コンジャンクション 上


 西洋占星術に、「コンジャンクション」という用語がある。ホロスコープ解読において重要な要素の一つである座相(各惑星同士の角度)が0度であるとき、すなわち惑星同士が重なり合う位置関係にある状態をさす言葉だ。
 ちなみにこの座相というものは、通常その角度のみで吉凶が決まるといわれているが、このコンジャンクションだけは例外である。つまり、その構成要素となる惑星によって意味合いが違ってくるというわけで、ベネフィックや準ベネフィック(吉の要素を持つ星。木星・金星・太陽・月・水星)同士なら吉、マレフィックや準マレフィック(凶の要素を持つ星。土星・火星・天王星・海王星・冥王星)同士なら凶。さらには、吉星と凶星との組み合わせの場合だとそのときそのときによって解釈が変わるという、中々面倒くさい現象なので始末が悪い。
 では、従来の占星術の概念には全く当てはまらない新たなる二つの星が出会い、重なり合った場合はどうなるか。それは、世界中の占星術師にとってかなり興味深い問題なのではないだろうか…。

 暦はいつのまにか、五月に入ろうとしていた。春の盛り、というよりはそろそろ初夏に近いこの時期、人々は萌え出る新緑を背景に咲き誇る色鮮やかな花々を愛で、吹きすぎるさわやかな風にその身を癒す。花から花へと舞い飛ぶ蝶の愛らしさ、蜂の羽音ののどかさに心を和ませ、心地よいまどろみに誘われるものもいるだろう。世界はまさに、一年中で一番美しい季節を迎えようとしていた。
 なのに。そんな外界の美しさに背を向けるかのように、ドアも窓も―ご丁寧に、カーテンさえも―閉め切った薄暗い部屋の中、互いに頭をくっつけ合うようにしてひそひそと何やら話し合う六人の男たちの姿があった。
「…で? その後、ターゲット1に関する情報は入ったか?」
「いや。皆目変化なし、だ」
「ターゲット2の方は?」
「同じだよ。現状打破のきっかけになる要素はこれっぽっちも見当たらない」
「てぇことは…俺達もいよいよ、覚悟を決めなきゃならねえってことだよな、アルベルト」
 ジェットの言葉に、その場にいた全員の目が淡い銀髪と薄氷色の瞳を持つ一人に向けられる。アルベルトは苦虫を噛み潰したような顔で、不承不承、うなづいた。
 そう、ここに集まった面々というのは00ナンバーサイボーグ全員―から、ジョーとフランソワーズ、そしてイワンを除いた六人だったのである。
「…それにしてもさ、ちょっと神経質になりすぎじゃないか? たかが、ジョーの誕生日に招待する人たちを選ぶだけの話だろう」
「冗談じゃないっ!」
 ピュンマの至極まっとうな意見は、アルベルトとジェットの見事な二重唱によって一瞬のうちに却下された。ピュンマに賛成してうなづきかけたグレートと張々湖もぎくりとして動きを止める。ただ、ジェロニモだけがいつも通りの泰然自若とした風情で軽く目を伏せ、黙って各自の意見に耳を傾けていた。
「お前らは知らねぇんだよっ! あの先生がどんなにおっかねえ女か!」
「いや、我々とて彼女が普通の人間ではないことは承知しているさ。だが…」
「結局はわてらの為にあんなに一生懸命になってくれたじゃないかネ。あの先生、決して悪い人じゃないアルよ」
「俺たちだって、決して彼女が悪人だと言いたいわけじゃない」
 何とかとりなそうとするグレートと張々湖に向けられた、氷の一瞥。
「でもなぁっ、ひとたび戦闘体制に入ったときの殺気といったら、並大抵じゃねえんだよっ! 下手すりゃ、俺たちだって迫力負けするぜ。あの先生とまともにやり合うなんて、ゴジラかティラノザウルス並の猛獣でなきゃ無理だ。…そう、例えば周のような…」
 氷に引き続いて炎の激しさでまくし立てていたジェットが慌てて口を押さえた。青い瞳が恐る恐るアルベルトを見る。
「お、おい、アルベルト! 俺は決して、周がゴジラだとか、ティラノザウルスだとか言うつもりじゃなかったんだからなっ。あいつがいい奴だってことは、俺だってよく知って…」
