお願いだ! すぐに裏に回って、従業員通用口に来てよ!」
「はぁ?」
 目を点にした俺の返事を待つより早く、ジョーはまた今来た方へと走っていく。念の入ったことには途中で一度振り返り、催促するように指で従業員通用口を指し示しながら。
(何だあいつ…?)
 俺は仕方なく、首をかしげながら車を大きくUターンさせ、言われた方へと向かった。

 従業員通用口には何と、ジョーだけではなく、支配人のハインリヒさんまで待っていた。うわ…どうしよう。俺、あの人苦手なんだよ。やたらクソ真面目で、その上チョー厳しいんだぜぇ。だが、今更逃げるわけにも行かない。覚悟を決めて二人の前に車を止め、もう一度窓を開ける。と、驚いたことに今度は二人一緒にウィンドウガラスにしがみついてきやがった。一体、何がどうなってるってんだ?
「ジェット! 悪いが頼まれてくれ。今から大急ぎで二人、K会館まで送ってほしいんだ。頼む!」
「K会館!?」
 俺が素っ頓狂な声を上げてしまったのには理由がある。
「だって、あそこは―」
 このPホテルから一キロも離れてねぇじゃんかよ。おまけにあのあたりはやたら一通やら信号やらが多くて、正面につけるにはぐるっと大回りしなきゃならねぇから時間だってえらく食っちまうんだ。こっからだったらチャリンコ使った方が絶対早いっ! ここにだって自家用チャリの一つや二つ、用意してあるだろーがっ! いや、仮にチャリがなかったとしても、下手すりゃ歩いたほうが早いってば!
 この場にいるのがジョーだけだったら間違いなくそうわめき散らしてやるところだが、ハインリヒさんまで一緒じゃできるわけがない。かろうじて口を押さえ、絶句してしまった俺の表情を読んだのか、ジョーが必死の面持ちでまた口を開いた。
「ジェットが不思議に思うのももっともだけど…でも、どうしてもタクシーでなきゃだめなんだ! 自転車とか歩きじゃ、行かれないんだよ、二人とも!」
 おいジョー…それ、全然説明になってねえぞ。むしろ、ますますワケわかんなくなってきちまったじゃねえか。
 もう俺には、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で目の前の二人を交互に見つめていることしかできなかった。
 と、そこへ。
「アイヤー、ジェット! よく来てくれたアル! 地獄で仏、とはまさにこのことネ!」
 先の二人にも負けないくらい狼狽しまくった様子で現れた三人目の人物は…。
 おいおい、バンケット部次長の張大人じゃないか。どーして今日は、こんな大物ばかりがぞろぞろ出てきやがるんだ?
 が、三人は俺になどお構いなしに、次の行動に移っていた。
「ジョー、早く先生たちを呼んでくるヨロシ! もう、時間がないアルよっ!」
 張次長の指図でジョーが脱兎のごとくホテルの中へと消える。残ったアルベルトさんと張次長は、顔を見合わせて何やらうなづき合い、あらためて俺の方に向き直った。この二人なら、さっきのジョーよりは幾分マシな説明をしてくれるかもしれない。…ただ、ちょいと緊張しちまうけど。
「詳しい事情も話さんで悪かったな、ジェット。いや、実はその二人というのは…」
 苦虫を噛み潰したような表情でアルベルトさんがそこまで言ったとき、たった今消えたばかりのジョーが、誰かの手を引いて早々と戻ってきやがった。
「張次長! お連れしました!」
「おお、こっちアルヨー! 早く早く!」
「先生、本当に申し訳ありません。…フラン君も、悪いな」
 たちまちそっちに注意を奪われた管理職二人。俺はまたしても放っぽらかしだ。…あのな、ジョー。どーしてお前は、さっきから俺が真実を知ろうとするのを邪魔してばっかりいるんだよっ!
