Yesterday Once More


「クロウディアが、遊びに行きたがってるんだけど。ウィンタースポーツがやりたいってうるさいのよ。…つきあってくれない?」
 いつも突然現われるのがお決まりだとは知っていても。何の予告もなしに二人揃っていきなり訪れ、挨拶抜きでそんなことを言われたら、誰だって一瞬、固まってしまう。
「…もしかして、何か予定あるの? こんなお天気のいい日に、ガン首揃えてごろごろしているくせに」
 常に変わらず弁舌爽やか…というよりは舌鋒鋭い言葉の主はもちろん周。それを迎え撃つはギルモア邸の主たるギルモア博士とその正式な同居人のジョー、フランソワーズ、そしてイワン。更に加えて、不幸にもたまたま訪れて、居合わせてしまったアルベルトとジェットである。
「い…いや…別に、特に予定はないんだけど…」
 自分と同じ顔にぱきぱきと言いつのられてつい気圧されてしまったらしく、ジョーの言葉にはまるで迫力がない。
「ウィンタースポーツってったって、今からいきなりスキーやスノボするわけにゃいかないじゃんか。お前ら、この時期の日本のスキー場の混雑状況、わかってんのかよ」
 ジョーに比べればかなり威勢よく言い返したのはジェット。さすが同期だけあって、この美女と美少女の急襲に対しても、ただ怯んでばかりというわけではないようだ。
 だが、その歯切れのよさも周にはまるでこたえなかったようで。
「冬のスポーツっていったら、それだけじゃないでしょ。Fランドのスケート場なら、今からでも余裕で楽しめると思うんだけどなあ」
「スケートぉ!?」
 つい大声を出してしまったジョーとフランソワーズ。沈黙を保ち、冷静な表情を崩さない(ように見える)アルベルト。話がスポーツの方に向いた瞬間から、自分たちは安全圏内とばかりに露骨にほっとした様子のギルモア博士とイワン。で…
「そうかぁっ! その手があったなっ!」
 何故か嬉々として手を叩いたジェット。結局それが致命傷になった。

 二時間後。周、クロウディア、ジョー、フランソワーズ、ジェット、そしてアルベルトの六人は、周とジョーの車に分乗し、無事Fランドのスケートリンクに勢揃いしていた。
「…ったく、何で俺まで」
 アルベルトが思いっきり不機嫌なのには理由がある。出発直前、「じゃ、気をつけてな」と手を振った瞬間、周の一言が飛んだのだ。
「あら、アルベルト。貴方、行かない気? …困ったわぁ。私、クロウディアの面倒見るので手一杯なんだけどな。とてもじゃないけど、おたくの少年少女まで、責任持てないわよ?」
 ありゃ、絶対わざとだ…今でもアルベルトは、そう思っている。
(あの周が、「困ったわぁ。…責任もてないわよ」なんて台詞を本気で吐くもんか!)
 苦虫を百匹分くらい噛み潰したような表情になどお構いなく、その当の本人が、氷上から挑発するように声をかけてくる。
「ほら、アルベルト! どうしたの? 早くいらっしゃいよ!」
 今日の周はやや濃い目のグレーのセーターにぴったりした黒のストレッチパンツを合わせ、その上に真っ白なトレンチ風ハーフコートを着込んでいた。浅いVネックの襟元に結ばれた小さなスカーフのエメラルドグリーンが、鮮やかに映える。
 そんな、雑誌のグラビアから抜け出したような艶姿も、アルベルトにはただ癪に触るだけだ。おまけに、忌々しげな舌打ちとともにそっぽを向けば、隣に全く同じ顔があって。
「どうしたの? アルベルト」
 まるで子犬のような純真な目つきでこっちを見つめてやがる。
(やってられるか)
 アルベルトは半ばやけくそ気分で―そのくせ、見事な足さばきで勢いよくリンクに飛び出した。