だが、幸いアルベルトはさほど怒ったふうは見せなかった。…おそらく、ジェットの言葉が真実だったからだろう。
「…もう一度言うが、俺だって確かに藤蔭先生はいい人間だと思う。真っ直ぐで、強くて有能で、それに…優しい。どっかの鳥頭が口にしたもう一人の女についても、多分そうだと思う。だがな…それは全て、彼女たちを単品で考えたときの話だ」
 聞きようによってはかなりの惚気とも取れる台詞だが、誰も冷やかしたり、茶化したりしなかったのはそれを口にしたのがアルベルトだったからだろうか。それとも、そのあとに続いた言葉のあまりの恐ろしさに、震え上がってしまったからだろうか。
「この世にはな、単独で存在していれば人畜無害であっても、下手に混ぜ合わせたらとんでもない災害を引き起こすものがたくさんあるんだよ。水素とヘリウムとがいい例だ。何でもない気体同士、ところが一緒になった途端に核融合反応を起こしてドカンといくだろうが。それを知っていながらわざわざ混ぜ合わせてみようなんて考えること自体、俺には狂気の沙汰としか思えん」
 どんどん物騒になっていく会話。だが、先ほどのピュンマの言葉通り、元はといえば極めてささやかな、むしろ微笑ましい話題―「ジョーの誕生日パーティーに誰を招待するか」―を話し合っていただけなのである。
 そんなありふれた家庭内の問題を複雑かつ物騒にしているのはひとえに、彼らにとってごく親しい、そして大切な二人の女性の存在であった。
 そのうちの一人、ターゲット1―は、言わずと知れた島村周。彼らの大切な仲間の一人、島村ジョーの祖母にして、この場を仕切っているアルベルト・ハインリヒの現恋人。精密な遺伝子操作によって、この四十年間変わらぬ若々しさと美貌を誇る、永遠の美神である。ただ、その姿かたちと明晰な頭脳を帳消しにしておつりがくるほどの豪快かつ傍若無人な性格のおかげで、さすがの00ナンバーたちさえしばしば振り回されることがあるのもまた、事実であった。
 しかしながら、彼女もまたかつてブラックゴーストの手によって生物兵器として改造された、いわば彼らの「仲間」とも言うべき存在だし、何よりつきあいも長いおかげで互いの気心は充分にわかり合っている。事実、彼女とその娘、クロウディアの協力のもとにメンバーたちが解決した事件も一つや二つではない。そう、周もクロウディアも、彼らにとっては「時々ハラハラさせれるけれども極めて頼り甲斐のある、大切な仲間」なのである。
 だがここに新たなファクターが加わったとなるとまた、事情は変わってくる。ましてそれが、周に勝るとも劣らない危険物ともなればなおさらだ。
 その危険物―ターゲット2―の名は、藤蔭聖。彼らとはこの前の冬に知り合ったばかりの女性精神科医である。メンバー各自が抱えるサイボーグとしての、あるいはプライベートに関する悩みを心配したギルモア博士とコズミ博士に頼まれて彼らのカウンセリングに当たった彼女は、たった三日間で見事に全員の心を修復しおおせた。悩みそのものを解決したわけではないが、目の前にある問題に真っ直ぐに向かっていく気概、自分にとって一番納得のいく結論を導き出すための正常な判断力をそれぞれの手に取り戻してくれたその腕前は、まさに一流の精神カウンセラーの名にふさわしいものだったといえよう。
 ただし、その治療方針は「問答無用」の「力ずく」、インフォームド・コンセントなんざやるだけ時間のムダ、という恐るべきものだったから、多少の波風は立ってしまったが。当初彼女に対してかなりの警戒心を持っていたアルベルトとジェットのときなど、あわや一触即発、戦闘開始寸前までいってしまったらしい。幸い実際の戦闘には至らなかったものの、彼らのようなまぎれもない「攻撃型」サイボーグ相手の睨み合いにさえびくともしなかったばかりか、その一瞥だけであっさりとねじ伏せ、さっさと治療してしまったことだけでも、彼女が「危険物」と称されるには充分すぎたであろう。