 しかし。ジョーが引っ張ってきた人間を一目見た瞬間、そんな文句は一瞬にして俺の頭の中から吹っ飛んでしまった―。

(すげえ、美人じゃん…)
 年の頃なら十八から二十歳。金色のセミロングの髪が午前の日差しの中、きらきらと光っている。淡い水色の目は、真夏の南の海の色そのものだ。走ってきた所為かわずかに火照った頬とふっくらとした唇の薔薇色が鮮やかで、もう、むしゃぶりつきたくなるくらい可愛いっ!
 肩にかけたショルダーバッグはセリーヌの…プレタポルテだな。よしよし。こんなホテルに野暮な紙袋をぶら下げてやってくるような女は願い下げだが、まだガキのくせにエルメスやシャネルの一点物をこれ見よがしに身につけてるような勘違い女も俺の趣味じゃねぇ。
 ただ、欲を言えばその髪、ひっつめて後ろで束ねるよりふんわりと下ろした方がより可愛くなると思うな。だがそんなのは減点対象にもならねえよ。顔といい、センスといい、満点をやってもいいくらいだぜ、彼女には。
 …あれ? でも待てよ。どーして俺、顔からいきなりバッグに目が行っちまったんだ? こういう場合、やっぱ顔、胸、ボディラインといって、それからファッションを吟味するのが男としての正しい作法―いや、少なくともいつもの俺のセオリーだったんじゃないのか?
 心を落ち着けて、もう一度彼女をしげしげと眺める。と―
「えええぇぇっ!?」
 気がつけば自分の口から飛び出した叫び声にびっくりして、危うくフロントガラスに思いっきり頭をぶつけるところだった。
(…わかったぜ。どーしてこの俺様が、こんなかわいコちゃんを前にしながら顔とセンスしかチェックしなかったのか、その理由が…)
 網膜に映った映像の一部を、脳ミソが認識拒否しやがったんだ。だが、それも無理ないと思う、多分…。
 だってよぉぉぉっ! こんなの、完っ璧な反則だぜぇっ!
 ジョーの後ろに隠れるように、ちょっぴりはにかみながら立っていたその美少女が身につけていたのは…
 純白の小袖と緋色の袴、そして足元の白足袋にくっきりと映える赤い鼻緒の草履―そう、まぎれもない巫女さん装束そのものだったのである。

「こちらはうちの結婚式場でお願いしているI大社東京分祠のご神職、ギルモア先生とアルバイト…じゃなかった、ご奉仕で巫女さんをしてくれているフランソワーズ君だ」
 ハインリヒさんの声が、遥か遠くから響いてくる。…さっきジョーの言ったことが、ようやくわかった。確かに、こんな格好してちゃ二人とも、自転車にも乗れないし街ン中を歩いていくわけにもいかねぇよなぁ…
 巫女さん姿のフランソワーズちゃんとやらに加え、ご神職―よーするに、神主さんってことだよな―のギルモア先生とかいう鼻のでかい爺さんも同じく白い小袖に…紫の袴姿。いくら休日で人通りが少ないとはいえ、こんな二人がビジネス街を並んで自転車でぶっ飛ばしたり、えっちらおっちらマラソンしてたりしたら、鉄板で新聞沙汰だ。
「先ほど、営団H線で車両故障があってな。あれで、彼女の仲間の巫女さんが二人、電車の中に閉じ込められて身動きできなくなってしまったんだよ」
 巫女さん…最近じゃ、結構マニアの中じゃ人気職種だよな。うん、俺だって嫌いじゃない。看護婦さんやスッチーとはまた違ったエキゾチックな魅力は確かに捨て難いと思う。でも…どっかのひなびた由緒ある神社の境内とかならともかく、こんな東京のど真ん中、ビジネス街に颯爽とそびえ立つ高級ホテルの中から巫女さんが…それもセリーヌのバッグ下げて出てくるなんて―いや、そりゃ俺だって結婚式の客目あてでここにきたことは認めるが―反則だよ、やっぱ…。