「はあ…」
「凄いわね、二人とも」
「あー、面白くねえっ! どうしてあいつら、あんなに上手いんだよっ!」
 こちらは、置いてきぼりを食った若者三人組。ウィンタースポーツといえばスキー、スノーボードばかりやってきた当然の報いとして、全員仲良く手すり磨きに甘んじている。
「仕方がないわよ、ジェット。私たち、スケートなんてろくにやったことがないんですもの」
「特に日本じゃ、最近下火になっちゃってるしね。僕なんて、本当に初めてだよ」
「だからってお前ら、あんなの見せつけられて、何のほほんとしてるんだよっ!」
 三者三様、それでも視線だけは同じ一点、いや二点を見つめている。
 危なげないスケーティングに、時折バックや簡単なステップを組み合わせ、いかにも上級者然と滑っているアルベルトと周。しかも、周に至っては三人の目の前で、見事なジャンプまで決めて見せたのだ。唖然とする間もなくリンクを一周したその姿が、再び三人の前にやってきて、盛大な雪煙を上げて止まる。
「すごいわ、周! 一体どこで覚えたの」
「上手なんだね。まるで、オリンピックの選手みたいだ。スピンとかもできるの?」
 尊敬に目を輝かせてよたよたと近づいていくジョーとフランソワーズに、周はふっと笑った。
「そんな、おだてなくていいわよ。…仕事で世界中回ってきたからね。スキーよりもスケートが盛んな国にも随分行っただけのこと。オリンピックなんてとんでもない。私にできるのはせいぜいサルコウとトゥ・ループの一回転だけよ。フリップやルッツなんて、とてもできないわ。スピンの方はまるでだめ。人にもよるけど、私、そっちは苦手なのよ」
 言うだけ言って、さっさとまた、滑り出す。ため息混じりに見送る二人の後ろで、ジェット一人が悪態をついていた。
「けっ! これ見よがしにジャンプなんてしやがってよぉ! 見てろ! すぐに同じくらい、滑れるようになってやるからな!」
「あーらジェット。いつものことながら、口だけは威勢がいいのね」
 再び舞い上がった雪煙。そこにはクロウディアが、悪戯っぽい微笑を浮かべて立っていた。
「何だよ、お前まで…ガキのくせして、生意気だぞ」
「へーんだ。私だって、周と一緒にいろんなところで滑ってきたんですからね。あんたたちとは年季が違うわよ、年季が」
「ふん。偉そうに。どーせ、『能力』使って転ばないようにしてるんだろ」
「何ですってぇ! 私たちがそんなズル、するわけないじゃない!」
「どうだか」
 ジェットの言葉にぷっと頬を膨らませたクロウディアが、物凄いスピードで三人の前から遠ざかっていく。
「ちょっとジェット…いくら何でも言い過ぎじゃない?」
「そうだよ。クロウディア、完全に怒っちゃったじゃないか」
「はん! これくらいでこたえるような奴じゃねえよ!」
 そんな会話を交わしているうちに早々とリンクを一周してきたクロウディア。銀色の髪をなびかせた少女は何故か三人のすぐ手前でぐん、とスピードを上げたかと思うや、ぶつかるすれすれの至近距離を一気に通り抜けたついでに、見事な手刀でジェットの膝の真裏を一撃していった。
「ぎゃっ!」
 不意を突かれ、もろにしりもちをつくジェット。ジョーとフランソワーズがはっと目を覆う。
 が。
「あ…れ?」
 恐る恐る手を下ろしたジョーが、きょとんとした表情になる。すぐ目の前で、確かにジェットは氷上に座り込んでいるものの、その顔は、ちっとも痛そうじゃなくて。
「あはははは! 『能力』ってのはこういうふうに使うものよ!」
 少し先に立ち止まっていたクロウディアがさも面白げな笑い声とともに、再びリンクを疾走して行った。