だが、藤蔭医師が彼らの恩人であることには間違いがない。少なくとも、彼女がその後二度と姿を現わさなければ、その思い出は感謝と賞賛、そしてちょっぴりの恐怖に彩られながら、いつまでも彼らの心に残った…はずだった。
 ところが、そううまくはいかないのが人生の常。カウンセリングが終ったあとも、彼らと藤蔭医師との縁はそう簡単には切れなかったのである。
 原因その一は、彼女が「霊能力者」だということであった。普通人にはない特殊能力という点ではメンバーの一人であるイワンのそれと同じはずなのだが、どうやらこの二人の能力は微妙なところで完全な別物であるらしく、互いにテレパシー交信を交わそうとすると、揃って肉体的、精神的に大変なダメージを受けてしまう。まともな神経を持った人間ならその時点で諦めて、「ご縁がなかった」と名残を惜しみながらもきっぱり、袂をわかっていたことだろう。ところが、何をとち狂ったかこの二人、揃ってその現象に深い興味を抱き、ついには共同研究などをおっ始めてしまったのである。まさに、「天才と何とかは紙一重」を地で行く暴挙であったと…言えなくもない。
 原因その二としては、藤蔭医師が彼らにとって第二の父とも言えるコズミ博士の愛弟子の上、主治医かつ親しい友人である石原医師の極めて仲の好い先輩でもあったということが挙げられるだろう。だが、裏を返せばそのおかげで、彼女とメンバーたちとは出会ったわけだから、今さらこのことをどうこう言っても始まらない。
 原因その三は全くの予想外、そして最悪の事態であった。何と、イワンとジョー、そしてフランソワーズの三人が、例のカウンセリング以来すっかり藤蔭医師に懐いてしまったのである。肉親の縁が薄い、あるいは家族と無理矢理引き離された過去を持つ三人がこの、何もかも承知した上でなおも自分たちのために懸命になってくれた女性を母、あるいは姉のように慕うのはある意味当然なのかもしれなかったが、他の連中にとっては、これはあまりといえばあまりのできごとであった。
 かくして、藤蔭医師と彼らとのつき合いもまた、日を追うごとに親密になっていくばかりだったのである。
 もちろん、メンバーたちは決して彼女を疎んでいるわけではない。先のアルベルトの台詞通り、藤蔭医師は間違いなく「真っ直ぐで、強くて有能で、それに…優しい」女性なのである。だがその一方、「それは全て、単品で考えたときの話だ」というのもまた真実で。
「似てるんだよ。周と藤蔭先生は」
 ぼそりとつぶやいたアルベルトの言葉こそが、彼らをここまで神経質にさせている理由の全てを代弁しているといっても過言ではあるまい。
 今まで、周一人でも充分すぎるくらい、仲間たちを振り回してくれたのである。そこへ同じような存在がもう一人加わったら…最悪の場合、死人の一人や二人は出るかもしれない。それも、戦闘とか不幸な事故とかによるものではなく、神経性胃炎か脳溢血で。
「もしあの二人が出会ったところで、互いに反目しあって大喧嘩でもやらかしてくれりゃ、願ってもない幸運だ。…もしかしたら、このギルモア邸が完全に破壊されるかもしれんが、どんな被害を被ったってそれはそのとき限りですむ。だが…万が一意気投合でもされたひにゃ、俺はその場で国外逃亡して、二度と日本には戻らんぞ。メンテナンス不足でくたばったとしても、そっちの方がまだマシだ」
「アルベルト…それはちょっと話が飛躍しすぎてるよ」
「いや、俺もオッサンに賛成だ。周と藤蔭先生…あの二人の間に『女の友情』なんてものが生まれちまったら、その瞬間が俺とみんなとの決別のときだからな」
「二人とも、そこまで言うことはないじゃないかネ。わて、何だか哀しくなってきたアル…」
 言うなり、鼻をすすり上げた張々湖の背中を軽く叩いてやりながら、グレートがため息混じりにつぶやく。