「その閉じ込められた二人が行くはずだったのがK会館なのヨ。あそこの母体は企業団体やし、普段は大会社の偉いさんの会合とか新製品のレセプションばっかりで、結婚式その他のプライベートな宴会はほとんどないから、バンケット関係一切はうちが請負契約結んで取り仕切ってたアルね。…でも今日はさすがに結婚式の予約が目白押しで、うちのグレート部長を始め、バンケット部の半数が応援に行ってるんヨ。ところが、いざ最初の式を挙げる直前になってあんな事故が起きてしもて…披露宴の準備をどんなに完璧に整えたところで、肝心の巫女さんがいなけりゃ式はできないアル! 当日になって挙式不可、なんてことになったら損害賠償をいくら取られるか…いや、そんなことより、お客様にとっては一生一度の大事な大事な結婚式ヨ! 何が何でも、きちんとやらないわけには行かないアル! …で、急遽このフランちゃんが応援に行くことになったんヨ」
 はあ、と生返事はしたものの、張次長の声も俺の耳にはまだ、遠い。
「うちに来るはずだった子も一人あれに巻き込まれて、つい先ほどの式には間に合わなかったんだ。どうやらH線、完全に止まっちまう前から発着時間がかなり滅茶苦茶になっていたらしい。ただ、うちとK会館とは式の開始時間が微妙にずれてたから、幸いその子はトンネル内で立ち往生した電車には乗り合わせずに済んだ。何とか六本木で電車から降りることはできたから、今大急ぎでこっちに向かってるそうだ」
「イシュタルちゃんからは、さっき携帯に連絡がありました。タクシーで今、西新橋の交差点を通り過ぎるところだって。今日は日曜で道路も空いてますし、あと十五分もすれば間違いなくこちらには着けるはずです」
 フランちゃんの報告(またその声がぞくっとするくらい可愛いんだ、畜生!)に軽くうなづいたハインリヒさんが、相変わらずの厳しい表情を俺に向ける。
「…正直、彼女を応援に出すのはうちにとっても賭けなんだ。次の式まではあと二十分。式自体はご神職と巫女さん一人がいれば支障なく挙げられるが、もう一人の巫女さん―イシュタル君が予定通り無事ここに着いたとしても、猶予は五分しかない。ギルモア先生だって、それだけの時間で果たしてこことK会館を往復できるかどうか…」
 ちらりと爺さんを見やった薄氷色の視線には、ほんのわずかな哀願の色が混じっていた。できることならこの爺さんにはこっちに残っていてほしい―それが、ハインリヒさんの本音なんだろう。
 が、爺さんは胸を張ってきっぱりと言い切った。
「いや。まがりなりにもうちの大事な巫女を、初めての場所へたった一人でやるなんてことはできませんわい。グレート部長があちらにいらしているなら余計、わしが付き添って行ってちゃんと彼女を引き合わせてやらんと…」
 頑固そうにへの字に曲げられた唇の上、でかい鼻がひくひく動いている。
「…だからジェット! 君に頼むしかないんだよ! 君の腕なら、二十分で彼女を送り届けて、ギルモア先生もこっちに連れて帰ってくることができるよね!?」
 今まで口をさしはさむのを控えていたジョーが、悲鳴のような声を上げた。その悲痛な響きが、呆けていた俺のプロ意識に火をつける。そうとなりゃ、俺の決断と行動は早い。
「よしわかった! 俺も男だ! その仕事、引き受けたぜっ。さあ、二人とも早く乗れっ!」





 と、威勢よくタンカは切ったものの。K会館までの信号の多さはいかに崇高なプロ意識でもどうなるもんでもない。せめて、もう一本向こう―現在の進行方向から行けば右側だな―の通りに出ることができれば、あとは一直線に突っ走るだけであそこの正門に着けるんだが、この周辺の横道という横道はほとんど全部が一方通行で、ちらちらと目をやればどこもかしこも進入禁止の標識のオンパレードだ。
(くっそぉ…! これじゃどうにもなんねぇじゃんか! …ったく、あの事故のニュースが流れたのは三十分以上前だってぇのによ、何だってこんなぎりぎりの時間まで放っといたんだ、あいつらはっ!)