 ちょうどその頃。はなはだ不本意ながら、アルベルトは周と仲良く並んでフェンスにもたれ、ちょっとした休憩を取っていた。…というより、滑るのにも飽きて、つい小休止を取った途端、狙いすましたように周がやってきたといった方が正しい。
「さすがね、アルベルト。素敵だったわよ」
 …嫌がらせだ。絶対、そうに決まってる。
 仏頂面のままふん、と顔を背けても、周は却って面白そうな笑い声を立てるだけ。何も知らない人間が見たら、大人の雰囲気を目一杯漂わせた美男美女のカップルと誤解したかもしれない、その脇を。
 年の頃は中学生になるやならずといった数人の少年たちが、奇声を上げながら猛スピードで滑り抜けて行った。
「…危ないな」
「暴走族って、どこにでもいるものよね。ま、しょうがないんじゃない? 危険に身を任せたい年頃ってあるもんよ。貴方だって、そうだったでしょ」
 独り言のつもりで呟いたのに、すかさず相槌を打ってくる。…全くこの女は、俺を苛つかせることにかけては天才的だ。
 だが、そんなことは置いといて。
「しかしあれじゃ、マナー違反すれすれだろう。誰かにぶつかりでもしたら大事だぞ。…うちのガキどもだって、さほど滑れるわけじゃないんだ」
「クロウディアに関しちゃ、そんな心配無用だと思うけどね。それにほら、おたくの少年少女だって、結構格好がついてきたわよ」
 白く細長い指が指し示す方を見れば、あっという間に手すり磨きを卒業したジョーとフランソワーズが、手をつないで楽しそうに滑っている。ジェットはというと、早速クロウディアと追いかけっこだ。もともと運動神経は人並み外れて優れた連中だから、それも不思議ではないのかもしれない。
「確かに、うちの子たちさえ無事ならいいって問題じゃないけどね。勝手に自爆する分にはかまわないでしょ? 何ならそんとき、一層華やかになるようちょっと手を貸してあげてもいいし」
 周の形のよい唇を、ほんの少し覗いた舌がちろりと舐める。…危ない。こんな取り扱い要注意の危険物に比べたら、あの氷上暴走族どもだって無邪気な赤ん坊と変わらん。
アルベルトがかすかな頭痛を感じてこめかみの辺りを押さえ込んだとき。
「あ…」
 周の口元から、小さく息を呑む音が聞こえた。彼らの斜め前方、ほんの数メートルの距離のところでリンクを横切ろうとした三、四歳の幼児に向かって、あの暴走軍団が突っ込んでくる。
「うわ、やべぇっ!」
 少年たちも咄嗟に急ブレーキをかけたものの、スピードがスピードだけにそう簡単に止まれるわけもない。しかも間が悪いことに、そのうちの一人がバランスを崩して転んだ。瞬時に他の奴も巻き込まれて全員が団子状態になったまま、幼児に突進していく。
「いかん!」
 我を忘れてアルベルトが飛び出そうとしたのとほぼ同時に。

 気づいていたのは、「お子様たち」も同様だった。しかし不運なことに彼らがいたのはリンクのちょうど反対側。反射的に加速装置のスイッチを押しかけたジョーとジェットを、フランソワーズとクロウディアが抱きつくようにして引き止める。
(莫迦っ! お前ら、何で止めるんだよ!)
(そっちこそ! こんな人前で、しかも普段着のまま加速装置使う大莫迦がどこにいるのよ!)
(そんなこと言ってる場合じゃないだろう!)
(やめて、ジョー! あの子…生身なのよっ)
 脳波通信とテレパシーの嵐が渦巻く中、四人は大きく目を見開き、こちらも団子状態になったまま硬直した。
(だめだ…)
(間に合わないっ!)