「おお、何故に神は我らにかくも厳しき試練を与え給うや。我が同胞の生誕を祝う宴へのご加護、このときまで我らをまもりし奇跡、此度はそれすらも願うことかなわず、哀れなる子羊どもは術なきままにかの日を恐れおののきながら待つしかできぬのか…」
 芝居がかった台詞が流れる中、皆は無言のまま互いに顔を見合わせる。そう、今までは確かに、彼らには幸運の女神が団体で味方についてくれていたのだった。
 メンバーそれぞれの誕生日パーティーにはできる限り全員が集まり、賑やかかつ盛大に祝うというのは彼らにとって暗黙の了解事項であった。そのメンツにコズミ博士や周、そしてクロウディアが加わるのも当然のこととなって久しい。そうなれば当然石原医師や藤蔭医師も…というのは自然な成り行きだったし、事実、二人を招待したことが皆無とはいえない。だが、今まで周と彼らが同席したことは一度もなく―。
 医者としてまだ駆け出しの石原医師には、通常の勤務以外にもこまごまとした用事が多い。いくら声をかけてみたところで、たて続けの研修やら勉強会やらに追われている彼とすれば、そう簡単に顔を出すことはできなかった。そんな石原医師が今回初めて出席してくれるというのは、ジョーだけでなくメンバー全員にとっても喜ぶべきことなのだから、それはいい。
 では、問題のもう一人―藤蔭医師の場合はどうだったかというと。
 フランソワーズやギルモア博士の誕生日には、みんなはまだ藤蔭医師と出会っていなかった。ジェットの誕生日には、まだ招待するほど親しくなっていなかった。張々湖の誕生日に初めて藤蔭医師を招待したのは、ちょうど周に海外出張の予定が入り、出席できないとの連絡が入っていたからである。グレートの誕生日も同じく、ただし今度は藤蔭医師の当直の夜に当たっていたため、二人の接近遭遇はこのときもすれすれのところで回避された。
 だが、今回は―
 ありとあらゆる手段を使って調べ上げても、現在のところ二人のうちどちらにも出席不可能となる予定は入っていなかった。しかも、パーティーまでの時間はすでに半月を切っている。招待客への連絡をするにはぎりぎりの、土壇場であった。
「どちらか片方に連絡せずにすませるわけにはいかないアルか?」
「無理だろう。何てったって周はジョーの唯一の肉親だぞ? ましてあいつは藤蔭医師にもすっかり懐いているときている。そんな小細工をやらかして、もしばれたらジョーの奴がどん底まで落ち込むこと間違いなしだ。それとも大人、お前さん、ドツボにはまったジョーを責任持って浮上させる自信があるのか?」
「う…」
 重苦しい沈黙。それを破ったのはピュンマの、はっとしたような明るい声だった。
「そうだ! 今度のパーティー、仁科夫妻も招待するんだろう? あの人たちが一緒にいれば、そうそうおかしなことは起こらないよ!」
「そうか! あの爺さん婆さんは周にとって最大のウィークポイントだからな。あの二人が同席していれば、彼女だってそう簡単に暴走するわけにはいくまい」
 ピュンマの言葉にぱっと顔を輝かせたグレートが言葉を継ぎ、それを聞いた他の連中も、愁眉を開いて口々に言い合う。
「藤蔭先生にだって、コズミ博士と…それに、今回は石原先生だって来てくれるんじゃないか。…そうだよ、心配なんてすることないさ」
「彼女たちだってれっきとした大人、立派な社会人アルからね。それだけの顔ぶれの前でそうそう大暴れはできないネ!」
 よかったよかった、これで万事解決…と喜び合う仲間たちを尻目に、アルベルトとジェットはまだ、どこか納得できない表情で腕を組み、唸り続けていたが…
「…あれこれ悩んでも仕方がない。俺たち、できる限りのことはやった。後は、運を天に任せるしかない」
 ジェロニモの大きな手が二人の肩に置かれ、穏やかな声が響く。それを聞いてようやく、彼らも腹をくくる気になったようだ。
「ああ…そうだよな。何てったって、俺たち九人と強力なる助っ人連中がついてるんだ。たかが女二人、どんな騒ぎを引き起こそうが、いっくらでも対応できるよな」