「すみません…」
 いきなり背後から響いたフランちゃんの声に、俺はぎくりとした。いけねぇいけねぇ。心の中でそっとつぶやいていたはずなのに、ついつい、口に出しちまって…いたんだな。
 見上げたルームミラーの中、しょんぼりと小さくなったフランちゃんを抱きかかえるギルモア爺さんも、申し訳なさそうにうなだれている。
「君の言うことはもっともじゃ。じゃが連絡が入ったとき、わしらは式場奥の控え室にいてのう。そこからは、式場を通り抜けなくては外に出ることができんのじゃよ。式のあとには新郎新婦の親族紹介がある。まさか、そんな中を通り抜けるわけにもいかんじゃろう。…おまけにその式に限って、両家の親族がやたらと多いときておって…」
「ご両家併せて五十三人でしたわ、ギルモア先生」
「そうそう。新婦なんぞは八人姉妹でな。お父上が、途中で娘さんたちの名前がわからなくなってつっかえてしまったりして、余計時間を食ってしまったんじゃよ」
 なるほどね。最悪の上に最悪の事態が重なっちまったってわけか。…しかし、名前覚えていらんなくなるほど大勢のガキ、ぼろぼろころころ作るなよ…とがっくり肩を落としたところでどうしようもない。考えてみれば、この二人が俺にこんなに遠慮しなきゃならない筋合いのもんでもないんだよな。…ちくりと胸を刺す罪悪感。だが、それ以上に焦りまくっていた俺の声音は、気をつけていてもついついきついものになる。
「まあ、そりゃ…不幸な偶然ってやつかもしんねえけどよ。大体、その巫女さん連中ってのも何でまた、揃いも揃ってH線使ってやがるんだ? まさか、そっちも三人だか四人姉妹で同じ家から通ってた、なんてこっちゃねぇだろうな」
「…うちの大学の女子寮が広尾にあるんです。あたしたち、みんな同じK大学の仲間だから、その寮から通ってる子がすごく多くて…」
「しかし、君一人とはいえ自宅組の子がいて助かったよ。…大丈夫じゃから。ちゃんと、間に合うから。君もイシュタル君も、そしてわしもな…」
 勝手にそんなこと請け負うな、爺さん。
「でも…もしだめだったらどうしよう…。さっき張次長もおっしゃっていたけど、ご新郎ご新婦様にとっては一生一度の大切な日なのに…台無しになっちゃう…」
 とうとう、フランちゃんは両手で顔を覆って泣き出した。…いけねぇ。例えどんな理由があろうとも、こんな可愛い子を泣かせたりしちゃ、絶対にいけねえ!
 タイムリミットまであと十三分。なのに、またまたここで信号だ。くっそー!
 苛々と人差し指でハンドルを叩きながら、ちらりと右側に目をやればそこにも向こう側の通りにつながる細い小道の入り口が。車一台がやっと通り抜けられるほどの、抜け道と呼ぶにもおこがましいほどのただの路地だが、この際通れさえすりゃそれだけで御の字だ。しかし、例によってそこには進入禁止の標識がしっかりと睨みをきかせていて。
(確か、あの小道は全長百メートルかそこらだったよな…畜生! あそこが一通でさえなければあっという間にこの二人を送ってやることができるのに…)
 お。でも待てよ。これはひょっとしたらひょっとするかも。次の瞬間、俺の脳内コンピューターが、めまぐるしい速さで状況分析をおっ始めた。
(百メートルの距離を時速六十キロ…いや、八十キロで走り抜けた場合―時速八十キロは秒速約二十二.二メートルってとこだから…)
 勉強ってやつはあんまり得意じゃねえ俺だが、速度計算にだけは自信があるんだ。何てったって、業務上必要不可欠の技術だからな。
(推定所要時間、およそ四.五秒っ!)