「アルベルトッ!」
 飛び出そうとしたその耳に響いた、凛とした叫び。同時に自分めがけて飛んできた一抱えもありそうな物体。…人間だ! そう気づいたときには、両手がしっかりとそれを受け止めていて。次の瞬間、派手な衝撃音とともにリンクフェンスが震えた。
「…周!」
 やっと一言搾り出したとき、目の前に転がっていたのはさっきの人間団子の残骸。その一番下で、顔をしかめているのは…

「周っ!」
 クロウディアが悲鳴を上げて氷を蹴った。他の人間など目に入っていないかのような乱暴さでリンクを横切り、周の元に駆けつける。
「はあ…ひどい目にあったわ」
 すでにアルベルトによって助け出されていた周は、小さなため息とともにそれだけ言った。さっきアルベルトが受け止めた幼児がようやく正気に返り、泣き声を上げる。その母親らしい女が慌てふためいて飛んできて、子供を抱きしめ、周とアルベルトに涙声で礼を述べる。もつれ合い、倒れたままの少年たちは体のあちこちを押さえ、痛みに声も出ないようだ。立ち上がれないところを見ると、揃って骨の一、二本は折れているに違いない。でもそれは、いくらフェンスにぶつかったとはいえ、少し重症過ぎはしないだろうか。
(この…狂犬が!)
 ぶつかった瞬間、「能力」を使ったに決まってる。彼らの「自爆」を、一層華やかなものにするために。しかし、アルベルトが睨みつけるよりも早く、周はまた、さっさと氷の上へと滑り出していた。

「…周の方が、アルベルトより早かったのよ」
 ようやくやってきた、若者三人組。フランソワーズが、呆然としながらそれでも今、目にした状況を説明する。
「とっさに飛び出して、あの子を抱き上げると同時に急ブレーキ。その反動でもと来た方へ倒れこみながら、子供をアルベルトに投げ渡した。でも、そのおかげで自分が、あの子たちのまん前に飛び出す格好になっちゃったんだわ」
「…子供を助けられたんなら、そのまま滑り抜けちまえばよかったのに」
「それは、いくらあいつでも無理だろう。俺より早く、といったら相当のスピードで、重心を可能な限り低くして飛び出さなきゃ無理だ。あの子供の体重は十二、三キロ…そんな体勢で抱き上げたりしたら、つんのめって子供を下敷きに転ぶのは目に見えてる」
「…それを防ぐための急ブレーキ…っていうか、転ばないように全力で踏ん張ったんだね」
「こんな人ごみの中じゃ、いくら周でも『能力』を使うわけにはいかなかったでしょうしね…」
 誰からともなく、深いため息が漏れる。
 全く。
 例え狂犬でも、取り扱い注意の危険物でも何でも。
 …大した女だ。
 と、リンクの中央近くで軽やかに滑る「危険物」にふと目をやったアルベルトの眉が、かすかにひそめられた。
「アルベルト…?」
 ジョーが怪訝そうにその名を呼んでも、返事はない。淡い水色の瞳が見つめる先では、周が彼らとは反対側からリンクサイドに上がり、すぐそばの喫茶コーナーに腰を下ろすところだった。さすがの彼女も、少し疲れたのだろうか。
「…すまん。すぐ戻る」
 その言葉が他の四人に届いたとき、すでにアルベルトは氷上へと滑り出していた。

 香ばしい香り。暖かい湯気。こんなところの自販機にしては、悪くない。
 紙コップのコーヒーを一口啜ったところへやってきた男。銀色の髪、淡い青の瞳。黒のハイネックセーターと黒のズボンといういでたちは、こんな場所では恐ろしく目立つ。周はわざと無言のまま、その足元から頭の先に向かってゆっくりと視線を走らせた。
(…あら?)
 アルベルトもまた、黙ったままで動かなかった。おかしいな。いつもならたちまち、導火線に火がつくはずなのに。…面白くない。
 期待外れの反応に、肩をすくめた周の傍らに、突然アルベルトが屈みこんだ。