「…確かに、ここまで来たらじたばたしても始まらん。よし。一つ、ここは思い切って大勝負に出るか」
 褐色の巨人がその様子を見てかすかに笑った。
「日本にも、いいことわざがある。…『人事を殴って、転勤を待つ』」
「…それ、『人事を尽くして天命を待つ』の間違いじゃねぇの?」
 遅ればせながら、アルベルトとジェットの口からも、屈託のない笑い声が洩れた。ジェロニモも、少々恥ずかしそうにに頭をかきながら苦笑する。

 少なくともこの時点では、ジェロニモのほんの些細な言い間違い(←そうでもねーだろ)を、不吉の兆しと見るものは誰もいなかった―。

 そして、それから二週間後。いよいよ、ジョーの誕生日の前日である。
 誰かの誕生日というといつもそうなのだが、ギルモア邸では皆が朝から大騒ぎをしていた。やれ買出しだ、部屋の飾りつけだと賑やかなことこの上ない。
「ああもう、みんな、今日からそんなに張り切りすぎてどうするネ! 本番は明日の夜なんアルよ! 料理だって、できるのは仕込までアル。ひええっ! グレート! その鴨肉は今夜一晩、下味つけてねかせておくアルヨッ! 今から焼き始めたひにゃ、明日にはカチカチの燻製になっちまうアル!」
「お願い、ジェット! パイ生地を作るのは明日の朝でいいのよ! さっき頼んだものはみんな買ってきてくれたんでしょう? だったら今日の仕事はこれで終わり。頼むから、これ以上キッチンのものに触らないでぇぇぇっ!」
 キッチンに山と用意された食材を、完全に浮かれまくり、あれこれ手を出したがる仲間たちから必死の思いで守ろうとする張々湖とフランソワーズの悲鳴も、すでにパーティー前日恒例のセレモニーと化している。
「ジョー、君は明日の主役じゃないか。そんなにあちこち走り回ることはないんだぜ」
「でも、何だか嬉しくなっちゃってじっとしてられない気分なんだ。頼むから、僕にも何かやらせてよ、ピュンマ」
 そんな和んだ会話を交わすジョーとピュンマがいるリビングには華やかな色合いのリボンやらオーナメントやらが散乱し、さながら色彩のジャングル、といった風情である。さらには、宙をふわふわと漂うゆりかごの中、これまたすっかりご機嫌になったイワンが色とりどりの紙吹雪をその観念動力で部屋中に舞い上がらせ、散らかしまくり…飾りつけを手伝おうとしてドアを開けたアルベルトが、室内の有様を目にしたと同時に大きくその薄氷色の瞳を見開き、そのまま硬直した。
 そんな中。
「あら、電話よ」
「よっしゃ。俺が出る」
 突然邸内に響いた電話のベル。パイ生地をめぐるフランソワーズとの攻防戦において少々旗色が悪くなってきたジェットが、救われたように受話器に飛びつく。
「はい、こちらギルモア…」
 しかし。その向こうから聞こえてきた声、そして言葉の内容に気づいた瞬間。
「なっ…何イィィィ!?」
 家中に響き渡った大声に、仲間たちがあたふたと駆けつけてくる。しかしジェットはその足音にすら気づかないふうで、受話器を手にしたまま、壁に向かって放心したように立ちすくんでいた。
「ジェット! どうしたんだ!」
「莫迦でかい悲鳴上げて…まさか、何か事件が?」
「黙ってちゃわからんぞ!」
 口々に問いかけるみんなの方を振り向いたその頬からは、完全に血の気がひいていた。目が虚ろである。やがて、その唇がかすかに震えながらゆっくりと開かれた。
「仁科の爺さんが…風邪…ひいた…」
「何だってえええっ!」
 その場に響く、八人分の絶叫。
「ここ数日、どうも調子が悪かったらしくて…とうとう今朝、ぶっ倒れちまったんだと…大したことはないらしいが、とにかく下痢と腹痛がひどいんで…明日のパーティーは欠席させてくれって、婆さんから電話があった」
「そりゃ、確かに…心配だな。だが、病状自体は大したことないんだろう? 何とか、仁科夫人だけでも来てもらうわけにはいかないのかい?」
 おずおずとピュンマが口を開く。しかし―