 信号が青に変わったと同時に、答えが出た。刹那、俺はハンドルを思いっきり右に切る。
「爺さん! フランちゃん! しっかりつかまってろよっ!」
 いったんギアをセカンドに落とし、アクセルを目一杯踏み込んで引っ張れるだけ引っ張る。タコメーターが回転数四千を指すのとほぼ同時にギアチェンジ! おしっ! これならいける!
 進入禁止もクソもあるもんか。俺の車はぴったり八十キロのスピードで、例の小道へと突っ込んでいった。
「きゃあああぁぁぁっ!」
「おい、君っ! 一体…何て無茶を…っ」
「うるせえっ。ガタガタ言ってると舌噛むぞ、爺さん!」
 車一台通るのがやっとのこんな道で、これだけのスピード出してんだ。対向車が来たら一発で天国行きは間違いなしだが、それでも、たった四.五秒…そのわずかな間だけ、他の車がここを通らなければこの勝負、俺の勝ちってもんさ。頼むぜ、日本の神サンよ…何てったって、今俺が乗っけてるのはあんたらに仕えるプリースト(聖職者)なんだからなっ! 八百万もいるってんなら、ご利益の一つくらい恵んでみろってんだ!
 全身から、汗が噴き出す。ハンドルを握っている手もじっとりと湿って、うっかりしてると滑っちまいそうだ。心臓もバクバク派手に暴れやがる。別にいーけど、まかり間違っても口から飛び出したりするんじゃねえぞ。…少なくとも、この道を無事、抜けるまではな…。
 半ば永遠にも思えた四.五秒がついに終った。小道から飛び出すやいなや、カウンターかまして無理矢理車体を左に向ける。耳をつんざくタイヤの悲鳴。だが、俺の愛車はこんなことで音を上げるようなヤワな奴じゃない。次の瞬間、見事に体勢を立て直し、目的地に向かって一直線に突っ走る。
「見えた! K会館だ!」
 俺の歓声にリアシートの二人がはっと顔を上げたときには、車はすでにK会館正門に滑り込んでいた。
「ギルモア先生! ああ…よく来て下さった!」
 正門の前には、グレート部長とバンケット部のジェロニモ課長、そしてピュンマ主任が勢揃いして俺たちを待っていた。だが、その後ろにもう一人、ギルモア爺さんと同じような格好して苛々と爪を噛んでる爺さんは…誰だ?
「グレート部長! コズミ君! どうやら、間に合ったみたいだのう」
 車が停止するやいなや、爺さんとフランちゃんが飛び出す。
「おう! ぎりぎりだが、これなら予定通り式を挙げられるぞい! こちらが応援の巫女さんか。わしはH神社の禰宜で、コズミと申します。今日は本当にありがとう。よろしく、頼みますぞ」
「フランソワーズと申します。こちらこそ、よろしくお願い致します、コズミ先生」
「二人とも、挨拶はあとだ。ピュンマ君! 急いで彼女を式場に案内して! コズミ先生も、よろしくお願いします!」
 グレート部長の言葉にうなづいた三人が、そのまま一気に建物に向かって走り出す。ピュンマさんを先頭に、フランちゃん、コズミ爺さんの順だ。が、その姿が玄関の中に消える直前、何故だか三人揃って足を止め、こちらに向かって深々と一礼した。俺は、ギルモア爺さんの後ろで地団太を踏む。
(こんな一分一秒を争うときにそんなことやってんじゃねーよっ! 上役への挨拶ならあとでゆっくりやれってんだ。上役本人が、『あとにしろ』って言ってるだろうがっ!)