「きゃ…きゃあああああっ!」
 フランソワーズの悲鳴にはっと顔を上げた三人。と同時に、今度はクロウディアの狼狽しきった声が叫ぶ。
「な…何でぇっ! どうしてアルベルトがあんなことしてるのぉっ!?」
 少し遅れて同じ方向に目をやったジョーとジェットは、二人が見つめているモノに気づいた途端、あわや貧血を起こしそうになった。
 リンクサイドの一角。喫茶コーナー。いくつかの小ぶりで華奢なテーブルと椅子、その一つに腰を下ろしている周の傍らに近づいて行ったアルベルトが、いきなり屈みこんだかと思うとさっとその右足に手をかけ、有無を言わさずスケート靴を脱がせ始めたのだ。しかも、靴ばかりかソックスまでもむしり取って足をむき出しにした挙句、今度はパンツの裾に手をかけ、思い切り―ふくらはぎのあたりまで捲り上げたとくれば…
 いつしかしっかりと寄り添い合い、手を握り合った四人の身体が震え出す。この先どうなるかという恐怖に、心臓が今にも鼓動を止めてしまいそうだ。
(…何があっても、死ぬときは一緒だからね)
 誰の脳波通信か、それともテレパシーかなど考える余裕もなかったが、四人はその言葉にしっかりと、うなづいたのであった。

「何よ、その真似は」
「…やっぱりな」
 まるでかみ合わない言葉を交互に発したものの、二人が見つめているのは同じ一点―痛々しく紫色に腫れ上がった、周の右足首。
「あいつらの自爆を演出する暇があったらどうして自分の身を守らないんだ」
「どうやって気づいたのよ。まさか貴方もフランソワーズみたいにその目、改造してもらったの? ギルモアに」
「しかもこの足でなおも滑ったとは…全く何を考えているのかわからん女だな」
「やられりゃまずは三倍返し。死んだ祖父の遺言でね」
「あのあとのお前の滑り…フォアのストレートランから左クロス、左アウトエッジからのブラケットターン、バックの左クロス。そこで気づいたさ。わざわざターンなぞ入れんでも、左にクロスしたらそのまま右クロスで戻るのが普通だ。だが、それだと右足にもろに体重がかかるから、それを避けるために向きを替えた…とね。そのまま右インエッジに乗ってサルコウを飛ぼうとしたのに、無理矢理モホークターンに持っていって左足に乗り換え、ほっと一息ついたのも、足が痛んでとても踏み切れなかったからだろう」
「…自分にできる技を見せびらかしたかっただけかもしれないわよ」
 ようやく、二人の間に会話が成立したと思ったら、そのかわりに視線がずれて。
「だったらあのまま飛んでただろうが。サルコウなら反対側の左で着地できるから、踏み切りさえ何とかなればもう右には負担がかからない。踏み切りも着地も同じ足、しかももう片方の足まで、一瞬にせよ氷に叩きつけなければいけないトゥ・ループに比べりゃまだマシだと考えたんだろうが…毎度のことながら、どうしてそこまで虚勢を張らなけりゃならんのか、俺には理解できんな」
 ぷい、と横を向いてしまった周に、アルベルトは肩をすくめた。
「…ジイさんになんか、理解してもらわなくて結構よ」
「何だと?」
 アルベルトの目が、すっと細くなる。周はそれに、挑発的な微笑を向けて、
「スケートにあんまり詳しすぎるのはジイさんの証拠だわ。今時の若者なら、やっぱりスキーかスノボだものね」
 アルベルトの顔から、表情が消えた。
「…バアさんに、そういうことは言われたくない」
 言うなり、アルベルトはそのたくましくしなやかな手を周の背中の後ろと膝の下に差し入れ、そのまま一気に両腕に抱き上げた。
「何の真似よ」
「…俺を怒らせるようなことを言うからだ。どうせその足ではもう、歩けも滑れもしないだろう。このまま、連れて行ってやる」
「ただじゃ置かないわよ、アルベルト」
「嫌なら、素直に謝るんだな。そうすれば、肩を貸すだけにしてやるが」
 周の頬が、ぴくりと痙攣した。殺気さえ浮かべた瞳で一瞬アルベルトを睨みつけてから、その耳にゆっくりと唇を寄せ、小さな声で囁く。
「…いいの? 貴方の大切な人が、天国で怒り狂ってるわよ」
 刹那、アルベルトの中の何かが、大きな音とともに切れた。