「婆さんも…風邪気味なんだとさ。昨日あたりからのどが痛くて、咳が止まらないそうだ。爺さんに比べればまだ大丈夫らしいが…うちにはイワンがいるし…パーティーにはクロウディアも来るだろうから、万が一そんな小さな子供たちにうつしたりしたら大変だ…と…」
 最後まで言い切ることができず、ジェットは頭を抱えてその場にうずくまってしまった。それを取り囲む面々も皆一様にがっくりと肩を落としたが、よく見るとその衝撃の度合いははっきりと二分されている。
「そうか…残念だなぁ。せっかく久しぶりに会えると思ったのに」
「ここのところとてもお忙しそうだったもの。もしあんまり長引くようだったらお見舞いに伺いましょう。ね、ジョー」
「何ナラ、明日周タチニ訊イテミヨウカ。彼女タチナラモット詳シイコトヲ知ッテイルカモシレナイヨ」
 さすがに落胆の色は隠せないものの、「病気では仕方がない」とばかりにあっさりこの事実を受け入れてしまったのは、ジョーとフランソワーズ、そしてイワン。
 だが、残る六人はそうはいかなかった。ジェットの話を聞いた途端、皆の頬からは一様に血の気がひき、大きく見開いた目を虚しく交し合い、震える唇、からからに渇いた舌に乗せる言葉を何とか見つけようとする。だが、こんな状況で言うべき台詞など、多分人類の辞書には載っていないだろう。
「…うちのガキどもになんざ、そんな気を遣わなくてもいいのに…風邪のビールスの方が、裸足で逃げる連中…なんだからな…」
 かろうじてアルベルトが絞り出した声は日頃の彼からは想像もできないくらい弱々しく、さながら魂の抜けた人間のそれであった。そう、まさにこのときこそ、「ジョーの誕生日における周と藤蔭医師との接近遭遇をなるべく穏便に済ませよう作戦」―通称「ミッション5・16」における最大、最重要の防衛線があえなくも音を立てて崩れ落ちた瞬間だったのである。





 喜びの絶頂、絶望のどん底。どちらの場所にも、時は同じように流れていく。
 天照らす日輪は無常にも地平線の彼方に沈み、そしてまた昇り―今日はいよいよ、ジョーの誕生日当日である。
「だめよ、ジョー! 貴方は今夜の主役なんだから。ほら、ちゃんとこっちのスーツに着替えて、ネクタイとソックスはこれね」
「でもそれじゃあんまり堅苦しすぎない? こっちのジャケットとシャツで充分だよ。ネクタイも要らない」
「もう! 何言ってるの!」
 まだ日も暮れぬうちからすっかりはしゃぎまわり、傍から見れば犬でも食いたがらないだろう議論に熱中している少年少女を横目で見ながら、アルベルトは大きく息をついた。心なしかその顔は普段にも増して青白く、よく見ると目の下にうっすらとした隈さえもできている。
「…おい。パーティー開始まで、あと…」
「二時間十八分五十三秒! その質問、これで七回目だぜ。いい加減にしてくれよ、オッサン…」
 言いつつ、ジェットも深いため息をつく。
「どうせ風邪ひくなら、コズミの爺さんか石原先生だったらまだマシだったのに…」
「差別発言だぞ」
「何とでも言ってくれ」
しかし、それ以上の反論はなかった。周と藤蔭医師とを比べれば、出会ってからの日がまだ浅い分、藤蔭医師の方が遥かに紳士的(淑女的か?)な態度をとってくれている。たとえ一皮むいた本性は同じであろうとも、少なくとも今のところ、より警戒すべきは周の方だという点では全員の意見が一致していた。当然、仁科夫妻とコズミ博士・石原医師組のうち、抑止力としてより重要なのは明らかに仁科夫妻の方である。仁科夫妻が満期返戻金つきの三十年満期家屋総合保険だとすれば、コズミ・石原組は一年満期、月五百円の掛け捨て型損害保険にしか過ぎないであろう。それは、アルベルト自身も痛いほどよくわかっていた。何よりも、たった一晩でかなりやつれ、生気のありったけを使い果たしてしまったようなジェットの、どんよりと曇った力ない青い瞳に見つめられたりしたら、文句を言う気など完全に失せてしまうというものだ。