 でも気の所為か、三人の視線はグレート部長やギルモア爺さんからは微妙にずれていたような…でも、ここには他にあいつらが挨拶するような奴、いねえよなぁ…
 俺がそんなことを思ったときにはもう、三人の姿は建物の中へと消えていた。そこで俺も、はっと腕時計を見る。げ…やばい! Pホテルの式まで、あと七分ジャスト!
「じーさんっ! 戻るぜ! あと残り、七分しかねぇ!」
 俺の叫びに、グレート部長とぐだぐだ話しこんでいたギルモア爺さんがびくりと顔を上げる。
「お…そりゃ大変じゃ! じゃ、グレート部長。わしはこれで。フランソワーズ君のこと、よろしく頼みましたぞ。帰りはまたタクシーで帰ってくるように言うて下され。代金はこれを使うように…」
 言いながら、懐を探って千円札を差し出しかけた爺さんを、俺は一瞬のうちにかっさらい、半ば力ずくで車の中に押し込んだ。
「だからそんなことやってるヒマ、ねーんだよっ! 金なんかいーから! 俺がまた、迎えに来てやるから心配すんな!」
 怒鳴りつけながら、自分も運転席に飛び込む。一秒後には、急発進だ。
 K会館の門を飛び出すとき、ふと目をやったバックミラーに、俺たちの車を見送りながら深々と頭を下げているグレート部長とジェロニモ課長の姿がはっきりと見えた。

 残り時間はあと五分。決して油断できる状況ではないが、俺はもうかなり落ち着きを取り戻していた。
 何てったって、こっちの通りは信号がほとんどない。おまけに、往きにはあれだけ進路を阻んでくれた一通の標識が、こっち側からなら全部進入可能の、紺地に白矢印で優しく手招きしてくれてるんだからな。もともと休日で通行量も多くないし、これなら帰りはまあ、何とかなりそうだ。
 油断できないと言いつつちっとばかり気が緩んだのか、気がつくとふと、リアシートの爺さんに話しかけていた。
「でもよぉ、爺さん。神主ってのは偉いもんなんだなぁ。あんな一流ホテルの部長や管理職が最敬礼で見送ってくれるなんてよ」
 さっき怒鳴りつけた所為か、リアシートで小さくなっていた爺さんが、それを聞いて怪訝そうに顔を上げる。
「何を言うとるんだね、君は…。みんなが頭を下げていたのは、わしだけにではないよ」
「へ…?」
 首をかしげつつ、俺は滑らかなハンドルさばきで交差点を左に曲がる。Pホテルに戻るにゃ、ここから元の通りに出るのが一番早いんだ。客と談笑(?)しつつも状況判断は的確にこなす。へっへーん。これこそが、プロってもんだぜ。
「グレート部長たちが感謝の思いを込めて見送っていたのはわしよりもむしろ、君の方だと思うよ。…『駕篭に乗る人、担ぐ人。そのまた草鞋を作る人』と言うてな―」
 いきなりまた、ちんぷんかんぷんの呪文唱えだしやがったな。が、爺さんが話し終えるよりも早く、車は再びPホテルの裏口へと無事、到着して―。
「ジェット! ギルモア先生!」
 従業員通用口では、ジョーと張次長、そしてさっきのフランちゃんと同じ、巫女さん姿の女の子が一人、俺たちを待っていた。おいおい、お前ら、もしかしてあれからずっとここにいたのか? ヒマな奴らだなァ。
「やったね、ジェット!…きっかり二十分、いや、十八分三十五秒だ。間に合ったよ!」
 嬉しげに叫びながら、ジョーが客席のドアを開ける。車の中から転がり出たギルモア爺さんに、女の子が走り寄ってきた。
「先生! お疲れ様でした。準備はもう、全部完了しています。このまますぐに、お式を挙げられますよ! H線も、さっき無事復旧したそうです!」
「おお、イシュタル君! よかった…君も無事、着いたんじゃな」