 リンクが、どよめきに包まれる。何だかやけに見栄えのいいカップルが喫茶コーナーで話しこんでいたと思えば不意に男が女の足から靴やら靴下やらを脱がせ始め…どうやら女が怪我をしているらしいと納得すればしたで、突然男が女を抱き上げた。それだけで充分、人々の目は二人に釘付けになっていたというのに、更に男は何のつもりなのだろうか、女をしっかりとその腕に抱えたまま、リンクに降りて再び滑り出したのである。
 鮮やか―としか言いようのない、見事なスケーティングであった。もちろん、世界レベルの選手のような大技をこなすわけではない。しかし、その動作の一つ一つが流れるような優美さを保ちながら、その腕にれっきとした大人の女を一人抱えているとはとても思えないほどしっかりと安定していて、危なげがない。フォア・ストレート・ラン、左クロス、右クロス、カウンターターンで向きを変え、バックの右クロス、左クロス。スリー・ターンで再びフォアに戻り、勢いをつけてワルツステップをひとしきり繰り返したあと、イーグルで大きな弧を描く…
 男がまとった黒と、女のハーフコートの白とのコントラストが美しい。ターンのたびに舞い上がり、乱れかかる男の銀色の髪を追いかけるように女の黒い髪がふんわりと広がって、あるときは同じ軌跡を描き、あるときは交差し、ぶつかり合う。銀の星が夜を貫いて流れるさまにも似た、黒と白、銀と黒との競演。女の首に巻かれた鮮やかなエメラルドグリーンのスカーフが翻り、そんなモノトーンの世界に刹那の彩りを添える。
 いつしか銀盤は、二人だけのためのステージとなっていた。リンクに遊んでいた人々の大半が、ある者はリンクサイドに上がり、ある者はリンクフェンスに寄って陶然と見入ってしまっていたからである。あちこちで沸きあがる感嘆のため息、そして拍手がいつしか巨大な渦とっていった。

 そんな中。リンクの一角に真っ青な顔で寄り添う四人の少年少女に気づいた者もかなりいた。こちらも、それぞれかなり華やかで目立つ容姿をした集団だったから、人目をひきつけるのも当然と言えば言えたのだが…何しろ全員がすっかり血の気を失って今にも倒れそうな様子だったし、よく見るとその身体が小刻みに震え、口元からはカチカチと歯の鳴る音が聞こえてきたりしていたので、誰もが声をかけるどころか見つめることさえ躊躇ってしまうのだった。しかし、もしこの群衆の中に彼らとは全く無関係のテレパス、あるいはサイボーグが一人でも交じっていたとしたら、たちまちパニック状態に陥って、この場から全速力で逃げ出したに違いない。
 そう、四人の間には、未だにテレパシーと脳波通信の嵐が吹き荒れていたのだった。しかも、その内容はひたすら物騒になっていくばかりで…
(もしここでいきなり、「サシの戦闘訓練」なんかが始まっちゃったら…)
(これだけの人数を俺たちだけで守るなんて、到底できやしねえよ…な)
(いざとなったらクロウディアにあの二人を精神波シールドで包んでもらって、僕とジェットが加速装置でどこか遠くへ連れてっちゃうしかないよ…)
(それはいいけど、私のシールドは核弾頭一個分くらいが限界よ。それ以上のエネルギーが暴発したりしたら、とっても防ぎきれないわ…)
(まさか。いくら何でも、二人とも丸腰なんだぜ)
(でも、アルベルトと周よ…)
 話せば話すほど、最悪の事態がくっきりと脳裏に浮かび上がってくる。もしここにスーパーガンの一つもあったりしたら、四人とも喜んで自分の頭を撃ち抜いていただろう。彼らの精神は今や、恐怖と緊張に焼け切れる寸前であった…。