 もっともそれは、この二人に限ったことではない。というより、このギルモア邸で暮らす十人のうち六人までもが、彼らと同じ状態に陥っていたのであった。
「あああ〜…わての秘蔵の景徳鎮…お前の寿命も今夜までアルか…思えば、長いつき合いだったアルネェ…」
 昔、張々湖飯店の開店祝いにメンバー全員が金を出し合ってプレゼントした白磁のスープ皿を抱きしめ、キッチンの床に座り込んでさめざめと涙を流している張々湖。
「そんな…泣くくらいだったら今日は別の器使えよ…とばっちり食って粉砕されてもいいようなやつをさ…」
「何てこと言うアル! このスープ皿はこれまで、みんなの誕生日には欠かさず使ってきたのコトよ! 今日だけ出さないなんて、そんなこと神様が許さないアル!」
 一瞬、凄まじい勢いでグレートを怒鳴りつけた張々湖が、次の瞬間にはまた手の中の皿をいとおしそうになでながらはらはらと涙をこぼす。一方、怒鳴られたグレートは言い返すことすらせず、ただじっと、手にした包丁を見つめ…
「今ここで決心しさえすれば…この後いかなる惨劇が起ころうとも俺は見ないですむ…だが…そんなことが果たして許されるのか? おお! 『生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ』…!」
 揃いも揃って、かなり危ないところまで追い詰められている。そんな二人の後ろから響いたのは、地獄の底からわいてくるかのごとき重く、沈鬱な声。
「グレート…大人…地下の緊急シェルターの暗証番号キー、解除してきた…。もう手動で簡単に開けられるから、いざというときにはギルモア博士たち生身の人たちの誘導…頼むね」
「ピュンマ…」
 げっそりと頬のこけた仲間を気遣い、グレートがキッチンから首を出せば力ない足取りで廊下を立ち去っていく二つの影。一つはほっそりと長身、一つはあくまでもたくましく、巨大。
「…ジェロニモも…一緒だったのか…」
 おぼつかない足取りでリビングに消えた彼らの後姿からは、気配というものが完全に消えていた。魂がすでに、どこか知らぬ遠い世界に飛んでいってしまっている。
「…俺たちだけじゃ…なかったんだな…」
 呆然と肩を落としたグレートは、無言のまま十字をきった。
 パーティー開始まで、あと一時間二分十六秒…。

 そんな彼らの恐怖と苦悩を知ってか知らずか。
「おう、ジョーくん! 誕生日おめでとう! お招き頂いて光栄だよ」
「ありがとうございます、コズミ博士」
 招待客の先陣を切ってギルモア邸に現われたコズミ博士は満面の笑みをたたえ、ご機嫌でジョー、そしてギルモア博士と握手を交わした。
「忙しいところすまんのう。コズミ君が来てくれて、わしも最高に嬉しいわい」
「当たり前じゃろう! わしにとっても可愛い息子の誕生日じゃからの。そういつもいつも、君一人に父親面させるものではないぞい」
 どっと沸く室内。だが、そのうち六人の笑顔はどこか張りついたような、仮面のような。
「そう言えば、石原君は? 今日はてっきり、一緒に来ると思っていたんじゃがな」
「彼にはジョーくんへのプレゼントを買いに行って貰うとる。わしと石原君、そして藤蔭君からのささやかな贈り物じゃよ。じゃが、選ぶのは一番ジョーくんに年の近い男性の方がええと思うてのう」
 「藤蔭」という名前に室内の一部で一瞬、緊張が走ったことなど夢にも気づかず、ジョーとギルモア博士はコズミ博士を案内してリビングへと消える。
「いよいよ、だな…」
 そう、ぽつりともらしたのは誰だったのだろうか。底知れぬ恐怖と不安に満ちた沈黙が支配する玄関ホール。リビングからは、楽しそうに談笑するジョーたちの声がここまで届いてくる。フランソワーズの華やいだ笑い声が、今夜ばかりは魔女の哄笑のように聞こえるのは錯覚だろうか。

 そしていよいよ、運命のときは来た。

 


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