 長いこと生き別れになっていた親子(…っつーより、爺様と孫娘か?)の感動の体面よろしく見つめ合った二人は、次の瞬間こっちに向かって丁寧に頭を下げ(またかよ、おい。時間がねーんだろ、お前らっ)きびすを返してホテルの中に飛び込んでいく。
 だけどまあ、これでどうにか俺のメンツも立ったってもんだ。それにしても今の子…さっきの話に出てたイシュタルちゃんか? こっちもまた、フランちゃんに勝るとも劣らぬ美少女だなー。真っ黒な、大きなお目々がぐっとくるぜ。あんな可愛い子たちがバイトしてるとなりゃ、これからここに顔を出す楽しみが倍増するってもんだ。
 人知れず幸福感に浸っていた俺に、その場に残った張次長とジョーが近づいてきた。
「ジェット! 今日は本当に、ありがとうアルね。おかげで、助かったヨ」
「次長のおっしゃる通りだよ。もし君が来てくれなかったら、どうなってたか…」
 そんなん、気にすることねえよ。俺とお前らの仲じゃねぇか…。そう言ってやろうとして、俺がふと二人のほうを振り向いたそのとき。
 何と、張次長とジョーが、並んで深々と俺に頭を下げてるじゃねえかよ。俺はついついたじろいで、運転席から飛び出しそうになっちまった。
「お、おいっ! どうしたんだよ、いきなりっ」
 バンケット部の次長ともあろう張大人にこんなことされたら、どんな顔していいのやらわからない。ジョーとだって、普段は「俺、お前」の気の置けないダチづきあいしてるってのにこんなにかしこまられたら、ケツのあたりがこそばゆくなっていたたまれなくなるってもんだ。
 なのに。
「ジェット! 間に合ったな!」
 いつもの冷静さからは思いもつかないが、ちょっと興奮気味に、頬すらもうっすらと紅潮させたハインリヒさんまでもがホテルから飛び出してきて―
「ありがとう…本当に…ありがとう」
 何と、ジョーや張次長と並んで俺に頭を下げたんだぜ! マジでこりゃ、何がどうなってるっていうんだ!
 焦りまくり、戸惑いまくった俺に、ようやく顔を上げたジョーがにっこりと微笑みかける。
「今日のことは、全部ジェットのおかげだよ。ジェットがいてくれたからこそ、僕たちはこのトラブルを乗り越えることができたんだ。ジェットには本当に、どんなに感謝しても足りないくらいだ」
 ジョーに続いて、張次長も顔を上げ、俺に向かってしみじみと語りかける。
「あのな、ジェット…わてらホテルで働く人間は、何よりチームワークを大切にしてるアル。あらゆる部門がいろんなところで協力し合って、大抵のトラブルは自分たちだけで解決できる、思てたアルけど…時にはやっぱり、ホテル内の人間だけではどうにもできない問題も起きるネ。そんなとき、助けてくれる人間がいるということが、どれだけありがたいか、嬉しいか…。世の中ちゅうもんにはいろんな職業の、いろんな人がいてはって、助けたり、助けられたり…だからこそ、わてらの仕事も成り立ってるってことが今日はよくわかったアルよ。『駕篭に乗る人、担ぐ人。そのまた草鞋を作る人』とは、よく言ったもんアルネェ」
「あ! それ! 駕篭と草鞋がどーたらこーたらいう呪文、さっきギルモア爺さんが言ってたぞ!」
 張次長がそれを聞いて、おかしそうに笑った。
「それは呪文じゃなくて、日本の諺ヨ。駕篭を担いでお客を運ぶためには草鞋が必要アルやろ? だから、草鞋を作ってくれる人がいなければ駕篭かきは商売できないアル。まして、乗ってくれるお客がいなかったら生きていかれないネ。それはお客も草鞋職人も同じことヨ。自分を乗せてくれる、あるいは草鞋を買ってくれる駕篭かきがいなけりゃみんな困っちまうネ。…そういう意味アルよ」