「ちょっと。いつまでやってるつもり?」
「お前が俺に、謝るまでだ」
「呆れた。貴方、いつからこんな趣味の悪い報復を思いつくようになったの?」
「…俺の死んだ婆さんも『やり返すんなら、手段を選ぶな』って遺言を残していったのさ」
 にやりと笑ったアルベルトが、周を抱いたまま華麗なスパイラルを披露する。片足が百二十度以上も上がった完璧なその形の美しさに、リンク中から津波のようなどよめきと拍手が押し寄せた。
 とうとう周は諦めたように目を閉じ、深い吐息を漏らした。
「…わかった。悪かったわよ。彼女はそんな、了見の狭い女じゃなかったのよね」
「『悪かった』? 人に謝る台詞じゃないな。…『ごめんなさい』とか、言えんのか」
 瞬間、かっと見開かれた周の目が、焼き殺さんばかりの光でアルベルトを射た。やれやれ、とアルベルトは肩をすくめる。
「仕方ない。それじゃ特別に、許してやろう」
 アルベルトと周がリンクから上がったとき、最後の拍手と大歓声がリンク全体を揺るがした。もちろんそんなものに構う二人ではない。が…
「ところで、うちの子達は?」
 周に言われてふと振り返ったアルベルトの目に、リンクの片隅にへたり込み、真っ白な灰となって燃え尽きた四人の姿が映った。

 そんなこんなで無事(?)一日が終わり、帰りは現地解散ということになったのだが、周やクロウディアと別れたあとも、アルベルトの仏頂面はそのままであった。
 理由は簡単。完全燃焼してしまった残る三人のお子様たちの「燃えカス」を車に積み込み、二時間の道のりを一人で運転して帰らなくてはならない羽目に陥ったからである。
「全く、どうして俺がこんなことまで…」
 ぶつぶつと一人ぼやきながら、悔し紛れに一気にアクセルを踏み込む。唯一の救いは、帰り道が思ったより空いていて、比較的スムーズなドライビングができることだけだった。
 赤信号で止まったついでに、何の気なしにルームミラーを見上げる。リアシートにぐったりと折り重なった三人は、ぴくりとも動かない。眠っているんだか、意識を失っているんだか、そんなのは知ったことではないが、ふとその中の一人、つい先ほどまで腕に抱いていた女と同じ顔に目がとまった。あどけないその寝顔はある意味あいつとは似ても似つかなくて。
「…せめて、この半分でも素直ならな」
 低く呟くと同時に、信号が青に変わった。アルベルトは再び、アクセルを踏む足に力を入れる。

 周の車の中も、同じようなものだった。リアシートに横たわり、額に冷たいタオルを押し当てているクロウディアは、身動き一つしない。眠っているとばかり思って、できる限り静かに運転していた周の背に、か細い声が問いかける。
「ね、周…貴女なら、あんな怪我簡単に治せたんでしょ? …どうしてわざわざ、あんなこと…した…の…?」
「あら、クロウディア…眠ってていいのに。着いたら起こしてあげるから、気にしないで休んでなさい」
「だって…気に…なるんだ…も…の…」
 その声がかなり眠そうなのを察して、周は答えにわざと時間を置く。果たして、
「ちょっとね。………かどうか、知りたくなったのよ」
 独り言のようなその呟きに、返事はなかった。すでに宵闇が差し迫る頃。かなり暗くなった車内で、周は一人、微笑する。
(そう…確かめたくなったの。あの男が、まだ私のことを見ていてくれているかどうか)

 遠い昔。素直になれ、と言ったあの男の言葉を私は拒んだ。心の中の全てをぶつけてこいと、手を広げてくれたその気持ちをも、完璧に無視して。
 …後悔はしていない。悪いことをしたとも思わない。もしまた同じことを言われても、私はきっと、同じように応えるだろう。

 目前に迫ってきた急カーブ。周は唇をきっと結び、一気にハンドルを切る。

(あまりにも、遠い昨日。あまりにも遠い、貴方と私)
 それでも。
(戻れるはずがない。それに、たとえ戻ったところでそこは…地獄)
 もう一度だけ。
(どうなるものでもないのに、ただ、知りたかった…)
 それだけのこと。

 カーブが終わる。
 周は再び、力を込めてアクセルを踏み込んだ。

 だけど。

 貴方が少しでも、私を見ていてくれるというのなら。

 大丈夫。

 私は、まだ…










 生きていける。

〈了〉
 


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