「結婚式を挙げるお客様に見えるのは、俺たちホテルマンまでだ。挙式のあと、俺たちには礼を言ってくれるかもしれんが、ここの玄関先で客待ちをしているお前さんのおかげで自分たちの式が無事挙げられた、なんてことまでは多分…わからないままだろう」
 ハインリヒさんが、ようやくいつものニヒルな表情を取り戻して俺に向き直る。
「だからこそ…俺たちはお前に礼を言いたい。喜んでくれたお客様の分まで、感謝の気持ちを伝えたい。これはきっと、K会館に行ってるグレート部長やジェロニモ、ピュンマ…そしてギルモア、コズミの両先生や巫女さんたちだって同じだと思うぜ」
 そう…だったのか…。俺の全身から、へたへたと力が抜けた。
 へへ…そっかぁ。そうだったのか…。みんなが最敬礼してたのは、俺だったのか。…ったくもう、こんなこともあるんだなぁ。あんな…あんなにもたくさんの人間が、こんなしがないタクシードライバーに…吹けば飛ぶよな、俺みたいな若造に…
 不意に目頭が熱くなってきて、俺はとっさにぎゅっと目をつむった。
「ジェット…?」
 心配そうな声に目を開ければ、ジョーの奴が窓から車内に身を乗り出すようにして、俺の顔をのぞきこんでいる。
「…いや、何でもねぇ。気にしないでくれよ。俺にとっちゃ、これは半分罪滅ぼしみたいなもんなんだから、よ」
「罪滅ぼし?」
 きょとんと目を丸くしたジョーの、栗色のさらさらヘアをわざとくしゃくしゃにかき回してやる。
「何でもねえよ。こっちの話さ」
 …あのニュースを初めて耳にしたとき、「俺には関係ない」と頭から決めつけていた自分。閉じ込められた連中はみんなさぞ困っていただろうに、それを気の毒とさえ思わなくて。なのに、気がつけばこんな身近に、あの事故の所為でてんてこ舞いしていた奴らがいたんだ。
 俺がそれを助けられたのだって、ほんの偶然に過ぎない。たまたま行きあわせて、フランちゃんの美貌にくらくらっときて、ジョーの悲痛な叫びにプロ意識を刺激された、それだけのことだ。お客様のため…一生一度の大切な日を、守るため…。そんなの、これっぽっちも考えていなくてよ。
 それでも。だけど、それでも。
(人間って奴はみんな、どっかしらでつながってるもんなんだナァ…)
 それは、当たり前のことかもしれない。今までそれに気づかなかった俺が、バカだっただけなのかもしれなかった。
 それでも、そのときの俺は何故だか無性に嬉しくて、泣きたくなって…
「おしっ! それじゃこれからいっちょ、フランちゃん迎えに行ってくらぁ!」
 照れ隠しにやたらと盛大に声を張り上げ、まだ心配そうな視線を向けてくるジョーに向かってにっこりと笑いかけてやった。

〈了〉

    おことわり
 この話は実話を元にしたものですが、かなり脚色を加えており、登場人物の容姿及び会話はほとんど全部フィクションです。特に、若き日の管理人の役を畏れ多くもフランちゃんに演じて頂きましたことにつきましては、フランちゃんファンの皆様方に深く陳謝致しますとともに、くれぐれも石や爆弾を投げたり、ウィルスつきのメールなどお送りになりませんよう、伏してお願い申し上げます。
 なお、作中でジェットくんがやらかした「一方通行路の逆走」ももちろんフィクションですので、決して真似しないで下さい。そんなことをしたら一発で免停確実、下手すりゃあなたの人生も停止してしまいかねませんのでご注意下さいませ。
 


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